えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

日食なつこというひと、音楽

「この音楽いいよ」
そう言われるのが好きだ。そうして音楽に出逢うのが好きだし、そうして出逢った音楽はだいたい、軒並み大事になったりする。


今回出逢った音楽を教えてくれたのは、学生時代の後輩だった。
色んな鬱憤を晴らすように美味しいものをつつき、さまざまな話題を口にしてぴょんぴょんと会話が跳ねる中、「そういえば」と教えてくれた。



「この人の曲を聴いてるとつくさんを思い出すんですよ」


そう言って、曲を再生してくれた。
それは、私のここ最近あった出来事ベスト3に入っているし、自分の好きなところの1つというか、明確に人に自慢したいポイントとして心と頭の大切なものボックスに入れた。


力強いピアノと、真っ直ぐな言葉、強く優しい歌声を聴いた時に自分を思い出してもらえる。そんな、有り難くて名誉なこと、早々あるもんじゃない。何より、そういう風に見えているのだ、と思えることは、自分の背筋をほんの少し伸ばす。




その日から、繰り返し繰り返し、彼女の曲を聴いてる。
日食なつこさんというその人の音楽は、優しいという言葉も励ましてくれるという言葉もほんの少しズレる。
ただ、錆びたところにほんの少しの油をさしてくれるような、「ここで諦めないだろう」と信じてくれるような、そんな気がする。





音楽のすゝめ




一番最初にこの曲を聴かせてくれた後輩はまじで人の刺し方が分かってる、と思うし、聴きながら同じ画面を覗き込んで、うっかり潤んだ目がバレないといいな、とダサいことを思った。


日食さん自身がフェスで聴いた音楽、体感した音楽をその衝動を言葉にしたというこの曲は、どこもかしこも、ああそうだ、と頷きたくなる。
自分が好きな音楽は、もっと言えば、きっと私にとってはエンタメは、こういうものだ。
大切で刹那的で、でも大事にし過ぎたら歪になってしまう、そうしかねないくらいの凄さがあるからこそ、大事大事に仕舞い込まずに、でも大切にしたい。
そう願う心をこんな風に形にしてくれる、そのこと自体がたまらなく嬉しい。

短い夢で、いつか終わる。永遠はないし、また会えるという保証もない。
時々思う。なんてものを好きになってしまったんだろう。大切であればあるほど、傷付く機会も多くて、だというのにいつまで経っても惹かれ続けてしまって学ばない。
それでも、そうだ、そんな馬鹿な僕らでいたいのだ。





必需品


ドンピシャで、私はこういう曲に弱い。不意打ちで聞くとああそうだよ、と泣いながら蹲りそうな気持ちになる。
し、だから僕がいる、と歌ってくれるこの曲は、さすがに毛布と呼びたくなる。だったらいいなあと思う、願う。


そして、何より。
自分の足りなさをわけがわからなくなってくる曖昧さを、こうして結ぶ、この曲が私はたまらなく愛おしい。


聴く側も奏でる側もお互い、「だから僕がいる」のかもしれない。
わけのわからなさを足りなくなっていく日常で削られていくそういう部分を互いに明日を迎えるために。






ワールドマーチ



出勤の時にお世話になりました第一位。
自分のどうしようもなさに、ズレに、周りと合わないテンポにここ最近ずっとやられているせいかもしれない。それをこの歌の中の「君」と重ねる身勝手さは重々承知で、でも、聴いて自分を肯定したかった。
なんでだろう、どうしてだろう。そのまま自分を否定し尽くしたくなるような怖い衝動をこの曲が手を引いて止めてくれる。
自分の中にあるこのボロボロさを「歩いた距離を語る」と歌ってくれる。




なんでだろうな、日食なつこさんの音楽を聴いてるとまだ大丈夫だと思う。まだ歩きたいと思う。ぶさいくな自分の歩き方をイカしてんじゃないかと思える。
そうやって重ねてる自分のダサさには一旦目を閉じさせてもらって、「じゃあ、まだ歩いてみるか」と思う。





私はまだ、「日食なつこ」その人を掘り出してはいない。ほんの少し、まだ、知りたくない。知る楽しみをもう少し先に残していたいと思っている。
例えば、どんな人か分からなくても、人としての好きでなくても、音楽そのものを好きだと思う。そのことの居心地の良さ、幸福を噛み締めていたい。
でも、この人自身のことも好きになりたい、なれる気がするし、知りたいとも思ってる。


歌詞があるから、その歌詞が嬉しかったから、聴きたかった聴いていたい言葉だったから、大切な意味を纏っていたから。
それだって、彼女の音楽を好きになった理由だけど、そうじゃなくてそれだけじゃなくて、歌声やピアノの音色が含んだ、言葉以外の心地よさを私は嬉しく思うのだ。





音楽という豊かさが、私はとてもとても、嬉しい。