えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ペルソナを剥がせ

うっわ、と思った。それは唐突に、パズルのピースがハマるみたいに気付きで、危うくそのまま座り込むところだった。


むしゃくしゃしていた。かの邪智暴虐な、とあの文学作品でしか耳にしたことのない言葉を頭の中で唱える。なんならそこから厚顔無恥な、とかそれっぽい言葉を唱え続けてもいい。
むしゃくしゃする。街中を歩いてる時、仕事をしてる時、何か楽しいことをしてる時もSNSを見てる時も「なんなんだよ」が溜まっていく。

 

あと小さじひと匙分くらい、誰かを気遣えないもんかね、と思う。
それを言われてどう思うか、とか。
なんでそう言ったのか、とか。
あなたが周りからどう見えてるか、とか。

 

「普通」や「当たり前」にうんざりしているくせにその定規を振り回したくなる自分を一旦高く高く棚上げして、私はむしゃくしゃしていたのだ。いや、なんならそれを棚卸して測りに乗せて、「いやでもこれはひどすぎる!」なんて乱暴なジャッジすら、していたかもしれない。


そこから「なんでそんなことをするんだ」とぷんぷんと原因究明に向かって、私は、小賢しげに思った。そういう風に生きてこれたのだ、良いなあ!良いなあ!楽で良いよなあ!
そうしてぷんぷんと嫉みと怒りでもりもりと歩きながら、ふと気付いた。

 

そんなわけ、ないのである。

 


いや、実際「そういう風に生きてこれた」人もいるのだと思う。人の顔色を見なくても空気を読まなくても。次の相手の言動を想像して、傷つけないように傷つかないように何パターンもイメトレしてまたその返しになんて言えばいいかを想像して、とんでもなく遠くに脳みそがふよふよ漂いながら喋らずともなんとなくで生きてこれた人たち。
昔、私に仕事を教えてくれた人が言っていた。この仕事は他人の顔色をずっと窺って今に見てろって思ってた人間が勝つ。私はその言葉をまっすぐに信じて、逆にそうでない人、に「恵まれてたひと」のラベリングを貼った。

 

でも、だけど、当たり前だけどそうではないのだ。
ふと頭の中にひたすら空気は読めないけど、大好きな人のことが浮かんだ。空気は読めない、他人の顔色も窺わないだろう。
それは「そうしない」と決めたのかもしれないし、ずっと試行錯誤したのち、「向いてないから」と諦めた結果なのかもしれない。
そうか、そうだよな。

 

私は私の思う通りにいかず、腹を立てていた違いない。それは、全くの無意味なのに。
そうして自分を慰めるためだけに相手の方が恵まれてると決めつけて、こちらに大義名分があるのだと大声を出す。

それは、なんというか、ずいぶんみっともなく、情けなかった。そんなことが、したいわけじゃなかったろう、と思う。

 

そうでいてくれないと困ったから、貼り付けたのだ。
自分はやってる気遣いを配慮をやらずにいる誰かを強く強く非難すれば、自分がその分上がれるとでも思ったのか。全く、これっぽっちも、そんなことはないのだ。

 


一旦それらはぜんぶ、思い切ってどっかにやってしまいたい。
なんとかその直前、今はギリギリ、踏みとどまれていると思うから。次、と思う。思えることに感謝する。何かをコテンパンに叩き潰すよりも難しくて、ワクワクする方へ。