えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Creepy Nutsゲスト回のマツコ会議を観て勝手なことを延々と考えている

マツコ会議に情緒を乱されている。
情緒を乱されている、と表現するのも躊躇いがあってそれでさらにまたぐちゃぐちゃに考え込んでいる。


なんならリアタイした直後、叫び出しそうな気持ちというか、いやというよりもぐつぐつと内側から崩れそうな気持ちに苛まれ、衝動のままにSpaceでラジオごっこをした。

しかし、しながら、あ、なんか良くない、と閉じた直後思う。

ラジオは伝えるツールだ、という大いに感傷を含んだ気持ちでついラジオごっこに頼りがちな最近だけど、それはなんというか、ここにおいてはズルかったんじゃないか。



言葉にする、ということをし続けている人生だ。
基本的に言葉にすることに対して抵抗がないし、むしろ言葉にしないままそこに置いておくことの方が落ち着かない。
だから、ついつい考えていること感じたことを言葉にすることが多いんだけど、それってやっぱり暴力でもあるのだ。
特に私の場合、矢継ぎ早に言葉を紡ぐことが多いしそういう時、強い言葉を使いがちだ。そういう言葉ってたぶん、テンポよく言われれば言われるほど誰かの言葉を殺してしまう。
ついでにいえば、強い言葉それっぽい言葉は使っていると気持ちいいことが往々にしてあって、それはやっぱり、違うと思うのだ。



ということで、終わった直後反省し、反省することに自己嫌悪もして眠り、一晩どころかその後も延々と考えていた。


考えながら、この脳内シャッフルはたぶん、私の中であの30分が色んなところ、角度で刺さり、嵐のように風が吹き荒れているからこそ、起こっているんじゃないか、という仮説が生まれた。

そんで、仮説が生まれるともう脳が止まらないのが私なのだ。延々と考え込む、言葉が溢れる。

じゃあ、またラジオごっこでだらだらと話しながら考えをまとめようか、と思いながら、いや、今度は文字にするべきじゃないか、と思った。喋り、しかもリアルタイムで誰かが聴いてくれるからこそ、行き着けることも間違いなくあるんだけど。
でも、ラジオごっこは少なくとも今のやり方では残らないし、残らないという油断で、もしかしたら私はズルをするかもしれない、と思った。


いやなんか、本当に、なんだろう、みっともないくらいあの放送が刺さってる。刺さってるから、絶対に誠実にいたい。いれるか分からないし、何をもって誠実とするのか検討もつかないけど、これを手放しちゃいけないと思う。
そうやって深刻に捉えていることももしかしたら、自惚れなんじゃとか自己陶酔でしかないとかいう批判はもうこの数十時間で百回はしたので、とりあえず。
自分の納得のいく、そして自分にとって表現、である文であの30分を自分なりに咀嚼して飲み込んでみたいのだ。


それが、例え、「勝手な解釈」の域を出ることができないんだとしても。
このぐちゃぐちゃを研ぎほぐして、考えたい、残したい。



まずは、
HIPHOPという表現について。
前提、私は今年になってからCreepy Nutsを聴きだしたゴリゴリの初心者だ。
聴くのも彼らの曲中心、あとはラジオなどで紹介された曲が気になれば少々、というライトな感覚で楽しんでいる。

しかし、知れば知るほどこのHIPHOP、もしくは日本語ラップというジャンルが面白い。





のブログでも書いたんだけど。
ラップという、言葉が連なって音になる、韻を楽しむのが、本当に楽しくて仕方ない。
そして、そのHIPHOPにある「ありのまま歌う」スタンスがたまらなく好きだと思う。かますこと、自分のままでダメなところも格好いいところも全部歌う。私にとって、HIPHOPは「ありのまま」の音楽なのだ。もちろん、中にはブリンブリンに自分の力を誇示しようとする音楽……ボースティングという表現もあるくらいなんだけど、なんというか、それすら「ありのまま」だと思う。


そしてその中でゲットー…貧困や暴力、過激な過去があってこそ、という流れ、それに対して所謂"ワル"以外が歌っても(かましても)良いじゃないか、という流れ。

なんというか、そういうのが一つ一つ嬉しくて大好きなんだ。


そしてCreepy Nutsの主流と少しズレた作風、スタンスがどんどん大きなうねりを作ったことが面白くて大好きだ。


昔、大好きな舞台役者さんが「舞台には全部が出る」と言っていて、私はそれが何年経っても大好きな言葉なのだ。そして、そんな私にとってHIPHOPが刺さったのは、まあそりゃそうだよな、と思う。
正しくHIPHOPという文化を理解できているのか、というのは分からない。まだまだ知りたいと思うこと、知らないことはたくさんある。
だけど、それも含めて、私は「そのまま」を出す、出してしまうHIPHOPを面白いと思う。


で、その上で「でもありのままじゃ許されないこと」について考えてしまう。
もちろん、人が人を傷付けることを肯定するつもりはないし、ありのままやりたいことをやる音楽だから何をやってもオッケー!とは思わない。
でも、この問い掛けを繰り返すたびにわからなくなる。



例えば、テレビが面白く無くなった、という考え。以前の"面白かったなんでもありなテレビ"は、それに傷付いた人の口を塞ぎ、そんなもんに傷付くお前が悪い、と切り捨ててしまってたんじゃないか、と思う。
でもじゃあ、傷付けない・間違えない、ことだけを目指すのは正しいのか。
そうとだけで紋切りしてしまうことは、何かを同じように殺してないか。
そして例えば「不適切な表現」をしたからと誰かを殺してしまうのは、それだって暴力じゃないのか。


少し話は違うが、昔、あるラッパーの映画を観て、音楽をやり通した結果、殺されてしまう結末に、どうして、とずっと考え込んだことがある。そこには私が汲み取りきれていない歴史や文化、政治的背景もあったんだと思う。だけどどうしても「何故自分の信じた音楽を続けた結果に殺されてしまうのか」が納得いかなかった。そこでそう思うこと自体が、平和ボケした日本人の感想だと言われてしまうかもしれないけど。



で、なんでこんなにぐちゃぐちゃ考え込んでるかってそれは、エンタメが好きだということもあるけど、
それだけじゃなく、そこにあるどうしようもない途方に暮れてしまいたくなる絶望感に覚えがあるからだ。


やり直しがきかない、間違えたら落ちていくしかない恐怖感に付き纏われた生きづらさ
あるいは、受け入れられるために受け入れやすい形に自分を整え続ける息苦しさ。
そういうものは、何も、表舞台に立つ人だけが感じてるものじゃないんじゃないか。
番組内でマツコさんも言った通り、今の日本でもそんな苦しさや鬱屈を抱えている人はきっとたくさんいて、だからこそ、Creepy Nutsの卑屈さやそれを吹き飛ばしてかますところ、そこから広いところに出ても悩み迷い続けるHIPHOPに共感しているんじゃないか。


そしてそれは、誰でもない私自身の話だ。私が勝手に彼らにそんな自分の生きづらさ、やりきれなさを重ねてきっと彼らを"消費"してるのだ。だから、私は、そんな自分を卑怯だと思う。



で、どうしたらいいか考えてたし考えてるけど、答えが出ないんですよ。出たような気がするけどその度に振り出しに戻って分からなくなるんですよ。
このブログだって、全然まとまってない自覚がある。
だけど、卑怯な私ができることは、考え続けることくらいしかない。できること、以上にしたいという、だけなのかもしれないけど。



マツコ会議を観て、本当になんなら友達までも巻き込んで、ぐちゃぐちゃに考えていた。怒っているのか悲しんでいるのか傷付いているのか、それとも嬉しいのか。
分からないまま、その正体不明の感情に胃が焼かれるかと思った。
だけど、その時の感情を振り返りながら思う。
私はその感情を手放したくないんだ。
そんなものを手放せば楽になるのかもしれないけど、たぶん私はこれからも色んなエンタメに触れるたびに胃を焼かれるような感情に悶絶してぐちゃぐちゃに考え込むんだろう。そしてそんなエンタメに出会えることを願ってる。


日々、色んなことにがっかりし、ウンザリし、何より自分のことを嫌いになりながら過ごす私にとって、そうして、感情をぐちゃぐちゃにされることは人生だとか人間だとかを手放さないために必要なものなのだ。
そして、ものすごく勝手なことを言うなら、松永さんやマツコさんの涙に同じようにいろんなことにがむしゃらに自分の好きなことや思いを貫こうとする、信じようとする人を見た気がして仕方ない。それもこれも、勝手な共感・解釈だけど。
だからこそ、それが嬉しかった私は、こうして嬉しかった、と叫び続けたい。
それが私なりの合ってるかどうかも分からないけど、誠意の形だ。


マツコ会議
クリーピー松永の涙が止まらない…マツコも涙…一体なぜ?
#TVer #マツコ会議
https://tver.jp/corner/f0088865

とりあえず、視聴可能期間、あと何回か観て考えたい。