えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

言葉の毛布がほしい

落ち込む時、寝れない時、ラジオを聴く。
そしてここ数日、絶妙な距離感、ぎりぎり「私は部外者」なところでドタバタとしていて、その中で「こいつぁラジオを聞くしかねえぞ」と思った。




ラジオを聴き続けた。
ずっと、音がなくなったら無理だな、と思っていたので、過去の録音、55周年の放送、JAM、Podcastとひたすら好きな人、普段聞かないひと、全部ごちゃまぜにしながらずっとずっと、誰かの喋りを聴いていた。



誰かのためにありたいなあとは思っていたけど、結局、自分のことを前提大事にしながらじゃないと無理なんだよな。
8年前、身体をぶっ壊した時に友人に言われた「自分が元気じゃないと誰かを助けたりはできないんだよ」という言葉を時々思い出す。
そういう意味では、今回の私はその時の言葉が沁みたんだろうな。

だからこそ、自分にとっての大切というか、自分を大切にする手段をずっと手放さなかったんだと思う(正確には手放せなかった)



伝わる、伝える、受け取るということがずっと難しい。
私が関係あってもなくても「食らう」のは大体その関係のことだと思う。距離がどれくらい離れてるかどうか、当事者かどうかは関係なく、誰かが「伝える」を疎かにしている時、徹底的に傷付く。
これだって驕りでしかなくて、私が私の尺度で「疎かにしている」と怒ってるだけだ。そのことにも途方に暮れる。
身勝手な自分の中で渦巻く怒りを自分だってどうしようもないことにその度に気付くし、となると、他人が他人と過ごすことなんて限りない"無理ゲー"じゃないかと思う。

そんな私にとって、「伝える」を諦めずに済んで、かつ楽しく、安心する場所が今はラジオなんだと思う。
そういう「今はここ」の安心を増やして、増やしたままそれぞれ大事にして、そうやってなんとかやってきた自分を最近はよく「やるやん自分」と褒めてやるようにしている。



だって結局、最後まで一緒に生きるのは、自分だけなわけだし。



言葉が、誰かを殴る手段にならないといいなあと思う。言葉が好きで、言葉にいつも支えられてきて、だからそれが、誰かを殴る手段、断絶にならないといいと思う。
それから、それを尽くすことを諦めずにいたい。
今回何度も、そんなまどろっこしいことやってられるか、さっさと殴ってぶち切って、めちゃくちゃにしてえ、と思った。そう思った自分が確かに何度も顔を出したことを忘れずにいたい。
殴る、ではないにしても言葉で的確に相手を刺したいと思ったし、相手を傷付ける言葉、揶揄する言葉を探した。
なんか、でも、そうしていたくないんだよな。
言葉にすると綺麗事にしかなってくんなくて本当にうんざりするんだけど、でもそうじゃなくて、そうなりたくなくて、私はずっと、ラジオを聴いてた気がする。



何とかなんねえかな。
ラジオを聴いて笑った時のことを思い出してる…わかってもわからなくても、楽しかった時のことをずっとずっと考えてる。
それでもたぶん、自分の人生、納得できるような言葉を使えることってそう多くないんだろうな、と思って途方に暮れている。
まあだからといって、諦めるわけにもいかないんだけど。