えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

入村許可は一生出ない

人と話をして誰より私が「大丈夫」って言って欲しかったんだなあと反省することがある。
でも、そう思った後に「別にそれでもいいじゃんね」と思った。無自覚にはやってしまいたくないけど、自分に言いたい、あるいは言われたかった「大丈夫」を口にして、世の中の大丈夫の総数を増やしていきたい。そんな気がしている。

 

ここ最近、うまく喋れないと思うことが増えていた。ちょうど好きなラッパーの曲を聴きながら「コミュニケーションはうざ絡み」に覚えがあり過ぎて帰り道凹むこともしばしば。
話がしたい、だけど話し出すと人の目が気になって言葉が引っ込んでいく。聴いて欲しいと思うのと同じくらい「聞かれてしまう」のが怖い。
そうなると文を書くのもうまくテンポが掴めずに気がついたらお酒を飲み過ぎ、そして喋り過ぎての自己嫌悪に丸1日、不調のまま布団に沈んでいた。正直、別にお酒に弱いわけじゃないのに珍しいくらいの完膚なきまでのノックアウトだった。入ってくる連絡も返事をするのもやっとというか、なんなら返事ができずに数時間寝かせたものもある(ごめんなさい)
伝わると思っていた、と言ったらずるいだろうか。だって、でも、伝わると思っていた。その君に伝わらなくて、言葉がうわ滑ったことだけ理解できてそれが、二日酔いよりも何よりも苦しい。

 

その間、ひたすらに寝て、寝ながら、大好きなラジオを聴いていた。ほぼ朦朧としていたけど目が覚めるたびに好きなラジオが流れていて、馬鹿馬鹿しい話をゲラゲラ笑いながらしていることに心底安心してまた眠った。時々、すごく真剣な話をしていて、それにたまたまタイミング良く起きて聞けたことが嬉しくて、起きてからもこれを覚えてられたらいいなあと思いながらまた眠る。
ここでなら、なんて思ってそんな自分が許せずに唸る。でもさ、それくらいさ、許してくれよ、と思う。

 


自分の毎日、思考、思想の中で、好きなものから得る影響が大きい。
だから私は仕事や生活で調子を落とすとなるべく好きなお芝居、ドラマ、映画、ライブを観ようとするし、定期的に新しく好きなものを増やしていかないと真っ直ぐ過ごせない。
私にとって真っ当に過ごすためにはエンタメが必要で、確実に背骨を支えられている。これがなければ、もう少し最低な人間になっただろうな、といつも思う。

 

 

ちょうど子どもの頃散々、何か大きな犯罪を犯したひとが好きなものを報じられ、「○○を好きなやつは犯罪者予備軍だ」と言われるのを観てきたからかもしれない。好きなものの顔に泥を塗るわけにはいかない、というのはごくごく自然に自分の中に染み付いていた。

 

 

「人間としてダメだからダメなんすよ」と半分、ちゃんと冗談に聞こえるように笑ってもらえるように十分注意しながら、だけど切実に口にした。だけど、相手は「いやいや〜」と笑いながら返される。まあそうだよな、そうなんだよな。それすら受け取ってもらえず、でもいつか、きっとどっかでガッカリされたり「え?」って言われるのだ。「え?」なら良い方で「は?」なんてカマしてくるんだろう。言っただろうがよ、と私は悪態を吐きながら、その時諦めるんだ、きっと。

 

 

分かってるんだけど、でも全然、絶対、ダメなんだよな、人として。

 

 

人の言葉を聴くのがしんどい。もっと言うと自分の話をするのもきつい。なのに喋りたいから困る。
バラエティを観ることに体力を使い過ぎるから基本的に見れない。
会話のテンポを合わせるのに苦慮する。

 


タイミングによっては道を歩いてるだけで視界に入る色んなものに凹み、落ち込んでしまう。
伝わると思って重ねた言葉が、バラバラになって崩れていくさまをみて、途方に暮れる。暮れて、そのままじっと体育座りしてしまう。

 

 

言われるまでもなく、生きづらさがすごい。
こだわりが強く、「ちょうどいい」を見つけられない0-100思考で、倒れる前に止める、というのがいつまで経ってもうまくならない。

 

 

そんな話を記録がてらツイートしたり面白おかしく(なればいいと祈りながら)話すものだから、少なくない回数、治療や診断を勧められてきた。
確かに時期によっては、不眠になったりするしお世辞にも健康的な人間だとは言えない自覚は十二分にある。
そういう診断や治療の経験がある人ほど、きっと良かれと思って病院に行くことを勧めてくれるのである。

 

 

実際、普段生活していても驚くほど多くのひとが、そんな話をする。芸能人の不調などについて、折に触れ、休むことや治療を受けることを勧める言葉をたくさん見てきた。もちろん、そのほとんどが、良かれと思ってだということは分かっているし、私も、過剰な活動は(自戒も込めて)心身に障るので、気を付けて、自分を一番に休んでほしいなあ、とはよく思う。
ただ、たださあ。ただ、もし、それをしてもなお、休めなかったら、休む必要なんて、ないですよって言われたらどうしたら良いんだろう。
その突き放されたような絶望を誰か想像したのかよ。

 


よく、思うんだけど。

 


心の苦しさがずっとある。この間それを冗談めかして言ったらその苦しいをデフォルトにしないで、と真剣に忠告された。
不眠のたびに明け方の街をうろうろと歩き回り、夜が白んでいくことにがっかりするようなほっとするような感覚になること。


そういうこと全部、これ一生続くのか、と思う。

 

息苦しさをつくさんのところでなら吐き出せると言っていたあの人から幸せの知らせがあったりする。ああよかった、とまたひとりになったなあが同居して、私はこの息苦しさを相棒に過ごせば良いんだなんて痩せ我慢したりする。
いつだか、そう語っていたその人は「もうあなたとは話せません」なんて、言ったりする。いいよいいよ、なら、良かったよ。

 


でも、私は生きづらい村には入れない。
不調が報じられた芸能人と同じようになんて言うと失礼だけど、
治療を勧められて病院に行けば「何をしにきたんですか?」と真っ直ぐな目で問われる人生なのだ、ということを数年かけて理解した。最初の何年かこそ、心配に申し訳なく思い、「治療」を求めていろんな医療機関、診査、検査を行ってみた。だけどどこも、治療が必要という結論も出さず、ただただ、異常なしのステッカーを、渡してくるだけだった。

 

 


治療や診療を勧めるいろんな人たちに言いたい。
そうしたところで、救われるかは人それぞれだ。運や相性にもよるし、場合によっては自助努力でがんばるしかなくなる。だとしたら、結構、そこには絶望があったのだ。
異常なしなのに、普通に人生や生活を送れない。いや送れてる人なんて本当はいなくて、みんながどうにかこうにか見ないふりしたり工夫してやっていってるんだ。でも、その工夫すらできない。できない理由が病気じゃないなら、一体、どうやって治したら良いんだろう。
このしんどいのは、一生このままなのか。

 

 

それは、病気と闘うことよりも、マシな苦しみだと人によっては思うのかもしれないけど、私は、結構きつかった。
病院に行くたびに次こそ、どうしたら良いかの解決策が見つかるかもしれないと期待するのに少しも見つからないことに心底がっかりして家に帰る。
薬を飲むほどではない不眠に夜じっと天井を眺めたり、ラジオを再生したりする。
そうして、そこでだけなら「おかしい」とも「異常なし」も言われずにただただ笑って時間が過ぎるから大丈夫だよ、と思う。思って、やっと眠ったりする。

 

 

そういうことを繰り返していたら、なんだか最近ちょっとマシになってきた。
治療できなくても、なのに普通ができなくても、どっちだっていい。今日も私は生きてて生活をしている。
そもそも、私の人生は私にしか送れないものなんだ。だったらどこかの規格に入る必要なんて、一つもないんだ。
そう、言い聞かせてる。
入村許可は、どの村であっても一生でない。おんなじなんてない。いやそもそも、この世界は全部ばらばらだと言い聞かせる。他の人はみんなそれぞれ、帰る村があるじゃないかと騒ぐ子に「まあ、外からは事情はわからんからね」と返しながら、ぼんやり、歩く。
別段それを、不幸というつもりはない。存外、この村の外の生活も気に入ってるのだ。ただ時々、無性に寂しくはなるから、なにか、面白い話が聞きたいなあと思う、そのことだけを確認しながら、歩いて行こうと思う。

ペルソナを剥がせ

うっわ、と思った。それは唐突に、パズルのピースがハマるみたいに気付きで、危うくそのまま座り込むところだった。


むしゃくしゃしていた。かの邪智暴虐な、とあの文学作品でしか耳にしたことのない言葉を頭の中で唱える。なんならそこから厚顔無恥な、とかそれっぽい言葉を唱え続けてもいい。
むしゃくしゃする。街中を歩いてる時、仕事をしてる時、何か楽しいことをしてる時もSNSを見てる時も「なんなんだよ」が溜まっていく。

 

あと小さじひと匙分くらい、誰かを気遣えないもんかね、と思う。
それを言われてどう思うか、とか。
なんでそう言ったのか、とか。
あなたが周りからどう見えてるか、とか。

 

「普通」や「当たり前」にうんざりしているくせにその定規を振り回したくなる自分を一旦高く高く棚上げして、私はむしゃくしゃしていたのだ。いや、なんならそれを棚卸して測りに乗せて、「いやでもこれはひどすぎる!」なんて乱暴なジャッジすら、していたかもしれない。


そこから「なんでそんなことをするんだ」とぷんぷんと原因究明に向かって、私は、小賢しげに思った。そういう風に生きてこれたのだ、良いなあ!良いなあ!楽で良いよなあ!
そうしてぷんぷんと嫉みと怒りでもりもりと歩きながら、ふと気付いた。

 

そんなわけ、ないのである。

 


いや、実際「そういう風に生きてこれた」人もいるのだと思う。人の顔色を見なくても空気を読まなくても。次の相手の言動を想像して、傷つけないように傷つかないように何パターンもイメトレしてまたその返しになんて言えばいいかを想像して、とんでもなく遠くに脳みそがふよふよ漂いながら喋らずともなんとなくで生きてこれた人たち。
昔、私に仕事を教えてくれた人が言っていた。この仕事は他人の顔色をずっと窺って今に見てろって思ってた人間が勝つ。私はその言葉をまっすぐに信じて、逆にそうでない人、に「恵まれてたひと」のラベリングを貼った。

 

でも、だけど、当たり前だけどそうではないのだ。
ふと頭の中にひたすら空気は読めないけど、大好きな人のことが浮かんだ。空気は読めない、他人の顔色も窺わないだろう。
それは「そうしない」と決めたのかもしれないし、ずっと試行錯誤したのち、「向いてないから」と諦めた結果なのかもしれない。
そうか、そうだよな。

 

私は私の思う通りにいかず、腹を立てていた違いない。それは、全くの無意味なのに。
そうして自分を慰めるためだけに相手の方が恵まれてると決めつけて、こちらに大義名分があるのだと大声を出す。

それは、なんというか、ずいぶんみっともなく、情けなかった。そんなことが、したいわけじゃなかったろう、と思う。

 

そうでいてくれないと困ったから、貼り付けたのだ。
自分はやってる気遣いを配慮をやらずにいる誰かを強く強く非難すれば、自分がその分上がれるとでも思ったのか。全く、これっぽっちも、そんなことはないのだ。

 


一旦それらはぜんぶ、思い切ってどっかにやってしまいたい。
なんとかその直前、今はギリギリ、踏みとどまれていると思うから。次、と思う。思えることに感謝する。何かをコテンパンに叩き潰すよりも難しくて、ワクワクする方へ。

フワギャルのひとりごと

フワちゃんが好きだ。テレビをほぼ見ない人間なので「テレビのフワちゃん」は詳しくない。だけど、フワちゃんが好きだ。映像を見るのが下手くそでYouTubeだって使いこなせていない。それでも、フワちゃんが好きだ。


度々、私はこれまでもフワちゃんのことをブログに書いてきた。そのどれも、ラジオがきっかけだった。
私は、ラジオを通して知るフワちゃんのことが、とてもとても、好きだ。

 


そもそもなんで、こんなに好きになったのだろう。私は定期的に考える。
今週の放送、お風呂に入りつつ聴いてコメントひとつにニヤつきフリートークに笑いを堪えて、なんだか最後は「これなんだよなあ」とドヤ顔をしてしまった。我ながらお前誰だよが過ぎる。

 


そして今日、これから海外に移住して、好きなことをたくさんやるという発表をしたフワちゃんに最高だぜ!の気持ちと、ほんの少しの寂しさを覚えて、あれ、もしかして私は結構フワちゃんが好きなんだろうか?と思ったりした。

 

好きになったのは2022年のラジオ以降。
無茶苦茶だな、このラジオ、と思いながらも後追いして過去の放送を聴いてそれでもかなりマシになったのだ、と知った。
自由で、と言えば聞こえはいいが、わがままで無茶苦茶で周りを振り回す。そんな姿勢に批判がくるのもまあ、分からなくもない。
危うさを笑っているつもりはないが、心配で聞いてられないという気持ちもものすごくわかる。

 

だけど私はそんな「無茶苦茶」な放送……たとえば、いわゆる「発作パーカー」が生まれるきっかけになった回も聞いて、なんだかそれを含めて、たまらなく好きになってしまったのだ。ぶっちゃけ無茶苦茶である。これが、ラジオとして流れていたと思うとすげーとこえーが同時に来る。
のだけど、そこから数週、「どうしたらいいか」の対策をニッポン放送の偉い人こと冨山雄一さんを呼んでこのラジオを社長が聞いてるかとか今後発作が放送中でたらどうしたらいいかを相談したりする姿になんだか私は感動すら覚えたのだ。
そんなことをしても意味がないとか恥ずかしい、とかそんな定規は彼女の中に存在しないのだ。ご飯の前にお菓子を食べたらご飯が入らなくなる、という定規が通用しないのと同じように、辞めたくないならやめなくて済む方法を思いつく限り試すのだ。そんなフワちゃんが、私は好きだ。

 


なんかそれは「出来ない」ことを笑うとか、健気さに感動するとか、そういうことではなく、ここで素直にそういう動きや感じ方をできることをひたすらにすげえな、と、尊敬してしまったのである。

 

そして「ラジオが終わるかもしれない」となった時に真剣に(と同時にやっぱりそこでも周りの大人たちに迷惑をかけはしたけど)「やだ、終わりたくない」と盛大に駄々をこね、あがいた彼女のことを好きだなーと思うのだ。すごいなー無茶苦茶だなーと、好きだなーが合わさって、出来るだけ長くこのラジオを聞きたいなーと思う。

 


ラジオが素だとは思ってもない。思ってもないけど、それでも混じり気の少ない嫌だや楽しいや笑い声が聴けるあの時間が私は好きで、そうこうしてるうちに気が付けば、彼女のことを好きになっていたのだ。

 


良い人でも悪い人でもない。
最低なところはたくさんある。炎上のたびに擁護するつもりもないし「そらフワちゃんが悪いわなあ」とは思う。だけど、実害を受けたわけでもないなかで誰かをボコボコにできる正しさとただただクソな彼女のどちらが好ましいんだろうな、と思ったりもする。

 

 

 


どこが好きなのか、書けば書くほど、多分伝わらないし私も分かってない。
まあでも、それでもいいじゃないか。というか、理屈が通らないあの感覚が好きなんだから、理屈で説明しようとするのも、土台無理なのだ。
ただただ、今は海外でもたくさんふわちゃんはキレたり楽しんだりするんだろうなあと思ってる。そして今はその中でもラジオを続けてくれることが嬉しくてこれからの放送がひたすら楽しみなだけである。なるべく長く、続いてくれますように。

「分かる」

お前に俺の何がわかるんだよ、と思う夜もあるし「簡単にわかる、なんて言っちゃダメなんだけど」と前置きすることもある。

 

あるのだけど、時々、なんてことを考えながら「安易な同意こそひとを傷付ける」なんて思い付きもせず無邪気に純粋に「わかるよ」と心を寄せていた頃を思い出して無性に羨ましくなることがある。

 


わかるよ、と言ってくれたことが嬉しかった、と言われた。その瞬間のことを私も良く覚えていた。だって、私も嬉しかったのだ。「あーこうだな」と思っていたその言葉がまさしく、自分の口から自分の声ではなくて、目の前の友だちから出てきたこと。それに驚いてそうなんだよ、と思って「分かる」と口にしていた。
分かると言うこと、言われることの断絶を想像する暇もなく、「分かる」と口にした、あの時のことを、「うれしい」と思ってたのは私だけじゃないんだなあ、と噛み締めた。そのことをぼんやりと覚えている。

 

最近、話をしていると「分かります」と言われ、聞くと真逆の解釈をされていることがある。逆も然りで「こういう話か」と思いながら頷いて、蓋を開けてみると全然違うことを言っていたりもする。
そういう時、私は途方に暮れる。なんならそれが積み重なり続け、恐怖心すら湧いていた。
いつのまにか、うっかり並行世界に来ていて、それでこんなに言葉が通じなくなってしまったんじゃないか。
ちゃんと喋れている、言葉を使えていると思っていたのは私だけでもしかしたら、みんな「何言ってるんだこいつ」と思いながら私を観ているのではと疑心暗鬼になり、数日、生活をするのがしんどいなあと思っていた。


だからだろうか。
分かると言われるのも言うのも怖いけれど、往々にして、それが信頼関係を徹底的に壊すこともあるのだけど、それでも思うし願う。
「わかるよ」と言ってほしいし、言われたいし、言いたい。そしてそれが本当に「わかる」であってもなくても、その「本当」には気付かずに「わかった!」と思いたい。
そんな無邪気さが、それを信じられるような安心が欲しいと心底思う。
もうそれは、動物の言葉がわかるファンタジーの世界みたいだ。

 


同じものを観てるのに感じ方は違うしそれどころか、何を見てきたか全く異なる答えが返ってくることだってある。何に注目して見るか、そもそも「見慣れて」いるか、なんで見たかで全部変わったりする。
何かに猛烈に怒ってる人は、時に「怒るため」にみるから、見落としたり事実が歪むことがある。

 

それが、悲しいし苦しいしどうしようもないな、とも思う。ただ同時にかと言って「分かる」だけが喜びだとも思いたくないのだ。
だってそれは、いつか「分からない」を許せなくなる。

 


友だちと映画を観た。好きだと思ったところ、シーンで受けた印象、登場人物の誰の何に心を動かしたのか。そういうものを一つずつ挙げながら、気が付いたら話題は毎日の中で積もり積もった「なんでだろう」の話になった。
 


そしてそれはいくつかはそれな!と、強く頷き合い、更にいくつかは「どういうこと?」と掘り下げ合うことになった。
それぞれが持つ言葉、考え、経験に照らし合わせ、一緒にそこにあるものの輪郭を確認する。
そこには無邪気な分かるの奇跡はなかった。地道で、遠回りも含んだ確認作業だった。
だけどそれは、あの日「分かる」と本気で思い合えたことと同じくらい、嬉しくてきっと、これからも何度も思い出すんだろうな、と思う時間だった。

 

 

どちらか、じゃない。どっちも、だ。どっちもないと、私は苦しい。逆に言えば、それさえあれば、きっと、ずっと諦めずに過ごしていけるような気がしているのだ。

ブルータス、お前もか

世界史の授業の呪文のような言葉は習いたての高校生が夢中になる。と思う。少なくとも私が高校の時はそうだった。世界史を好きか嫌いか関係なく、出てくる単語や名言、その意味そのものというよりも口に出した時の気持ちよさ、語感で言葉が流行ることがある。


「ブルータス、お前もか」もその一つだった、と朝通勤電車の中でふと思い出した。
ローマのカエサルが、最期、自身が信頼していた友人が自分を殺そうとする暗殺者の中にいることに気付いた時に漏らしたという言葉。
それを私たちは良く何かにつけて「ブルータスお前もか!」と言い合っていた。そうしてけらけら笑っていた。

 

 

 

疲れていたのか、今朝、「ブルータス、お前もか」と頭の中で数年ぶりに呟いた時、すごく悲しくなった。
カエサルが良いやつかどうかの本当のところは知らないけど、たくさん裏切られ、傷付き、その最期、「ああ殺されるんだな、殺されるほど憎まれているんだな」と思った時、そこに自分の信じていた人がいること。

 

 

その親友とは、どんな話をしてきたんだろう。やりたいことや恋バナや、そもそも覚えてないようなくだらない話をしてげらげら笑ったこともあったかもしれない。悩み事を打ち明けたり、誰にも伝わらないことが伝わったりそういう嬉しいを重ねて、「親友」になったんだろうか。
そんなひとが、自分を殺そうとしていたこと。

 

 


いやーーーーーーー無理だな。

 

もうなんか、到着した適当な駅で降りてやろうかと思った。嫌になってしまう。つらい、そんな悲しいこと、あるだろうか。
死ぬことよりもそんなことの方が、きっとつらい。

 


仲の良い人と話している中で、「あーお前もか」と思った。ガッカリした、というのは失礼だ。

 


いつだか、ガッカリした、ということはそれだけ自分の見る目がなかったということだ、と言われたことがある。それは、「ガッカリした」と言われたことに傷付いていた頃で、その言葉に私はすごく安心した。
安心したのだけど、今ブーメランのように「お前に見る目がなかっただけだろ」と言葉が返ってくる。
でもさ、と思う。
期待はずれだ、ということ、見る目がなかったということ、まあ、それは、そうかもしれないんだけど。でも、そもそも、期待に応える必要なんてものもなくて、でも、でもさあ。

 

おなじ、なんてなく、ばらばらだからよかった。分からないこと含めて違うこと含めて「好きだなあ」「面白いなあ」と思うのに、それだけはさあ、と思うことで傷付いたりすることもある。

 

裏切られた、と思うことの傲慢さは、忘れてはいけないと思う。忘れるつもりもない。
だけど、そうか、伝わらないか、そうか、あなたも踏み躙るのか、と思った、あの時の傷や痛みを「なかった」と言えるとも言いたいとも思えない。

ブルータス、お前もか。
そう呟いた、この後どうするかだ。そうだったら、良いのにな。

韻ナーマッスルが欲しい

韻ナーマッスルが欲しかった。

 

去年、1年間ラッパーKBDさんが出した韻が書かれた日めくりカレンダーを毎日めくりながら韻を踏むチャレンジをしていた。
#365日韻踏みたいとハッシュタグをつけてチャレンジしていたが、途中で挫折した。

 

そもそも、韻のチャレンジをしたのには理由がある。
そのカレンダーを買ってワクワクしていたことが大前提だし、何よりKBDさんの韻のワークショップ寺子屋が楽しみだったこともある。

だが何よりも大きかったのは自分にリズム感が壊滅的になかったからだ。

 

リズム感がない。本当にない。手を決まったリズムで叩く、も苦手だし、よく音楽の話をする時に言う何拍、とかなんの話をしているかも分からない。
音楽に詳しい友人たちが多いので都度説明してもらうしその説明自体は分かりやすいんだけど、いかんせん自分の脳みそにリズム感の引き出しがないのだ。どうしようもない。

しかし、文を書くのが好きで少しでも文がうまくなりたいなあと思い続けている人間としては、リズムの良い文章には憧れがある。
また、友だちからサクッと韻で返しがきた時に「かっけー!」と思う人間としても、やっぱりさらっと韻を踏める人間になりたい。格好いいし、おしゃれだし。

 

日本語ラップを好きになって、韻の話を振られることがたまにあるけど沈黙やヘラヘラ笑ったり、苦し紛れに記憶の中にある好きなバースを語り倒すことはするんだけど、するからこそ、やっぱり、自分でだって、韻を踏みたいじゃないか。

 

そうして始めた「365日韻踏みたい」は秋頃に挫折した。
ただただ、自分の忙しさ苦しさに忙殺され、毎朝、カレンダーは見るんだけど一つも韻どころか言葉も浮かばなかった。それがよりしんどくて、いつからか私はカレンダーを見ることも韻を考えるのもやめた。
年の終わりになんとか巻き返せないかとまとめて呟いたりもしたが、積み重ねられなかったものを取り戻すのはそう簡単ではなく、またそもそも年末だって忙殺されるので、結局、完遂できないまま、2023年は終わってしまった。


今、このブログは3月が誕生月であるということにかこつけて、毎日更新している。
#わがまま日記とタグを付けて呟く。
そもそもはエンタメの感想を書くために作ったブログで毎日考えているぼんやりしたことを文にする。意外に毎日サクサク書けていて、おかげでもうすぐ折り返しだ。今回は、完遂できるかな。
何かを重ねられる人間に憧れがある。だって、それって、きっと振り返った時にすごく嬉しいはずだ。忘れていく生き物だし、何かが残っていたらそれだけでも嬉しい。

 


もし、31日ブログが書けたら、来年は365日書けたりするのかな。もしそうしたら今度こそ365日韻を踏むのもできるだろうか。
だってやっぱり、韻ナーマッスルが欲しいので。

草むら歩く

アイテムとって、とか、好感度を上げるイベントをここで起こして、とか。
ゲームが苦手なくせに「あ、もうやだ」と思うと脳内でゲーム化してしまう、この癖は一体どこからきたんだろう。恋愛シミュレーションのゲーム原作のアニメで好きな作品はあれど、実際にプレイしたことはない。だというのに時々「あーやだ」と思うと横に選択肢の画面と好感度メーターを出現させて考えたりする。そうすると「これはゲームだしな」ともっともらしい選択をすることへの嫌悪のようなものが和らぐ。
何を言ってるんだ、と言われそうだけど、そういうところがある。

 

 

 

仕事で「きついねえ」と同僚と言い合うことがある。肉体的にしんどい、は精々労働時間が長いこと以外に感じないというのはありがたいことだけど、その代わり、頭と心を思い切り使う。いやでも、この世に心を使わない仕事なんてあるんだろうか。あったとして「心を使えてない」なんて別の悩みが生まれて、結局「心を使いながら仕事をしている」な状態になるような気がしている。

 


ともあれ、きついねえと頷きあうことでなんとかなるか、を確認することがある。
以前、私たちの仕事が在宅に切り替えないのは一人だと思い詰めることもあるから、と上司は言っていた。それはいまだに「いや監理のしやすさでしょ?」と思ってはいるけど、でも実際、その側面もあるよなあとも思う。いやだーと一人の部屋に響くことの危うさは、確かにある。まあ、その辺も向き不向きがあって、一概には言えないと思うけど。

 


最近はそのきついねえ、を、言った後に「修行ですなあ」と言うことが増えた。きついを労い合うだけだとどうしても恨みつらみが募るから修行ですからなあと言う。

 


そういう時、私の脳内ではポケモンのゲーム画面が広がっている。ジム戦前、草むらでウロウロしていたあの頃。ただただバトルして経験値を積みレベルを上げることだけが目的だったからマスを埋めるみたいに歩いた。そこに面白さはなかったけどその後の展開のためにはどうしても必要な「修行」だった。そのウロウロとポケモンセンターへの往復を繰り返すと、いつの間にか歯が立たなかったジムリーダーが「え、ジムリーダー?ほんとに?」なんて拍子抜けするほど簡単に倒せたりする。

 

 

死ぬまでの暇つぶしなんて言い方があるが、そんなもの、全てじゃないか。
何かを好きだと思うことも、楽しいと思うことも苦しいことも、仕事も家族愛も友情も、恋情もドロドロした感情も。
人生は何もしないには長く、何かを成すには短い、という言葉を時々唱える。全く、本当にそうだな。

 

 

 

早々に天上へと住まいを移した好きな人が「時間がいくらあっても足りない」と楽しそうだったことを最近よく思い出す。時間を戻せたら、とはいえ、休んでくださいよ、と言うかもしれない。だけど、やっぱり、言わないかもしれない。
あの人だけ特別、草むらを歩いてなかった、なんてことはないだろう。だけど、きっと、なんとなく、その草むらを歩くことすら、あの人は楽しくやっていたんじゃないか。そんな気がする。妄想なのに確信に近いその感覚に「良いなあ」と思う。その良いなあは、羨む良いなあじゃない。じゃあ私だって負けじとやってやるぞ、のつもりの、良いなあ、だ。いつだって。