えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

アジアの天使

高校時代、カナダからきた友人ができた。
アニメが好きだという彼女を部活の顧問がうちの部はアニメが好きなやつがたくさんいるからと連れてきたのがきっかけだった。
ふと映画を観ながら、彼女のことを考えていた。



アジアの天使は、ふたつの家族の物語である。
困窮した小説家の剛が息子を連れて、兄を頼って韓国ソウルにやってきた。おりしも、その時の日韓関係は過去最悪に悪化していた。
一方、アイドルから歌手になったソルは仕事がうまくいかず、また家族ともうまくいかない。
それぞれがどん底にいるふたつの家族がたまたま同じ電車で乗り合い、言葉が通じないままに不思議な旅を共にしていく。


この映画を観た理由はたった一つだ。
通勤中、たまたま目に入った予告編、オダギリジョーが言っていた。



「この国で必要な言葉はメクチュ・チュセヨとサランヘヨだ」



ビールくださいと愛してる、である。それだけで、観ようと決めた。合うか合わないか、暗いのか明るいのか、ストーリーが好みかどうかなんてどうでも良いなと思った。その台詞を聴きたかったし、その台詞が出てくる映画を観たかった。

剛は、最初、不安に駆られながら「大切なのは相互理解だ」と自分の息子に言う。悪意に駆られないこと、理解し合うこと。でも、言葉は通じない。剛は韓国語を話せないし、でもなんとなく、怒ってることはわかる。
ソルは、アイドルを辞め、今は歌手だ。仕事のため、事務所の社長と寝ている。それは単に仕事のためだけでもない。恋ではないようにかんじたけど、社長のことは尊敬もしてるし、好きだとも思う。しかし、社長はソルのことを"女6"と登録する。


画面の中、あちこちに滲む不安と不快。寂しさ苦しさ、ままならなさ。それはたぶん、放り出せないから尚更、くるしい。

ふたつの家族が出会い、一緒に旅をする。目的があるのかといえば、微妙な下心と惰性に近い何かくらいだ。
そのうえ、彼らは言葉がほとんど通じない。剛の兄は韓国語ができるけど,別に通訳じゃないから訳したり訳さなかったりだ。
友好的、でもないけど、でもお互いを嫌悪するわけでもない。なんとなくの居心地の悪さ、興味、それがだんだん、形を変えていく。


言葉が少ない映画だ。
なんせ、話せない。なんとか話そうとすると、お互い不慣れな英語を中学英語のようなレベルでやりとりするのが精一杯だ。
だけど、それでも、お互いの目線や表情、様子で察していく。


その光景を見ながら、
カナダから来た友人のことを考えていた。私は英語が苦手だった。comeをコメ、と読んだくらい苦手だ。そして彼女も同じく日本語がそんなに得意じゃなかった。
だけど、私たちは好きなものや身振り手振りそれから単語で会話をして、次第に仲良くなった。
そんな彼女が言葉が通じない環境で過ごす寂しさに泣いてる時、私は励ます言葉を持っていなかった。だってそんな単語、習っていないのだ。
だから、必死に言葉を探し、なんなら日本語で喋ったりしながら、ハグをした。伝わればいいのに、と伝わらないことに心底、悔しく思いながら。
そしたら、友人は泣きそうな顔で笑ってそれから、「つくと私、カレーうどん、食べに行きます」と言った。たぶん、行きましょう、と言いたかったんだと思う。でも、そんなこと、気にならなかった。繰り返し言われた、食べに行きます、と言う言葉が嬉しくて嬉しくて、泣きそうだった。



言葉はいつだって過不足を生むんだな、そんなことを、思っていた。言いようもないような感情が徐々に込み上げてくる。
気が付けば笑い合い、「メクチュ・チュセヨ」と言って、酒を飲む。


あなたには私の言葉は分からないから。そう言って漏らされた弱音が。不器用な優しさと伝わらない言葉と共に差し出されたチョコレートが。



本当に必要なものってなんだろうな。そんなことを思う。
相互理解、なんてそれっぽい言葉で片付けてしまうにはあまりにも惜しい。柔らかくて熱くて愛おしい瞬間があった。でもそれは、するりとなくなってしまいそうだし、ああもう、なんだったんだろう、あれ。
きっと、観てなきゃ信じられないんだろうな、なんて思う。そんな奇跡みたいな瞬間の光を私は覚えてる。



別にそれはとんでもない解決策でもないし、何も変わってないんだけど、でもたしかに、そこにあるものだ。
たぶんそれは、愛に似た何かの話なんだと思う。私がそう、決めたのだ。