英語が身近かと言われるとそんなことはない。
comeをこめ、と読んでしまった高校時代から進歩なく、相変わらず英語にはどこか尻込みしているところが自分の中にあると思う。
そんな私が唯一、英語が身近になる瞬間がある。
それは、映画を観ている時である。
上映時間のタイミングさえあえば、極力字幕で観る派だ。とはいえ、吹替で出会って大好きな作品もたくさんある。ふたりの演技をひとりの人物を通して観ることができるのもまたとんでもなく贅沢で幸せだとも思う。
では何故、字幕で極力観ようとするのか。
それは、英語の台詞を聴きたいからだ。
全ての台詞がきちんと聞き取れているわけではもちろんない。だけど、時々、たまたま耳がキャッチした言葉が頭に飛び込んでくる。
私はその時、ものすごく幸せな気持ちになる。字幕の台詞と聞こえた台詞を照らし合わせて、どうしてこの訳にしたんだろうと想像する。
思いがけないひとつの単語が長い言葉に表されたり、その逆があったり。
そこには翻訳の人の物語に対する読解や知識が出てくると、以前英語に精通している友人に聞いてますます時々起こる「言葉が聞き取れる瞬間」を心待ちにするようになった。
吹替が一役で二人のひとのお芝居を堪能できるとすれば、字幕でそうして台詞を聞き取れた時は、一つの言葉で二人のひとの想いに触れられる贅沢さがある。
もしも英語が使えたならそんな瞬間が増えるんだろう。
私は映画が好きだ。映画で、自分とは違うひとの人生に触れ、自分では経験しないような出来事をまるで自分ごとのように感じるのが好きだ。自分ごとのようには感じられなくてなんでだろうと考え続けるのが好きだ。
そしてそれは、きっと、英語を使えて聞き取れる言葉が増えたとき、もっともっと奥行きを増していくんだろう。
聞き取れた台詞で学生時代、嫌々覚えた単語の新しい意味を知ることがある。
もしくは、テストで「簡単な単語だな」程度にしか思ってなかった言葉がとてもよく使う言葉だと知って、なんだか急に楽しくなることがある。
私は、英語を使えるようになった自分が今より色んなシーンで彼らの言葉により色んな視点で触れるところを想像する。
なんなら、今まで何度も観た作品・吹替で見てきた作品を見てもいいかもしれない。もしかしたらそこにはよく知った親しい作品の気付いてなかった表情があるかもしれないと思うとわくわくする。
もちろん、ただ英語を使えるようになっただけで全部が分かることはないだろう。
最近私はこの「分かる」について考える。
喋ったり書いたり「言葉を使う」ことは大好きだけど、同時に意図していない捉え方ができること、もしくは意図している捉え方をしてもらえないこと、はよくある。よくあるどころか、常になのかもしれない。
そう思うと途方もないし、英語を使えたから「解ること」が増えると思うのはもしかしたら安易かもしれない。
だけど同時に私は思うのだ。その思ったよりも伝わらない(それは意図しない伝わり方をすることも含めて)と感じた時、もしかしたら初めて、コミュニケーションは始まるのかもしれない。
それはどちらかといえば、心底そう思ってるというよりも「なんで伝わらないのか」を考え続け、ちょっと疲れ出したからこそのヤケクソ気味の結論である。だけどきっと、そう検討外れな結論でもないと思ってる。
もしも英語が使えたなら、私は「分からないのだ」ということを理解したい。誰かの気持ちに触れて、分かったような気持ちになったのち、それでも理解しきれない、と心底思ったあと、もう一度あなたと、話がしたいのだ。
※この文章は下記キャンペーン参加のために書いた文章です。