えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

塚口流映像業界就職説明会

塚口流映像業界就職説明会」
そう銘打たれたラインナップに心が躍った。塚口サンサン劇場が好きだ。音響も施設全体の雰囲気もスタッフさんも、綺麗なお手洗いも大好きだし、何より、そこにかかる映画が、そこに向けられる愛情が好きだ。
その上、今回この説明会、と題され上映される3本はどれも観たいとずっと思っていた作品群だった。



ハケンアニメ!」
「映画大好きポンポさん」
「劇場版SHIROBAKO



映画を撮るか死ぬか。
それは、映画大好きポンポさんのポスターに印刷されたキャッチコピーだ。
これがないと死ぬ、という切実さのないまま、そのくせ、映画をエンタメを観ないとうまく生活できない自分の中途半端さに私は何度も打ちのめされてきた。
だから、この就職説明会を観ながら自分が「選べなかった」選択肢の向こう側にいる人たちを観るような心地になっていた。ふと、この観客席に座っている人たちはそれぞれどんな気持ちで座ってるんだろうと思ったりもした。




ポンポさんの中、描かれていたいくつもの描写にああそうだよな、と頷いていた。それが綺麗でわくわくするアニメーションで描かれていて、とどのつまりは画面の中、今正しく目の前、戦っている彼らと同じように戦った誰かがいるということだった。
(かつそれが、後述するけど、SHIROBAKOで丁寧に描かれていくのが観られるのは贅沢でしかないし、粋なラインナップだ)(いやそう考えるとやっぱりこの順で上映、大正解なのかも)
そして何より好きだったのはスイスでの撮影シーン。
ジーンは、観るからにコミュニケーションが得意なタイプではないように見える。その彼が、映画の撮影で役者とあるいはスタッフと楽しそうにコミュニケーションをとる。コミュニケーションをとる、というよりかはただただ、必要で楽しく実の詰まった会話をする。そのシーンが楽しそうで楽しくて、とってもとても好きだった。


そういう意味で、ただそれはキャラデザや途中入る過去の表現、彼自身の口やポンポさんから語られるごく少ない描写でのみの表現だったのも居心地が良かったな。そこを無闇矢鱈と、面白おかしく掘り下げるんじゃなく、本当に描きたい主軸にしっかり時間が割かれていた気がする。
全体的にポンポさんは所謂ただ盛り上げるための「イレギュラー」や「感動」は描かずに、それこそ劇中語られていた観客が間延びせず、楽しみ続けられる時間、が物凄く意識されていた気がする。おかげで、上映時間中、ずっと集中して楽しく観ることができた。



一点、過労を押してでも、全てを切り捨てでもものづくりをすること、という表現についてだけは観ることがしんどかったし、そこがあったから、最終的に私はこの物語に共感しきれず、感動しきれず終わってしまった。
ただそれは作品自体に罪は当たり前だけど全くないし、というかそのメッセージもめちゃくちゃ分かるし、実際、ああして命よりも、と今この瞬間なにかを生み出すことを選ぶ人はいる。そのおかげで楽しめた、楽しんでいる作品もたくさんある中で、その表現を非難するなんて、おかしな話だな、とは思う。

それでも、私はジーン監督が、また映画をたくさん作って欲しい。そこにはあの素敵な登場人物たちも関わっていて欲しい。



そう思いながら迎えた締めのSHIROBAKOはそういう意味でも「続く」物語である。ハケンアニメ!とポンポさんの間にあるようなエンタメを紡ぐ非日常とそれが仕事であるという日常を繋ぐような物語に感じた。
私は、残念ながらテレビ版を観ずに観てしまったわけですが(今回、劇場版を観て改めて観たいな、と思ったしきっとテレビ版を見切ったあとで見返す劇場版はさらに最高だろうな)
テレビ版のハッピーエンドからの"その後"の描き方、それから劇場版から続く"これから"の余韻の残し方に帰って振り返りながら唸った。
最高傑作を生み出しても生き続けて、また次を作ること。それは終わりのない地獄でもあるというか、決してやってこないハッピーエンドの話でもある。でも、そうやってまだ続く、まだこれからだ、を繰り返しながら私たちは生きている。



小さなアニメーションスタジオの人々。そこで描かれるアニメを作ることの楽しさ、難しさ、苦しさ。でも、そこにいるひとりひとりがただ天才、なだけではなく、仕事で苦しいこともあること。
それから、私は、SHIROBAKOの総務の興津さんがとても好きだった。ああそうか、こういう人たちも描くのだ、と嬉しくなった。
ただ才能だからすごいから、と片付けられることなく、ひとりひとりの仕事の積み重ねで映画が出来上がっていく。でもその中で、イカれてるような熱量とかがあって、そのバランスに、わくわくしたし、最後、もう、ひたすら笑顔だった。



アニメは、映画は、ひとりでは作れない。
ひとりで絶対に、というわけではないけど、自分だけではない力が集まってそんな中生まれるものにわくわくする。
良いものを作るというただその一点で関われる、そこでなら伝わる・伝えることを諦めずにいれる。
そんな人たちが、私はたぶん、大好きなんだ。



そして、そんな3本立ての中でもぶっ刺さったのがハケンアニメ!だった。なんかもう、訳がわからないくらいにぶっ刺さってしまった。




あの作品がぶっ刺さったのは、それが「これだ」と掴んで離さず、そうしてなんとか生きてきた人たちの物語だったからだ。


ハケンアニメ!に登場するのは"作るひと"だ。だけどその人たちはただ特別なひとではない、あの天才カリスマ監督と言われる王子監督だって、ただ「天才」なだけではない。
自分には何もないかもしれないと怯え、世の中を諦め、それでも歩かせてくれたものを知る、そんな「わたし」と同じ人々、だ。
思えば、それはポンポさんやSHIROBAKOの中で描かれていた人たちもそうだったのかもしれないけど、生身の人間が演じている分、よりそれが迫って感じた。



中でもぶっ刺さったのは中村倫也さんが演じる王子が言い放つ台詞だった。

リア充どもが、現実に彼氏彼女とのデートとセックスに励んでる横で、俺は一生自分が童貞だったらどうしようって不安で夜も眠れない中、数々のアニメキャラでオナニーして青春過ごしてきたんだよ。だけど、ベルダンディー草薙素子を知ってる俺の人生を不幸だなんて誰にも呼ばせない」

知っていると思った。その不安も、それでもそうして自分の中、想像の世界で過ごした時間を不幸だと呼ばせないと誇る気持ちも、どれも私は知っていた。
そうして思う。そうやって作り出した人たちと、私は何度も、物語の世界で出会っていた。それは関わっていた、というには一方的で些細で錯覚的な感情ではある。だけど、そこに、私たちはいたとどうしたって思ってしまうのだ。


物語があること、それを楽しむこと……いや、楽しむことしかないことをここ最近ずっと考えていた。それが何になるのかと思ったしただ楽しむだけの自分が嫌になったりもした。
だけど、ハケンアニメ!を観た時に思った。ここにいる。私はここにいる。あなたが作った、生み出したもので、私は今、たしかにここにいる。


こうして感想を書きながら結局私は「私」としてしか物語を楽しめないことにがっかりもする。自我を捨ててもっとフラットに楽しみたかったとも思う。ちゃんと楽しめているのかとも不安に思う。
だけど、どんな映画もエンタメも、私は私としてしか向き合えないと認めて、その上で楽しいこと楽しめなかったこと、その理由だとか全部、大事にしたいな。



ああそうか、なんか、違うんだよな。
画面向こうとこちら側、選んだ側と選ばなかった側。そう分ける必要だってもしかしたらないのかもしれない。それはなにも、世界は誰かの仕事で出来ている、という話ではない。いや、そういう話でもあるけど、でもここで私が感じたことはそうじゃなくて、そういう話じゃなくて繋がっている、ということなのだ。
というか、繋がっていたい、手を離したくない、という話だ、たぶん。
愛して、大事にして、それはただ、受け取って消費して、そういうことじゃないっていう、そういうあれだ。意地とか屁理屈とか、そういうものに近い、だけど信じていたい何かだ。




板の上のあなた
画面の向こうのあなた
あなたが削った魂分、私が受け取れているかはわからない。ただただ、あなたの命にタダのりしているのかもしれない。
それでも。
受け取りたい、抱き締めていたい。そうしてもらったように、そう返したい。


健やかであってくれ、食べて寝て、たくさんまた、新しい世界を見せてほしい。想像の、存在しない世界でだけ出会えるあなたとこれからも、会えますように。