えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

カムカムエブリバディ 1963-1964

生きていると起こるとっておきの奇跡、あるいは受け取ることのできるとっておきのギフト。


なんだか今日の回はそんなことを考えてしまった。いや、なんならここ数回、毎度考えている。



1日15分の物語に気持ちがぐちゃぐちゃになるくらい持っていかれる。私は朝ドラが好きだ。
とはいえ、全て観ていたわけではなく、最近ようやく余裕ができて朝の15分を捻出できるようになり、なんとかカムカムエブリバディの安子編を途中から観出したくらいのライトなファンだ。
しかしそれでも、朝ドラが好きだと強く強く思う。
たったの15分。その時間で笑って泣いて怒ってやっぱり笑わせてくれる朝ドラが私は愛おしくて仕方ない。
朝ドラで泣いた、と話すと観ていないひとには驚かれたりもする。たった15分で?と目を丸くされるが、きっと1つでもシリーズで朝ドラを観たことがある人は分かってくれるんじゃないだろうか。



主人公やその周りの人たちの人生に併走する。



まるで、そんな気持ちに朝ドラを観ているとなるのだ。半年かけて人を描くせいだろうか。そのうえ、今回のカムカムエブリバディは親子三世代の物語なのだ。そりゃ、思い入れというか、彼女たちの人生へ肩入れしてしまっても仕方ないだろう。例え、安子編の途中からの参加であってもそれでも、私はどうしても彼女たちが愛おしくて幸せを祈らずにはいられないのだ。



さて、それで今回はるいについて書きたいんだ。
12月の末よりスタートしたるいの物語。衝撃的で未だにトラウマのようになっている安子との大きな痛みを伴う別れから、るいが笑うようになって、画面が明るくなる。
安子のことも大好きだからいつか、と彼女たちの和解を祈らずにはいられないけど、それはそれとして私は毎日彼女の幸せを祈り、愛おしくて優しい毎日に嬉しくて嬉しくて仕方ない気持ちになってる。



音楽や映画の描き方がたまらないというのも絶対にある。
多くの視聴者の心に刺さった「史上稀に観る駄作が誰かの心に残る忘れられない作品」になること、
そしてジョーの一番古い記憶があのクリスマスのライブで、その演奏を聴きながら「これから自分の歩く道は日向の道だ」と信じられたこと。
それはどこか、こうしてドラマに日々心を動かされる私たちの経験と重なる。私の中にある"大切"の記憶が大きく頷く。そういうことが、たしかにある。そう思う。


安子編の戦争の描写や(残念ながらここについては私はダイジェストでの視聴になったけど)戦後、彼女に降りかかった悲しい出来事の数々はすごくすごく苦しかった。だけど、私は何故か、安子は不幸だ、と言われるとしたらそれは違う、と返したくなっていた。
なんでか、ずっと分からなかった。なんならちゃんと戦争編やその前の幸せを観てなくて、その喪失感をきちんとは理解できてないからだとも思っていた。


だけど、なんとなく、今日の回を観て思う。
優しくて温かな家族、稔さんとの一か月、カムカムエブリバディを聴かせてくれたあの大阪の家族、るいとふたりラジオを聴いたこと、ロバートさん。そういう優しくてあたたかな景色が彼女にはある。

るいを見ていると思う。いったいどれくらい今までの人生で我慢したり気を遣って生きてきたんだろう。
ジョーを見ていても思う。トランペットしかなかった、と言う彼の人生の中で手を伸ばす発想すら浮かばなかった場面が何度あったんだろう。


だけど、彼女、彼を不幸だとは思わない。そう言いたくない。
「これがあるから大丈夫」なんて万能薬はなくても、生きていくための幸せはそこらじゅうにある。それを私は否定したくないのだ。



亡くしてついた傷も苦味もなくならない。代用品で埋まる穴もないし、埋める必要だってない。だけど、そこに、それでも変わらずに光っているものがあるんじゃないか。
もう二度と笑えないと思う瞬間があっても、思いがけずにいつかの傷や逆にいつかの大切なものが繋がって、形を変えたり大きくなって包んでくれることがある。


錠一郎とるいのやりとりで、私はこの2週間ずっと泣いて笑って嬉しくなってる。
自分では気付かなかった痛みに気づいてくれるひとがいる、それを晒して共有するんじゃなく、ただ一緒にいる、という優しさもある。
そしてそんな大切がそっと、思いがけず重なった今日、本当に神様は生きているととんでもない贈り物をくれるんだなあ、とべそべそに泣いた。



日向の道を、私たちは歩いている。
重ねた時間も紡いだ心の糸も、あなたを決して、離さないのだ。