えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ブルータス、お前もか

世界史の授業の呪文のような言葉は習いたての高校生が夢中になる。と思う。少なくとも私が高校の時はそうだった。世界史を好きか嫌いか関係なく、出てくる単語や名言、その意味そのものというよりも口に出した時の気持ちよさ、語感で言葉が流行ることがある。


「ブルータス、お前もか」もその一つだった、と朝通勤電車の中でふと思い出した。
ローマのカエサルが、最期、自身が信頼していた友人が自分を殺そうとする暗殺者の中にいることに気付いた時に漏らしたという言葉。
それを私たちは良く何かにつけて「ブルータスお前もか!」と言い合っていた。そうしてけらけら笑っていた。

 

 

 

疲れていたのか、今朝、「ブルータス、お前もか」と頭の中で数年ぶりに呟いた時、すごく悲しくなった。
カエサルが良いやつかどうかの本当のところは知らないけど、たくさん裏切られ、傷付き、その最期、「ああ殺されるんだな、殺されるほど憎まれているんだな」と思った時、そこに自分の信じていた人がいること。

 

 

その親友とは、どんな話をしてきたんだろう。やりたいことや恋バナや、そもそも覚えてないようなくだらない話をしてげらげら笑ったこともあったかもしれない。悩み事を打ち明けたり、誰にも伝わらないことが伝わったりそういう嬉しいを重ねて、「親友」になったんだろうか。
そんなひとが、自分を殺そうとしていたこと。

 

 


いやーーーーーーー無理だな。

 

もうなんか、到着した適当な駅で降りてやろうかと思った。嫌になってしまう。つらい、そんな悲しいこと、あるだろうか。
死ぬことよりもそんなことの方が、きっとつらい。

 


仲の良い人と話している中で、「あーお前もか」と思った。ガッカリした、というのは失礼だ。

 


いつだか、ガッカリした、ということはそれだけ自分の見る目がなかったということだ、と言われたことがある。それは、「ガッカリした」と言われたことに傷付いていた頃で、その言葉に私はすごく安心した。
安心したのだけど、今ブーメランのように「お前に見る目がなかっただけだろ」と言葉が返ってくる。
でもさ、と思う。
期待はずれだ、ということ、見る目がなかったということ、まあ、それは、そうかもしれないんだけど。でも、そもそも、期待に応える必要なんてものもなくて、でも、でもさあ。

 

おなじ、なんてなく、ばらばらだからよかった。分からないこと含めて違うこと含めて「好きだなあ」「面白いなあ」と思うのに、それだけはさあ、と思うことで傷付いたりすることもある。

 

裏切られた、と思うことの傲慢さは、忘れてはいけないと思う。忘れるつもりもない。
だけど、そうか、伝わらないか、そうか、あなたも踏み躙るのか、と思った、あの時の傷や痛みを「なかった」と言えるとも言いたいとも思えない。

ブルータス、お前もか。
そう呟いた、この後どうするかだ。そうだったら、良いのにな。