えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

犬王

見届けようぜ。
その言葉がキャッチコピー的に使われ、ハッシュタグになり、たくさんの愛情を書き連ねたツイートが流れてきたことに納得するような気持ちになった。


犬王を、観た。
情報解禁から楽しみにし続けていた映画を、観た。


目がほとんど見えない男と異形の男が見つけていく物語を私はずっと思い出している。



犬王の感想の中によく「まるでフェスだ」というものを多く観た。映画を見て納得する。
犬王の中で描かれる友有座がどんどん大きくなっていく様は、舞台でかます姿はまさしくライブそのものだ。


友有が謡い、鳴らし
犬王が舞い、謡う。



そしてそれを観て、人々が熱狂していく。
ライブが好きな私にとって、その光景は馴染みのあるものだったし、たまたま観に行ったのが無声応援上映だったこともあり、より"ライブ"感は増した。
ペンライトが静かに揺れ足が踏み鳴らされ、突き上げた拳の影が映る。なんかそれも、めちゃくちゃライブだったし「ここにいる」だった。
見届ける人々と見届けられる人々、それが合わせ鏡のように映しあって、くるくると回る。

私はライブが好きだ。ライブで普段溜めてる色んなものが爆発する様子を見るのが好きだ。
犬王の中でもイけてないとされる、目を逸らされる、ないものにされる、端に追いやられた人たちが出てきて、それは犬王や友一だし、そしてライブにくる人たちだ。


"選ばれなかった"側、"照らされなかった"側が自分たちで光り、選び、昇りつめていく。そんな姿に熱狂して、また上がっていく。




物語中、京都の街の様子が映し出される。貧しく、争いの火種があちこちに燻る姿。そしてそこで苦しむのは名前もない誰かだ。生活をし、毎日を必死に過ごすよく知る誰か。その人々が友有の語る犬王の物語に、犬王が語る平家の物語に心を寄せて自分を重ね、心を動かしていく。そして自分の好きな「友有座」を犬王を、友有を語って拡げていく。
その感覚だって、私はよく知るものだった。
ライブシーンの合間、映し出される生活や裏方の人たち。友有座の舞台を心待ちにし、語り継ぐ彼らも普段は彼らの生活を続けている。その様子をそんな人たちの笑顔をたくさん映してくれたことが、私はたまらなく好きだった。
イけてないとされてる自分たちを最高にイけてるとかます彼らにそうだそうだと拳を挙げて重ねて楽しむ彼らが、それでも、その自分の人生を生きる人たちも紛れもなくそこにいて、我々観客が「見届ける」こと。
だんだん自分が画面の向こう側にいるような錯覚すら覚えた。




「見届けようぜ」と見届けようとすること。ただ観て欲しいだけ、そこから何かを求めているわけじゃなくて、ただここにいるだけだと知ってくれるだけでいい。
それは、平家の亡霊だけではなくてあの画面の中で映し出された人々も、それから私たちだって思っていることなのかもしれない。

だから犬王のエンタメを人(内外)は求めるのか。意味の有無ではなくて、ただ、ただそこに在ること。それを蔑ろにされることは、きっと、一番堪える。
なかったことにされる、いらないと言われた人たちが舞台の真ん中に躍り出ること、いや、その躍り出る舞台すら一から自分たちで作る姿は痛快で愛おしく、背中を押されるような気持ちにすらなった。
私たちは犬王の、友有の名を呼ぶ。彼らが「お前らがそこにいること、分かってるぞ、見えてるぞ」と言ってくれたと錯覚しただけ、大きな声で、ここにいると互いに言い合う。



だって、存在とはきっと受取手がいて初めて成立するからだ。
一方で犬王は、自分で決める、自分の在り方は自分で決めている(決めた)ふたりを描く物語である。

自分で名乗る名を決め、姿を決め、生きていく。
自分の人生はいつだって、自分で決めていいのだ。



でも、名前を変えると見つけられない、と描かれることも含めて最高だったな。
自分で決めて、そしてそれを呼ばれることで存在する。
自分の、呼ばれる名を決めるのは自分自身だ。だけど、その名を呼ぶ人がいる。
その人が呼び、呼ばれることで姿形がはっきりする。それはどちらが先だとか、どちらがより大事でより上だとかというものではない。



自分の足で立ち、生きていく彼らに熱狂すればするほど、私は自分の人生を、足を確認したくなった。
自分たちの代わりに誰かの昇華に託すこと、それでも託したとして、人は自分の人生しか生きていけない。
だけどそれは、何も悲観的な感覚ではない。自虐的な確認でもない。自分の人生はいくらでも自分で決めて良いのだと、そうして決めた名前を呼ぶ人はきっといるのだという物語をここまで力強く描かれて、どうして悲観的になんてなれるだろう。



ところで、それ以上に私がこの物語が好きだった理由がもう一つある。
それは呪われた人、理不尽に晒されたふたりが、楽しいや面白いを選ぶことだ。そしてそれが人々の視線を集めることである。


これは綺麗事かも知れないけど。



犬王が、友有が内側に抱える悲しみや怒り、恨みが描かれていないわけじゃない。でもそれを踏まえても彼らは楽しいを選ぶ、面白いを選ぶ。謡い、踊ることを選ぶ。



2021と書かれたコピーライトについ、想いを馳せてしまった。失われたもの、追いやられたもの。
1年待った、その中でこうして物語が届いたこと。拡がっていったこと、面白いこと、楽しいこと。




一番の復讐は幸せになることだというのに似ている。暴力は共感されにくく、継続性がない。
共感に近しいものを得れたとしても、それはやっぱり共感、ではない。
楽しいこと面白いこと、それを作り出すこと、そしてそれが誰かに届くこと。そんなことが、やっぱり、一番強いのだと思う。思いたい。

彼らが笑う声が、彼らのエンタメに心を動かして歓声をあげる人々の声が耳の奥、残っている。
だから私は自分の足で、楽しいに向けて歩いていきたいと思う。きっとその姿を、見届けてくれるひとはいる。