えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

春に嵐のたとえもあるぞ

思い出すことがある。
終電か、その1.2個前の阪急電車
仕事は終わってないが、このまま残れば楽しみにしていた芝居に向かうための深夜バスに間に合わない。いやなんならこの時間に帰っていて間に合うのかも既に分からない。朝イチに新幹線に飛び乗るか。少なくとも、諦める選択肢はない。どうするのが正しいのかわからなくなる。結果、バクバクうるさくなりだした心臓に「芝居はなんとしてでも見るから落ち着け」と言い聞かせた。
車両には自分しかいなくてそこで逃げ込むように開いたTwitterの画面が着信画面に変わる。
表示された上司の名前に反射的にスライドして電話に出る。
電車の中で電話をするのは良くないとか、そもそもこんな時間に電話してくんなとかの常識は、会社であるいはそれまでの人生で刷り込まれた上下関係への忠誠を前には役に立たない。




成果を出していない人間がのうのうと帰ることへの叱責、電車がなくなっても泊まり込みででも仕事をしろ、それを自分はやってきたのだという怒鳴り声に何を返したかはあんまり覚えてない。謝りはしただろうな、と思うけど、私は電話を切ったあと、携帯を叩きつけた。ぽん、と臙脂色の座席を跳ねる携帯を見てアホらしいなあと思う。
こんなことを言われている自分も、それに猛烈にムカつき、虚しくなって衝動的になりたいのに結局携帯が壊れないように座席にしか叩きつけられない自分も全部全部、アホらしかった。




最近、そんな頃のことをよく思い出す。
なんなら、その頃だけじゃなく学生時代から最近までの「サイテー」な記憶をよく思い出す。




例えばそこからなんとか脱却し、「どうやって生きてきたのかも生きていくのかも分からない」と笑われた社会不適合者なりに自分なりの武器も見つけ仕事をしていた頃。
自分の考えや言葉を、雑談の中、笑われ続けるしかなかった場所を思い出す。
「なんでそんなに捻くれるのかわからない」「そんなのはおかしい」と言われ、それが「面白いこと」として成立しているように見えるように頑張って創意工夫しながら過ごしたプレハブの事務所の景色とか。




脳内劇場の支配人が変わったのか、ここ最近クソ映像しか流してくれないことについてはひたすら苦情と改善のお願いを出したい気持ちでいっぱいである。普通に日常に支障が出るから勘弁してほしい。





その映像をぼんやり眺めてると時々、自分のことが許せなくなって人一人分の面積のエコをしたくなる。
自分の性格や考えが間違えてるなら、やっぱりそれは終わらせるしかないんじゃないか。





そういう頭の暴走は、良い方にも悪い方にも突き進む。0か100しかない頭を抱えてなんとかやってきているけど、その姿が周りにどんなふうに見えているか、想像すると怯む。し、実際、心配と迷惑をかけてきた。
そのままだとやばいよ、と言われる度に病院に行く。一度はあなたの生活習慣のせいですよ、と言われ、一度は何しにきたんですか?と言われ、それでも、と過ごしてきた。





今回、病院でひとしきり私の話を聞いた困った顔をしたお医者さんが「結局、あなたがどうしたいかですよ」と言った。





どうしたいかってそれは、いつだって、楽になりたい、でしかないのだ。
でも、楽になれる方法がないことを知ってる。何を手にしたら、あるいは手放したら幸せになれるのか、どこかに行き着いたら楽になれるのか。薬を飲んだら、この頭の暴走は止まってくれるのか。
全部にノーを出してるのは、まあ、自分なんだよな。







自分の生きづらさが大したことがないのだ、と知ってる。
まとも村にも、生きづらい村にも自分の分の面積なんてありやしないのだ。







死にそうな日は少し先の演劇のチケットをとって、眠れない夜はラジオを聴いて、絶望する朝方は好きなアルバム一枚分散歩してわけもわからず映画館に飛び込んで。
そうやってなんとか見つけたもの渦巻いてるものを言葉にしてリフレッシュして、生きていけてしまう自分が憎い。そのくせ、自分を労って周りを大切にするような生き方ができない自分が憎い。自分の過ごしにくさを周りに八つ当たり的に発散する自分に頭を抱える。






ところで、今の自分の職場にはそういうことを笑わないどころか、「それで?」と続きを促してくれる人がいる。そのことに毎度新鮮にびっくりする。
やりきれない気持ちで聴いたラジオに「ああ自分だけじゃなかった」と思うことがある。
この芝居に出会えてよかった、と噛み締めながら帰る日がある。
何度も聴いたはずの音楽の歌詞にある日急に大丈夫だと思う。




自分の大事なものをひとを、大事にしたいんだよな。だというのに出来ていない気配にやってられない気持ちになってるんだ、きっと。
それでもその中で好きだと思うこと、面白いと思うこと。自分のズレた頭があったから間に合ったこと。



ふと聴いたラジオで「生きているという強制的にしないといけないこと」という言葉を噛み締めている。
だとして。
だとしてっていうか、私の中で、わりとそれがずっとあるのだ。死にたいなんて、わがままでしかなくて、だから選択肢としてそもそも入ってなくて、だから私は生きてこれた。し、生きていくんだと思う。




その中で私は楽しめているだろうか。
まだまだ楽しめるんじゃないか。
せめて、楽しいや好き、面白いを見つけてこれが好きだ、嬉しいって口にして忘れないように形にして、それでなんとか、許してほしいと思う。




でも、許して、なんてことじゃないんだよなあ。
まだ形にならないふわふわぐにゃぐにゃしたものが手元にあって、それをずっとこないだから揉んでいる。それが、綺麗なものになってくれたら良いのにな、と思う。
ならないまでもそうやって作ったものを足元に敷いて、それをまとも村にも生きづらい村にも属せない自分のためにセーブポイントみたいにしたい、できる気がしている。したい。





それはきっと自分の頭の中だけで完結しているとしたら出来上がらなくて、そこに付け加えられていった色んな人が作る面白いや楽しいがあるからこそこうして生まれたもので、それを愛おしいと思えることは結構でかいのだ。




「あなたはどうしたいですか?」と聴いてきたお医者さんに言葉を探しながら「とりあえずなんとかうまくやっていってて、それでいいんですかね」と呟いた。それにそうですね、とお医者さんが頷く。工夫して、そうやっていってるように見えますよ、と言われた。




確かに、好きなものを面白いものを見て、でもうまくいかなくて途方に暮れて、それでも結構、ちゃんと、生きてるぞ。




そうやって過ごしていけば良いですかね、とほぼ独り言のように呟いた私に頷いたお医者さんにお礼を言って帰った。その道すがら飲んだ春限定のスタバが美味しかったので、今日も結構、良い日だったよ。