えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

落下速度

満足してえーと思う。満足したい。もうこれで十分、と思いたい。

 

 

 

数字を追いかける仕事をしてるからだろうか。
ここ最近、よく評価に固執している自分に気付いて「そういうのから離れて生きていければなあ」と思う。
ただ、そういうのをだせえなと思うと固執する自分が「油断したら退化するしかないから頑張ってるのにそんな言い方しなくてもいいじゃないか」と反論してくる。
評価されたいと思うことはそんなに悪いことなのか。
確かに、仕事もこうして文を書くことも「評価されたい」とどこかで思ってる。そしてそれと同じくらいの強い気持ちで「そういうのから解放されてのびのび過ごせたらなあ」と思うのだ。

 

 

 

ただ、じゃあ実際今ほど追われていなかった頃を振り返ると「こんなんで大丈夫なのか」と不安を数えてはどきどきと心臓がしんどくなって落ち込んでいた。結局、どこまでも生きるのが下手という話に終着してしまうのが情けない。

 

 


でも、仕方ないじゃないか。
評価されて、頑張らないと、落ちていくこと、そこから這い上がるのが大変なこと、そうなった自分を助けるのもきっと自分なこと。そういうことを思うと、走り続けるしかないな、と思う。
それに、何も安定どうのの話じゃなく、どこかで常に「もっと」と思ってるのは自分なのだ。
仕事でも、こうして好きでやっていることでも、もっと良いものができると自分を諦めきれずに期待している。どこまでも自分に満足できないくせに、諦めることもできない。

 


どこまでいけば、なんてこと、きっと途方もなく、考えるだけ無駄だと思ってるし、きっと、行き着くなんてなく、あるとしたらそれは「終わり」の時なんだろうなあという感覚もある。きっと、自分の中にある一番強い諦めはそれだ。

 


好きな人たちがたくさんいて、その人たちに憧れるからか。そうして、垣間見せてもらえる彼らのこれまでを知るたびに「こりゃあ満足することはないぞ」と思い知った。それは、生きていくということがそういうことだから、とも言えるし、結局のところ、私がそれを「格好いい」と思う人間だからだとも言える。
つまりは、地獄は自分で作り出しているんだなあと疲れながら歩く道でしょんぼりする。

 

 


ただ、最近、こうして落ち込んでしょんぼりと家に帰っても、少ししたら「まーあ、しゃあねえな」と上向いていたりする。びっくりする。
痩せ我慢でもなく、まあ確かにうっすらと疲労やうんざりは残ってるんだけど。

 

 

 


まあでも、大丈夫。全部が解決することはないけど、その代わりに落ち切ったりもしないよ、と自分が肩を叩いてくれる。
ラジオを聴いて笑ったり、美味しいものを食べてまあなんとかしかならんわな、なんて思ったりする。寝る直前、ああまたあの苦しいに朝起きたら飛び込むのか、と思いはするけど。それでも、まあ、大丈夫。

 


落ち込みきれなくなった、なのか、落ち込み切らずに済むようになった、なのか。
少し前に「ゴールがないなら、その時その時に『これでよかった』を作ろう」と決めた。その感覚にも近いのだけど、それよりもちょっと、諦めの感覚が大きい気がする。

 

 

この頃は、まだ怒ったり、しっかり落ち込んだりしていような気がする。だけど今、私はもう、うっすらとした悲しいの中で、それでも笑っていられるようになった。それも、心からだ。落ち込むことって、いくらでもあるから。だからこそ、お前なんかに私の毎日を決定付けさせたりしないからな、と思ってる。
落下する瞬間に、ふわりと浮いて粉々になれなくなった。その代わり、ふわふわ浮いて、好きに過ごしていこう。なんとかなるわ。