えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

生業 札幌公演

なんで表現するのか、ということをずっと考えていた。スピーカー前、音楽と声のエネルギーを振動として浴びながら、びりびり震える体内の水分の感覚を噛み締める。



HIPHOPの話をする度に私は「自分ごとを歌う音楽だから好きだ」ということを書く。今回も例に漏れず、そんなことをずっとずっと考えていた。



自分のことを歌うということは、それだけ誰かに自分の弱点を晒すことなのかもしれないとAwichさんとRさんの歌声を聴きながらずっと考えていた。
それは単に弱さも含めて歌うから、ということだけではない。



女だからとか
シーンに合ってないとか
いかつくないとか
育ちが普通だとか
見た目だけだとか



自分の属性、考え、価値観を歌えば歌うほどそこを揶揄したり逆に妬んだりされるわけで。
そういう外野の喧しさの中、ど真ん中に立って歌うのはなんて怖くて凄いことなんだろう。
知られるということはそれだけdisを挟み込める隙が増えるということだ。
そして好意的だとしても誤解からの検討外れの声だって増える(なんなら、この感想だってそんな無責任な検討外れの言葉なのかもしれない)




自分が傷付くのは嫌だ。
無闇矢鱈と外野から攻撃されるのは、出来る限り避けたい。
その上、そうして何かを表現することで意識的にあるいには無意識的に他人を傷付けることにもなったりする。
わざとそうしたこともあれば、軽はずみな言葉が思ったよりも相手を刺してしまうこともある。
意図しない取られ方で抉ることもある。
誰かを傷付けることは、いつかブーメランで返ってくる。




考えれば考えるほど、表現することはリスクだと思ったし、なんでやるんだろうと思った。
自分だって誰かの表現に傷付いているし傷付けているし、
じゃあそれを全部避けようとするとどん詰まりに行き着く。
たぶん、誰かを不快にしない・傷付けない・誤解されずに届く表現はないんだと思う。
かと言って「だから仕方ない」と開き直ってまで表現する意味が私には最近分からなくなっていた。



そしてそんなことを定期的に考えては嫌気がさして
その度に私は、Creepy Nutsに行きたくなる。
私に最初にHIPHOPは自分ごとを歌うのだ、ということを教えてくれた、
物凄く怖くて楽しくて危うくて格好いい音楽なのだと教えてくれた彼らの音楽は、
私にとって物凄くデカいのだ。



そして今回、ほぼ衝動に任せて北海道に行って触れた生業というツーマンライブは、やっぱりHIPHOPはめちゃくちゃイカすということをビリビリ味合わせてくれた。




Awichさんが最高にセクシーで語弊を恐れずに言えばエロくて、格好良くて可愛くて強くてあまりにも最高だった。
なんでこんなに真っ直ぐ立ってるんだろうとか、楽しそうでなんか、"クイーン"という表現にめちゃくちゃ頷いていた。
その上「等身大」でもあって、この感覚はなんだろうと思った。握り締めたマイクを通して届いていたのはきっと変な装飾もないど直球な"Awich"というアーティストの姿だった。
表現すればするほど、誤解が増えたり勝手な好意悪意が付き纏う。それ全部に中指立ててベロを出しそうな気配にひたすら、圧倒されていた。


しかもその人は、ひたすら観客である私たちと話をしようとしてくれる。対話というよりも、なんか気配と気配のぶつけ合いのような気がした。この人の前で変に取り繕ったり偽ったりしていたくないな、と心の底から思わせてくれる。
何もしていない外野のごちゃごちゃした野次は全部「は?あんた誰?」って蹴散らしていこ、と煽る声に背中を真っ直ぐにしてもらった気がした。




残念ながら松永さん不在の形になってしまったCreepy Nutsの音楽は、しかし、いない中でも「ふたり」の音楽だと思った。
どこまでも自由で自分たちの為に音楽を作っていて、その中、自問自答を繰り返しそれこそ表現することのエゴも矛盾も暴力性も何より楽しさもを詰め込んだ音楽は、ふたりで作り上げたものだった。
そしてやっぱり私は、そんな彼らの音楽が大好きなのだ。
Rさんが歌うRさんの自分ごとに勝手に自分を重ねて拳を上げ、身体を揺らすと最高に気持ちよくて楽しい。



理屈だとかではなく、"だからだ"と熱量を持って思う。どうしようもなくこれが必要なのだと叫びたくなる。



その上、AwichさんもRさんもそうして表現の先に、同じように逃げずに表現をし続けた仲間の話をしていた。



表現をすることは誰かを自分を攻撃することで
無理解と誤解とを作ることなんじゃないかと
ずっと思ってしまっていたけど、彼らは本当に反論の余地もないくらい、めちゃくちゃ格好良くて最高だった。



ツーマンという、対バンという形でこんなに格好良くて熱くて最高のステージを観れたことがなによりも「表現をすることで繋がること」の答えだと思った。

繋がるというのは、同じになることでも横並びになることではない。彼らはそれぞれ、自分ごとを歌っていて、だからおんなじ、ではないんだと思う。



うまく言葉にならない。まだ、あの時思った迫り上がるみたいな感情を言葉にする術を私は持たない。
持たないからこそ、表現し続けて探したいと思った。それは、私にとってそれが本当に本当に大事なもので、絶対に手放したくないものだからだ。
何度も何度も間違えながら傷付いたり傷付けたりしてしまうこともあるだろうけど、それに怯まずになんならちゃんと真っ当に傷付きながら、表現していきたい。




Caseのライブに行った時の感想



わりと近いことを言ってて、そう思うと私は何回忘れたりがっかりしたりするんだよ、と呆れてもいるけど。別にいいんだ。
きっと今のこの衝撃も日常の中で摩耗して薄れてわからなくなって凹むんだろう。
だけど生きてる限り、そして人が表現を続けている限り、何度だって思い出せるから、だから、良いんだ。