えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

近所の定食屋が潰れた

近所の定食屋が潰れていた。
と書き出すと、まるでその定食屋の常連、そうとまでは行かなくても何か思い入れがあったみたいだけど、ぶっちゃけ一度も行ったことはない。こないだ家賃が引き落とされる通帳を観たら次の秋にはこの家に住んで3年が経つのに、だ。
ところで、住居期間を「3年」とすると、それは「もう」になるのか、「まだ」になるのか自信がない。
一人暮らしになってからはなんだかんだと数年越しに生活背景から引越しをせざるを得ない生活だったし実家の時もなんだかんだと何度か引越しをしていたから思えば何年からを「長い」とするのかは難しい。

 

 

とはいえ、少なくとも三年近く住んでいて一度も行かなかった定食屋、はほぼ街の風景とカウントしても良いだろう。

良いはずなのに、なのか、それとも街の風景だったからなのか、最近、その店の看板を剥がされた跡の黒ずみを見るたびになんだかぼんやりと落ち込んでしまう。落ち込むたびに「いやお前が落ち込んでんなよ」とはツッコミを入れているが、とはいえ、ほんの少し自然と項垂れるからあんまりうまくいっているとも思えない。

 

 

慣れ親しんだ風景が変わったから嫌なのだ、というにはまだ「慣れ親しんで」はいないし、
何より、私はこの街の慣れ親しませてくれない空気感、が好きなのだ。
そのくせ空の感じとか絶対に何があろうが変わらなさそうな「ここが好き」な場所は近所にキープしているのだからお前はなんなんだよ、とも思う。

 


本当に、こうして文にしていると特に思うけど、人の中身なんて、何一つ整合性が取れていない。
そうなると、秩序だの常識だので何かを測ろうとしても無駄だよなあと大きな何かに物事をスライドさせてもっともらしいことを言いそうになる自分に嫌なやつだな、と呆れてもしまう。

 

 

 

ともかく、近所の定食屋が潰れて、私はそれにほんの少しだけ、落ち込んでいる。
それを例えば理由をつけて、そこにあった通称神の自販機こと、私からすると安くて独特の味がするエナドリを売ってくれるそれもまとめて撤去されたから、とも言える。
でもわざわざ、理由をつける必要も、説明する必要もないと思うのだ。

 

 


私は、近所の定食屋が潰れて悲しい。