えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

そこのみにて光輝く

知人のおじさんが亡くなったらしい。
小学生、いやもしかしたら中学生だったかもしれないが、やさぐれた気持ちの時に決まって遊びに行く家のおじさんだった。白い犬を飼っていた。賢い犬だった。その犬も、大学で実家を出た少し後、亡くなったと聞いた記憶がある。
体調が優れず病院に行き、大きな病気が見つかって、それからはあっという間だったらしい。

私は、その知らせを母から受けた時、なんとも言えない気持ちになった。言葉にしてはいけない気持ちになった。

子どもの頃のような親しみはなかったけど、関係も悪化していたわけじゃない。少し記憶に曖昧なところがおじさんは出てきていたけど新たにきた犬の散歩を良くしていて、実家に帰ると愛犬の散歩をするのが好きな私も、何度かすれ違っていた。
だというのに、私はその知らせを聞いて言葉にしたくない気持ちになった。



そこのみにて光輝く、は函館を舞台にした話だ。
事故により山に戻れなくなった達夫が怠惰な生活を送る中で、パチンコ屋で拓児に出逢う。ライターをあげたことをきっかけに家に呼ばれ、拓児の姉、千夏と互いに惹かれあっていく。


覆うような閉塞感か、その中でももがく様か。
なんだかよく分からない感情が喉奥でぐるぐると鳴っていた。



惹かれあっていく様子は、可愛らしくて愛おしくて、それでいてどこか寂しい。惹かれてるのか、なんでなのかも言葉少なに、何度かにわたる二人の時間が描写されていく。
それでも、目を合わせて心底嬉しそうに笑う二人が好きだ。それまでどこか昏い目をしていた達夫が少しずつ生き返っていく。


人の目ってこんなふうに生き返るんだなあと思った。光の具合か、それとも嬉しそうに動くからか、表情が変わるからか。
なんでかは分からないけど、あるシーンを境に彼の目ははっきりと生き返る。血が流れる。生きようと大きく息をする。
本当に、あの絶妙な温度をなんで綾野剛は演じられるんだろう。
定期的に、彼の芝居が観たくていくつかの作品を見るけど、オタク的に言うと、綾野剛さんってよく「村を焼かれる」じゃないですか。
地べたを這いずるような中で生きる姿があまりに似合いすぎる。それが似合うからそういう役がくるのか、そういう役をやるから似合うと感じるのか。
それは最早、卵が先か鶏が先かに近い話な気もする。
ただ、一つ思うのはそうしたどうしようもなさ、苦しさの中にあっても彼は根本的には目が死なない。前述と矛盾してしまうけど、決して死なない。生きようとする。
どんな地獄も、そこで苦しむのはある意味で生きようとするからじゃないのか。



ところで、拓児の屈託なさとか、なんか、そういうのもすごく好きで。でも、わりとクズじゃないですか。
良いだけの人も悪いだけの人もいないことが最近好きになる作品の条件の一つな気もする。
し、それが言葉ではなくて表情とか仕草ひとつひとつで描かれると言いようもない気持ちになる。


達夫が、拓児を殴って抱き締めるシーン。
本当にたまらなく、好きだったんですが。
二回目観て、殴る姿にあー、と思った。悪いことをした子どもを叱る(もちろん、それで暴力は振うべきでは絶対にないけど)ようにも、親友を殴るようにも見えて。
なんというか、家族になるということについても考えてしまうし
なんだろうなあ、なんか、ああ、大切にしたいだけなのになあって私はこの映画を観てる間ずっと頭の中で考えていた。ただ、それだけなのに。それは本当なのに。
でもどうしてか一つ、うまくいかない。
いかないならいかないで、放り出せればいいのにぎりぎり、踏ん張ってしまう。踏ん張れてしまう。
それなら、大切にできたらいいのに。


この映画を見終わったとき、私は手帳にこう書いていた。


「映画を観ていて巻き戻したいと
生まれて初めて思った。
時が戻るなら変わるなら巻き戻したい」



ただ、もうなんというかそれ以上言える気もしなかった。達夫と千夏の、拓児の言葉になる前の感情や行動に、私の持つ言葉は足りそうにもない。
そしてこの感覚は、この三人に限った話ではなく中島にも抱く。彼が千夏に執着する様は狂気的にも見えるし、何より醜くもある。んだけど、なんだか妙に苦しくなる。
し、そもそも、彼が何故千夏にあれほど執着してるのかは、言葉としては描かれない。理由は分かるように分からないような、その、言葉の一歩手前でぐるぐると渦巻いている。


こうしてブログをしょっちゅう書いてるので全く説得力はないけれど、言葉にしなくていい人が時々、心底羨ましい。
言葉はいつも、追いつかない。そこにある微妙なニュアンスや色や温度が落ちていく。言葉は、と括るのは自分の表現力のなさを棚上げしてるな、と思うけど。
でも、どうしても思う。例えば、演技や音楽や、料理や絵が選べたなら。そこにしかない、それでしかできない絶妙な表現があるのに。


そう言いながらもブログで感想を書こうと思ったのは、そこのみにて光輝くの脚本家が『武曲』の脚本と同じ方だと知ったからだった。
武曲も私は綾野剛さん目当てで観た。
あの映画も、本当にすごく、良かった。
何が一番良かったかってきっと、そこにあったもの、そこから自分の中に入ってきたものを言葉で表しようがないことが一番良かった。


あのお終いがなんなのか、タイトルの意味はやはり、言葉にならない。
ただあのレンズに焼き付いた、息遣いや汗や空気だけがそれそのものだった。そんな得難いものが煮詰まったものを私は愛おしいと思う。


そして、武曲とそこのみにて光輝くの脚本が同じだと知った時、なるほど、という納得とともにどうしても言葉に表したくなった。
表す余地もない、どれだけ言葉を重ねても蛇足にしかならないと分かってはいるけれど。
言葉が追いつかない、あの瞬間瞬間の彼らに一歩でも近付く方法が私にはこうして言葉にしてし尽くせないことなんてものは百も承知で、そうし続けることしか浮かばないのだ。