えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

石子と羽男 -そんなコトで訴えます?-

石子と羽男、面白かったな。



観たいドラマが立ち並んでわくわくしていた今期、結局ドタバタと生活に追われてそのほとんどが見れなかったなかで、なんとか見切れたのがこの「石子と羽男」だった。


石子と羽男が描いたのは、日常の中に潜む「そんなこと」に苦しむひとがいること、そして、徹底して「助けてと声をあげてほしい」ということだった。



3話の感想でも書いたけど、このドラマが描いたそこにいる人たちが心底愛おしくて、その生活と地続きである今私が生きているこの世界までも、ちょっと愛してしまえるような気持ちになってるからすごい。



例えば、街にたむろする少女たちを助ける回。
終わった直後流れた制作陣のアンナチュラルやMIU404から徹底した「助けてと声をあげる人を助けるひとがいる」という物語は、色んな人に届いて、お守りのようになったと思う。


加えてそんな石子と羽男が単なるヒーロー譚とならなかったのはそんな「助けてと声を上げるひと」を、ただただ生きてきた生活をする人を踏み躙る悪意もしっかりと描いたからじゃないだろうか。

綺麗事ではなく「弱いから悪い」と嗤うひとを、法律という誰かを守るための傘の隙間を縫う悪意を、目を逸らさずに描いた。そしてその上で、それを覆すのは超現象的な奇跡でも、誰か突出した特技を持つ超人でもなく、ひとりひとりの積み重ねた努力や地味な作業であり、なんでもない"普通の人"であり、何より「助けて」と声を上げた人なのだと語りかけ続けた、そんなドラマだから、私はものすごく、このドラマが好きだ。


ヒーロー譚ではある、あるんだけど、そのヒーローは私たちと同じ人であり、被害者自身なのだ。



思えば、羽根岡の一度見たら忘れない能力や石子の思考力・発想力はそれだけ見れば「特別」な気もするけど、ただその能力があるから全てうまくいくわけではなく、その上で足りないところを補い合い、「この人たちとなら最強になれる」と思える人たちと立ち続けるその姿が、私はたぶん、大好きだった。



悪意が積み重なる、生きてることこそ怖くなるこの世界で、無駄じゃない、と繰り返し言ってくれたこのドラマのことを忘れないでいよう。


それから。
羽根岡の家族を単なる毒親、毒家族と描かなかったことも本当に良かったな、と思う。
もちろん、そうではなく、本当に加害性に満ちた親族はいるし、例えその人にどんな事情があれ、許されるべきではない身内の加害だってあるから、難しいけれど。
いや、難しいというか、なんならシンプルに「羽根岡家はそうじゃない」という話でしかないか。
(実際、7話では家族との和解以外の道を描いている)



誰かが特別ではなく、それぞれに生きている場所があり、生活があり、時々それが交わって助けてと言えば助けてくれる人だっている。
それが家族の時もあれば、友人、恋人、弁護士のような専門家、公共の福祉の時だってある。
道は一つではないのだ。
一歩踏み出した石子の明日が、傘を差し出した羽根岡の明日が、一生懸命で不器用な大庭の明日が、晴れていたらいいと思う。



苦しむ誰かに傘を差したいと生きる彼らに、また会えたらいいな。

音楽ノイズから守ってくれ

音楽が楽しい。私の人生で「音楽を楽しむ」ことがあるとは、と思う。音楽が楽しい。
音の高い低いがいまいち分からなくて歌が下手なことに、楽器ができないことにコンパレックスがあってリズム感がないからノリ方だって分からない。
だからどれだけ何があっても「音楽」は遠い世界の話だったけど、ラジオを通してCreepy Nutsに出会ってそこから日本語ラップにどんどん惹かれてる、そんな気がしてる。


まさか自分が衝動的に音楽を聴くために電車に飛び乗る人間だと思わなかった。言葉という自分にとって身近な存在が橋渡ししてくれたからかもしれない。音楽で「合法的にトぶ」ことができるんだということに嬉しくて気持ちよくてあの空間にずっといたくて、そう思ってることにびっくりしている。





いたいのとんでけを絶望的な気持ちで聴いていた。
1バース目にずっともう良いかって思っていた。自分の中で渦巻く言葉の出口を教えてもらったような気持ちになる。
試してきたんだよ、楽しくいようとしたんだよ、やれることは、たくさん、試してきたんだよ。だけど、どっちに歩いていいか分かんないよ。
生き損ったらどうすりゃいい、という言葉にうずくまる。そんな頭の中で、いたいのとんでけ、と声が繰り返す。大丈夫だとは言わない、でも、いたいのとんでけ、と歌う。




テークさんのMes(s)を聴く、散歩の時、ずっとTHE TAKESを流す。聴きたかった言葉を考える。なんで、何を確認したかったのかをずっとずっとずっと、考える。


アルコールで頭を緩めてつまみ持ってくから、というバースを、私もそうしたかったな、と思う。自分のために誰かがつまみを持ってきてくれることも素敵だけど、そうじゃなくて。
strong、strong、strong、strong。
繰り返す言葉を確認したかった気がする。



そういや、日本語ラップの流れる空間の居心地の良さを教えてくれたのはKZさんでほぼ衝動に任せてアルバムを買っていた。それから繰り返し繰り返し、音楽を聴いた。感情移入しすぎて、頼り過ぎてどうなんだよ、と自分に毒付きそうになった時に飛び込んでくるバースに「フルコースかよ」と苦笑いしたりもした。




掴む手の先を、日本語ラップが教えてくれる。
友人が言っていた抱えてきたものを在るに変えても良いし、それで大事なものを失くしたりしないよ、という言葉を思い出した。



これはもうかなり個人的な話だけど、この数年ちょっと無理をしてきて、でも無理をするしかないというか突き詰めた先になんかないかと思ってきたし、まだ思ってる。
まだやれるともう無理だが昼と夜がひっくり返るたんびにやってくる。


そんなのは在っちゃ駄目だと思って深く深くに置き去りにして、結果、にっちもさっちもいかなくなって、どっちに歩いたらいいか分からなくなってしまった。それでも大丈夫だと言われるからああそうか、と諦めるしかなかった。




いきなり居なくなってしまった人をずっと思い出して身動きが取れなくなる日も
世の中に溢れる言葉を勝手に自分に向いたナイフに変えてしまって味わう苛立ちも
不用意な言動が頭から離れなくなって訳がわからなくなってることも



それでも、飛び込んだライブハウスで、クラブでみっともないような感情を確実に拾い上げてくれた。フロアで笑いかけてくれなくていい。ヘッズだなんて名乗れる何かもない。
勝手にあなたの音楽に言葉にのって踊る。



いきていたくない気持ちも
惨めさも寂しさも
救って欲しいわけじゃない、この感覚を誰かに「分かる」なんて言ってほしくもない。支えもいらんと思ってる。
でも、ずっと抱えとくには重い。持て余す。
そういうの全部、一旦さておいて、合法的にトぶ。心地よさに全部が浸る。
それから、言葉は届くことをすげえフルパワーで教えてくれる。信じさせてくれる。
チープで手垢まみれな言葉だけど、生きてけるなって思ったりした。安直に安易に、でも絶対的に。



そうだよな、ずっとそうで
誰がとか、何をとか
正しいも有名もバズも興味なくて
許せない放り出したい
下らないとすぐしそうになる冷笑や賢いふりを本当の笑顔にバカに変えてくれる。
そういうのを


本が
芝居が
ダンスが
映画が
ラジオが
日本語ラップ




放り出そうとする手を引く。まだこんな面白いものがあるという。
お前はどうする?と聞いてくる。
そうだよ、放り出して振り上げた拳を暴力に使って、解ってるフリなんてクソだせえ。

私にとっては面白いってそういうのだ。
諦めるなんて絶望するなんて、そんな簡単なことしてたまるか。
まだ書きたいことも喋りたいこともあって、聴きたいことも観たいことも知りたいこともまだまだある。





「音楽 ノイズから守ってくれ」

無理になったらイヤフォンしてスピーカーから好きな音楽流して電車に乗って、バスに乗って、私は面白いに会いにいく。

アンサンブル・プレイ

※アルバムについてのネタバレ、勝手な解釈を大いに含むので読む際は自己責任でお願いします





Creepy Nutsが好きだ、という話をすることが良くある。好きなものの話をしていたら機嫌が良いタイプの人間なので好きなものの話を結構どこでもする(お付き合いいただく皆々様本当にありがとうございます)
そんな中、ああ、Creepy Nuts!とリアクションを返してくれる人達は多い。そして話しているとその時脳裏に浮かんでるのはそれぞれバラバラだったりする。



例えば、フリースタイルダンジョンのRさんだったり
DMCで優勝する松永さんだったり
フェスで自分たちの出番はもちろん客演でも活躍されるRさんや
バラエティで芸人顔負けのトークや身体を張った収録に参加する松永さん、
それから深夜にひたすら爆笑しながらバカ話をするふたり。



そのどれもが彼らなんだよな、ということを考えてる。




色んな顔を持つ、音楽という生業以外のフィールドでもまさしく「かまし続ける」彼らが今回出すアルバムのタイトルが"アンサンブル・プレイ"なのはあまりにも文脈的に美しくて何度も何度も、噛み締めている。




アンサンブル・プレイ、とはすなわち「群像劇」という名前を持つこのアルバムはある意味で"Creepy Nuts"という名前の空間、一つの軸で巻き起こる色んな物語を見せてくれる。そんな気がする。




まず今回、Intro・Outroが収録されている。
一体どんなイントロ、アウトロを聴かせてくれるんだろうとわくわくしながら再生して思わずうめいた。それは、彼らのライブではお馴染みの「雑踏のなか、歩く足音」だった。
もうその時点でこのアルバムの再生がイコール私の中で「ショーの始まり」を意味する。
いやもう、美し過ぎないですか?その文脈。



このアルバムに収録される曲たち、例えば2way nice guyを初め、この数ヶ月で発表された楽曲たちは所謂今までの「俺の話」を紡ぐ形ではなく、ストーリーテリングという形で作られてきたことはさまざまなインタビューで語られてきた。



自分たちやその取り巻く環境が怒涛に変わったこと、それでも変わらないもの、置いてきぼりになったもの。そういうものを一つ一つ深く深く掘り下げ、まさしく「削るように」作られたCaseから一年。
自分たちの話ではなく、フィクションの物語を紡ぐ音楽の形にチャレンジしたそのアルバムのタイトルが"アンサンブル・プレイ"で、かつ、そのイントロが彼らのショーの始まりの音なのが、もう、あまりに最高に好きだ。



そして、その直後一発目。映画「極主夫道」の主題歌であり、彼らがストレートな「俺らの曲」以外をかましてくれた2way nice guyからそのショーは進む。



私は、この曲の発表当時のインタビューが本当に好きだ。
フィクションで、自分たち以外の物語を紡ぐこと。それにもわくわくしたし、その中で自分たちの要素も滲むのだと思った。




私はお芝居が大好きだ。なんでお芝居が好きなのかは色んな要素があるんだけど、一つは生身の人間が演じることでどうしても出てしまう「その人くささ」が好きなんだと思う。
例えば「あの役者が演じると全部同じに見える」なんていうことがあるけど。それって実は凄いことだと思うしそりゃそうだし、そんなところが魅力なのだ。
もちろん、完全に演じ分ける人もいる。いるけど、その中にもその役者の目を通した世界、その人が滲む。それは悪いことではなくてむしろそれこそ、たぶん、その人が演じることの意味だと思うのだ。



話がちょっとズレてしまったけど、とどのつまり、フィクションを大好きな語り手であるRさんが紡いでいくのかが楽しみだったし、そこから見える「R-指定」の表情を見るのが心の底から楽しみだった。それは、きっと、ストレートな「俺の話」の時は見えないそれだと思うのだ。



実際、今回のアンサンブル・プレイはこんな曲もCreepy Nutsやんの?!とひたすらわくわくし続けた。すげえ。まじで引き出しが無限大すぎる。



それはリリックを綴ったRさんの世界観の広さはもちろん、音楽を作り上げた松永さんの引き出しの多さの話でもある。本当にまじで何事だよ、曲調の幅広さえぐ。
どの曲も取り上げたいけど、なんならトラック6に入ってるMadmanは本当に初めて聴いた時においおいおいおいって声が出た。めちゃくちゃ短いんだけど、曲調もこの曲順、このタイミングででいれることにいくらでも深読み要素を持ってくるし、何事なんだよ。単曲での構成力もえぐい上にアルバムの構成力もエグくて二重構造で殴ってくる。勘弁してくれ。




ここからは、いやここまでも、完全にいわゆるオタクの……ヘッズ、と勇気を振り絞って表現したいんだけど……の勝手な感傷・妄想の話だ。
Creepy Nutsの魅力は、その身近さや「俺の話」に思わず共感してしまう距離感だと思う。ラジオを聴いてげらげら笑ってるうちにまるで昔からの友達のような錯覚になり、曲や言葉を聴き込めば聴き込むほど、理解しているような、もっと言えば「理解してくれてるような」錯覚を覚える。


そんなわけないのに。



アンサンブル・プレイを聴きながらそうして見てきた色んな表情・聴いてきた言葉たちもそんな群像劇の一部なのかもしれないと思った。
それは何も悲しい話でもなくて、むしろなんだか嬉しいという話なんだけど。
かつ、よくある「芸能人(アーティスト)のどこまでが本音か」みたいなサムイ話をしたいわけでもない。



つーかなんというか、私はいつもこの手の話について考えてる時、考えれば考えるほど、いやそもそもどんな人だってお互いに完全に理解し切ること、はないし、勝手な虚像を相手に見ることも見られることも、なんなら見せようとすることだってあるだろう、と思う。
表仕事をしている人がその数がそうじゃない人に比べて想像できないほど多いこと、また、その視線が無遠慮になることは、間違い無いけど。



このアルバムを聴きながらそんなことを考えて「どれが本当」とかどうでもいいな、と思ったというか、どれも本当でどれもフィクションなんじゃないか、とちょっとわくわくしたのだ。
その線引きは意味ないというか、しなくても良くてむしろ曖昧でそれが楽しいんじゃないか、と思う。




グロテスクさも大いに含む話でもあるんだけど。
友人Aを聴きながら思う。勝手な妄想とか思い込みとその現実のズレと、願望と失望と。それはどこか可笑しくて苦くて寂しくてなんか、でも、愛おしいんだよな。




人間が生きてるだけで勝手に紡がれていく勝手に物語になってしまうことにイライラしながら最近過ごしてたから、そんなふうに思うのかな。イライラして、でもちょっとそれが嬉しい気がして、虚しい気がして持て余した気持ちを相変わらず勝手に重ねてるのか。


ひとが見たいものしか見ないなら、見せたいものだけ見て、勘違いしてそうやって曖昧にやっていけないかな。



そんなことを、考えてしまった。

その物思いも、ロスタイムがそしてばかまじめが寄り添ってくれる。

アンサンブル・プレイ、群像劇、フィクションが必要なのは現実が容赦なく色んなことを面白くなく白々しく見せてくるからで、でもそれを「そんなもん」と諦めるのも嫌だ。単なる現実逃避じゃない、また明日、まだ、まだまだ、と踏ん張るための大事な場所なんだ。





そして最後、Outroで現実へと一歩一歩、足を進めながらCaseにも収録された「のびしろ」のTHE FIRST TAKE verで締め括られる。


そんな構成にも勝手にまだまだ彼らが色んな表情、表現、"アンサンブル・プレイ"を見せ続けてくれるのだというメッセージな気がして、なんだか無性に嬉しくなってしまった。
まだ、見たことのないのびしろをCreepy Nutsは持ってるって、そういうことですよね?!




優しくて面白くて最高にわくわくするアルバムが出たぞ!!!!!!



アンサンブル・プレイ

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ムサ×コジ〜究極!

ムサ×コジ〜究極!が面白かった。
思えば、X-QUESTさんを見出して、YouTubeで「ムサ×コジ ハイパー」の予告動画を見た時から、大好きな台詞のあるお芝居だった。




物語は、あの有名な宮本武蔵佐々木小次郎の巌流島での決闘から始まる。遅刻をしてくる武蔵、修行を極めた者だけにいる、第二、第三、第四の自分。
はちゃめちゃになっていく彼らの決闘。


そこから、遡るように武蔵の武者修行の旅が振り返られていく。
ところで、クエストさんのお芝居はかなり感覚的に楽しむのが楽しいタイプのお芝居だと思っている。考える前に感じろ。
その上でこのムサコジはさらにその色が強いように思う。
武蔵が色んな"強えやつ"を倒していく中で、彼が何かを苦悩したり逆に何かを得たり、という描写は限りなく少ない。


そしてその理由は、後半明かされる。
何かを得るとか成長とか、そんなものは武蔵にとってはたぶんどうでもいいのだ。どっちでもいい。副産物的に得るものがあったとしても、それはあくまで「副産物的に」だ。
ただ、楽しいからやっているのだ。


平凡で凡人な自分でも、それをしているときは楽しい。神的なものを感じる。ただただ、突き詰めたいと思う。

ぶっ刺さった台詞は、小次郎が武蔵を倒そうとする理由を語りそれに返す武蔵の台詞だった。

さっきから喋っている台詞のような空っぽの言葉は、それは偉い人が言っていたことだ。昔からよく言われてきたことだ。
物語を作ってきたひとが、動機付けで作った理屈のうちの一つだ。


もう少し台詞自体は続くけど、あの美しくて心地いい台詞は、お芝居の中で出会って欲しいから中略する。
そこから武蔵が聞く。


お前はそんなことがしたいのか。お前はそんなことが本当に言いたいのか。

私は、この台詞を聴いて本当に嬉しかった。その問いかけに対する答えを武蔵自身が出す、その答えが本当に嬉しくて、ああそうか、そうだよな、と思った。
しかもこの台詞、武蔵を、淳さんが演じているんですよ。私は淳さんの長台詞が、台詞回しが本当に好きで、そんな役者さんが自分が好きだと思う言葉を紡ぐの、本当に。もうなんか、幸せだな。嬉しいな。この台詞は今までも(ハイパーを見た頃から)大好きで大切な言葉だったけどますますお守りになってしまうな。


このシーンの最後、殺陣に入る瞬間の表情を噛み締めながら思う。




何か、意味がないと得るものがないと、学ばないと存在しちゃいけないわけじゃない。楽しめないわけじゃない。



エストさんの言語化できないストーリー、いや、言語化するととてつもなくシンプルになるけど、でも見た私にとってはそれだけじゃないお芝居は、まさしくそんなものなのかもしれない。言葉も追いつかないくらいの、なんかすげえ!みたいな、なんかすげえ楽しかった!みたいな感覚。


あのすげえ殺陣とダンスとを「体験」するからこそ、感じられるお芝居。人間の限界というか、すごい次元での「体験」は、でもただ楽しい、のだ。楽しいから好きなんだ。
ああ、あの劇場に帰りたいな。



私は、自分の好きに極めて自信がない人間で、好きだと思うたびに「本当に?」と自問自答してしまう人間だ。
でもなんかこのお芝居を見ながら、もうそんな不安に思うことはないのかもしれないな、と思った。何度も何度も劇場に通い、DVDを見続け、大好きだ大切だと思ったクエストさんのお芝居は、今回も配信でも、大好きで大切だった。
何がどう面白いかを説明するのは難しいけど、それでも、楽しくて面白くて大切で大好きだ。


ものや気持ちの形は変わる、好きはいつか終わる。
そう思っていたけど、だけど、そうじゃないのかもしれない。



嬉しいも悲しいも脳の高ぶりで電子信号でしかなくて、でもそういう脳の反応が、積み重なって私を作っている。


ああほんと、好きなものがあるだけでこの世は楽しいな。本当に本当にそうだな。




最後、配信にカーテンコールと写真撮影の時間を入れてもらえたことも、本当に嬉しかった。体験、のクエストさんのお芝居をそれでも配信でも限りなく届けようとしてくれたキャスト・スタッフの皆さんに本当に心からの感謝をお伝えしたい。
世界が変わって、もう戻らないなかで新しい形が生まれていくこと。その中でも、続くといいな、と思うことがあること。
見終わってからずっと、考えている。考えて考えて、やっぱり好きだな、と思うので、こうして文にして言葉にしようと思った。
迷ったり自問自答の負のループにまたどうせハマるんだろうけど、好きだから、で良いじゃないかと自分に返してやりたい。だってどうしても、我慢できないくらいに、好きなのだ。
そうして、そんな好きなものがたくさんあるこの世が、私は楽しくて仕方ないのだ。

祝 メロンパン号キャラバン完走

最初に、意外に小さいのだ、ということに驚いた。
その後からいや普通に大きいし、と思い直したけれど、頭の中でいつのまにか大きくなった存在のままサイズ感を想像していたらしく、思わずまじまじと見つめてしまった。


メロンパン号に会ってきた。
MIU404で志摩と伊吹が乗っている車、愛車、メロンパン号。
2020年の放映終了後から、全国を回っていたその車とようやく会うことができた。




ちょうどこの2年引越しをたびたびしたせいで、絶妙にすれ違い続け、いつかまた近くにきた時に、と念じていた私に届いたのはキャラバン終了のお知らせだった。しかも絶妙に近くない。物凄く遠くはないが、当日の朝思い立って、にはちょっとハードルが高かった。
でもどうしても行きたかった。


たびたびこのブログでも話をしてきた通り、私にとってMIU404は、大きく私を変えた作品だ。それは、具体的な何かの変化をもたらしたわけじゃない。仕事もその時は辞めなかったし人間関係が大きく変わったわけでも新たに始めた趣味もない。かろうじて言うならラジオを聴き出したきっかけと言えなくもないし、星野源を好きになるきっかけであるといえばそうなんだけど。
ともかく、そういう目に見える変化というよりかはもっと深いところ核みたいなものに影響した。そしてそれが無ければ、今の私は全然違う形だったと心の底から思ってる。


だからどうしてもメロンパン号に会いたくて、そしてたまたま今年の私は何度か愛知に行く必要があり、ああそうだ、じゃあこの予定とくっ付ければいいのだ!と思い立ってお願いし、なんとか予定の前、メロンパン号に会った。






どんな気持ちになるんだろうと思っていた。私にとって、メロンパン号は、MIU404はとても大きくて、大切で、だからもしかしたら泣くかもしれないし、でも周りに普通に観に来てる方が多い中で泣くのはやばい。さすがに泣くとしても静かにさめざめと泣くつもりではあるけど、まあしかし感極まった!という人間がひとりいることは空間的にうるさいし、誰かにとっても大切な存在であろうメロンパン号との逢瀬の時間を邪魔するのは嫌だな、え、もう、観に行くのやめようかな。
そんな面倒なもの思いを4.5周して、とうとう、メロンパン号に会った。



思ったより小さくて、思ったより私は静かだった。



頭の中、勝手にヒーローとして大きくなった存在はただただ静かに停まっていた。近くには、これまた大好きな志摩の自転車もある。



頭の中で、メロンパン号の色んなシーンが浮かんだ。
2話の会話、ベローンってなってますよ、と差し出した万国旗、押したメロンパンの歌が流れるボタン、メロンパンは売り切れなんです、と答えた窓、メロンパンください、という坂本さん、高校生を追い久住!と叫びながら走らせたマウンテンバイク、行ってこい!と叫んだ後ろのドア。





全部実在していた。メロンパン号も、MIU404も、伊吹や志摩たちも、たぶん、全部全部、みんな、そこにいた。




2020年冬、手元に届いたMIU404のシナリオブックあとがきで、野木さんが書き残してくれた。


(中略)私たちは同じ地獄を生きています。共に苦しみ、共に抗い、戻れない時を刻んでいくしかない。だからどうか死なないでください。あなたが死んだら悲しい。少しでも先延ばしにして、伊吹と志摩が間に合うように、生きていてください。


私は、何度も何度も、その文を読んだ。読んで、そんなことがあればいいな、と思った。でもどこか、そんなことはないと思いながらの「そんなことがあればいいな」だった。
せいぜい、二期だとかそういう現実的な「間に合う」を想像していた。



だけど、あの日、メロンパン号を見てああ、間に合ってくれたのか、と思った。思って、そうして、でも感極まって泣いたりせずにただただ「なんとかメロンパン齧りながらここまでやってきたよ」と静かに思えた自分が嬉しかった。




私にとって、やっぱり、MIU404は実在する物語なのだ。




一旦、メロンパン号はその長い長い旅路を終えてゆっくり休むらしい。日本全国、私のようにあの日からメロンパンに齧り続けて毎日を続けてきた人たちに笑顔を届けてくれたことに心からお礼を言いたい。
それから。
いつかまた、会えますようにと願わせて欲しい。私はその日まで、また頑張るので。また会えたその時、あれからも頑張ってたよ、と胸を張れるように、明日からもまた自分の0地点に何度戻っても、ここからやっていこうと思う。

2022.8.29 押忍フェスの夜

夏がそこそこに地獄だった。
熱中症で倒れたり壁に向かって恨み言を言ったりとてもじゃないがここでは書けないような物思いに耽ってはそれをまた朝には丁寧に押し入れの奥底に仕舞い込んだせいでいつまで経っても毒素が抜けず、抜けないままにここまで走り抜けてしまった。



いきなり、ライブに行くことにした。
計画性がないと言われることは多いけど、予定の前に心構えがいるタイプなので楽しい予定であっても事前に知りたい。その上、行ったことないハコに行くのは方向音痴的にハードルが高い&フェスへの経験値の低さ的に迷いに迷って、それでもどうしても梅田サイファーが観たくて、仕事を半ば無理やり終わらせて電車に飛び乗った。



ライブってすげえよな。許せないような心地とか、どうしようもない閉塞感とか、怒りとかそういうの全部、どうでも良くなってしまった。



8月29日に開催された押忍フェスは、ボーイズユニット・HIPHOP・レゲエと主催の方が好きなものを詰めまくったフェスだったらしい。
仕事で途中から入ったのが悔しいくらい、音楽が楽しくて楽しくて、まだ目の前がきらきらしてる。
本命の梅田サイファーはもちろん、ほかのアーティストのライブも、最高だった。何より、私は、それを幸せそうに味わうひとを観るのが大好きなんだ。
ロック、HIPHOP、Jポップ、レゲエ。音楽のジャンルに詳しくないからかもしれないけど、本当にそのジャンルに垣根なんてないんじゃないの、なんて思った。だってそれぞれ全部最高で楽しい。どのジャンルがイケてるとか偉いとか、全然ないんだな。




時期柄、ある程度ゆとりのある空間だったから身体が軋むくらい踊った。踊るのが苦手だとずっと生まれてこの方思ってきたけど、踊るのは楽しかった。音楽を聴いてたら勝手に身体が揺れた。知ってるとか知らないとか関係なく飛び跳ねる、拳を挙げる、楽しいと思いながら、いつだか歴史の授業で習ったことを思い出していた。




踊る阿呆に観る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃそんそん。




初めてその言葉を知った時、良いな、と思ったし、そんな光景は今はもう想像でしか見れないな、と思った。
そんなふうに言うけど、今は踊るなんてバカのすることだとでも言いたげだと思う。みんながみんな観客席から降りてこないどころか、審査員席に座ってると錯覚している人もいる。
どっちが阿呆だよって毒付きたくなりながら過ごしていたけど、そういや、ここじゃみんな踊ってるな、と思った。しかも、勝手な振り付けで踊ってる。みんながそれぞれ、好きに音楽にのって踊ってる。
それに気付いた時、泣きそうになった。
あの授業中、観てみたかったと願った景色が実在した。自分の生きる時間で、同じ空間、私はいるじゃないか。




そして、梅田サイファーのパフォーマンスを生で初めて見た。
生でとうとう観れた。
元々7月に行くつもりだったライブが延期になり、それからKZさんとテークエムさんの出演するライブを観て、いつか"梅田サイファー"を必ず生で観るんだと心に決めた。
音源を聴きながら配信ライブを観ながら、想像して、わくわくした。
そうなんだよ、ライブという意味でも私は「夢にまで見た景色」を見たんだよな。




去年やっぱりぐったりした夏にほとんど知らないまま聴いた梅田サイファーのオールナイトニッポン。そこで語られたエピソードが本当に好きで、音楽の前にその空間を想像して良いな、と思った。
でも、音楽としてパフォーマンスとして出会った梅田サイファーは予想を遥かにブチ越えて最高だった。




楽しいこととか好きなこととか、ただただ日本語ラップサイファーが好きなこととかそれが最高にイケてることで楽しいことだってこととか。
自分が一度手放したものと重なるからかもしれないけど、だからやっぱりこれは勝手な感覚を大いに含んでるんだけど、今、私は梅田サイファーのパフォーマンスが観たかったし、観て良かった。
手放すもんか、と今年に入ってもう一回確認して、今年どころかいつも確認し直してるんだけど、それで間違ってないよと言われたような気がしたのだ。それが勘違いじゃないと思いたかった。勘違いだし身勝手な感傷でもいいから、それを音楽を聴いてもっともっと強化したかった。



楽しいとか面白いとか好きだとかそういうシンプルなものに戻ってこれた気がする。
私はこういうのが好きなんだと思ったし、こういうものにたくさん出会える自分の人生を肯定できるような気がする。



梅田サイファーの人たち、それぞれがパフォーマンスしてる時、すげえ嬉しそうで楽しそうなんだよな。あの景色、ずっと覚えてられるかな。忘れそうになったらまた観に行こう、聴きに行って最高の音楽で身体を揺らそう。
ひとまず、忘れないために買ったアルバムに書いてもらったサインを何度も見返しながら、あの景色を反芻しながらプレイリストに組んだ彼らの音楽を聴いてる。


うん、大丈夫だ。

朝までの夜の散歩

数年ぶりの花火大会の効果か、空気が火薬っぽい気がした。たぶん気のせいで、そもそも我が家のまわりまで花火大会の気配が届くことはないだろうし、火薬の匂いを嗅いだような気がしたのは花火大会があるんだよな、と一日中考えていたせいかもしれない。



この二年、伝わらないということに何回も打ちのめされている。
何回も、になってるんだからそろそろ慣れてほしいと他ならない私が一番思ってるし、最近じゃいつまで経っても慣れないことに苛立って向いてないな、と思う。生活にも何かを積み重ねることにも、向いてない。勘弁してくれと思う。




言葉を尽くして心を尽くして、伝えて伝えて伝えても、伝わらなかったらどうしたら良いんだろう。
呆れたみたいなもしくは優しい顔で「普通は」と言われるたびに途方にくれる。普通は、みんなは、そんなの当たり前じゃん。


うまくやっていけない、当たり前がわからない。
なんでそうなの、と言われるし普通はこうだよ、と言われる。その度に考えて考えてそうあろうとしてそれでも毎度、うまくいかない。




だけど、その「変わってる」も結局は中途半端なのだ。日常生活を社会生活を送っていけないほどじゃない。才能と呼ばれる何かになって飯の種になるほどでもない、表現と呼ばれる何かになって誰かに届けられるものでもない。
日々という道を歩く時にあちこちにぶつかって痛みだけ寄越してくるそんな「変わってる」を完全に持て余している。



そこまで言葉にしなくていいと言われるし、言葉にしたらおかしいと言われるしじゃあこれどこに持っていけばいいんだよと途方に暮れている。
かと思えば無自覚に投げつけられた言葉が誰かを大きく抉っていったり壊していったりするのを見てめちゃくちゃ怯む。でも同時になんでああして言葉にする人はいるのに、なんて考えてしまってやっぱりそんな自分にうんざりもする。
こんがらがる、という言葉がぴったりな状態はがりがりと自分を削る。




まあでも、そんな状態になった時の解決策を今の私は知ってるのだ。


去年の秋、どうしようもない気持ちで行ったCaseの神戸公演
春に逃げるみたいに行った生業札幌
これが好きなんだと確認した生業大阪
それから、伝わるのだと信じたくなった大阪野音
まだやるんだと決めたMaison de SIGNの記念イベント


その時間のひとつひとつが「ここにきたら大丈夫」と言う。




野音で出逢ったSHINGO★西成さんpresentsの米カンパライブに行ってきた。行くと決めた日から、大丈夫だと念じるための予定になった。



HIPHOPのストレートな表現に、色んな表現があってそれが同じ空間でぶち上がることに、それを全然違う色んな人が楽しむことに。私は元気をもらう。まだ大丈夫だと確認する。



ジャッジする側だみたいな顔をして無遠慮に評価して消化してって、なんでだよって思うことが多過ぎる。だからもう分かんねえなって放り出したくなるし、そんな中で「俺の言葉」だけを話してくれる人たちの言葉を重ねて重ねて音楽を表現を作ってくれる人たちに出会えて良かった。
ああそうだよ、勝手な感傷だよ、錯覚だよ。
理解してもらえない伝わらないってことは自分も理解できなくて受け取れないってことだって思うから、もしかしたらどうしていいかわからなくなってたのかもしれない。

本人に伝えることを諦めるのは、たぶん、受け取ってもらえないと諦めてるからだ。期待していない。言葉を尽くして伝わらなかった時、もうその人とどんな顔をして会えばいいか分からなくなってしまうから、伝えない。蓋を開けなければ、中身は分からない。
そうやって、押し込めてきたものを目の前に広げられることがある。大丈夫だと手を引かれることがある、そう錯覚できる時がある。



今年、何度もHIPHOPに救われてきた。もうダメだと思った夜には携帯の中、HIPHOPを流して夜道を歩く。自分の好きなひとたちが歩いた、みた景色を想像しながら、お気に入りのひたすらに甘いカフェオレを飲んでただただ歩く。
歌われるHIPHOPはそれぞれ歌おうとしてることも伝えようとしてることも違って、でもそのどれも、音楽やHIPHOPは最高っていうその一点は一緒で、なんだかそれだけでいいとその時だけは思える。そういう場所が私にはいるのだ。




そして私はそういう場所がたくさんある。
劇場、映画館、喫茶店に居酒屋、ライブ会場。図書館に本屋、川べり。
そういう一つ一つが必要で、その時々に訪ねる先を変えている。何か一つに絞ることの誠実さを誰か一人だけであることの豊かさを知ってはいるけど、私には「どれか一つしか特別はないんだよ」がどうしても理解できない。ずっと考えてみたけど、全然理解できなかったや。




花火大会じゃきっと綺麗だね、なんてきっとみんな言ってたんだろうな。そのお腹の中、思ってることも信じてることもばらばらでも、綺麗だって笑ってたのかな。少し離れたところじゃ、全然違う景色が広がっててもまるで全部うまくいってるみたいに。
手を挙げた私たちだって、ここに迷わず来た人、迷いながら来た人、感動してるひと、興奮してるひと、特に何も思ってないひとがいたんだろう。でも、その中身なんて見えないまま、楽しいという幸福感がその場を満たしていたのだ。
それを責めたいなんて話でもなく、むしろ、そんな光景があり得るんだということを繰り返し口の中で何度も念じてなんとかやっていきたいとだって思ってる。




こんな文を書いて何になるんだろうなって思ってる。でも愚痴で吐くよりツイートするより、文にすれば100分の1でも錯覚を起こせる可能性があるんじゃないの。そんなことをまだぎりぎり信じてる。そうとすら、思えなくなったらさすがに終わりだと思うので。