えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ウタのライブのあの席にいたのは私だった

※映画ONE PIECE Film REDのネタバレを大いに含みます



ウタに向いた愛情も憎悪も冷笑もどれも覚えがありすぎた。あそこに、あの観客席にいたのは、たぶん、他でもない私だ。




ワンピースの映画を映画館に観に行ったのは何年ぶりだろう。
その上、ぶっ刺さった要素が周りの声と比べてズレてる気が薄々してきた。


そもそもこの映画は話題が盛りだくさんになってる。
ウタがシャンクスの娘である、というとんでもキラー設定により賛否を呼び起こしまくっているし、
ついでに言えばあのキャラもこのキャラも詰め合わせ、キャストスタッフともに超豪華みたいなお祭り映画なわけですごい騒ぎになっているわけだ。


ウタというキャラクターがワンピースという世界に及ぼした波紋とか、親とは、という話とか。
話し出すと止まらないくらいの要素が詰まっていて、かつそのどれもがかなり強いので、人によってはそのうちのどれかが飲み込めないということはあるだろうし、そうなると映画自体が楽しめなくなることはそうだよな、と思う。



そして私は、もちろん、それらの話だってしたいのだけど、私がここまで観てから数日考えた理由はきっとそのどれでもない。



私がONE PIECE REDがぶっ刺さった要因はただ一つ。
ウタが所謂世界中を熱狂させる歌手であり、
そしてストーリーがそのウタの初めて人前でやるライブによって進むというそのコンセプトである。



冒頭からライブに向けた熱狂、この2年間人々にとってウタが、そしてウタの音楽がどういうものだったかが描かれる。




私はライブが好きだ。音楽が好きだし、生のエンタメが好きだ。
ライブとして楽しいので、と先に見ていた友人達が口を揃えていっていたことをすぐに納得した。できたらぜひ良い音響のところで私も見て欲しい。


だからこそ、そこにああして喜び、手を挙げはしゃぐ人々の気持ちが痛いほど分かった。この音楽、この瞬間のためにやってきたのだ、と思うような瞬間を、私は知っている。

しかし、その気持ちは徐々にひりひりした気持ちに変わっていく。ウタちゃんは良い子だ。可愛くて、フランクなキャラクターは親しみやすい。でも、その子は色んな人から想いを託され、その一つ一つをなんとなくで受け取らず全部全部真っ正面から一つも取りこぼさず、受け取って、"世界を変える"計画をぶち上げてしまう。



私は、音楽で世界を変えられると思っていない。
楽しいことだけの世界になればいい、とも思っていない。そりゃ、なれば素敵だ。
悲しいことのない世界。楽しいことだけあって苦しみはなく、みんなが笑ってる世界。そんなものは存在しないのだ、とそれでも思う。だって幸せも楽しいも人それぞれで、かつ、きっと苦しいや「変えたい」という思いがなければ世界は止まってしまう。
だからこの世はずっと苦しいし人間はクソだし、音楽はエンタメはそんな地獄で寄り添ってくれるものであって、なにかを変えたりはきっと、しないのだ。
変えられるとしたらそれは、暴力でしかないのだと、私は思う。



まあでも、それを願って祈って、寄り添ってくれた音楽にそれを生み出したひとに、勝手な願いを信仰を感情を、押し付けたことが私は何度も何度もある。
その感情願望が暴力だと何度も自問自答して、相手は神様でもなんでもなく同じ人間なんだと確認して、そうやってなんとかやっていってるひとりのオタクである私にとって、ウタの言動、一つ一つが刺さった。
ごめん、もう良い、もう良いよと何度も心の中で言いたくなった。でも、きっと、私たちのためでもあると同時に、彼女自身のためでもあったあの行動をどう思えばいいのか分からなくて、まだずっと考えている。


ああ本当に、ままならない。




自分の力の暴走の結果、人々を殺し島を一つ壊したのだと知っていたと吐露するウタが、それでもこの計画を止めることはできなかった、と言われたシーン。心臓が痛かった。
その時のことをずっと考えている。
自覚があったなら、知っていたなら何故止まれなかったのか。その理由を考えれば考えほど、私は苦しい。




活動1年で、その頃には「ウタの歌、音楽に救われました」って言葉を受け取ってるだろうからこそつらい。


その時知ったとして「実は私は島をひとつ滅ぼしていたみたいです、自分の歌は誰かを幸せにできません」なんて言えるだろうか。



それは自己防御というのももちろんあるけど、ぎりぎりのところで自分の音楽を支えにする人を大きく傷つけて裏切ることになるのだ。
(ということを、フィルムを聴いて自分がここで自殺したら、死んだら自分の音楽を聴いてくれたひとを裏切ることになるって踏みとどまった源さんのエッセイを読んで思うなどした)




じゃあせめてシャンクスを恨むな、と言えばそうなんだけど、整合性というか、自分を言い聞かせて思い込ませて、誰かのせいにしないと生きていけなかったウタの弱さだし愛おしさだろうな、と思う。
というか、知ってからどんどん今回の計画に向けて追い詰められていったんだろうな、という気持ち。


あとウタ的にシャンクスにだからこそ近くにいて、助けて欲しかった、はあるかもしれないし、でも同時に自分が島を滅ぼしたから嫌われたのかもしれないって恐怖もあっただろうし、と思うと、ウタの絶望的な気持ちや恐怖を感じて具合悪くなる。
そりゃあんな無茶苦茶な計画立てるよ…。



無茶苦茶だったけど、そこにあるのは痛切で強くて優しい願いだった。
どこかで掛け違ったボタンが、押し損なったスイッチが、悲しい方向に突き進むことを、それに私たちが憧れ、大好きなルフィやシャンクスが手を伸ばし続けるのを、ひたすら、目に焼き付けていた。



自分が、日々好きだと思うもの。これがあるから生きていけるのだと身勝手に感情を願いを託してきたもの、ひと。
そんな大切なもの一つ一つのことを、考えていた。どうしたら、とずっと考えていたし考えている。
それでも、そんなものがひとが私は好きで大切にしたくて生きていく中で必要で、でもその感情をただ「良いものだ」と呼ぶのには懐疑的で、そうやって、ずっとやっていこうか。



何かをただただ楽しむことの暴力性についたも容赦なく描いた上で、でも音楽が何より映画がどれだけ素敵なものかも見事に描いたこの映画が、私は大好きだ。


答えは出ない。考え続ける。でも、それで良いのだ。
こうだから間違えていた、正しかった、そう言い切るんじゃなく、考えて考えて、生きて歌うこと、楽しむこと。目の前の誰かを大切にすること。
変わらず、楽しい冒険を、仲間を描く物語を生み出し続けてくれているのだと久しぶりに体感した私が分かるのは、今はただ、そうしてこうして出会えた物語を真っ直ぐ大事にしたいというそれだけだ。

おげんさん第六夜の夜

おげんさんで聴いた異世界混合大舞踏会(feat.おばけ)のことを考えている。


いつのまにか、年に一度の楽しみになったおげんさん。今年は夏に開催(ただしくは放送、なんだけど感覚、開催、って思ってしまう)された。
ゆるく、楽しく。音楽を楽しむ。おげんさん一家が、好きな音楽の話、好きなものの話を、あの独特のただただあったかい空気の中でやる。
それは半ばパブロフの犬的に「これを観てる間は大丈夫」という安心感が私の中にはある気がする。



音楽は、どんな時に聴くかで景色が変わる。
音楽自体がそれをいつ聴いていたか、思い出が焼きつくわけだけど、更にその音楽だってその時何を思ってるか、どんな体調かで全然顔を変える。



異世界混合大舞踏会(feat.おばけ)は私の中でライトに楽しく、踊りたくなる気持ちそのままに聴く曲だった。お!ば!け!が!で!る!ぞ!とひとりで家にいる時は小躍りしながら歌い、踊る。
そんな曲に何故か私は、おげんさんで聴いて号泣してしまった。
楽しいな、面白いな、そんな気持ちを噛み締めながら観ていたはずなのに、そしておばけ(とこの曲のことを呼んでいる)はまさしくそんな曲なのに、何故か泣けてきた。


視えなくても自分たちと同じ世界のどこかにいるお化けたち。一緒にほんとは踊ってて、時々そんなものたちと交錯するのかもしれないし、だとしたら楽しい。害をなすとか、逆にたすけてくれるとか、そんなんじゃなくて、ただいるだけ。でも時々、一緒に遊べるかもしれない、そんなひとたち。
そう思っていたんだけど、ふと、今回思った。
もしかしたら、そんな存在は自分たちが作り出したのかもしれない。
いやお化けや妖怪は人間がいようがいまいが存在してて欲しいと思っているけど、同時に、どうしようもないこと、を、お化けや妖怪のせいにしてなんとか飲み込んできた人間のことも、私は結構好きなのだ。しょうもない、とも思うけど、かなり、好きなのだ。

胸の闇を食べながら歌い出す


そんな歌詞が何度も聴いてきたはずなのに、今回くっきりと耳に飛び込んできた。
許せないこと、怒りや悲しみ、もしくは嬉しいこと、楽しいこと、言葉にもならないこと。
そういうものに妖怪やお化けとして形を与えること、そうしてなんとか、歌い踊ること。そんなことを思い出した。
涙を拭いて、遊ぶしかない。その言葉を噛み締める。



私にとって、おげんさんは何かマイナスの方に引っ張られるためじゃなくて、でも誤魔化したり麻痺させたりするんじゃなくて、嫌なことは嫌なまま、でもそれでも笑って遊ぶために必要な場所なんだな。おげんさんが、だし、星野源が作るものが、ずっと私にとっては、そうなのだ。
そんなことを噛み締めていたら締めが地獄でなぜ悪いでもう、極め付けっぷりに泣きながら笑ってしまった。
私は地獄でなぜ悪いが好きだ。無駄な悪あがきとしてまだ星野源は好きではないと言い訳してた頃からあの曲がずっとずっと好きだ。
生きることこそが地獄で、どうしようもなくて、それでも、生きていくのだというあの曲が好きだ。その歌詞を、あんなに明るく強く、派手な演奏と一緒に歌い上げてくれる星野源が好きだ。


作り物で悪いか、とおげんさん一家が歌い出した瞬間を、何度も何度も思い出してる。頭で再生し続ける。
ちょっとへんてこなあべこべな本人のキャラが覗いたりする、愛すべきあのおげんさん一家が、色んなものを作り出してきた彼らが、あの歌詞を楽しそうに歌ってくれたことが、どれだけ嬉しかっただろう。


打ちのめされることが多くて全く嫌になるけど、絶望はしていない。私は地獄で生きているけど、その地獄には一緒に踊り歌うひとたちがいるのだ。お化けも人も、歌って踊って泣き笑いしながら、生きてくのだ。

塚口流映像業界就職説明会

塚口流映像業界就職説明会」
そう銘打たれたラインナップに心が躍った。塚口サンサン劇場が好きだ。音響も施設全体の雰囲気もスタッフさんも、綺麗なお手洗いも大好きだし、何より、そこにかかる映画が、そこに向けられる愛情が好きだ。
その上、今回この説明会、と題され上映される3本はどれも観たいとずっと思っていた作品群だった。



ハケンアニメ!」
「映画大好きポンポさん」
「劇場版SHIROBAKO



映画を撮るか死ぬか。
それは、映画大好きポンポさんのポスターに印刷されたキャッチコピーだ。
これがないと死ぬ、という切実さのないまま、そのくせ、映画をエンタメを観ないとうまく生活できない自分の中途半端さに私は何度も打ちのめされてきた。
だから、この就職説明会を観ながら自分が「選べなかった」選択肢の向こう側にいる人たちを観るような心地になっていた。ふと、この観客席に座っている人たちはそれぞれどんな気持ちで座ってるんだろうと思ったりもした。




ポンポさんの中、描かれていたいくつもの描写にああそうだよな、と頷いていた。それが綺麗でわくわくするアニメーションで描かれていて、とどのつまりは画面の中、今正しく目の前、戦っている彼らと同じように戦った誰かがいるということだった。
(かつそれが、後述するけど、SHIROBAKOで丁寧に描かれていくのが観られるのは贅沢でしかないし、粋なラインナップだ)(いやそう考えるとやっぱりこの順で上映、大正解なのかも)
そして何より好きだったのはスイスでの撮影シーン。
ジーンは、観るからにコミュニケーションが得意なタイプではないように見える。その彼が、映画の撮影で役者とあるいはスタッフと楽しそうにコミュニケーションをとる。コミュニケーションをとる、というよりかはただただ、必要で楽しく実の詰まった会話をする。そのシーンが楽しそうで楽しくて、とってもとても好きだった。


そういう意味で、ただそれはキャラデザや途中入る過去の表現、彼自身の口やポンポさんから語られるごく少ない描写でのみの表現だったのも居心地が良かったな。そこを無闇矢鱈と、面白おかしく掘り下げるんじゃなく、本当に描きたい主軸にしっかり時間が割かれていた気がする。
全体的にポンポさんは所謂ただ盛り上げるための「イレギュラー」や「感動」は描かずに、それこそ劇中語られていた観客が間延びせず、楽しみ続けられる時間、が物凄く意識されていた気がする。おかげで、上映時間中、ずっと集中して楽しく観ることができた。



一点、過労を押してでも、全てを切り捨てでもものづくりをすること、という表現についてだけは観ることがしんどかったし、そこがあったから、最終的に私はこの物語に共感しきれず、感動しきれず終わってしまった。
ただそれは作品自体に罪は当たり前だけど全くないし、というかそのメッセージもめちゃくちゃ分かるし、実際、ああして命よりも、と今この瞬間なにかを生み出すことを選ぶ人はいる。そのおかげで楽しめた、楽しんでいる作品もたくさんある中で、その表現を非難するなんて、おかしな話だな、とは思う。

それでも、私はジーン監督が、また映画をたくさん作って欲しい。そこにはあの素敵な登場人物たちも関わっていて欲しい。



そう思いながら迎えた締めのSHIROBAKOはそういう意味でも「続く」物語である。ハケンアニメ!とポンポさんの間にあるようなエンタメを紡ぐ非日常とそれが仕事であるという日常を繋ぐような物語に感じた。
私は、残念ながらテレビ版を観ずに観てしまったわけですが(今回、劇場版を観て改めて観たいな、と思ったしきっとテレビ版を見切ったあとで見返す劇場版はさらに最高だろうな)
テレビ版のハッピーエンドからの"その後"の描き方、それから劇場版から続く"これから"の余韻の残し方に帰って振り返りながら唸った。
最高傑作を生み出しても生き続けて、また次を作ること。それは終わりのない地獄でもあるというか、決してやってこないハッピーエンドの話でもある。でも、そうやってまだ続く、まだこれからだ、を繰り返しながら私たちは生きている。



小さなアニメーションスタジオの人々。そこで描かれるアニメを作ることの楽しさ、難しさ、苦しさ。でも、そこにいるひとりひとりがただ天才、なだけではなく、仕事で苦しいこともあること。
それから、私は、SHIROBAKOの総務の興津さんがとても好きだった。ああそうか、こういう人たちも描くのだ、と嬉しくなった。
ただ才能だからすごいから、と片付けられることなく、ひとりひとりの仕事の積み重ねで映画が出来上がっていく。でもその中で、イカれてるような熱量とかがあって、そのバランスに、わくわくしたし、最後、もう、ひたすら笑顔だった。



アニメは、映画は、ひとりでは作れない。
ひとりで絶対に、というわけではないけど、自分だけではない力が集まってそんな中生まれるものにわくわくする。
良いものを作るというただその一点で関われる、そこでなら伝わる・伝えることを諦めずにいれる。
そんな人たちが、私はたぶん、大好きなんだ。



そして、そんな3本立ての中でもぶっ刺さったのがハケンアニメ!だった。なんかもう、訳がわからないくらいにぶっ刺さってしまった。




あの作品がぶっ刺さったのは、それが「これだ」と掴んで離さず、そうしてなんとか生きてきた人たちの物語だったからだ。


ハケンアニメ!に登場するのは"作るひと"だ。だけどその人たちはただ特別なひとではない、あの天才カリスマ監督と言われる王子監督だって、ただ「天才」なだけではない。
自分には何もないかもしれないと怯え、世の中を諦め、それでも歩かせてくれたものを知る、そんな「わたし」と同じ人々、だ。
思えば、それはポンポさんやSHIROBAKOの中で描かれていた人たちもそうだったのかもしれないけど、生身の人間が演じている分、よりそれが迫って感じた。



中でもぶっ刺さったのは中村倫也さんが演じる王子が言い放つ台詞だった。

リア充どもが、現実に彼氏彼女とのデートとセックスに励んでる横で、俺は一生自分が童貞だったらどうしようって不安で夜も眠れない中、数々のアニメキャラでオナニーして青春過ごしてきたんだよ。だけど、ベルダンディー草薙素子を知ってる俺の人生を不幸だなんて誰にも呼ばせない」

知っていると思った。その不安も、それでもそうして自分の中、想像の世界で過ごした時間を不幸だと呼ばせないと誇る気持ちも、どれも私は知っていた。
そうして思う。そうやって作り出した人たちと、私は何度も、物語の世界で出会っていた。それは関わっていた、というには一方的で些細で錯覚的な感情ではある。だけど、そこに、私たちはいたとどうしたって思ってしまうのだ。


物語があること、それを楽しむこと……いや、楽しむことしかないことをここ最近ずっと考えていた。それが何になるのかと思ったしただ楽しむだけの自分が嫌になったりもした。
だけど、ハケンアニメ!を観た時に思った。ここにいる。私はここにいる。あなたが作った、生み出したもので、私は今、たしかにここにいる。


こうして感想を書きながら結局私は「私」としてしか物語を楽しめないことにがっかりもする。自我を捨ててもっとフラットに楽しみたかったとも思う。ちゃんと楽しめているのかとも不安に思う。
だけど、どんな映画もエンタメも、私は私としてしか向き合えないと認めて、その上で楽しいこと楽しめなかったこと、その理由だとか全部、大事にしたいな。



ああそうか、なんか、違うんだよな。
画面向こうとこちら側、選んだ側と選ばなかった側。そう分ける必要だってもしかしたらないのかもしれない。それはなにも、世界は誰かの仕事で出来ている、という話ではない。いや、そういう話でもあるけど、でもここで私が感じたことはそうじゃなくて、そういう話じゃなくて繋がっている、ということなのだ。
というか、繋がっていたい、手を離したくない、という話だ、たぶん。
愛して、大事にして、それはただ、受け取って消費して、そういうことじゃないっていう、そういうあれだ。意地とか屁理屈とか、そういうものに近い、だけど信じていたい何かだ。




板の上のあなた
画面の向こうのあなた
あなたが削った魂分、私が受け取れているかはわからない。ただただ、あなたの命にタダのりしているのかもしれない。
それでも。
受け取りたい、抱き締めていたい。そうしてもらったように、そう返したい。


健やかであってくれ、食べて寝て、たくさんまた、新しい世界を見せてほしい。想像の、存在しない世界でだけ出会えるあなたとこれからも、会えますように。

犬王

見届けようぜ。
その言葉がキャッチコピー的に使われ、ハッシュタグになり、たくさんの愛情を書き連ねたツイートが流れてきたことに納得するような気持ちになった。


犬王を、観た。
情報解禁から楽しみにし続けていた映画を、観た。


目がほとんど見えない男と異形の男が見つけていく物語を私はずっと思い出している。



犬王の感想の中によく「まるでフェスだ」というものを多く観た。映画を見て納得する。
犬王の中で描かれる友有座がどんどん大きくなっていく様は、舞台でかます姿はまさしくライブそのものだ。


友有が謡い、鳴らし
犬王が舞い、謡う。



そしてそれを観て、人々が熱狂していく。
ライブが好きな私にとって、その光景は馴染みのあるものだったし、たまたま観に行ったのが無声応援上映だったこともあり、より"ライブ"感は増した。
ペンライトが静かに揺れ足が踏み鳴らされ、突き上げた拳の影が映る。なんかそれも、めちゃくちゃライブだったし「ここにいる」だった。
見届ける人々と見届けられる人々、それが合わせ鏡のように映しあって、くるくると回る。

私はライブが好きだ。ライブで普段溜めてる色んなものが爆発する様子を見るのが好きだ。
犬王の中でもイけてないとされる、目を逸らされる、ないものにされる、端に追いやられた人たちが出てきて、それは犬王や友一だし、そしてライブにくる人たちだ。


"選ばれなかった"側、"照らされなかった"側が自分たちで光り、選び、昇りつめていく。そんな姿に熱狂して、また上がっていく。




物語中、京都の街の様子が映し出される。貧しく、争いの火種があちこちに燻る姿。そしてそこで苦しむのは名前もない誰かだ。生活をし、毎日を必死に過ごすよく知る誰か。その人々が友有の語る犬王の物語に、犬王が語る平家の物語に心を寄せて自分を重ね、心を動かしていく。そして自分の好きな「友有座」を犬王を、友有を語って拡げていく。
その感覚だって、私はよく知るものだった。
ライブシーンの合間、映し出される生活や裏方の人たち。友有座の舞台を心待ちにし、語り継ぐ彼らも普段は彼らの生活を続けている。その様子をそんな人たちの笑顔をたくさん映してくれたことが、私はたまらなく好きだった。
イけてないとされてる自分たちを最高にイけてるとかます彼らにそうだそうだと拳を挙げて重ねて楽しむ彼らが、それでも、その自分の人生を生きる人たちも紛れもなくそこにいて、我々観客が「見届ける」こと。
だんだん自分が画面の向こう側にいるような錯覚すら覚えた。




「見届けようぜ」と見届けようとすること。ただ観て欲しいだけ、そこから何かを求めているわけじゃなくて、ただここにいるだけだと知ってくれるだけでいい。
それは、平家の亡霊だけではなくてあの画面の中で映し出された人々も、それから私たちだって思っていることなのかもしれない。

だから犬王のエンタメを人(内外)は求めるのか。意味の有無ではなくて、ただ、ただそこに在ること。それを蔑ろにされることは、きっと、一番堪える。
なかったことにされる、いらないと言われた人たちが舞台の真ん中に躍り出ること、いや、その躍り出る舞台すら一から自分たちで作る姿は痛快で愛おしく、背中を押されるような気持ちにすらなった。
私たちは犬王の、友有の名を呼ぶ。彼らが「お前らがそこにいること、分かってるぞ、見えてるぞ」と言ってくれたと錯覚しただけ、大きな声で、ここにいると互いに言い合う。



だって、存在とはきっと受取手がいて初めて成立するからだ。
一方で犬王は、自分で決める、自分の在り方は自分で決めている(決めた)ふたりを描く物語である。

自分で名乗る名を決め、姿を決め、生きていく。
自分の人生はいつだって、自分で決めていいのだ。



でも、名前を変えると見つけられない、と描かれることも含めて最高だったな。
自分で決めて、そしてそれを呼ばれることで存在する。
自分の、呼ばれる名を決めるのは自分自身だ。だけど、その名を呼ぶ人がいる。
その人が呼び、呼ばれることで姿形がはっきりする。それはどちらが先だとか、どちらがより大事でより上だとかというものではない。



自分の足で立ち、生きていく彼らに熱狂すればするほど、私は自分の人生を、足を確認したくなった。
自分たちの代わりに誰かの昇華に託すこと、それでも託したとして、人は自分の人生しか生きていけない。
だけどそれは、何も悲観的な感覚ではない。自虐的な確認でもない。自分の人生はいくらでも自分で決めて良いのだと、そうして決めた名前を呼ぶ人はきっといるのだという物語をここまで力強く描かれて、どうして悲観的になんてなれるだろう。



ところで、それ以上に私がこの物語が好きだった理由がもう一つある。
それは呪われた人、理不尽に晒されたふたりが、楽しいや面白いを選ぶことだ。そしてそれが人々の視線を集めることである。


これは綺麗事かも知れないけど。



犬王が、友有が内側に抱える悲しみや怒り、恨みが描かれていないわけじゃない。でもそれを踏まえても彼らは楽しいを選ぶ、面白いを選ぶ。謡い、踊ることを選ぶ。



2021と書かれたコピーライトについ、想いを馳せてしまった。失われたもの、追いやられたもの。
1年待った、その中でこうして物語が届いたこと。拡がっていったこと、面白いこと、楽しいこと。




一番の復讐は幸せになることだというのに似ている。暴力は共感されにくく、継続性がない。
共感に近しいものを得れたとしても、それはやっぱり共感、ではない。
楽しいこと面白いこと、それを作り出すこと、そしてそれが誰かに届くこと。そんなことが、やっぱり、一番強いのだと思う。思いたい。

彼らが笑う声が、彼らのエンタメに心を動かして歓声をあげる人々の声が耳の奥、残っている。
だから私は自分の足で、楽しいに向けて歩いていきたいと思う。きっとその姿を、見届けてくれるひとはいる。

selectshop MAISON de SIGN2周年イベント

頭の中がごちゃついてる。たまたま知ったライブで、梅田サイファーのライブが延期になった悲しさだとか色んなことがうまくいかない嫌気だとか、好きな曲生で聴けるかなあっていう打算とかでつい1週間前に行くことを決めたライブ。
そこであったことを覚えておくために、とりあえず文を書こうと思ってる。



selectshop MAISON de SIGNの2周年企画のライブに行ってきた。1アーティスト45分持ち時間のショーケース制のライブ。
ところで、その中身が最高だった話をする前に、予約時点でかなり元気になった話をしたい。

そこそこ遣る瀬無い気持ちをなみなみにしていたので、それを吹っ切るためにと思い切って予約したライブ。そこの予約の際の備考欄に気になるアーティストの出演をきっかけに予約したこと、ほかの人のライブも楽しみなことを書いた。
その予約確認メール。あまりの手際の良さに自動返信かと思いきやコメントが一言添えてあった。私が気になるアーティストさん以外にも素晴らしいアーティストさんがたくさんいるので、当日楽しんでください、という一言。



世の中に楽しいエンタメは溢れていて、色んな人がいて、しかもそのどれもが大体オートマ化しているので忘れがちな「イベントの向こうに人がいること」を私は改めてその時実感した。
しかもその人は自分の好きなアーティストをはじめ、その人が大好きな人たちを集めて最高の時間を作ろうとしてる。なんかそれだけでもう、かなり嬉しかった。噛み締めたし何度もメールを読み返した。これだけでなんか十分、幸せな気持ちになった。

誰かが音楽を楽しんで、しかもそれがあれば最高のイベントになること、それがお店のお祝いになること、パーティーなことを確信しているということ。それはなんだか、最高で、嬉しい事実だった。



そんなわけで、体調を崩さないように祈って朝一、熱測って平熱でコンディションも悪くなくて迎えたライブ当日。
とんでもない時間で、それを少しでも真空パックにして忘れたくないのに、でもたぶん、間違いなく忘れていくんだろう確信と、それでも受け取ったものを失くさないぞという気合いでもって、こんな文を書いてる。



知らないユニット、バンドのパフォーマンスから始まった時間。知らない音楽に身体が揺れることを思い出した。知らない曲でも拳は挙げられるし、踊れる。
世界はどうせ変えられない。そんなMCのことを思い出してる。
変えられないんだよなあ。どうしたって。
ロックにインスドゥルメタルやHIPHOP。音楽ジャンルごちゃ混ぜだったけど、どのアーティストも熱量とか怒りとか楽しさとかなんか、盛りだくさんだった。それが居心地良くてひとりで場面転換の間ぼんやり照明を眺めるのも最高に楽しかった。
THEライブハウスに行くのもそういや、久しぶりだった。コロナ禍に入り、アリーナやホールには行っていたけど、ライブハウス、は私の日常からなくなってたな、そういやめちゃくちゃ私はライブハウスが好きだったよな、と思った。


色んなアーティストが好きなひとが一つの場所にいて、知ってる音楽にも知らない音楽にも手を挙げて身体を揺らす。めちゃくちゃそれが居心地良くてふわふわ楽しんでいた。
初めて聴いたインストバンドがまっっっじで最高で。なんかこう、あ、すげえと思った。好きなものが増える。すげえ。
インスト、静かなイメージがあるけど、全く容赦なく賑やかで楽しそうで、音楽すげえ、楽器すげえ、といっこいっこにはしゃいでしまった。
あー来てよかった、と思った。予約メールの返信を思い出していた。本当だな、ほかのアーティストさんも最高だった。好きな人きっかけで予約したけど、予約して良かった、とこの時点で思えて本当によかった。



そして、そうこうしてたら梅田サイファーからのKZさん、テークエムさんのターンがやってきまして。
場面転換がスムーズにいったから、とDJプレイから始まって、もうなんかその時点で「あ、すげえ」とびっくりした。最高とかすげえしか言ってないけど、すごい、だって好きな夏ソングがかかってフロアをどんどんぶち上げていくの「あ、すげえ?!こういうことか!」とテンション上がったし、スチャダラパーサマージャム'95を一人の部屋以外で楽しめたのすごく嬉しかった。
この時点でお腹いっぱいで嬉しかった。

からのKZさんターン。
HIPHOPは広くて深いという話から始まって今日は深い方のパフォーマンスです、という言葉から始まったパフォーマンス。



今自分が30歳で、なんとか毎日過ごしてるわけですが。
「ずっと遊べると思ってた」という言葉が身に覚えがありすぎて、音楽にノるとかいう余裕が全部なくなってしまった。
HIPHOPをこの数年好きになって、どこが好きだという話をする度に言う「俺の話をする」ということの本領発揮というか、ああこういうことか、がそのままストレートに刺さる。自分を勝手に重ねる楽しみをただただはしゃぐんじゃなくてそれこそ「深いところ」で味わった気がする。


ちょっと前にラジオごっこでも話してたけど、「こんなもの」って諦めて捨てるしかないと思ってたことを、意味があるものにしてくれる、そんなHIPHOPに私は何度もこの数年、元気になる。



そこからテークエムさんにバトンタッチされて「インターバルをください!」と心の中で叫んでしまった。食らいすぎていたので。足ガクガクしてたというか、気合入れて立ちすぎて本当に足のヒラがやばい感じになってた。

あの、ぶっちゃけ、今回「Leave my planet」が生で聴きたい、という感情から行くことを決めた。去年の秋に聴いた時から繰り返し繰り返し聴いて、今年の夏から調子を崩す度にかけてたアルバム。
でも好きな何回も聴いたアルバムの曲を生で聴くってすごいことなんだな。もう何度も色んなライブに行ってるのに毎度驚く。自分の好きな曲が、音楽が存在する事実を何度も何度も確認できることはすごく、幸せなことなんじゃないか。



毎晩寝る前、明日目が覚めなきゃ良いと思うし、毎朝目が覚めたことにがっかりしてしばらく、布団の上で頭を抱える。
それは別に病んでるとかっていうよりかは性格的なものだし折り合いをつけて最低限の迷惑で済むように自分でバランスをとっていくしかないものだと分かってる。そうやって仕方ないって言いながら毎日過ごしてほつれた部分が直されていく。
諦めたりそんなもんだ、と片付けたことを全部拾ってきてもらったような気がした。ラッパーが綺麗事言わなくてどうする、という言葉に本当に来てよかったと思った。
こういう言葉を音楽を受け取りたくて、私は今日、ここにきたんだ。


selectshop MAISON de SIGNのことを考えながら音楽を聴いていた。このライブきっかけで知ったセレクトショップだけど。
色んなアーティスト、バンドも、KZさんやテークエムさんも、好きなもの、自分がイケてると思うものを集めて飾って作り出して届けてくれる。
世間がとか、バズるものとかなんとなく正しそうとされてるものとかじゃなくて、自分が「最高」だと思うものを信じて、それを届けるための方法をいくつもいくつも磨いて、そこに立っている。そうして生きていくことはなんとなくで「仕方ない」で諦めることの真逆にあった。
そのことを噛み締めて、何度も思い出して、諦めそうになった時に思い出す記憶の箱の中に詰め込んでる。



不可能から可能は、遠くない。



受け取ったその言葉を、忘れずに今日、やっていく。平日になって、今日もダサくて今すぐ消えた方がマシなような邪魔なんじゃないかって不安だとかはとりあえず押さえつけて、自分にだって、不可能から可能に変えられると念じながら歩くための時間が、そこにはあった。

石子と羽男-そんなことで訴えます?-3話

※石子と羽男-そんなことで訴えます?-三話のネタバレを含みます




石子と羽男が面白い。
もともと楽しみにしていたドラマではあったけど毎話観るごとにどんどん好きになっていく。
そんなことで訴えます?とサブタイトルで付いてることを3話を見てから考えてる。
そんなこと。
大きな刑事事件は今のところ確かに扱われていない。人も死なない。民事事件。そんなこと。
思えば、このドラマでは法廷のシーンはほぼ描かれない。リーガルドラマではあるけど、法廷での勝敗は本軸ではない。事件のどんでん返し、とまではいかなくてもそこに最初に見えてなかった「新事実」を見つけることはあっても、やっぱりそれも本軸ではない。



どこが本軸か、と言われればそこにいる人たちの心が動くこと、だろう。
それは事件や判決によって、というだけではない。むしろ、その「訴え」がそもそも生まれるに至った経緯まで立ち返り、そこに石子と羽男が……硝子と羽根岡が心を寄せるまでが丁寧に丁寧に描かれていく。



ところで、このドラマの好きなところの一つは扱われるテーマのチョイスだ。
一話ではパワハラ、二話では中学受験や親ガチャ、そして三話ではファスト映画。
ここ数年のトピックに寄り添って問題提起をするように題材が提示される。
そんなところにアンナチュラルやMIU404で何度も唸らせてくれた新井プロデューサーがが関わっていることを感じさせられて、頷いてああ好きだな、と思う(が、実際のところ、脚本家の西田さんの話題選びの妙の可能性も大いにあるし、どちらかといえば、TBSの金曜ドラマでやりたいこと、なのかもしれない)(いずれにせよ、私は毎話、そんな話題選びにわくわくする)

ただ、そんな「問題提起」的な題材選びであっても贔屓目もあるとはいえ「説教臭くない」と感じるのは演出面や、役者陣のお芝居が終始エンタメに全振りされているからなような気がする。
同時にそもそも「説教くさい」ことはマイナスなのか、とも考え込むけれど、ただ、やっぱり金曜という多くの人にとって週末の夜、いや週末じゃなくても「娯楽」として楽しまれるドラマにおいて、あくまでまず前提「楽しい」を120%味合わせてくれた上で考える余地、立ち返る余地をくれるという関わり方は、私は好ましいと思うし居心地が良いのだ。



そんな中迎えた三話。
題材はファスト映画。羽根岡は、国選弁護士としてファスト映画を作り動画サイトにアップして訴えられた「映画監督志望」の男の弁護を行うことになる。
なんとか最低でも執行猶予を勝ち取りたいものの、男には反省の色はない。
それどころか「映画の宣伝をしたのに何も悪いことはしていない」と言い放つ。



この男の設定を「映画監督志望」にしたことも、そんな彼のお芝居がああいう演出なことも
争うことになる映画監督の設定も、なんというか、一つ一つ挙げていくとキリがないほど唸りたくなる構成だった。



それら一つ一つを解説したいというよりかは、私はこの話が迎えた結末に結構打ちのめされているということを書き残したい。



どうしたってMIU404やアンナチュラルのことを思ってしまう人間の感想だけど。
罪に対して「償う」手段の裁判を扱ってるんだけど、同時に単に「償う」ことの難しさを容赦なく描いててすごい。
かつ、裁判ものにありがちな(それは悪い意味ではなく持ち味として)裁判の「勝ち負け」あるいは「あっと驚く解決方法」に焦点を持っていかないの、すげえーーーー面白い。意地を感じる。だって正直、裁判についての記憶が最初に書いたようにそんなにないもんな、このドラマ。



ファスト映画を作りアップして、それの何が悪いと言い放っていた彼に「彼自身がやったこと」を理解させる。
法廷のシーンやいやそもそも接見のシーンでそんな彼の心情の変化、をしっかりと気持ちよく描いてくれていた。


私はファスト映画が嫌いだ。
一時間や二時間、それ以上の時間をかけて物語を描くことを無駄だと言い、なんとなくのつぎはぎだけを見て全部を理解してると思う人が嫌いだ。そもそも十分で説明できるのに、と笑う人が嫌いだし、そう笑った言葉を私はたぶん、一生忘れない。
それでも、彼の心情が変わっていくことに「何も受け入れてくれない相手を相手にするのは、苦しいよ」という羽根岡の台詞に頷いてたくせに心を動かされた。いやむしろ、頷いてたから、動かされた。

彼の……山田遼平の気持ちが分からないしあの無なことにも安易なことにも一切共感も理解もできない。
だけどそんな彼が「自分のやったこと」を自分が被害者あるいは第三者の立場になれば怒る。そうして、理解する。
ああ良かった、と思った。


そして被害者である山田監督に頭を下げにいく。


そこで、許されるのか。許さないまでも、自分もこれからも映画を撮り続けるというのか。
そんな"美しい物語の終わり"を想像していた。たぶん、そうなんだと思う。
だから、私はあの終わりに、監督の台詞に、お芝居にぶちのめされている。




望む通りのエンディングは訪れない。だって彼が消費したのは、踏み躙ったのは、物語でもエンタメでもなく、ひとりの男のあるいはそれに関わる人々の人生そのものなんだから。



石子と羽男はリーガルドラマではある。だけど圧倒的にその華やかさ、派手さを描くのではなく、そこにいる人たちの連続の生活を描く。
どんな罪も被害も、そこにいるのはひとで生活だからだと今更、深く深く考えている。罪を犯しても、傷付けられても、彼らは生活を続けるのだ。
その途方もなさを噛み締めている。
そんなことで、とサブタイトルについてるのがいっそ怖い。そんなこと、なんてことはないんだ、きっと。

POWER OF WISH 大阪7月30日

※ネタバレがあります



2年半ぶりのドームなのだ、ということに道を歩いてて気付いた。大正駅で降りてドームを目指す。そのことにおっかなびっくりしていて、なんなら最寄りが本当に大正駅なのか自信がなくて何度も確認した。


書く前に言う。感傷的にしか書けないと思う。
毎度そうだろと言われてしまえばその通りだし、そもそもその感傷を抱く資格があるのか、というのは考え込みはしたんだけど、それでもやっぱりどうあっても感傷的な気持ちになった。



RED PHENIXも行ったし、ANSWER…もそれ以外のライブ、お芝居だって言っていた。遠征だって解禁していた。
それでも、やっぱり「EXILELDHのドーム公演」は私の中で存在がでかかったらしい。
その上、今のこの感染状況などを考えると今、自分が行くのか?をもう一度問い直してしまった。ライブそのものもそうだけど、なんせドーム規模になれば"完全な感染対策"は難しくなる。何万という人が全員同じ意識で感染対策できるなんて私にはどうしても思えなかった(当たり前だけどエンタメやLDHへのdisをしたいわけではない)


それでも、やっぱり行くと決めて道中緊張で落ち込んだりしながら、ライブに行った。
こうして書いてても思う。だったら行かなきゃ良いし、行ってる人たちにも敢行してる人たちにも失礼だ。その迷いがある時点で私は私に資格が無いと思う。



そうして幕開けしたPOWER OF WISH。
冒頭の演出を観ながら思う。
私はむしろ、コロナ禍でどんどん大切なものを見失ったと思うしまだ見失ってる。人は最低だし協力しないとどうしようもない時に協力し合えるような強さもない。
それでも、彼らはこの文脈を信じるんだなあ、と思った。良し悪しではなく、彼らのエンタメの文脈を久しぶりに浴びた気がした。


賛否あるんだなあと思いながら今回のツアーの感想を見ていた。というか、単にツアーとして評価するには色んな人の色んな感情が向いてるんだよな。ATSUSHIさんの限定復活も、黒木啓司さんの引退も。
だからそれぞれの感情、スタンスによって受ける印象が大きく異なるんだと思う。どんなライブもそもそもそうだけど、今回は特に。



ATSUSHIさんがいた頃の善性を信じたLove,Dream,Happinessを軸に子どもたちの幸せを祈る、エンタメ。
ATSUSHIさんが卒業後、エンタメの復活を掲げそれぞれが核となり方法を模索しながら作ってきたエンタメ。
私にはそれが、融合していくような、それこそ「道」で繋がるようなライブに思えた。



私は2020年2月26日のライブに行く予定だった。
あの日、いきなり奪われたエンタメから、しばらく。LDHの現場をこの春まで離れていた。
その間、彼らはオンラインライブを作り上げ、いち早く"生の現場"を作り上げて行った。
行こうと思えば行けたはずなのに行かなかったことで私は「ああもう私は彼らにおかえりと言う機会も、おかえりと言ってもらう機会も失くしたんだな」と思った。
それは自分が選んだことだし文句を言う筋合いもない。行かない中でも彼らがそれぞれの生活や経済、エンタメの力を信じて生のライブにこだわっていることは心強かったし、もうそれはそれ、と思っていた。


しかし、今回POWER OF WISHはこの2年間を繋げるようなライブだった。ライブのある生活が日常になっている中で何を今更と言われてしまうかもしれない。
でも私には、あの日受け取り損ねた「おかえり」を言ってもらえた気がした。そしてそれを言ってくれたのは、ATSUSHIさんだった。



書き方迷うんですが、私はATSUSHIさんが得意ではない。
性善説がそもそも苦手だし、主義主張はいっそ清々しいくらい合わない。音楽に対する感性も錆びてるので歌が上手いというのも「こういう歌声を上手いというのか」くらいの認識だ。
卒業発表の時はブチギレもしたし、ブチギレ過ぎてツイートを控えた。


その私が、今回、驚くほどATSUSHIさんの歌声に泣いた。それは単純な技術の話ではなく、彼もまたEXILEのドーム、にようやく帰ってこれた、という思いが溢れていたからだと思う。そして、それをATSUSHIさんのファンであろう観客の人が本当に嬉しそうにフラッグを振ってることが嬉しかったからだ。
ああ良かったな、と思った。
あの日のまま終わらなくてよかった。ちゃんとこうして「ドームのEXILE ATSUSHI」に出会える日が、そういう形のEXILEが「ドームで」公演できて良かった。



指摘されるまでもなく、ある程度熱量が下がっていたからこその感覚なんだろうな、と思っている。もしも私がこの2年半、普通に2020年以前と同じようにライブに通っていたら卒業を聞いた時のようにブチギレていたかもしれない。かもっていうか、わりと確信を持ってキレてただろうな、と思う。



それでも昨日、ドームにいたのは「今の私」である。エンタメとの関わり方に迷いまくりライブに行けないまま好きでいる姿勢に迷い、今もまだ結論を出せずにうじうじしている私だ。
そんな私にとって、昨日の新旧のEXILEごちゃ混ぜのドーム公演は「ああこれが観たかったのかもな」と思えるものだった。
もう二度とおかえりと言ってもらえないのだと覚悟を決めて、だからもう二度とあの頃のような気持ちでライブに行くことはないんだなと諦めたなかで思いがけない「おかえり」を、もらえる公演だった。



そんな私の目線から見たPOWER OF WISHは進むためのライブだと思った。
2年半がむしゃらに駆け抜けてきたそれぞれが改めて現状をこの2年半の歩みを確認してそれぞれがまた歩き出すための確認。
このタイミングで、新生EXILEが過去のEXILEのエンタメをやる意味は私は十分あるように思ったし、それは明確な線引きがあるわけではなく、連続していて、ここからも繋がるんだというのが伝わってくるような気がした。

当たり前だけどEXILEってEXILEという生命体がいるわけじゃないんだよな。
そこにそれぞれのメンバーがいて想いがあって人生があるんだよな。
それがたまたま今交わって続いていくこと。重なってきたものがあること。そんな姿を観に来るファンにだって人生があって積み重ねている毎日があるんだよな。



続いていく1日の1公演、1ページ。たぶんその意味合いも人それぞれなんだろうな。だってその場にいる理由だってそれぞれ違うんだ。
私にとってはドームにいる彼らが好きだと再認識して、おかえりを受け取れた、彼らのエンタメが好きなんだなと確認できたそういうライブだったのだ。