えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

朝までの夜の散歩

数年ぶりの花火大会の効果か、空気が火薬っぽい気がした。たぶん気のせいで、そもそも我が家のまわりまで花火大会の気配が届くことはないだろうし、火薬の匂いを嗅いだような気がしたのは花火大会があるんだよな、と一日中考えていたせいかもしれない。



この二年、伝わらないということに何回も打ちのめされている。
何回も、になってるんだからそろそろ慣れてほしいと他ならない私が一番思ってるし、最近じゃいつまで経っても慣れないことに苛立って向いてないな、と思う。生活にも何かを積み重ねることにも、向いてない。勘弁してくれと思う。




言葉を尽くして心を尽くして、伝えて伝えて伝えても、伝わらなかったらどうしたら良いんだろう。
呆れたみたいなもしくは優しい顔で「普通は」と言われるたびに途方にくれる。普通は、みんなは、そんなの当たり前じゃん。


うまくやっていけない、当たり前がわからない。
なんでそうなの、と言われるし普通はこうだよ、と言われる。その度に考えて考えてそうあろうとしてそれでも毎度、うまくいかない。




だけど、その「変わってる」も結局は中途半端なのだ。日常生活を社会生活を送っていけないほどじゃない。才能と呼ばれる何かになって飯の種になるほどでもない、表現と呼ばれる何かになって誰かに届けられるものでもない。
日々という道を歩く時にあちこちにぶつかって痛みだけ寄越してくるそんな「変わってる」を完全に持て余している。



そこまで言葉にしなくていいと言われるし、言葉にしたらおかしいと言われるしじゃあこれどこに持っていけばいいんだよと途方に暮れている。
かと思えば無自覚に投げつけられた言葉が誰かを大きく抉っていったり壊していったりするのを見てめちゃくちゃ怯む。でも同時になんでああして言葉にする人はいるのに、なんて考えてしまってやっぱりそんな自分にうんざりもする。
こんがらがる、という言葉がぴったりな状態はがりがりと自分を削る。




まあでも、そんな状態になった時の解決策を今の私は知ってるのだ。


去年の秋、どうしようもない気持ちで行ったCaseの神戸公演
春に逃げるみたいに行った生業札幌
これが好きなんだと確認した生業大阪
それから、伝わるのだと信じたくなった大阪野音
まだやるんだと決めたMaison de SIGNの記念イベント


その時間のひとつひとつが「ここにきたら大丈夫」と言う。




野音で出逢ったSHINGO★西成さんpresentsの米カンパライブに行ってきた。行くと決めた日から、大丈夫だと念じるための予定になった。



HIPHOPのストレートな表現に、色んな表現があってそれが同じ空間でぶち上がることに、それを全然違う色んな人が楽しむことに。私は元気をもらう。まだ大丈夫だと確認する。



ジャッジする側だみたいな顔をして無遠慮に評価して消化してって、なんでだよって思うことが多過ぎる。だからもう分かんねえなって放り出したくなるし、そんな中で「俺の言葉」だけを話してくれる人たちの言葉を重ねて重ねて音楽を表現を作ってくれる人たちに出会えて良かった。
ああそうだよ、勝手な感傷だよ、錯覚だよ。
理解してもらえない伝わらないってことは自分も理解できなくて受け取れないってことだって思うから、もしかしたらどうしていいかわからなくなってたのかもしれない。

本人に伝えることを諦めるのは、たぶん、受け取ってもらえないと諦めてるからだ。期待していない。言葉を尽くして伝わらなかった時、もうその人とどんな顔をして会えばいいか分からなくなってしまうから、伝えない。蓋を開けなければ、中身は分からない。
そうやって、押し込めてきたものを目の前に広げられることがある。大丈夫だと手を引かれることがある、そう錯覚できる時がある。



今年、何度もHIPHOPに救われてきた。もうダメだと思った夜には携帯の中、HIPHOPを流して夜道を歩く。自分の好きなひとたちが歩いた、みた景色を想像しながら、お気に入りのひたすらに甘いカフェオレを飲んでただただ歩く。
歌われるHIPHOPはそれぞれ歌おうとしてることも伝えようとしてることも違って、でもそのどれも、音楽やHIPHOPは最高っていうその一点は一緒で、なんだかそれだけでいいとその時だけは思える。そういう場所が私にはいるのだ。




そして私はそういう場所がたくさんある。
劇場、映画館、喫茶店に居酒屋、ライブ会場。図書館に本屋、川べり。
そういう一つ一つが必要で、その時々に訪ねる先を変えている。何か一つに絞ることの誠実さを誰か一人だけであることの豊かさを知ってはいるけど、私には「どれか一つしか特別はないんだよ」がどうしても理解できない。ずっと考えてみたけど、全然理解できなかったや。




花火大会じゃきっと綺麗だね、なんてきっとみんな言ってたんだろうな。そのお腹の中、思ってることも信じてることもばらばらでも、綺麗だって笑ってたのかな。少し離れたところじゃ、全然違う景色が広がっててもまるで全部うまくいってるみたいに。
手を挙げた私たちだって、ここに迷わず来た人、迷いながら来た人、感動してるひと、興奮してるひと、特に何も思ってないひとがいたんだろう。でも、その中身なんて見えないまま、楽しいという幸福感がその場を満たしていたのだ。
それを責めたいなんて話でもなく、むしろ、そんな光景があり得るんだということを繰り返し口の中で何度も念じてなんとかやっていきたいとだって思ってる。




こんな文を書いて何になるんだろうなって思ってる。でも愚痴で吐くよりツイートするより、文にすれば100分の1でも錯覚を起こせる可能性があるんじゃないの。そんなことをまだぎりぎり信じてる。そうとすら、思えなくなったらさすがに終わりだと思うので。