えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

草むら歩く

アイテムとって、とか、好感度を上げるイベントをここで起こして、とか。
ゲームが苦手なくせに「あ、もうやだ」と思うと脳内でゲーム化してしまう、この癖は一体どこからきたんだろう。恋愛シミュレーションのゲーム原作のアニメで好きな作品はあれど、実際にプレイしたことはない。だというのに時々「あーやだ」と思うと横に選択肢の画面と好感度メーターを出現させて考えたりする。そうすると「これはゲームだしな」ともっともらしい選択をすることへの嫌悪のようなものが和らぐ。
何を言ってるんだ、と言われそうだけど、そういうところがある。

 

 

 

仕事で「きついねえ」と同僚と言い合うことがある。肉体的にしんどい、は精々労働時間が長いこと以外に感じないというのはありがたいことだけど、その代わり、頭と心を思い切り使う。いやでも、この世に心を使わない仕事なんてあるんだろうか。あったとして「心を使えてない」なんて別の悩みが生まれて、結局「心を使いながら仕事をしている」な状態になるような気がしている。

 


ともあれ、きついねえと頷きあうことでなんとかなるか、を確認することがある。
以前、私たちの仕事が在宅に切り替えないのは一人だと思い詰めることもあるから、と上司は言っていた。それはいまだに「いや監理のしやすさでしょ?」と思ってはいるけど、でも実際、その側面もあるよなあとも思う。いやだーと一人の部屋に響くことの危うさは、確かにある。まあ、その辺も向き不向きがあって、一概には言えないと思うけど。

 


最近はそのきついねえ、を、言った後に「修行ですなあ」と言うことが増えた。きついを労い合うだけだとどうしても恨みつらみが募るから修行ですからなあと言う。

 


そういう時、私の脳内ではポケモンのゲーム画面が広がっている。ジム戦前、草むらでウロウロしていたあの頃。ただただバトルして経験値を積みレベルを上げることだけが目的だったからマスを埋めるみたいに歩いた。そこに面白さはなかったけどその後の展開のためにはどうしても必要な「修行」だった。そのウロウロとポケモンセンターへの往復を繰り返すと、いつの間にか歯が立たなかったジムリーダーが「え、ジムリーダー?ほんとに?」なんて拍子抜けするほど簡単に倒せたりする。

 

 

死ぬまでの暇つぶしなんて言い方があるが、そんなもの、全てじゃないか。
何かを好きだと思うことも、楽しいと思うことも苦しいことも、仕事も家族愛も友情も、恋情もドロドロした感情も。
人生は何もしないには長く、何かを成すには短い、という言葉を時々唱える。全く、本当にそうだな。

 

 

 

早々に天上へと住まいを移した好きな人が「時間がいくらあっても足りない」と楽しそうだったことを最近よく思い出す。時間を戻せたら、とはいえ、休んでくださいよ、と言うかもしれない。だけど、やっぱり、言わないかもしれない。
あの人だけ特別、草むらを歩いてなかった、なんてことはないだろう。だけど、きっと、なんとなく、その草むらを歩くことすら、あの人は楽しくやっていたんじゃないか。そんな気がする。妄想なのに確信に近いその感覚に「良いなあ」と思う。その良いなあは、羨む良いなあじゃない。じゃあ私だって負けじとやってやるぞ、のつもりの、良いなあ、だ。いつだって。