えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

フワギャルのひとりごと

フワちゃんが好きだ。テレビをほぼ見ない人間なので「テレビのフワちゃん」は詳しくない。だけど、フワちゃんが好きだ。映像を見るのが下手くそでYouTubeだって使いこなせていない。それでも、フワちゃんが好きだ。


度々、私はこれまでもフワちゃんのことをブログに書いてきた。そのどれも、ラジオがきっかけだった。
私は、ラジオを通して知るフワちゃんのことが、とてもとても、好きだ。

 


そもそもなんで、こんなに好きになったのだろう。私は定期的に考える。
今週の放送、お風呂に入りつつ聴いてコメントひとつにニヤつきフリートークに笑いを堪えて、なんだか最後は「これなんだよなあ」とドヤ顔をしてしまった。我ながらお前誰だよが過ぎる。

 


そして今日、これから海外に移住して、好きなことをたくさんやるという発表をしたフワちゃんに最高だぜ!の気持ちと、ほんの少しの寂しさを覚えて、あれ、もしかして私は結構フワちゃんが好きなんだろうか?と思ったりした。

 

好きになったのは2022年のラジオ以降。
無茶苦茶だな、このラジオ、と思いながらも後追いして過去の放送を聴いてそれでもかなりマシになったのだ、と知った。
自由で、と言えば聞こえはいいが、わがままで無茶苦茶で周りを振り回す。そんな姿勢に批判がくるのもまあ、分からなくもない。
危うさを笑っているつもりはないが、心配で聞いてられないという気持ちもものすごくわかる。

 

だけど私はそんな「無茶苦茶」な放送……たとえば、いわゆる「発作パーカー」が生まれるきっかけになった回も聞いて、なんだかそれを含めて、たまらなく好きになってしまったのだ。ぶっちゃけ無茶苦茶である。これが、ラジオとして流れていたと思うとすげーとこえーが同時に来る。
のだけど、そこから数週、「どうしたらいいか」の対策をニッポン放送の偉い人こと冨山雄一さんを呼んでこのラジオを社長が聞いてるかとか今後発作が放送中でたらどうしたらいいかを相談したりする姿になんだか私は感動すら覚えたのだ。
そんなことをしても意味がないとか恥ずかしい、とかそんな定規は彼女の中に存在しないのだ。ご飯の前にお菓子を食べたらご飯が入らなくなる、という定規が通用しないのと同じように、辞めたくないならやめなくて済む方法を思いつく限り試すのだ。そんなフワちゃんが、私は好きだ。

 


なんかそれは「出来ない」ことを笑うとか、健気さに感動するとか、そういうことではなく、ここで素直にそういう動きや感じ方をできることをひたすらにすげえな、と、尊敬してしまったのである。

 

そして「ラジオが終わるかもしれない」となった時に真剣に(と同時にやっぱりそこでも周りの大人たちに迷惑をかけはしたけど)「やだ、終わりたくない」と盛大に駄々をこね、あがいた彼女のことを好きだなーと思うのだ。すごいなー無茶苦茶だなーと、好きだなーが合わさって、出来るだけ長くこのラジオを聞きたいなーと思う。

 


ラジオが素だとは思ってもない。思ってもないけど、それでも混じり気の少ない嫌だや楽しいや笑い声が聴けるあの時間が私は好きで、そうこうしてるうちに気が付けば、彼女のことを好きになっていたのだ。

 


良い人でも悪い人でもない。
最低なところはたくさんある。炎上のたびに擁護するつもりもないし「そらフワちゃんが悪いわなあ」とは思う。だけど、実害を受けたわけでもないなかで誰かをボコボコにできる正しさとただただクソな彼女のどちらが好ましいんだろうな、と思ったりもする。

 

 

 


どこが好きなのか、書けば書くほど、多分伝わらないし私も分かってない。
まあでも、それでもいいじゃないか。というか、理屈が通らないあの感覚が好きなんだから、理屈で説明しようとするのも、土台無理なのだ。
ただただ、今は海外でもたくさんふわちゃんはキレたり楽しんだりするんだろうなあと思ってる。そして今はその中でもラジオを続けてくれることが嬉しくてこれからの放送がひたすら楽しみなだけである。なるべく長く、続いてくれますように。