えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

好きとか〜嫌いとか〜

春だからか、最近恋バナを振られることが多い。とはいえ、私には本当に恋バナの引き出しがなく、盛り上げられる気もしないし価値観が合わずで終わる可能性が高すぎてやんわり「あんまり相手に適してないですよ」とお伝えするようにしている。


が、まあ、分かりやすい共通項、盛り上がれる一番ナイスな話題と捉えられがちなのでまあしゃあなし、恋バナなんぞに興じる。そして高確率で「え…」みたいな顔をされるのだ。
だから言ったろうが、と悪態を吐きたくなりながら、そこから延々と考え続けてしまうことを覚悟してあーあ、と頭の中で大きくため息を吐く。だから言ったのに。

 

 


好きだという感情、あるいは恋愛感情に基づく関係が第一に優先される、とされることに「なんで?」とずっと言い続けていて、それが変わらずそこそこのいい歳になった今に至るまで続いているのはなんなんだろうな、と我ながら思う。

 

 


ただ最近「好き」とは恋愛の話である、としているのもまた、違うんだろうな、と思う。
ついこの間、星野源のプレイリストをぼんやりと見ている時にAppleが作った星野源のプレイリストのなか「ラブソング」というのを見つけた。
ふーん、と思いながら開きラインナップや説明を見ると、恋だけではなく、様々な愛についての曲を集めたのだということが分かって思わず、「ああ」と呟いてしまった。そうか、そうかあ。
そうだ、私は星野源の「恋愛」や異性間、人間同士だけに限っての「好き」や「ラブ」の描き方じゃないことにずっと惹かれているんだ。だから、こうして誰か分からない方の作ったプレイリストだけど、「ラブソング」をそうした定義で集め、並べたことに嬉しくなる。そうだよ、そうだよな、と思う。

 

 

学生時代に書いた恋愛がテーマの物語の中で、もうあなたと次の季節、季節を過ごすことを想像できない、想像させてあげられないから別れたいと言う男を出した。今思えば、当時の自分の拗らせた自我なんかを思い出して悶絶してしまう。
ただ実際、あれから数年、年を重ねて周囲含めて色んな「恋愛」を観ていると、事実もう一緒に季節を過ごすことがないことがかなしい、と言ったひとがいた。花を見ることも、季節のイベントを過ごすことも、旬の食べ物を食べることも。真っ先に浮かぶその人と一緒にいないことは、なるほど、確かに、寂しい。
「次のあの季節をもう一緒に過ごせないのだ」と悲しむひとがいるのだ、ということに感動した。感動しながら、あの頃の私はきっとそれを悲しんでいたんだろうな、と思う。

 

 

去年の秋、どうしても許せないけど好きなのだ、と思い日々ぐるぐると悩んでいたことがあった。許せないと許す理屈をそれぞれにこねにこね、にっちもさっちもいかなくなった私は事情をいくらか知る友だちに「どうしたら良いか分からない」と話したりもした。友だちはあっさり言った。「好きだから善悪の理屈を超えちゃっても仕方ないよ」


衝撃だった。


そうか、そういうものか。
と思うし、同時に、私はあの人のことが好きなのか…とびっくりした。そうか、好きなのか、だとしたら確かに、なんか、仕方ないような気がする。

 

 

 

例えばどの関係であれば、どういう人であれば「好き」なのか、とはたぶん、永遠のテーマだ。
色んな言葉、表現、シチュエーションを尽くして、ひとは「好き」を表すことを探す。好きの正体が知りたくて、ずっと考えている。
そうして同時に人は、自分の求める「好き」の方法で好かれていたい愛されていたい、と願うんだろうなあと思う。好きなのにと言いながら酷いことをしてしまったという話を聞いて、思う。自分の好きが価値のないものに成り下がったのだと悲しくなりながら思う。

 

 

ひとって、自分のされたい優しさじゃないと気付けないんだよな。
「あるよ」って言われても違うんだよ、ってなっちゃうんだよなあ。
そう思うと好きだと思って、それが相手にも正しく「好き」として伝わるのって、奇跡的確率の上じゃないと成立しないんじゃないか。
なんだよそれ、大変過ぎるだろと悪態をつきたくもなるけど、それくらい大変じゃないと考え続ける甲斐もないから、仕方ないか。

塚口サンサン劇場のはなし

「ああ、つくさんが好きな映画館ね」
最近そう言われることが増えてびっくりする。よくよく考えれば、あれだけ定期的に呟いているので、フォロワーさんの印象に残るのもそりゃそう、かもしれない。元々取り組みが面白く、またそのアカウントの使い方なども個性的で、それで、知名度が高いというのもあるだろう。


塚口サンサン劇場さんが好きだ。
通い出したのは、HiGH&LOWにハマってから。HiGH&LOW THE MOVIE2から好きになり、しかも上映も終わりがけにみたせいで「もう観れない…」としおしおしていた中、やってるよ!と教えてもらって向かったその映画館。


場末の、なんて自称するけど、綺麗なその映画館は70年以上続く老舗の映画館だ。長く尼崎に住む先輩から「懐かしい、小さい頃行ったよ」と言われるとびっくりする。
そうか、この映画館は街の人の昔の思い出の中にもずっとあるんだなあ、と、そういうエピソードを聞くたび、嬉しくなる。

 

大きなシネコンでは観れない映画や、特別音響の映画、また、関連作品をハシゴ鑑賞できるように組まれたリストにと行けない週の上映リストも見ていて楽しい。うっとりする。
アニメもあれば、邦画、洋画、アイドル作品に、過去の懐かしの名作。
ジャンルが幅広く、またそれらを全て1人の館長が楽しそうにTwitterのスペースやYouTubeで紹介する。その様子にああだから、私はここが好きなんだなあと思う。
誰かが熱烈に何かを好きでいる場所。それが集まる場所が塚口サンサン劇場なのだ。

 

また、マサラ上映や応援上映、スタンディング上映など、様々な方法で上映がされるからか、色んなジャンルのオタクたちが映画館には集まる。それもまた、見ていて楽しそうだなあとニコニコしてしまう。私自身は通常上映が一番肌に合うので、他のスタイルを楽しんだことはないけど、でもその「それぞれ」が成立することも嬉しい。


音響がダイレクトに響くシアター4はもちろん、落ち着く空間のシアター1-3も大好きだ。
大きな映画館ではかからない映画をひっそりとそこで楽しむ贅沢は、言葉にし尽くせないくらいだ。

 

私はそこにカップのコーヒーを買って、そっと端の席で映画を楽しむ。そうしていると、大きく息を吸えるような、そんな気がする。


また、映画終わり、時折起こる拍手も好きだ。この映画が面白かった、楽しかったと気持ちが滲む拍手が通常上映でも起きることがあって、私はそれも好きだ。うんうん、と頷きながら一緒に拍手をする。何より、友だちを連れて行った時「拍手が起こるんだ…!」と嬉しそうに目を丸くするのを見るのも好きだ。そうなんですそうなんです、素敵でしょう。

 

あの映画館で映画を観るたびに映画が好きで良かった、映画があって良かったと噛み締めながら、帰る。
映画ファンから作品のファン、役者のファンやご近所さんまで、誰もがフラットにそこにいて、映画を楽しむ。
ああ映画があって本当に良かった。

入村許可は一生出ない

人と話をして誰より私が「大丈夫」って言って欲しかったんだなあと反省することがある。
でも、そう思った後に「別にそれでもいいじゃんね」と思った。無自覚にはやってしまいたくないけど、自分に言いたい、あるいは言われたかった「大丈夫」を口にして、世の中の大丈夫の総数を増やしていきたい。そんな気がしている。

 

ここ最近、うまく喋れないと思うことが増えていた。ちょうど好きなラッパーの曲を聴きながら「コミュニケーションはうざ絡み」に覚えがあり過ぎて帰り道凹むこともしばしば。
話がしたい、だけど話し出すと人の目が気になって言葉が引っ込んでいく。聴いて欲しいと思うのと同じくらい「聞かれてしまう」のが怖い。
そうなると文を書くのもうまくテンポが掴めずに気がついたらお酒を飲み過ぎ、そして喋り過ぎての自己嫌悪に丸1日、不調のまま布団に沈んでいた。正直、別にお酒に弱いわけじゃないのに珍しいくらいの完膚なきまでのノックアウトだった。入ってくる連絡も返事をするのもやっとというか、なんなら返事ができずに数時間寝かせたものもある(ごめんなさい)
伝わると思っていた、と言ったらずるいだろうか。だって、でも、伝わると思っていた。その君に伝わらなくて、言葉がうわ滑ったことだけ理解できてそれが、二日酔いよりも何よりも苦しい。

 

その間、ひたすらに寝て、寝ながら、大好きなラジオを聴いていた。ほぼ朦朧としていたけど目が覚めるたびに好きなラジオが流れていて、馬鹿馬鹿しい話をゲラゲラ笑いながらしていることに心底安心してまた眠った。時々、すごく真剣な話をしていて、それにたまたまタイミング良く起きて聞けたことが嬉しくて、起きてからもこれを覚えてられたらいいなあと思いながらまた眠る。
ここでなら、なんて思ってそんな自分が許せずに唸る。でもさ、それくらいさ、許してくれよ、と思う。

 


自分の毎日、思考、思想の中で、好きなものから得る影響が大きい。
だから私は仕事や生活で調子を落とすとなるべく好きなお芝居、ドラマ、映画、ライブを観ようとするし、定期的に新しく好きなものを増やしていかないと真っ直ぐ過ごせない。
私にとって真っ当に過ごすためにはエンタメが必要で、確実に背骨を支えられている。これがなければ、もう少し最低な人間になっただろうな、といつも思う。

 

 

ちょうど子どもの頃散々、何か大きな犯罪を犯したひとが好きなものを報じられ、「○○を好きなやつは犯罪者予備軍だ」と言われるのを観てきたからかもしれない。好きなものの顔に泥を塗るわけにはいかない、というのはごくごく自然に自分の中に染み付いていた。

 

 

「人間としてダメだからダメなんすよ」と半分、ちゃんと冗談に聞こえるように笑ってもらえるように十分注意しながら、だけど切実に口にした。だけど、相手は「いやいや〜」と笑いながら返される。まあそうだよな、そうなんだよな。それすら受け取ってもらえず、でもいつか、きっとどっかでガッカリされたり「え?」って言われるのだ。「え?」なら良い方で「は?」なんてカマしてくるんだろう。言っただろうがよ、と私は悪態を吐きながら、その時諦めるんだ、きっと。

 

 

分かってるんだけど、でも全然、絶対、ダメなんだよな、人として。

 

 

人の言葉を聴くのがしんどい。もっと言うと自分の話をするのもきつい。なのに喋りたいから困る。
バラエティを観ることに体力を使い過ぎるから基本的に見れない。
会話のテンポを合わせるのに苦慮する。

 


タイミングによっては道を歩いてるだけで視界に入る色んなものに凹み、落ち込んでしまう。
伝わると思って重ねた言葉が、バラバラになって崩れていくさまをみて、途方に暮れる。暮れて、そのままじっと体育座りしてしまう。

 

 

言われるまでもなく、生きづらさがすごい。
こだわりが強く、「ちょうどいい」を見つけられない0-100思考で、倒れる前に止める、というのがいつまで経ってもうまくならない。

 

 

そんな話を記録がてらツイートしたり面白おかしく(なればいいと祈りながら)話すものだから、少なくない回数、治療や診断を勧められてきた。
確かに時期によっては、不眠になったりするしお世辞にも健康的な人間だとは言えない自覚は十二分にある。
そういう診断や治療の経験がある人ほど、きっと良かれと思って病院に行くことを勧めてくれるのである。

 

 

実際、普段生活していても驚くほど多くのひとが、そんな話をする。芸能人の不調などについて、折に触れ、休むことや治療を受けることを勧める言葉をたくさん見てきた。もちろん、そのほとんどが、良かれと思ってだということは分かっているし、私も、過剰な活動は(自戒も込めて)心身に障るので、気を付けて、自分を一番に休んでほしいなあ、とはよく思う。
ただ、たださあ。ただ、もし、それをしてもなお、休めなかったら、休む必要なんて、ないですよって言われたらどうしたら良いんだろう。
その突き放されたような絶望を誰か想像したのかよ。

 


よく、思うんだけど。

 


心の苦しさがずっとある。この間それを冗談めかして言ったらその苦しいをデフォルトにしないで、と真剣に忠告された。
不眠のたびに明け方の街をうろうろと歩き回り、夜が白んでいくことにがっかりするようなほっとするような感覚になること。


そういうこと全部、これ一生続くのか、と思う。

 

息苦しさをつくさんのところでなら吐き出せると言っていたあの人から幸せの知らせがあったりする。ああよかった、とまたひとりになったなあが同居して、私はこの息苦しさを相棒に過ごせば良いんだなんて痩せ我慢したりする。
いつだか、そう語っていたその人は「もうあなたとは話せません」なんて、言ったりする。いいよいいよ、なら、良かったよ。

 


でも、私は生きづらい村には入れない。
不調が報じられた芸能人と同じようになんて言うと失礼だけど、
治療を勧められて病院に行けば「何をしにきたんですか?」と真っ直ぐな目で問われる人生なのだ、ということを数年かけて理解した。最初の何年かこそ、心配に申し訳なく思い、「治療」を求めていろんな医療機関、診査、検査を行ってみた。だけどどこも、治療が必要という結論も出さず、ただただ、異常なしのステッカーを、渡してくるだけだった。

 

 


治療や診療を勧めるいろんな人たちに言いたい。
そうしたところで、救われるかは人それぞれだ。運や相性にもよるし、場合によっては自助努力でがんばるしかなくなる。だとしたら、結構、そこには絶望があったのだ。
異常なしなのに、普通に人生や生活を送れない。いや送れてる人なんて本当はいなくて、みんながどうにかこうにか見ないふりしたり工夫してやっていってるんだ。でも、その工夫すらできない。できない理由が病気じゃないなら、一体、どうやって治したら良いんだろう。
このしんどいのは、一生このままなのか。

 

 

それは、病気と闘うことよりも、マシな苦しみだと人によっては思うのかもしれないけど、私は、結構きつかった。
病院に行くたびに次こそ、どうしたら良いかの解決策が見つかるかもしれないと期待するのに少しも見つからないことに心底がっかりして家に帰る。
薬を飲むほどではない不眠に夜じっと天井を眺めたり、ラジオを再生したりする。
そうして、そこでだけなら「おかしい」とも「異常なし」も言われずにただただ笑って時間が過ぎるから大丈夫だよ、と思う。思って、やっと眠ったりする。

 

 

そういうことを繰り返していたら、なんだか最近ちょっとマシになってきた。
治療できなくても、なのに普通ができなくても、どっちだっていい。今日も私は生きてて生活をしている。
そもそも、私の人生は私にしか送れないものなんだ。だったらどこかの規格に入る必要なんて、一つもないんだ。
そう、言い聞かせてる。
入村許可は、どの村であっても一生でない。おんなじなんてない。いやそもそも、この世界は全部ばらばらだと言い聞かせる。他の人はみんなそれぞれ、帰る村があるじゃないかと騒ぐ子に「まあ、外からは事情はわからんからね」と返しながら、ぼんやり、歩く。
別段それを、不幸というつもりはない。存外、この村の外の生活も気に入ってるのだ。ただ時々、無性に寂しくはなるから、なにか、面白い話が聞きたいなあと思う、そのことだけを確認しながら、歩いて行こうと思う。

ペルソナを剥がせ

うっわ、と思った。それは唐突に、パズルのピースがハマるみたいに気付きで、危うくそのまま座り込むところだった。


むしゃくしゃしていた。かの邪智暴虐な、とあの文学作品でしか耳にしたことのない言葉を頭の中で唱える。なんならそこから厚顔無恥な、とかそれっぽい言葉を唱え続けてもいい。
むしゃくしゃする。街中を歩いてる時、仕事をしてる時、何か楽しいことをしてる時もSNSを見てる時も「なんなんだよ」が溜まっていく。

 

あと小さじひと匙分くらい、誰かを気遣えないもんかね、と思う。
それを言われてどう思うか、とか。
なんでそう言ったのか、とか。
あなたが周りからどう見えてるか、とか。

 

「普通」や「当たり前」にうんざりしているくせにその定規を振り回したくなる自分を一旦高く高く棚上げして、私はむしゃくしゃしていたのだ。いや、なんならそれを棚卸して測りに乗せて、「いやでもこれはひどすぎる!」なんて乱暴なジャッジすら、していたかもしれない。


そこから「なんでそんなことをするんだ」とぷんぷんと原因究明に向かって、私は、小賢しげに思った。そういう風に生きてこれたのだ、良いなあ!良いなあ!楽で良いよなあ!
そうしてぷんぷんと嫉みと怒りでもりもりと歩きながら、ふと気付いた。

 

そんなわけ、ないのである。

 


いや、実際「そういう風に生きてこれた」人もいるのだと思う。人の顔色を見なくても空気を読まなくても。次の相手の言動を想像して、傷つけないように傷つかないように何パターンもイメトレしてまたその返しになんて言えばいいかを想像して、とんでもなく遠くに脳みそがふよふよ漂いながら喋らずともなんとなくで生きてこれた人たち。
昔、私に仕事を教えてくれた人が言っていた。この仕事は他人の顔色をずっと窺って今に見てろって思ってた人間が勝つ。私はその言葉をまっすぐに信じて、逆にそうでない人、に「恵まれてたひと」のラベリングを貼った。

 

でも、だけど、当たり前だけどそうではないのだ。
ふと頭の中にひたすら空気は読めないけど、大好きな人のことが浮かんだ。空気は読めない、他人の顔色も窺わないだろう。
それは「そうしない」と決めたのかもしれないし、ずっと試行錯誤したのち、「向いてないから」と諦めた結果なのかもしれない。
そうか、そうだよな。

 

私は私の思う通りにいかず、腹を立てていた違いない。それは、全くの無意味なのに。
そうして自分を慰めるためだけに相手の方が恵まれてると決めつけて、こちらに大義名分があるのだと大声を出す。

それは、なんというか、ずいぶんみっともなく、情けなかった。そんなことが、したいわけじゃなかったろう、と思う。

 

そうでいてくれないと困ったから、貼り付けたのだ。
自分はやってる気遣いを配慮をやらずにいる誰かを強く強く非難すれば、自分がその分上がれるとでも思ったのか。全く、これっぽっちも、そんなことはないのだ。

 


一旦それらはぜんぶ、思い切ってどっかにやってしまいたい。
なんとかその直前、今はギリギリ、踏みとどまれていると思うから。次、と思う。思えることに感謝する。何かをコテンパンに叩き潰すよりも難しくて、ワクワクする方へ。

フワギャルのひとりごと

フワちゃんが好きだ。テレビをほぼ見ない人間なので「テレビのフワちゃん」は詳しくない。だけど、フワちゃんが好きだ。映像を見るのが下手くそでYouTubeだって使いこなせていない。それでも、フワちゃんが好きだ。


度々、私はこれまでもフワちゃんのことをブログに書いてきた。そのどれも、ラジオがきっかけだった。
私は、ラジオを通して知るフワちゃんのことが、とてもとても、好きだ。

 


そもそもなんで、こんなに好きになったのだろう。私は定期的に考える。
今週の放送、お風呂に入りつつ聴いてコメントひとつにニヤつきフリートークに笑いを堪えて、なんだか最後は「これなんだよなあ」とドヤ顔をしてしまった。我ながらお前誰だよが過ぎる。

 


そして今日、これから海外に移住して、好きなことをたくさんやるという発表をしたフワちゃんに最高だぜ!の気持ちと、ほんの少しの寂しさを覚えて、あれ、もしかして私は結構フワちゃんが好きなんだろうか?と思ったりした。

 

好きになったのは2022年のラジオ以降。
無茶苦茶だな、このラジオ、と思いながらも後追いして過去の放送を聴いてそれでもかなりマシになったのだ、と知った。
自由で、と言えば聞こえはいいが、わがままで無茶苦茶で周りを振り回す。そんな姿勢に批判がくるのもまあ、分からなくもない。
危うさを笑っているつもりはないが、心配で聞いてられないという気持ちもものすごくわかる。

 

だけど私はそんな「無茶苦茶」な放送……たとえば、いわゆる「発作パーカー」が生まれるきっかけになった回も聞いて、なんだかそれを含めて、たまらなく好きになってしまったのだ。ぶっちゃけ無茶苦茶である。これが、ラジオとして流れていたと思うとすげーとこえーが同時に来る。
のだけど、そこから数週、「どうしたらいいか」の対策をニッポン放送の偉い人こと冨山雄一さんを呼んでこのラジオを社長が聞いてるかとか今後発作が放送中でたらどうしたらいいかを相談したりする姿になんだか私は感動すら覚えたのだ。
そんなことをしても意味がないとか恥ずかしい、とかそんな定規は彼女の中に存在しないのだ。ご飯の前にお菓子を食べたらご飯が入らなくなる、という定規が通用しないのと同じように、辞めたくないならやめなくて済む方法を思いつく限り試すのだ。そんなフワちゃんが、私は好きだ。

 


なんかそれは「出来ない」ことを笑うとか、健気さに感動するとか、そういうことではなく、ここで素直にそういう動きや感じ方をできることをひたすらにすげえな、と、尊敬してしまったのである。

 

そして「ラジオが終わるかもしれない」となった時に真剣に(と同時にやっぱりそこでも周りの大人たちに迷惑をかけはしたけど)「やだ、終わりたくない」と盛大に駄々をこね、あがいた彼女のことを好きだなーと思うのだ。すごいなー無茶苦茶だなーと、好きだなーが合わさって、出来るだけ長くこのラジオを聞きたいなーと思う。

 


ラジオが素だとは思ってもない。思ってもないけど、それでも混じり気の少ない嫌だや楽しいや笑い声が聴けるあの時間が私は好きで、そうこうしてるうちに気が付けば、彼女のことを好きになっていたのだ。

 


良い人でも悪い人でもない。
最低なところはたくさんある。炎上のたびに擁護するつもりもないし「そらフワちゃんが悪いわなあ」とは思う。だけど、実害を受けたわけでもないなかで誰かをボコボコにできる正しさとただただクソな彼女のどちらが好ましいんだろうな、と思ったりもする。

 

 

 


どこが好きなのか、書けば書くほど、多分伝わらないし私も分かってない。
まあでも、それでもいいじゃないか。というか、理屈が通らないあの感覚が好きなんだから、理屈で説明しようとするのも、土台無理なのだ。
ただただ、今は海外でもたくさんふわちゃんはキレたり楽しんだりするんだろうなあと思ってる。そして今はその中でもラジオを続けてくれることが嬉しくてこれからの放送がひたすら楽しみなだけである。なるべく長く、続いてくれますように。

「分かる」

お前に俺の何がわかるんだよ、と思う夜もあるし「簡単にわかる、なんて言っちゃダメなんだけど」と前置きすることもある。

 

あるのだけど、時々、なんてことを考えながら「安易な同意こそひとを傷付ける」なんて思い付きもせず無邪気に純粋に「わかるよ」と心を寄せていた頃を思い出して無性に羨ましくなることがある。

 


わかるよ、と言ってくれたことが嬉しかった、と言われた。その瞬間のことを私も良く覚えていた。だって、私も嬉しかったのだ。「あーこうだな」と思っていたその言葉がまさしく、自分の口から自分の声ではなくて、目の前の友だちから出てきたこと。それに驚いてそうなんだよ、と思って「分かる」と口にしていた。
分かると言うこと、言われることの断絶を想像する暇もなく、「分かる」と口にした、あの時のことを、「うれしい」と思ってたのは私だけじゃないんだなあ、と噛み締めた。そのことをぼんやりと覚えている。

 

最近、話をしていると「分かります」と言われ、聞くと真逆の解釈をされていることがある。逆も然りで「こういう話か」と思いながら頷いて、蓋を開けてみると全然違うことを言っていたりもする。
そういう時、私は途方に暮れる。なんならそれが積み重なり続け、恐怖心すら湧いていた。
いつのまにか、うっかり並行世界に来ていて、それでこんなに言葉が通じなくなってしまったんじゃないか。
ちゃんと喋れている、言葉を使えていると思っていたのは私だけでもしかしたら、みんな「何言ってるんだこいつ」と思いながら私を観ているのではと疑心暗鬼になり、数日、生活をするのがしんどいなあと思っていた。


だからだろうか。
分かると言われるのも言うのも怖いけれど、往々にして、それが信頼関係を徹底的に壊すこともあるのだけど、それでも思うし願う。
「わかるよ」と言ってほしいし、言われたいし、言いたい。そしてそれが本当に「わかる」であってもなくても、その「本当」には気付かずに「わかった!」と思いたい。
そんな無邪気さが、それを信じられるような安心が欲しいと心底思う。
もうそれは、動物の言葉がわかるファンタジーの世界みたいだ。

 


同じものを観てるのに感じ方は違うしそれどころか、何を見てきたか全く異なる答えが返ってくることだってある。何に注目して見るか、そもそも「見慣れて」いるか、なんで見たかで全部変わったりする。
何かに猛烈に怒ってる人は、時に「怒るため」にみるから、見落としたり事実が歪むことがある。

 

それが、悲しいし苦しいしどうしようもないな、とも思う。ただ同時にかと言って「分かる」だけが喜びだとも思いたくないのだ。
だってそれは、いつか「分からない」を許せなくなる。

 


友だちと映画を観た。好きだと思ったところ、シーンで受けた印象、登場人物の誰の何に心を動かしたのか。そういうものを一つずつ挙げながら、気が付いたら話題は毎日の中で積もり積もった「なんでだろう」の話になった。
 


そしてそれはいくつかはそれな!と、強く頷き合い、更にいくつかは「どういうこと?」と掘り下げ合うことになった。
それぞれが持つ言葉、考え、経験に照らし合わせ、一緒にそこにあるものの輪郭を確認する。
そこには無邪気な分かるの奇跡はなかった。地道で、遠回りも含んだ確認作業だった。
だけどそれは、あの日「分かる」と本気で思い合えたことと同じくらい、嬉しくてきっと、これからも何度も思い出すんだろうな、と思う時間だった。

 

 

どちらか、じゃない。どっちも、だ。どっちもないと、私は苦しい。逆に言えば、それさえあれば、きっと、ずっと諦めずに過ごしていけるような気がしているのだ。

ブルータス、お前もか

世界史の授業の呪文のような言葉は習いたての高校生が夢中になる。と思う。少なくとも私が高校の時はそうだった。世界史を好きか嫌いか関係なく、出てくる単語や名言、その意味そのものというよりも口に出した時の気持ちよさ、語感で言葉が流行ることがある。


「ブルータス、お前もか」もその一つだった、と朝通勤電車の中でふと思い出した。
ローマのカエサルが、最期、自身が信頼していた友人が自分を殺そうとする暗殺者の中にいることに気付いた時に漏らしたという言葉。
それを私たちは良く何かにつけて「ブルータスお前もか!」と言い合っていた。そうしてけらけら笑っていた。

 

 

 

疲れていたのか、今朝、「ブルータス、お前もか」と頭の中で数年ぶりに呟いた時、すごく悲しくなった。
カエサルが良いやつかどうかの本当のところは知らないけど、たくさん裏切られ、傷付き、その最期、「ああ殺されるんだな、殺されるほど憎まれているんだな」と思った時、そこに自分の信じていた人がいること。

 

 

その親友とは、どんな話をしてきたんだろう。やりたいことや恋バナや、そもそも覚えてないようなくだらない話をしてげらげら笑ったこともあったかもしれない。悩み事を打ち明けたり、誰にも伝わらないことが伝わったりそういう嬉しいを重ねて、「親友」になったんだろうか。
そんなひとが、自分を殺そうとしていたこと。

 

 


いやーーーーーーー無理だな。

 

もうなんか、到着した適当な駅で降りてやろうかと思った。嫌になってしまう。つらい、そんな悲しいこと、あるだろうか。
死ぬことよりもそんなことの方が、きっとつらい。

 


仲の良い人と話している中で、「あーお前もか」と思った。ガッカリした、というのは失礼だ。

 


いつだか、ガッカリした、ということはそれだけ自分の見る目がなかったということだ、と言われたことがある。それは、「ガッカリした」と言われたことに傷付いていた頃で、その言葉に私はすごく安心した。
安心したのだけど、今ブーメランのように「お前に見る目がなかっただけだろ」と言葉が返ってくる。
でもさ、と思う。
期待はずれだ、ということ、見る目がなかったということ、まあ、それは、そうかもしれないんだけど。でも、そもそも、期待に応える必要なんてものもなくて、でも、でもさあ。

 

おなじ、なんてなく、ばらばらだからよかった。分からないこと含めて違うこと含めて「好きだなあ」「面白いなあ」と思うのに、それだけはさあ、と思うことで傷付いたりすることもある。

 

裏切られた、と思うことの傲慢さは、忘れてはいけないと思う。忘れるつもりもない。
だけど、そうか、伝わらないか、そうか、あなたも踏み躙るのか、と思った、あの時の傷や痛みを「なかった」と言えるとも言いたいとも思えない。

ブルータス、お前もか。
そう呟いた、この後どうするかだ。そうだったら、良いのにな。