えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

やりたくてやる

なんの意味があるの?と言われたら意味なんてないよ、と答えると思う。

 

つくのラジオごっこの話である。
すっかりこのわがまま日記も26日目で、なんだかんだ終わりが見えてきた。文を書くことについてはおかげさまで苦がないのだなあとしみじみする。
そういうことを考えていると私がやっている行動の中で現状意味分からんのは「つくのラジオごっこ」だなあと思うのだ。

 


アーカイブが残せてるものについてはこちらにいくつかまとめている(し、たまに更新もしてる)

 

 

2021年の秋から始めたので次の秋がきたら3年である。マメさにかけているので、今何回目か分からないけど、でも、たぶん、結構な回数をやってきたのだと思う。し、これからも続けていくと思う。私はこの「ごっこ遊び」が好きなのだ。

 

 

 


初めてやった後にはしゃいでブログを書くくらい好き。この時の気持ちから大きくは変わってない。
変わってないけど、この時はまだずっとやる/やれると思ってなかっただろうな、と思うし、
今、なんだかんだきっと、形を変えても当分は続けるだろうな、と思うのだ。

 


というのも、先週の金曜日、ラジオごっこをソラちゃんとやった。

 

映画、カラオケ、行こ!の感想をああだこうだとソラちゃんと話し、いやこの映画のこと、めちゃくちゃ好きだな?!とニヤニヤ改めてしている。

その中で、今回、急な告知だったのもあり、また華金だったので、ほぼリスナーさん0(最後にお越しいただいたフォロワーさんありがとう!)の状態で走り切ったのだ。

 

 

たぶん、3年前だったら、正直死ぬほど怖かったと思う。やっぱり恥ずかしいことなんじゃないか、とか、巻き込んでごめんと一緒にやってるソラちゃんに思ったりもしたかもしれない。


もちろん、全くドキドキしなかったと言ったら嘘になるしフォロワーさんのアイコンがリスナーさんとして表示された時は安心した。したのだけど、きっと誰かが録音聴いてくれるだろうしなあと勝手なことを思いながら楽しく話していたのも事実なのだ。

 


なんだか私はそんなことが嬉しくて、ありがたいなあと1週間経ってもなお、噛み締めている。
それは、そんなふうに思えるまで一緒に話してくれたソラちゃんをはじめとする友だちや聴いてくれたり感想をハッシュタグを付けて呟いてくれた人たちのおかげだと思う。

 

 

そして何よりそうして何度も繰り返すうちに「私はこれを私が楽しいからやってるんだな」と確信を持って思えるようになったことが、とても大きいのだ。

 

 

何かをやりたいと思った時、最近は「誰かが望んでるわけじゃないよ」と問いかけるようにしている。

それでもやりたいか?と聞くと最近の私は「やりたい」と答えたくなる。誰も待ってなくても、だからなんだよ、やりたいんだよ、私が。

そう言い返すのを確認して「だよなあ」と頷く。うん、そう、やりたいんだよね。
それは、誰も見なくていい、読まなくていい、聴かなくていいということじゃない。
むしろ、3年前始めた時よりも「誰かが楽しんでほしい」という欲みたいなものは濃くなっている気がする。でもだからこそ、「誰かが望んでなくてもやりたいか?」と自分に問いかけることは必要だと思うのだ。
そして私は、やりたいと答えるようになった。前なら「ダメだよねえ」とヘラヘラ笑って諦めてたことを「やりたい」と返して、どうやったらできるか考える。やめろよって言われないための方法とか、そういうのを考えて考えて、思いついてもつかなくても、やりたいことをする。
それは、とんでもなく、嬉しくて幸せなことだと思う。

 


ラジオごっこって好きの発散なんだね、と以前友だちに言われた。
好きなものの話を聴いてほしい、誰かに自分の好きなものについて知って欲しいっていうより「これが!好き!」っていう熱を発散したい&して欲しいなんだね、と言われて、それかも、と思った。
そうだな、確かに私は私の好きなものに興味を持ってもらったり見てもらったりがしたい、というよりかは「これが好き!」とだけ言いたくて文もラジオもやっている。
さらに言えば、例えば家に来たときに好きなものをかけていたりとか、好きなものを一緒に観に行く機会を作りたいのも、なんというか「それに触れていたい」「好きになるべく浸かっていたい」からだと思う。

 


そういうとき、私は一番安心するし幸せだなあと思うのだ。
うん、本当に私は私のためにやってるな。
ついでにそれが、誰かもおもしろいな、と思ってくれたらきっとますます楽しくなると思うからそれはちょっとだけ、目指してみたいと思うのだ。

へんなの

面白いって変だ。
そんなことをずっと考えている。
面白いって、楽しいって、なんか変だ。

 

じゃあもう早く感想書けや、なんだけど一昨日ライブに行った時からふわふわと心の一部が帰ってきていない。でも、なんだかいつものような「ひたすら反芻する」ともまた少し違う。反芻してるといえばしてるんだけどライブ自体の光景が2割、そこからそれらに対してのろくろが2割、残りの6割がうまく言葉にできないけど「その時間を経たわたし」のようなものをずっと考えている。

 

 

そしてこの「面白いって変だ」はその6割の一部である。

 

 

ライブが、ともかく楽しかった。楽しくて心臓がバクバクして「これが気持ちいい」と心が躍った。躍ったのだけど、踊りながら、変なの、と思った。その変なの、は嫌な感じじゃない。むしろ、ニヤニヤとした感覚である。

 

でも、だって、変だ。
面白いという感覚、楽しいという感覚。
それってなにをもって、なにがあったら自分の中に湧いてくるんだろう。

 


嬉しいとも、美味しいとも違う、気持ちいい、にはちょっと近い気もする。だけど完全にイコールかと言われるとほんの少し迷う。

 

 

好きな音楽に手を挙げ、歓声をあげ、踊りながら不思議だなあと思っていた。
そういえば、好きな音楽に身体を揺らすのに慣れた気がする。客観視なんて出来てないから「変ですよ」と言われてしまう可能性もゼロではないが、昔ほどの「これでいいのか」の自意識もなく、楽しく気持ちよく、身体を揺らせる。踊ってる、とは言えないかもしれないけど、少なくとも音楽の波で波乗りしてる、くらいの揺ら揺らではあると思う。気持ちいい。
これも「面白い」だなあ、と思う。

 


たびたび私は自分の好きなエンタメというものがなんなんだろうな、と考えては「お腹を膨らませてくれるわけでも、寒さを和らげてくれるわけでもない」と口にしてきた。
それは、それでも「そういうもの」が必要なのだとは思う、し、わかってもいるつもりだ。
そういうお腹を膨らませたりだとか身体を温めたりするものだけで生活を満たせば、それはそれで、きっと苦しい。
のだけど、社会人駆け出しの頃、あるいは一人暮らしを始めたばかりの大学時代、お金がなくて何日ご飯を抜くことができるかとか、暖房をつけるお金がもったいないからと布団を重ねられるだけ重ねて潜ってただ日中じっとしていたからだろうか。
やっぱりそういう「お腹を膨らませるもの」「暖をとるもの」の特別感というか、絶対感を思ってしまうのだ。

 


そしてその上で、でもだからこそ、そんなことを飛び越えて「これが必要なんだ」と面白い、に思う瞬間が、好きだ。まるで身を切るような切実さとちぐはぐさで「これがいるんだ」と思うことがある。
本当に、面白いって変だ。

 


別に、この瞬間で終わる。それがあったからと言って「わたし」の価値が上がるわけでもない。
うん、でもやっぱり、あえていうなら「気持ちいい」が一番近いな。
わけわかんなくなる感覚。
なんだか分からないけど癖になって「もう一回」と中毒性があったりその一回が特別過ぎて、逆にもう2度と同じものは味わいたくないし味わえないなんて思うこと。そういうさまざまな面白いを私は愛している。

おともだち

友だちとたくさん遊んだ。
この1週間、なんだか、友だちとたくさん遊んだ。そのことをしみじみと噛み締めている。
誕生日の前後だったこともあり、またちょうど「友だちと観たい」がたくさんあって、それで、友だちとたくさん遊んだ。楽しいこと、面白いことと美味しいものを摂取しまくって「あー幸せだなあ」と夜中、布団に寝っ転がっていた。

 


たびたびラジオの話をして恐縮だけど、少し前、オールナイトニッポンJAMを聴いて「分かる〜〜〜」と叫びながら蹲りたくなったことがある。

 

 

誰かと一緒に過ごすよりもYouTubeで昔のCMを見てる方が楽しい。
それを聴いて、あ、分かる、と思ってしまった。思って、あ、そうなのか、私、と思った。ちょうどその前後、無理して誰かと過ごす必要もないし無理して楽しませようとしなくて良いんだよ、と言われたこともあり、全部が合わせて「分かる〜〜〜」と思った。
そうだわ、私は結構、ひとりが好きだ。というか、誰かといると疲れてしまうことが多い。
だから「辛い時に誰か支えてくれるひとがいる?」と言われていつも不思議な気持ちになる。

 

 

前提、いろんなひとに支えられているし苦しいと思う時、なんでだろうと思う時に話を聴いてもらって、あるいは聴かずに過ごしてもらえて、助かったことはたくさんある。
正直、かなり人に恵まれている方だと思う。その私が「一人の方が好きだ」ということはなんというか、傲慢だなあとも思う。
それでも、一人が好きだし、辛い時に誰かに支えてもらうよりも、自分が楽しい時に誰かと一緒にいたいと思う。
寂しいと思うことがあるとすれば、辛い時に誰かが隣にいないことじゃなく、美味しいものや楽しいことを「これ、すげー良くない?」と言えないことだと思う。もちろん、それだって共感して欲しい、シェアしたい、だけでもないわけだけど。

 

 


一人が好きなんじゃなくて、誰かと過ごすのが下手くそなのかもしれない。

 

 

 

ところでそれはそれとして友だちとこの1週間たくさん遊んだ。たくさんたくさん遊んで、遊んだ帰り、ぼんやりと反芻して、それは1日のこともだし数日のこと、数年のことを考えながら「あ、もしかしたら私は誰かと遊ぶとき、一緒にいる時、申し訳ない、と思ってるのかも」と気付いた。
申し訳ない、楽しいかな、やじゃないかな疲れてないかな、みたいなことをずっと考えて、申し訳ないから楽しいと思って欲しいとぐるぐるしてしまい、結果、疲れるなあとなるのだ。
例えば、解散時間が分かってない約束が苦手だ。不意打ちでの延長にもわりと心臓がドキドキする。それもこれも、そういう「申し訳ない」への下準備が出来ないからかもしれない。
それで楽しませられているかどうかは別として、たぶん、そんな自意識のせいで、私は誰かとうまく過ごすことが下手くそなのだ。

 

 

 

ただなんだか昨日、そうか、そんなこともないのか、と思い立った。相手は楽しいと思ってくれているかもしれない。また遊びたいな、と思ってくれているかもしれない。
そんなことが私の頭からはすっぽりと抜けていた。どうにも、楽しいが下手くそすぎるな、と自分でも驚く。
以前もそういえば「みんなはそんなこと気にせず遊びに来て欲しいと思ってると思うけどね」と言われたことがある。有難いし嬉しかったけど「みんな」かは分からないな、と思った。し、今でも正直思ってる。集団遊びが下手くそなわけである。
その「他人」を気にせず、楽しく過ごせるひとこそ、きっと、「一緒にいて楽しいひと」なのだろうなあと文を書いていて反省もしてきた。
なのだけど、やっぱり明日からも変わらず「みんな」そう思ってるよ、は信じられる自信はないけど、少なくとも大切な誰かと遊ぶことにはもう少し自信を持ちたい。

 

 

 

昨日、ライブを観た。それを通して思ったことはもう少しじっくりと自分の中で反芻して言葉にしたい。
ただ一つだけ。楽しくて嬉しくて、それを友だちと「楽しいね」「最高だね」と言い合って大事なものを大事にしたいなあと思っている、そのことはここでちゃんと残しておきたい。
大事なものを大事にした方がいいな。ステージ上の輝きと好きなひとたちの笑顔とか、そういうものを見ながらずっと思っている。大事なものを大事にしたい。
そう思うと申し訳ない、なんて思ってる暇は、ないと思うのだ。

日々を重ねる

誕生日である。
時々1日に2本あげるなんて言う裏技をしていたけども、ともあれ、23本目の3月のわがまま日記である。
今回分かったのは、酒飲みに「毎日何かやる」というのは結構ハードルが高いことである。その前提で予定を組み込めば良いんだけど、これくらいのまだ習慣の赤ちゃんみたいな状態だと平気で酒に負ける。まあ、というか、そもそも予定が狂うほど、日付を越えてまで飲まなきゃいいというのは、もっともなんだけど。

 

 


23日毎日1000字以上の文を書いて分かったことがある。
私、たぶん、文を書くのがめちゃくちゃに好きだ。日本語を正しく使えているか、と言われると途端に自信を無くしてしまうけど、それも含めても、文を書くのが好きだ。

 

 

 

そして何より、毎日あーでもないこーでもないと考えるのが好きだ。別段なにもないことを私は毎日考えていてそれは悩みと紙一重なんだけどこうして考えているからこそ、毎日楽しいんだろうな、というのが分かった。

 

いつぞや、若林さんがひとりで平気なのはひとりでずっと自分と喋っているからだ、と言っていた。分かる気がする。私の頭の中も常にうるさく、それはなんというか「一人で喋ってる」のだ。
見たこと聞いたこと、過去のこと、やりたいこと、そういうことについて絶え間なく自分とひたすら喋ってる。

 

 


「え、なんでこんなことすんの」
「あああれ、嬉しかったよな、すごいよな、でも多分、本人、忘れちゃうんだろうなあこんなずっと覚えてたら気持ち悪いかな、でも、嬉しかったんだよなあ」
「アレってもしかしたらこういうことの可能性ない?え、それすげえ面白いな、じゃあもしかしたらさ…」

 

 


記憶の一つ、街中で聞こえてくる音、見えるもので頭がぐるぐる動いてお喋りが始まる。
それを1日1000字近く文を書く、という習慣があると自然と逃がす先があって楽しい。ネガティヴな人間だと自分を思ってるし、実際書いた文にはメソメソとしたものも多いけど、でもそれ以上になんかこいつ、毎日楽しそうだなと思った。

 

 

 

落ち込んで文を書いてても落ち込んで、何かを嫌って、怒って終わりたくないらしい、ということに気付いた。それは楽観的というよりかはしがみつくような必死さがあるけど、いつだか、いろんなことを諦めたりバカにして、スカしていた自分よりも幾分、良いなあと思う。
そしてそれはきっと、日々、食べるみたいに取り入れてる、面白いこと、楽しいことから知った真っ当なんだと思うのだ。

 


まあまだ、怒ることも多いし振り返ってやなやつだったなあと自己嫌悪で頭を抱えることも多い。それもこれも、ちょっとずつだ。
何より、やりたいことがたくさんあって、きっとまだ見ていない面白いも山ほどあって、そう思うととんでもなく嬉しくなる。
わがまま日記も残りあと1週間と少し。とはいえ、その後もブログは書き続けるし文フリもある。ラジオごっこもやるだろう。
良ければ、気が向いた時にお付き合いいただけたらとてもとても嬉しい。

ただ空高く舞え

自分の仕事がどこに繋がるのか、考えていた。

1ルピーで人々を空が飛べるように。飛行機は富裕層のためだけのものではなく、庶民にだって与えられるべきだ。そんな思いを持った主人公ネドゥーマーラン。
そんな彼の過ごし方、熱意や言葉、そこから動かされていくものを見ながら、ずっと、考えていた。

 

 

ただ空高く舞えは去年末に観たTheriの予告で見た時から気になっていた。絶対好きな映画だ、と思ったし、案の定、観るととても好きで、観てからずっとあの熱量を思い出してなんで好きだったかを考えている。

 

 

 

インドで貧富の差やカーストで差別されることなく、どんな人も空を飛べるように。それは、広いインドでは街の発展を意味する。
そしてそれを願い、夢見る彼自身が過去、家族の別れにお金を理由に飛行機に乗れず、立ち会えなかった後悔があるからこそ、そこにはただ理想論ではなく、血の滲むような思いがあった。

 

 

 

この映画の好きなところはもちろん、メインの「飛行機の夢」に向けたマーランの熱量である。
だけど、その核に触れる前、冒頭のボンミとマーランの出会いのシーンから私は「ああこの映画が好きだ」と思った。
ふたりはそれぞれに夢があり、その夢を叶えるため、が第一である。世間だとか「普通」だとかに合わせるつもりもなく、彼らにあるのは「彼らの真っ当」だ。
そして互いのそんなところに一目見て気付き、互いに互いが惹かれる。
ただ、ボンミは簡単に「はい結婚しましょう」とはならない。まず第一に、各々の夢の階段を登ること。それが出来ない相手に用はない、くらいのあっさりさで彼女は彼のもとから去っていく。

 

 

そう、この映画で好きなのは「自分への誇り」があることなんだ。
性別やカースト、経済力ではなく、それぞれがそれぞれに自分の信じるもの、叶えたいもの、大切にしたいものを尊んでいる。もちろん、それを踏み躙るひとも出てくるが、それを尊ぶ関係も随所にあって、私はそれが好きだ。

 

 


彼の後悔、それから描かれてはなくても彼女が乗り越えてきたもの。そしてだからこそ、それぞれ惹かれもするけどただそれだけで結婚ハッピーエンド、とはならない。そんな二人の関係性も好きだ。愛しているからこそ、相手にも求める。対等であろうとする、大切にする。そんな関係の描き方に、冒頭からグッときた。

 


暴力ではなく、訴えるということ。
何かを知るということ。

 

 


印象的だったのは、マーランの賢さである。
経済や飛行学、マーケティングなど、色んな分野に彼は詳しかったように思う。自分の夢を叶えるために必要なことは一見関係なくても吸収し、考え、行動する。
ボンミの店の立地についても彼のアドバイスが効くシーンがある。
なんというか、私はそれにかなり感動していた。そうだよな、と思う。強い意志や行動力。もちろん、夢を叶えるために必要なことだ。
だけど、色んなことを「知る」ということは中でもかなり大切ではないか。
それはある意味では「教師の息子」である彼の生い立ちを想像するし、また、そうしながら、つい、自分を顧みてしまった。
私は、何かを知ろうとし続けられるだろうか。何か伝えるために語りかけ、そのための知識や対話を大切にできるだろうか。

 

 

私は、この映画に出る主人公たちが好きだった。自分の人生や生活を賭け叶えたい夢があること、またそれを仕事にする彼らが、大好きだった。

 

 

仕事が好きだ。
好きだし、誇りもある。だけど、叶えられない色んなこと、叶えたいけどそれが理想論でしかないのだということに打ちのめされることもある。
だからか、尚更思う。諦めた方が簡単なのだ。
儲ける、ということ、いやそれ以前、お金を稼ぐということの前に「理想」が邪魔をすることは往々にしてある。
理想は叶わないから理想なのだとどこかの悪役のようなことを口にしそうになる。その方が楽だし、傷付かない。利益だって、あるような気がする。
だけど、そんなことを思うたびに重なった違和感がスクリーン向こう、マーランが足掻き続ける姿と共鳴して聞いてくる。「それでいいのか?」「お前は、そんなことがしたくて生きているのか?」

 


彼の夢が叶うように願った。彼の理想が届きますようにと祈った。
それは、誰かのため、彼のためじゃなくて、私のためだった。それが叶うなら、私はまだ、諦めずに進める。そんな道があるような気がして、ひたすら、映画を見ている間に体に力がこもっていた。

 


この映画を、私はこれからも毎日の中で思い出すだろう。仕事をしている時、マーランなら、ボンミならどうしてた?と問いかけることもあると思う。
そうできることが、私は嬉しい。本当に。とてもとても、嬉しい。

好きとか〜嫌いとか〜

春だからか、最近恋バナを振られることが多い。とはいえ、私には本当に恋バナの引き出しがなく、盛り上げられる気もしないし価値観が合わずで終わる可能性が高すぎてやんわり「あんまり相手に適してないですよ」とお伝えするようにしている。


が、まあ、分かりやすい共通項、盛り上がれる一番ナイスな話題と捉えられがちなのでまあしゃあなし、恋バナなんぞに興じる。そして高確率で「え…」みたいな顔をされるのだ。
だから言ったろうが、と悪態を吐きたくなりながら、そこから延々と考え続けてしまうことを覚悟してあーあ、と頭の中で大きくため息を吐く。だから言ったのに。

 

 


好きだという感情、あるいは恋愛感情に基づく関係が第一に優先される、とされることに「なんで?」とずっと言い続けていて、それが変わらずそこそこのいい歳になった今に至るまで続いているのはなんなんだろうな、と我ながら思う。

 

 


ただ最近「好き」とは恋愛の話である、としているのもまた、違うんだろうな、と思う。
ついこの間、星野源のプレイリストをぼんやりと見ている時にAppleが作った星野源のプレイリストのなか「ラブソング」というのを見つけた。
ふーん、と思いながら開きラインナップや説明を見ると、恋だけではなく、様々な愛についての曲を集めたのだということが分かって思わず、「ああ」と呟いてしまった。そうか、そうかあ。
そうだ、私は星野源の「恋愛」や異性間、人間同士だけに限っての「好き」や「ラブ」の描き方じゃないことにずっと惹かれているんだ。だから、こうして誰か分からない方の作ったプレイリストだけど、「ラブソング」をそうした定義で集め、並べたことに嬉しくなる。そうだよ、そうだよな、と思う。

 

 

学生時代に書いた恋愛がテーマの物語の中で、もうあなたと次の季節、季節を過ごすことを想像できない、想像させてあげられないから別れたいと言う男を出した。今思えば、当時の自分の拗らせた自我なんかを思い出して悶絶してしまう。
ただ実際、あれから数年、年を重ねて周囲含めて色んな「恋愛」を観ていると、事実もう一緒に季節を過ごすことがないことがかなしい、と言ったひとがいた。花を見ることも、季節のイベントを過ごすことも、旬の食べ物を食べることも。真っ先に浮かぶその人と一緒にいないことは、なるほど、確かに、寂しい。
「次のあの季節をもう一緒に過ごせないのだ」と悲しむひとがいるのだ、ということに感動した。感動しながら、あの頃の私はきっとそれを悲しんでいたんだろうな、と思う。

 

 

去年の秋、どうしても許せないけど好きなのだ、と思い日々ぐるぐると悩んでいたことがあった。許せないと許す理屈をそれぞれにこねにこね、にっちもさっちもいかなくなった私は事情をいくらか知る友だちに「どうしたら良いか分からない」と話したりもした。友だちはあっさり言った。「好きだから善悪の理屈を超えちゃっても仕方ないよ」


衝撃だった。


そうか、そういうものか。
と思うし、同時に、私はあの人のことが好きなのか…とびっくりした。そうか、好きなのか、だとしたら確かに、なんか、仕方ないような気がする。

 

 

 

例えばどの関係であれば、どういう人であれば「好き」なのか、とはたぶん、永遠のテーマだ。
色んな言葉、表現、シチュエーションを尽くして、ひとは「好き」を表すことを探す。好きの正体が知りたくて、ずっと考えている。
そうして同時に人は、自分の求める「好き」の方法で好かれていたい愛されていたい、と願うんだろうなあと思う。好きなのにと言いながら酷いことをしてしまったという話を聞いて、思う。自分の好きが価値のないものに成り下がったのだと悲しくなりながら思う。

 

 

ひとって、自分のされたい優しさじゃないと気付けないんだよな。
「あるよ」って言われても違うんだよ、ってなっちゃうんだよなあ。
そう思うと好きだと思って、それが相手にも正しく「好き」として伝わるのって、奇跡的確率の上じゃないと成立しないんじゃないか。
なんだよそれ、大変過ぎるだろと悪態をつきたくもなるけど、それくらい大変じゃないと考え続ける甲斐もないから、仕方ないか。

塚口サンサン劇場のはなし

「ああ、つくさんが好きな映画館ね」
最近そう言われることが増えてびっくりする。よくよく考えれば、あれだけ定期的に呟いているので、フォロワーさんの印象に残るのもそりゃそう、かもしれない。元々取り組みが面白く、またそのアカウントの使い方なども個性的で、それで、知名度が高いというのもあるだろう。


塚口サンサン劇場さんが好きだ。
通い出したのは、HiGH&LOWにハマってから。HiGH&LOW THE MOVIE2から好きになり、しかも上映も終わりがけにみたせいで「もう観れない…」としおしおしていた中、やってるよ!と教えてもらって向かったその映画館。


場末の、なんて自称するけど、綺麗なその映画館は70年以上続く老舗の映画館だ。長く尼崎に住む先輩から「懐かしい、小さい頃行ったよ」と言われるとびっくりする。
そうか、この映画館は街の人の昔の思い出の中にもずっとあるんだなあ、と、そういうエピソードを聞くたび、嬉しくなる。

 

大きなシネコンでは観れない映画や、特別音響の映画、また、関連作品をハシゴ鑑賞できるように組まれたリストにと行けない週の上映リストも見ていて楽しい。うっとりする。
アニメもあれば、邦画、洋画、アイドル作品に、過去の懐かしの名作。
ジャンルが幅広く、またそれらを全て1人の館長が楽しそうにTwitterのスペースやYouTubeで紹介する。その様子にああだから、私はここが好きなんだなあと思う。
誰かが熱烈に何かを好きでいる場所。それが集まる場所が塚口サンサン劇場なのだ。

 

また、マサラ上映や応援上映、スタンディング上映など、様々な方法で上映がされるからか、色んなジャンルのオタクたちが映画館には集まる。それもまた、見ていて楽しそうだなあとニコニコしてしまう。私自身は通常上映が一番肌に合うので、他のスタイルを楽しんだことはないけど、でもその「それぞれ」が成立することも嬉しい。


音響がダイレクトに響くシアター4はもちろん、落ち着く空間のシアター1-3も大好きだ。
大きな映画館ではかからない映画をひっそりとそこで楽しむ贅沢は、言葉にし尽くせないくらいだ。

 

私はそこにカップのコーヒーを買って、そっと端の席で映画を楽しむ。そうしていると、大きく息を吸えるような、そんな気がする。


また、映画終わり、時折起こる拍手も好きだ。この映画が面白かった、楽しかったと気持ちが滲む拍手が通常上映でも起きることがあって、私はそれも好きだ。うんうん、と頷きながら一緒に拍手をする。何より、友だちを連れて行った時「拍手が起こるんだ…!」と嬉しそうに目を丸くするのを見るのも好きだ。そうなんですそうなんです、素敵でしょう。

 

あの映画館で映画を観るたびに映画が好きで良かった、映画があって良かったと噛み締めながら、帰る。
映画ファンから作品のファン、役者のファンやご近所さんまで、誰もがフラットにそこにいて、映画を楽しむ。
ああ映画があって本当に良かった。