えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

「分かる」

お前に俺の何がわかるんだよ、と思う夜もあるし「簡単にわかる、なんて言っちゃダメなんだけど」と前置きすることもある。

 

あるのだけど、時々、なんてことを考えながら「安易な同意こそひとを傷付ける」なんて思い付きもせず無邪気に純粋に「わかるよ」と心を寄せていた頃を思い出して無性に羨ましくなることがある。

 


わかるよ、と言ってくれたことが嬉しかった、と言われた。その瞬間のことを私も良く覚えていた。だって、私も嬉しかったのだ。「あーこうだな」と思っていたその言葉がまさしく、自分の口から自分の声ではなくて、目の前の友だちから出てきたこと。それに驚いてそうなんだよ、と思って「分かる」と口にしていた。
分かると言うこと、言われることの断絶を想像する暇もなく、「分かる」と口にした、あの時のことを、「うれしい」と思ってたのは私だけじゃないんだなあ、と噛み締めた。そのことをぼんやりと覚えている。

 

最近、話をしていると「分かります」と言われ、聞くと真逆の解釈をされていることがある。逆も然りで「こういう話か」と思いながら頷いて、蓋を開けてみると全然違うことを言っていたりもする。
そういう時、私は途方に暮れる。なんならそれが積み重なり続け、恐怖心すら湧いていた。
いつのまにか、うっかり並行世界に来ていて、それでこんなに言葉が通じなくなってしまったんじゃないか。
ちゃんと喋れている、言葉を使えていると思っていたのは私だけでもしかしたら、みんな「何言ってるんだこいつ」と思いながら私を観ているのではと疑心暗鬼になり、数日、生活をするのがしんどいなあと思っていた。


だからだろうか。
分かると言われるのも言うのも怖いけれど、往々にして、それが信頼関係を徹底的に壊すこともあるのだけど、それでも思うし願う。
「わかるよ」と言ってほしいし、言われたいし、言いたい。そしてそれが本当に「わかる」であってもなくても、その「本当」には気付かずに「わかった!」と思いたい。
そんな無邪気さが、それを信じられるような安心が欲しいと心底思う。
もうそれは、動物の言葉がわかるファンタジーの世界みたいだ。

 


同じものを観てるのに感じ方は違うしそれどころか、何を見てきたか全く異なる答えが返ってくることだってある。何に注目して見るか、そもそも「見慣れて」いるか、なんで見たかで全部変わったりする。
何かに猛烈に怒ってる人は、時に「怒るため」にみるから、見落としたり事実が歪むことがある。

 

それが、悲しいし苦しいしどうしようもないな、とも思う。ただ同時にかと言って「分かる」だけが喜びだとも思いたくないのだ。
だってそれは、いつか「分からない」を許せなくなる。

 


友だちと映画を観た。好きだと思ったところ、シーンで受けた印象、登場人物の誰の何に心を動かしたのか。そういうものを一つずつ挙げながら、気が付いたら話題は毎日の中で積もり積もった「なんでだろう」の話になった。
 


そしてそれはいくつかはそれな!と、強く頷き合い、更にいくつかは「どういうこと?」と掘り下げ合うことになった。
それぞれが持つ言葉、考え、経験に照らし合わせ、一緒にそこにあるものの輪郭を確認する。
そこには無邪気な分かるの奇跡はなかった。地道で、遠回りも含んだ確認作業だった。
だけどそれは、あの日「分かる」と本気で思い合えたことと同じくらい、嬉しくてきっと、これからも何度も思い出すんだろうな、と思う時間だった。

 

 

どちらか、じゃない。どっちも、だ。どっちもないと、私は苦しい。逆に言えば、それさえあれば、きっと、ずっと諦めずに過ごしていけるような気がしているのだ。