えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

雁字搦めのオタクのろくろ

年末年始に久しぶりにLDHのエンタメに触れた。
触れたと思った。
友人がたくさん気を遣ってくれながら(本当に申し訳ない)一緒にライブを観てくれたので「見ないかもなあ」と思っていたライブを観ることができた。久しぶりに"4時間"というランタイムに怯んでいたけど、楽しかった。

楽しかったし、何より自分の好きなEXILEや三代目のパフォーマンスでは「ああー、好きなんだよな」と思った。


私は完璧なオタクではない。



必死さが足りない、茶の間と言われればそれまでかもしれない。
自信があるものなんてないし、そのための努力を怠るなら、と思ってもいる。
そもそもありもしない完璧なオタクという定義にこだわる自分がいい加減馬鹿らしいしいつだってそんな自分の中のものを壊していけたらと思っているけどどうにもうまくいかない。いかないので、毎回毎回「自分はどうしたい?」と問い掛けながらやっていくしかない。


どのツラ下げて好きだっていうんだって思っちゃうともうだめなんすよ。
このブログ読み慣れてる方にはご存知だと思いますが。そう思ってしまうと何より自分にストレスがかかるので無理しない。開き直るのも体力がいるので体力がある時だけにする。
そうやってここ最近は調整していた、好きなものとの距離を。


これは全部、誰かの話ではなくて私の話で、別に「他人がどうあって欲しい」なんてどうでもよくてそんなもん私の中には1ミリもないのだ。自分の器が小さいので、そこまでの広い視野が持てないとも言う。
だから、炎上とかも道徳的に倫理的に価値観的にどうか、なんて判断できないし、する気にもあまりなれないし、メンバー全員の言動についてのジャッジもできる気もやりたい気持ちもない。どうでもいい、というと乱暴だけど思考のリソースをそこに割くと雁字搦めになるのだ。



でもそういうことしてると「みんな好き」というには座りが悪くて自分の中の矛盾にやってられなくなったので、自分にとっての推し、が好きだというようにしていた。
ギリギリまだ手を伸ばせる範囲だけ、ここまで、と手の長さを確認しながら変わっていない自分の中の「好き」を思ってきた。


先日7日、MUSIC BLOODにEXILEが出演した。ライブが止まった2月26日の話、またそこからの2年間の話。聴きながら、私にとってLDHとはライブでとるコミュニケーションだったんだ、と再認識した。
そして彼らがまたステージ上にいれている今が長く続くように祈ったし、早くそこにどんな人でも「行きたい」という気持ちさえあれば行ける日が来ればいいと思う。
もっとも、感染症があるなしに関わらず行きたい、だけでいけないのがライブだと思うし、そう思うとこれからもオンラインという方法は残ればいいな、と思うけど。
それでも、私にとってLDHはライブなのだ。
色んな自分の中の色眼鏡を吹き飛ばして「生身の人間の熱量」を浴びさせてくれる、あの空間が好きだ。理屈全部を吹き飛ばして彼らの信じるエンタメの形をすごく近くで感じられるあの場が好きだ。



そこにどんな方法でも行きたいと思えなくなった時、自分の好きへの根拠を失った。
とか言うと、行けていない誰かを同時に刺すことになりそうだけど、ちがうのだ。私の話なのだ。だって、ライブに行けない理由や、私を止める制限、なんて何もないんだ。
仕事も家族も止めていない。仕事の休みが重ならないなんて有給でもなんでも使えばどうにだってなる。でも、その「どうにだって」を目指さない自分を"私"が許せなかった。
許せないことにも疲れたので一旦、距離をとっていたかった。
自分の中の殴り合いに負けそうになる。そもそもそれ、どっちが勝っても負けるのも私なんだ。


あの、私、まだ2月26日のお帰り、を言ってないんです。そしてたぶん、もう一生言うことはないんです、だって彼らはもう帰ってきている。
だから次、私がライブに行くなら言えたとして「ただいま」なんです。
でもこれも全てだからなんだ、で、個人的な感傷でしかなくて、
そもそもそれが「私がやった選択」なんですよ。



ライブはやって欲しい。二年間絶望の中にいた板の上に生きるひとたちが観客と再会できたことが心底嬉しい。あの日、観れなかったひとがライブに行っていることが嬉しい。
エンタメは誰かの仕事で生活で、だから進むという彼らの、LDHの姿勢が嬉しい。



どれも本当に嬉しいのにその中に行こうとしない"他人事"感に自分で勝手に傷付いてるいるのかもしれない。



この時期にやる「行った/行かない」の話の何が嫌って誰かを傷付けるだけだってことだよ。でも、どうしてもたぶん、私はこの文章を今書いておくべきだと思って書いてる。

正直、去年何回も「ライブに行かないこと」の文を書いては消し、書いては消ししてきた。だってそんな文、誰かに届ける意味がない。
でもそうやって没ってきたから結局こんな雁字搦めになってんじゃないのか。



過去の自分の好きと形は変わったんだろう。全通したいとか、何一つ見逃したくないとか、そういう形じゃなくて、でも大事で好きなんじゃないのか。



好きになりたて、毎月のようにLDHの誰かのライブに行っていた頃。
ここにいたいと真っ直ぐに思えていた頃と形の変わった感情の名前をあの頃と同じ「好き」にしていいか迷っていた。


好きじゃなくなった、とか冷めた、とか「きっとそう」みたいな曖昧な感覚でこの気持ちを片付けられるわけがない。
ほかに好きなものができたんでしょ、なんて言われるけど、そうじゃないというか、ほかに好きなものができたから好きがなくなるのか?なくなる人もいるかもしれないけど、私はただ、宝物が増えたつもりなんだよ。それを誰かに宝箱を覗き込まれてこっちの方が大切なんだね、なんて言われる必要は一切、これっぽっちもないのだ。
生きてるんだよ。生きてるから変わるんだよ。変わるけど、あの頃一生懸命見ていた私も大好きで心動かしまくった私も今日の私の一部だし、



つーーーーーーーかさあ!!!!!!!!!!!!!!!!!
私は!!!!!!!!!!!!!!!
私の熱量方法で、好きなんだわ!!!!!!!!!!!!!!



誰に承認される必要もない。というか、私は私を承認しろ、する。そうだよ。

わかってるよ誰かと比べたらみっともない足りない形がズレたそれだろうよ知ってるよ。
ほとんど手を離してんじゃんと言われればそうかもしんないよ、だけどそれでも好きなんだって思うなら好きでいろよ。
それは別に全部、じゃなくていいし、矛盾してるとか、そりゃもう人間だし、生きてるから仕方ねえわ。


好きなものを好きな形で好きでいよう。
なんの話だと思うんだけど、なんか、私は私の感情に素直にいてえなって話だよ。



昨日、EXILEのチケットの当選の知らせがきた。毎日感染状況が悪化していく現実とその待ち侘びてた知らせにもう既にぐるぐるとどツボにハマりそうな気配がある。それでも、行きたい、と思った気持ちも、当選の文字を噛み締めた気持ちも今は大事にしたい。行くか行かないか、行けるか行けないかは、その時が来た時にしかどうせ判断はできない。
ただ今は、あそこで、私の好きなLDHと一番近くいれる場所で、自分の一番好きな彼らに出会うことができることを心の底から願ってる。



ライブに行く資格がある好きかどうかなんて、行った後の私が決めたらいい。



頼むよ、ライブに行かせてくれ。