えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

入村許可は一生出ない

人と話をして誰より私が「大丈夫」って言って欲しかったんだなあと反省することがある。
でも、そう思った後に「別にそれでもいいじゃんね」と思った。無自覚にはやってしまいたくないけど、自分に言いたい、あるいは言われたかった「大丈夫」を口にして、世の中の大丈夫の総数を増やしていきたい。そんな気がしている。

 

ここ最近、うまく喋れないと思うことが増えていた。ちょうど好きなラッパーの曲を聴きながら「コミュニケーションはうざ絡み」に覚えがあり過ぎて帰り道凹むこともしばしば。
話がしたい、だけど話し出すと人の目が気になって言葉が引っ込んでいく。聴いて欲しいと思うのと同じくらい「聞かれてしまう」のが怖い。
そうなると文を書くのもうまくテンポが掴めずに気がついたらお酒を飲み過ぎ、そして喋り過ぎての自己嫌悪に丸1日、不調のまま布団に沈んでいた。正直、別にお酒に弱いわけじゃないのに珍しいくらいの完膚なきまでのノックアウトだった。入ってくる連絡も返事をするのもやっとというか、なんなら返事ができずに数時間寝かせたものもある(ごめんなさい)
伝わると思っていた、と言ったらずるいだろうか。だって、でも、伝わると思っていた。その君に伝わらなくて、言葉がうわ滑ったことだけ理解できてそれが、二日酔いよりも何よりも苦しい。

 

その間、ひたすらに寝て、寝ながら、大好きなラジオを聴いていた。ほぼ朦朧としていたけど目が覚めるたびに好きなラジオが流れていて、馬鹿馬鹿しい話をゲラゲラ笑いながらしていることに心底安心してまた眠った。時々、すごく真剣な話をしていて、それにたまたまタイミング良く起きて聞けたことが嬉しくて、起きてからもこれを覚えてられたらいいなあと思いながらまた眠る。
ここでなら、なんて思ってそんな自分が許せずに唸る。でもさ、それくらいさ、許してくれよ、と思う。

 


自分の毎日、思考、思想の中で、好きなものから得る影響が大きい。
だから私は仕事や生活で調子を落とすとなるべく好きなお芝居、ドラマ、映画、ライブを観ようとするし、定期的に新しく好きなものを増やしていかないと真っ直ぐ過ごせない。
私にとって真っ当に過ごすためにはエンタメが必要で、確実に背骨を支えられている。これがなければ、もう少し最低な人間になっただろうな、といつも思う。

 

 

ちょうど子どもの頃散々、何か大きな犯罪を犯したひとが好きなものを報じられ、「○○を好きなやつは犯罪者予備軍だ」と言われるのを観てきたからかもしれない。好きなものの顔に泥を塗るわけにはいかない、というのはごくごく自然に自分の中に染み付いていた。

 

 

「人間としてダメだからダメなんすよ」と半分、ちゃんと冗談に聞こえるように笑ってもらえるように十分注意しながら、だけど切実に口にした。だけど、相手は「いやいや〜」と笑いながら返される。まあそうだよな、そうなんだよな。それすら受け取ってもらえず、でもいつか、きっとどっかでガッカリされたり「え?」って言われるのだ。「え?」なら良い方で「は?」なんてカマしてくるんだろう。言っただろうがよ、と私は悪態を吐きながら、その時諦めるんだ、きっと。

 

 

分かってるんだけど、でも全然、絶対、ダメなんだよな、人として。

 

 

人の言葉を聴くのがしんどい。もっと言うと自分の話をするのもきつい。なのに喋りたいから困る。
バラエティを観ることに体力を使い過ぎるから基本的に見れない。
会話のテンポを合わせるのに苦慮する。

 


タイミングによっては道を歩いてるだけで視界に入る色んなものに凹み、落ち込んでしまう。
伝わると思って重ねた言葉が、バラバラになって崩れていくさまをみて、途方に暮れる。暮れて、そのままじっと体育座りしてしまう。

 

 

言われるまでもなく、生きづらさがすごい。
こだわりが強く、「ちょうどいい」を見つけられない0-100思考で、倒れる前に止める、というのがいつまで経ってもうまくならない。

 

 

そんな話を記録がてらツイートしたり面白おかしく(なればいいと祈りながら)話すものだから、少なくない回数、治療や診断を勧められてきた。
確かに時期によっては、不眠になったりするしお世辞にも健康的な人間だとは言えない自覚は十二分にある。
そういう診断や治療の経験がある人ほど、きっと良かれと思って病院に行くことを勧めてくれるのである。

 

 

実際、普段生活していても驚くほど多くのひとが、そんな話をする。芸能人の不調などについて、折に触れ、休むことや治療を受けることを勧める言葉をたくさん見てきた。もちろん、そのほとんどが、良かれと思ってだということは分かっているし、私も、過剰な活動は(自戒も込めて)心身に障るので、気を付けて、自分を一番に休んでほしいなあ、とはよく思う。
ただ、たださあ。ただ、もし、それをしてもなお、休めなかったら、休む必要なんて、ないですよって言われたらどうしたら良いんだろう。
その突き放されたような絶望を誰か想像したのかよ。

 


よく、思うんだけど。

 


心の苦しさがずっとある。この間それを冗談めかして言ったらその苦しいをデフォルトにしないで、と真剣に忠告された。
不眠のたびに明け方の街をうろうろと歩き回り、夜が白んでいくことにがっかりするようなほっとするような感覚になること。


そういうこと全部、これ一生続くのか、と思う。

 

息苦しさをつくさんのところでなら吐き出せると言っていたあの人から幸せの知らせがあったりする。ああよかった、とまたひとりになったなあが同居して、私はこの息苦しさを相棒に過ごせば良いんだなんて痩せ我慢したりする。
いつだか、そう語っていたその人は「もうあなたとは話せません」なんて、言ったりする。いいよいいよ、なら、良かったよ。

 


でも、私は生きづらい村には入れない。
不調が報じられた芸能人と同じようになんて言うと失礼だけど、
治療を勧められて病院に行けば「何をしにきたんですか?」と真っ直ぐな目で問われる人生なのだ、ということを数年かけて理解した。最初の何年かこそ、心配に申し訳なく思い、「治療」を求めていろんな医療機関、診査、検査を行ってみた。だけどどこも、治療が必要という結論も出さず、ただただ、異常なしのステッカーを、渡してくるだけだった。

 

 


治療や診療を勧めるいろんな人たちに言いたい。
そうしたところで、救われるかは人それぞれだ。運や相性にもよるし、場合によっては自助努力でがんばるしかなくなる。だとしたら、結構、そこには絶望があったのだ。
異常なしなのに、普通に人生や生活を送れない。いや送れてる人なんて本当はいなくて、みんながどうにかこうにか見ないふりしたり工夫してやっていってるんだ。でも、その工夫すらできない。できない理由が病気じゃないなら、一体、どうやって治したら良いんだろう。
このしんどいのは、一生このままなのか。

 

 

それは、病気と闘うことよりも、マシな苦しみだと人によっては思うのかもしれないけど、私は、結構きつかった。
病院に行くたびに次こそ、どうしたら良いかの解決策が見つかるかもしれないと期待するのに少しも見つからないことに心底がっかりして家に帰る。
薬を飲むほどではない不眠に夜じっと天井を眺めたり、ラジオを再生したりする。
そうして、そこでだけなら「おかしい」とも「異常なし」も言われずにただただ笑って時間が過ぎるから大丈夫だよ、と思う。思って、やっと眠ったりする。

 

 

そういうことを繰り返していたら、なんだか最近ちょっとマシになってきた。
治療できなくても、なのに普通ができなくても、どっちだっていい。今日も私は生きてて生活をしている。
そもそも、私の人生は私にしか送れないものなんだ。だったらどこかの規格に入る必要なんて、一つもないんだ。
そう、言い聞かせてる。
入村許可は、どの村であっても一生でない。おんなじなんてない。いやそもそも、この世界は全部ばらばらだと言い聞かせる。他の人はみんなそれぞれ、帰る村があるじゃないかと騒ぐ子に「まあ、外からは事情はわからんからね」と返しながら、ぼんやり、歩く。
別段それを、不幸というつもりはない。存外、この村の外の生活も気に入ってるのだ。ただ時々、無性に寂しくはなるから、なにか、面白い話が聞きたいなあと思う、そのことだけを確認しながら、歩いて行こうと思う。