えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

SOW大阪2日目を観て彼等の表現に想いを馳せた話

今日を一生懸命生きるしか、できることなんてないんだなあということをひたすらに考えていたような気がする。


3年ぶりとなるEXILEのツアーライブ、そのスタートダッシュの大阪公演に急遽行ってきた。
奇跡みたいな巡り合わせで観に行って友人には感謝しかない。座席についてもしばらくは二人とも信じられなかった。

3年間のそれぞれの映像が流れ、始まった希望の星、と名付けられたライブ。

 

ハイロー、しかもザム2から入ったのでど新規もど新規な人間の感想というよりも、既に真っ白になりつつも、少しでも残していたい感覚の記録です。次が、2月でそれまで少し空いてしまうので。そして、私なりに今日浮かんだ、EXILEをはじめとするLDHについて考えたことたちです。履修速度が遅い人間なので、知識不足のせいでトンチンカンなことを書いてる可能性は大いにあります。広い心でお読みいただくか、あるいはそっとページを閉じて忘れてください。


セカンドさんのファイナルをライビュで観て、そこで今回のツアー発表を観て
私は私なりに色々と思ったり考えたりして、
そしてアルバムを聞いたりしながら過ごしてきた。
ライビュのラストfor EXILEというセカンドさんをはじめ、待っていた彼らの数年について考えたことも何度もあった。そんなことを思い出して、あの3年の映像で、あ、こいつはヤバいぞ、と悟った。
直人さんがラスト、語ったようにEXILEという場所がなんなのか、というのは青春という言葉がしっくりくる。立っている彼らが1番あの場所に憧れ続けている。そんな気がする。

それは長く、J soulを受け継ぎながらグループやメンバーを増やし作ってきた結果生まれた文化なのかもしれなかった。一度は客席で、テレビの向こう側で、観て目を輝かせたことのあるメンバーたちがいるからこそかもしれなかった。
そんなことを考えるくらい、彼らがそこに立っている姿が楽しそうで、キラキラとしていて、なんか、たまらなかった。
変わらないなんてことはなく、だけど一緒にい続けるという途方も無い夢を見るための人たちなのかもしれなかった。
憧れてその場所に立つ。それはどんなに羨ましいことだろう。
あんな大きい舞台に、なんて話でもなく、いろんな人に愛されて好きなことが出来る場所にいるなんて、なんて話ではもっとなく。というより、それはしんどいことも多いだろう、と思うし。そんなことではなくて。
大切な憧れを、踏みにじることはきっとなかなか無いと思うのだ。そうやって、みんなが自分の場所を決めれるなら、きっともっと幾分、世界は優しくなるだろうと思う。
ただ、とか、言いながらですよ。
世界はひとりぼっちじゃないから、例えばすげえ憧れて焦がれて立ったその場所だって、百点満点の幸せがずっと続くわけじゃないじゃないですか。そんなん、みんな、薄々わかって、なんなら経験したこともあったりして、うんざりしてたりするじゃないですか。
憧れたぶん、反動に苦しむことはどんだけだってあると思うんだよ。
なのに、EXILEの人たちはとんでもなく幸せそうに、あの場所に立ってるどころか、立ちつづけてて、これからも立ち続けたいっていうんだよ。

いやなんか、ほんと、全く纏まってないな。たぶん、もっと、こう例えばメンバーの絡みとか演出の話とか、たぶん、ライブの感想とかってそういうことだと思うけど、いつまでたってもそんな文書ける気がしないんだけどさ。
すげー楽しくて、夢みたいで途中何度か、あ、これもしかして夢かな、と思って、でも現実で今もまだちょっと驚いてる。現実なんだって!

STEP UP聞いて、とか、なんか、色んな曲聴いてパフォーマンス観てちょうど今真っ只中にいる色んなことの背中押された感じが半端なかった。そうだった。夢見てたんだったってめっちゃ思った。
うるせえうるせえ!しんどくてもそこにいきたいんだ!って思ったし、
浪漫の地球で、汚れてもないって歌うTAKAHIROさんにめちゃくちゃ泣けてしまって
あの、表現ってすげーなーと思うんだけど。
ほんとに。
や、だってこんな前向きに、なるんですよ。

言葉が、ただ言葉がもともと辞書的にもつ言葉の意味だけじゃなく、
たぶん、誰がいつ言うか、なんてことにものすごく左右されるものだったなんてことをちょっと思って。


ちょうど昨日、フォロワーさんたちと飲みながら、EXILEさんたちの創り出すエンタメや表現が彼らの人生に直結し過ぎてる話をしていて
八王子ゾンビーズとか今日のFANTASTICのデビュー決定からのTurn back Timeの流れとか。
悲劇商法だなんて心無い言葉もあるらしいけど、いやちげえじゃん。
だって、彼らの表現ってパフォーマンスも歌も彼らが感じて考えて思ったことの発露じゃん。
ちょっと話はズレますけどね、Ti Amoのケンチさん直人さんとか観た時思ったんだけど、
パフォーマンスの悲しい、とか叫ぶ、とかの激情とのマッチ感というか相性は一体なんなのか。心が揺さぶられること、の結果生まれるからなのか。教えてくれー。パフォーマンスって、いったい、いったい・・・。
感情の結晶じゃんと思うことがよくあって、言語化できないものが形になって表れてるんだ、とよく思う。
彼らのこれまでがあるからこそ、なんか1つ変われば全く変わってしまうもの。それがパフォーマンスなんじゃないのか、表現なんじゃないのか。
そう考えると、翔太さんの存在は彼らの中にも、なんなら私たちの中にもあってだって、今日の私は昨日の私の続きなわけで。
昨日の先に今日があるんだということ。
そんなことに今日のライブで今更のように気付いてビックリしていた。え、じゃあ昨日の私より良くなってたいし、明日の私が格好いいかって今日の私にかかってんじゃん?!って思った。
やべーぞ、今を全力で生きてる彼らが常に最高を叩き出して昨日の彼らを越えてるのを見続ける限り、私も一切全くこれっぽっちも負けたくないぞ。
あと、今回結構後ろの席だったんだけど、なのでスクリーンなかったら表情分かんないし場合によっては(わちゃって出てきた時とか)花道でも若干誰か分かんなくなる時もあったんだけど、
でも、直人さんとたぁさんはあ!って気づいて、そりゃ、まあ、めっちゃDVDとかでガン見したもんね。動きとかそういう癖とか、覚えてるもんね、と思いつつ、ああ私あの2人が好きなんだなあ、としみじみ考えてた。たぁさんが最推しか?って話をしたばかりだったので。いや、2人ですね、色々考えましたがたぶん2人ともめっちゃ好きです。楽しそうなのがね、見てて、すげえ好き。みんな楽しそうだけどね。バイブスがより合うんだと思うな。感覚の話なので正解はないです。好きだってだけです。
最近よく、私の腹を割いたら、今までの好きが全部出てくればいいなーなんてことを考えることがありまして。
好きなものが多過ぎるのとすぐ増えるし、となると、お前の好きは軽い、と言われがち(興味の示し方とかのせいかもしれない)なんだけど、それはもうそう見えてるのであればそっかーって思うけど、でも、なので私は尚更、そういうアホみたいなことを考える。
興味を失ったように見えるかもしれないけど、それは実は私の血肉になってて離れないんすよ。すげーすよね。なんつって。
なんか、彼らの表現が、確実に色んなものを(それが私自身なのか、もしかしたら目の前の世界の可能性もあるんだけど)変えていくのを見ると、そんなんも、考えてしまうよね。


私にとって、大切なお芝居にそんな台詞が出てくる。死んでいなくなってしまったその人はいなくなったわけではなく。周りに次々と死なれてしまう不幸な女にその兄が言う。
お前は、彼らと出会う前のお前とは決定的に違って、海は、お前と出会ってまた違う海になる。
ニュアンス。戯曲手元に置いとくべきだったな。
なんか、そんなことを、考えてるので
今日の音楽やパフォーマンスに出会った私はそれまでの私と決定的に違うのではないか、とそんなことを考えている。
そんで、、とその続きを夢みたいに考えてしまうのだ。あんなに、夢に溢れた、戦う人たちを観ていると。
ひとまず、次にまたライブに行く時、更に格好良くなってる彼らに負けじと明日の私をかっけーにしたい、と今日の私は思うのでした。