えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

フワちゃんのオールナイトニッポン0

フワちゃんのラジオがなんとなく好きだ。
そもそものきっかけはCreepy Nutsのゲストきっかけでいよいよラジオを聴いたことだ。
そのラジオがぶっささり、録音し、それから何回聴いた分からない。なんなら録音してるのにいい音質で聴きたいとSpotifyでその回を聴くこともあるしいややっぱり音質が悪くてもあの日の放送を楽しみたい&あのカラオケタイムや冒頭の曲へのコメントをより楽しみたいと録音を聴くこともある。
一つわかってるのはもう何回、と数えるのが無理なくらい聴きまくってる、ということだけである。






まじでただただうるさい回だし聴き慣れたから何言ってるか分からないところはほぼないけど、初聴の時は本気で訳わからなさすぎて笑ったし、分からなくて好きだった。人間だったらどっちか黙れという無茶苦茶なツッコミに頷いたりもした。



そうしてげらげら笑ってから時々、Creepy Nutsのゲスト回以外も聴くようになった。
そこから月曜の0に移動して気が付けば自分の日常の中にフワちゃんのラジオの時間が増えた。
月曜の放送だけど私は大体週末にタイムフリーで聴く。なんとなく、週末の疲れが溜まったタイミング、少し休んだらまた仕事だといううんざり感との折り合いにフワちゃんの声とトークが合う。



なんでフワちゃんのことが好きなんだろうとずっと考えていた。
例えばそれは彼女のいわゆる「失礼キャラ」にスッキリするからか。
それとも時々言われる実は賢いことか。
セルフプロデュース力の高さか。


どれもそうだな、とも思うしなんか違った。あとなんなら私は彼女の「失礼キャラ」が最初すごく苦手だった(すいません)
キャラ付けても失礼は失礼やしな、と思っていた。もっともそれはここ数年でそれはそれ、と思うようになったし、なんで失礼キャラ、が求められるか自分ごと的にも分かるような気がしてきたんだけど。




ずっと考えながらまあでも分からなくても楽しいからいっか、と思っていたけど、先週18日の放送を聴いて分かったような気がした。




ところで、私はネットのネイティブ世代、と言われる世代、だと思う。たぶん。
番組内で話題になっていた2ちゃんねるはちょっと肌感覚に合わなくて流行ったスレを流し読み程度だった。
けど、家に帰り、パソコンをつけてお気に入りしている個人サイトを延々と巡り、顔を出している掲示板の更新を確認して、していた世代だ。
18日の放送で、その個人サイトを眺めていた時期のことを思い出した。



個人サイトを見るのが好きだった。
文を書いたり好きなものの話を延々しているサイトを眺めては更新に喜び、拍手でメッセージを送る。誰かの何気ない日常に嬉しくなったり心配したり。
自分自身もホームページを作って今思えばなんでもない文をたくさん書き、いろんな人と交流した。その時の知り合いと何人か繋がってもいるし、全く今どうしているか分からない人もいる。
Twitterも大好きだけど、きっとあの個人サイト時代が私をネット好きにしたんだと思う。


そうか、フワちゃんのラジオはその感覚に近いのかもしれない。
勝手に色んな話をして怒ったり笑ったり喚いたりする。その全てに賛同するわけでもないし分からないことも多いけどその勝手さが好きだ。
自分の中に面白いがある人だから好きだ。
彼女の中にずっとあった面白いと思うものの話を聞きながら思った。
私はたぶん、あの頃、誰かの思う面白いの話を聴きたくてネットを開いていた。そして今、それが聴きたくてラジオを再生しているのだ。



たぶんをつけるまでもなく、フワちゃんはこれからもリスナーと不毛な喧嘩をしたり吠えたり、たまに真面目な話をしてイジられたり、笑ったり歌ったりするんだろう。
それをきっと、私は個人サイトを見に行くようなわくわく感で、聴きに行くのだ。

異世界混合大舞踏会(feat.おばけ)

世界がばらばらだったらいいと思う。
最近特に思う。
別に世界が一つになったことなんてない。むしろ分断は広がってだっている。
それでも、だからこそ、世界がばらばらでいれますように。そうずっと思ってる。



星野源の新曲が出るたびに確実にわくわく楽しくて嬉しい気持ちになる。それがどれくらい心強いことなのか、もはや、言い尽くしたくらい、口にしてきたと思う。
それでも、毎度新鮮に私は、うれしいと言う。



異世界混合大舞踏会(feat.おばけ)は曲の配信と共にMVが公開された。
その予告となったディザーでは青いお化けがヘッドホンをしてひとり楽しそうに踊っていた。短いリズムだけでも楽しそうなその音楽にわくわくしながら待っていたひとは多かったと思うし私も例に漏れず、そんなひとりだ。



なんでわくわくしたんだろう。こんなに楽しみだったんだろう。
所謂「食らう」感じはフルが配信された時も感じなかった。食らう感じはむしろ前回の喜劇の方が大きくて、でもなんだろう、駄菓子をポケットいっぱいに詰めたようなわくわく感があってそれがなんだか嬉しく楽しい気持ちで一曲聴き、MVをつける。やっぱり楽しい。どストレートにああだこうだと話したい!にはなってないけどそわそわと楽しい、にやにやする。
そんな気持ちのまま見ていてあるパートで不意打ち、涙が出た。



異世界混合大舞踏会(feat.おばけ)のMVはある少年が音楽を聴きながら歩いてるところから始まる。
音楽を聴き、お化けに出会った彼の物語。大きくなっておばけが見えなくなっても、近くにいること。一緒に踊ること、一緒に踊っていても形が違うおばけたちは踊り方が違うこと。


見えなくなっても、会えない時間が長かったとしても同じ音楽で一緒に踊れること。


なんかそれが妙に嬉しくて気が付けばにこにこしながら笑っていた。
なんだろうな、と思った。どういう時に聞きたい、とハッキリしてるわけじゃない、こんな気持ちになったと喋り倒したい気持ちになってるわけでもない。なのになんだか、妙に好きだ。
聞き倒すでもないんだよな、と思いながら時々不意打ちで流して、にやにやする。
この感覚はなんだったんだろうな、と思っていたんだけど、それが今週、19日放送の星野源オールナイトニッポンを聴いてなんとなくわかった気がした。



星野源オールナイトニッポン | OBCラジオ大阪

#radiko #星野源 #オールナイトニッポン



思いがけないスペシャルゲストも参加しての星野源オールナイトニッポン


なんか、それも、全部楽しかったな。


最近、星野源オールナイトニッポンを聴いてる時内容がどうこうに関係なく、にこにこしてしまう。落ち着く。
あれはなんでだろうと思ったんだけど、それは「楽しい」があるからだ。
楽しいこと、面白いことはすごいと何度も口にしてだからそれを作るのだという源さんが好きで、そんな源さんそのものみたいなラジオを聴くと、セーフティネットのような、そんな気がしている。
スペシャルゲストについて大袈裟にどうこう言うのではなく、ただただ「あるよね」と穏やかに笑う、楽しむ。そんなところが、私は好きで安心する。
違うことを声高に非難しないし良いことだとも騒がない。でも、ただただ、そこにあるよね、とだけ言う。
それでいいじゃん、と思う。


違うまま、ひとりでもみんなとでも踊れる。自分が知らなくてももしかしたら誰かとなにかと踊ってるかもしれない。
そう思うと、悪くないどころか最高な気がする。
今日も朝も夜も、この音楽を流そうと思う。流して踊る、その隣で誰かがリズムをとってる姿を想像できることは楽しいな。



畳屋のあけび

畳屋のあけびは、2017年に観た「畳屋の女房」の再演である。再演、といいつつ私の中でそれはちょっとしっくりくるようなこないようななところがあってそれはそれぞれで描かれたことがほんの少し軸が違ったような気がするからだ。

とはいえ、今回、ただどう違ったか、の話をしたいわけではない。むしろそこは主軸ではない。



でも、どうしても2017年のあの舞台の話をしてしまう。それは、私にとってあの舞台が大切だったからだ。それこそ2017年の上演の物語の中口にされたように「あなたを守る物語」であるように思えた。
別にそれはハッキリと全てが鮮明に残っているという話ではなくて、でも「面白いものを観た」という記憶が作ってくれた自分のパーツが本当に好きだ、という話なのである。




さて、それはさておき。畳屋のあけび、の話をしたい。



オープニング冒頭。終戦から数年が経った古い日本家屋で、多々良先生を初め、近所の人たちがなんでもない日常の話のように戦争の話をする。
そのシーンだけでこれが「戦争」を描くものではないんだな、と思う。
描かない、という話でもない。戦争をただ物語的に解釈していかない。消費していかない。
そこで失われた彼らの生活、大切な人、いまだに癒えていない、戻れなくなった感覚。
そういう戦争の痛みの話は生々しくそれがどれくらい大きな傷に彼らの中残っているのかは十分に伝わる。だけどそれは大きな悲劇ではない。ただただ彼らの生活の中にあったものなんだな、と思う。



多恵子さんの言葉が早々にぶっ刺さった。

「思い出したくもないけど、忘れてしまうのはね」

私が畳屋のあけびが好きな大きな理由の一つでもあるけど、そこで描かれる生活が好きだ。
そこにある生活、それは役者さんの会話、照明の温度感、音、舞台のセット。それがどこか、まるでおじいちゃんおばあちゃんの家に帰ったようなそんな気分になる。
その生活が、一度は途切れたこと。明日がくることを信じられなかったこと、毎日覚悟をしていたこと。だから余計に、その生活が愛おしい。
だし、そこで戦争の痛みをああして話すことは、無くさない、忘れないということなんだと思う。



声高に話すようなものではなく、でも「辛いから話さないどこう」と忌避するものでもない。
ただそこにあることを認めて悲しみ怒り、でも当たり前に笑ってご飯を食べる。
そんな光景に私はすごく、安心するのだ。




最初の多々良先生と小春さんの出会いというこの物語の大きな軸とともに、お芝居冒頭、そっと描かれる、この物語の中で生きてるひとたちのバックボーン。
生活を描くのだ、というブレなさとそこにある色んな感情、思いのこと。それが切り離せないし、切り離す必要がないこと。
それが淡々と暖かく描かれる。その光景に「ああこのお芝居は私が好きなやつだ」と確信した。生きるひとが演じる、演じることでしか表現できない生きることの愛おしさが滑稽さが、私は好きだ。



平山空さんが演じたきえさんがそんな冒頭のシーンを締め括る。
きえさんはそう多くは語らない。多恵子さんに想いを告げる、その時だけ大きく感情を揺らすけどそれだけだ。どんなふうに何があったか。私たちは台詞の端々、自分の中にある知識と照らし合わせながら想像する。
いや、きっと知識がなくても想像しなくても、多恵子さんの受け止める姿、生きてきた、ということで十分だったと思う。




私は今回、このお芝居を見て、「この照明を愛してる2022年部門堂々のランクインです」と思わず呟いたんだけど、
それがこのきえさんがひとり残り、独白するシーンだった。
あのシーン。本当に好きで。
あそこの短い言葉で彼女がどんな思いで、覚悟でこの場所に戻ってきたかが伝わる。
そしてそれを柔らかく照らすまっすぐで透明な優しい光が私はすごく好きだった。優しい光で、きえさんのこれまでは大変だったことは間違い無いんだけど、それをただ「不幸」と切り捨てない。彼女の悲しさも覚悟も否定せず、でも支えるようなその光は、姿を知ることはないきえさんと過ごした「彼」を表してるようにすら思った。




畳屋のあけび、私好きな役者さんがたくさん出ているんですよ。
まじでびっくりするくらい好きな人たちが出ていて、コロナ禍をめちゃくちゃ憎んだ(配信があるかどうか分からず、観に行けない可能性が高かったので)(配信いただいて本当にありがとうございました)
そんな役者さんたちが生活を描くの、本当にすごい。
断片的なシーンがあって、後半からは多々良先生の病気の物語になっていく。なので必然的に(鬼島さんパートは一旦さておくとして)近所の人たちの物語は「断片」になる。




生活と生きること。嘘を使わず、生活と向き合うひと。生活を疎かにしないひと。



そんな人たちが笑ったり怒ったりしながら生きている。
まさこさんのような近所の人がいたら嬉しいし、桜井さんと菅原先生のやりとりがあると楽しい。
十島家のような家族が近くにいたら、幸せだと思う。
寅の設定を読むと、寂しがりやで家族に憧れ、あの家に入り浸っていると書いてあった。
まさこさんや寅、それから桜井さんと菅原先生も。仕事だとかいろんな理由があるだろうけど、何よりあの居心地の良さがそこに集まる理由だと思う。いいな。なんか、そうして集まるひとが、また居心地の良さを作り出すんだな。



深い悲しみを越えるために必要なのは、例えば毎晩一緒にご飯を食べること、誰かの幸せを喜ぶこと、そんなことなのかもしれない。



それでも、そうやって進めない人のこともこの物語は描く。
深い悲しみの中で、生活を守れなくなる。だって、その生活を踏み躙られてしまったら、守りようがないじゃないか、と思う。
踏んでごめんと言われようが踏んだことは間違いでしたと言われようが、踏まれた踏み躙られた事実は変わらない。
その中でその悲しみや怒りを忘れないことも、ある意味では誠実だとも思う。



馬鹿、という言葉に対してのこの作品中の言葉が好きだった。
馬を見て鹿と言うひと。自分の心持ち、思いに嘘をつくひと。何かに流されて、見えているものを偽ること。
でもだったら、鬼島さんだって、馬鹿ではないのだ。
馬鹿でいれたら、いっそ幸せだったんじゃないかとも思う。




白戸先生と菅原先生のやりとりがそういえば好きだった。
多々良先生を中心と描かれる生活の愛おしさ、鬼島さんを中心と描かれる越えられない悲しさや怒り。そのふたつをある意味繋ぐような描写だったと思う。




公害についての記事を実現しようとする白戸先生、それから絹代の情熱を公安が妨げようとするシーン。
菅原先生がそれぞれに見えているもの、正義があること。思いがあること。



どちらかを善悪と描くわけでもなくて、どちらの視点もそっと描いたことに私はほっとした。


生きてるんだよな。みんな。どんな思想も運動も受け入れるべきだ、なんて話を(かなりしんどいことに今は尚更)やっぱり私はできないけど、でも、当たり前にどんな人も好む好まないに関わらず、生活をしてる。笑って泣いて怒って、何かを食べて生きている。

それをああして描いてくれたのは、ある意味でこの「畳屋のあけび」こそ、明日を信じられるひとを描きたいという思いの先にあるお芝居だったからかもしれない。






力を入れて生きたからもう身体の力を抜くことにしたのだ、と笑った一郎さんのことを観終わった後、ずっと考えていた。
私はそんなふうに生きれるだろうか。気が付けば力んでしまうきらいが自分にはあるけれど、あんな風に生きてみたいな、と思った。
だってそれだって、沢山の覚悟だとか強さがないと実現できないことだと思う。



そういえば一郎さんは秋子さんの好きなところの話の際、「秋子がいい奴なんだよ」とあっけらかんと言っていた。私はあのシーンも大好きだった。
馬を鹿と言わない。
馬を何があっても馬だとただただフラットに口にする。それがすごいことだと力まない、彼が本当に好きだ。




そうやって誠実に、生活を大切に生きてきてもある日急に「明日がないのだ」と覚悟をしなければいけないことがある。
そんなことを多々良先生の物語が描く。
畳屋の女房の時は小春さんの記憶を失うことともに「死ぬ気でものを書き飛ばす」ことを描いていたと思う。もちろんそれは、今回も描かれてはいた。原稿を書いている時は少し、意識がハッキリしているということ、原稿原稿、と机に向かう姿。
それは、ちゃんと変わらず描かれていた。
だけどそれ以上に私は「生活を大切な人と送ること、それが失われること、それでも生きていくこと」に大きく軸が置かれていたように思うのだ。


だからこそ、多々良先生と小春さんはじめ、それぞれの家族が描かれ、人と人の関係が描かれ、そこが丁寧だったと思う。
何かを表現すること、も大切なことだけど、今回この作品が描きたかったのはそこがメインじゃなくて、誰かと生きている、その日々の話だったような気がしている。
今それをずっと考えてる。うまく言葉には、まだできないんだけど。



何かを大切にすると、それを失うのが怖くなる。大切にした方が辛いこともある。



それでも、別れを告げられるのは幸いである。
別れを告げる時、痛む気持ちはきっとすごく大切なものだ。その後だってずっと痛いし、唐突にきた別れとどちらがマシか、なんて話がしたいわけじゃない。
でも、なんか、私はあのあそこでふたりが選んだ言葉が別れを告げる言葉だったことが何よりも愛情だったと思う。
し、それがたぶん、二人の気持ちを一番表す言葉に近いそれだったんだと思う。
さよなら、と伝える時、悲しいのも苦しいのも相手が大切だからだ。そんなことをあのお芝居を観て、めちゃくちゃじんじんと痛いような気持ちが出てきて、なんかそれが、ものすごく大事だった。



何かを大事にすることは、怖いことだ。大事にすればするほど、失ういつかを覚悟しなきゃいけない悲劇の可能性は上がる。
それでも、大事にしたいと思う。愛おしいと思う。
そう思って、好きな人をものを大事に生活を疎かにせずに生きていこうと思う。だって、やっぱり深い悲しみを越えるために必要なのは、誰かと一緒に笑って美味しいものを食べる、そういう生活をすることのはずなのだ。



なんとこの舞台、2022年7月29日23:59まで配信が購入・アーカイブが見れます!やったー!

DJ松永さんのパフォーマンスの話

良くないことだとは分かっているんだけど最近眠れない夜、YouTubeを開くことが増えた。仕事に行ってなかった1ヶ月、ぐちゃぐちゃになった生活リズムのなかで見つけてしまった新しい娯楽は、なかなか生活の中からなくなってくれない。


と言っても、特にYouTuberの動画だとかを見ているわけじゃない。じゃあ何を観ているかと言われれば、ひたすら過去、上がってきた好きなアーティストたちの公式動画を探しては観て、探しては観てしている。
そんな中で、とうとうDJ松永さんのDMCでの動画を見てしまった。




DJということが具体的にどういうことか、実はCreepy Nutsを好きになりたての頃は分かっていなかった。更に言えば彼らの音楽作りがどうやって行われているのかを私は好きになって半年近く経ったCaseのリリースに基づくインタビューの色々で知ったし、更に言えばそここら好きでい続けて読んだミックス・テープの初回エッセイ、オールナイトニッポンJAMで聴いた最初のRの頃のふたりの会話からようやく「こういうことか?」という輪郭をぼんやり理解しだした素人もいいところである。


それでも臆面もなく、DJ松永さんのルーティンプレイが好きだと言いたい。ルーティンプレイという言葉が適切なのかも実は分かってない。さすがにその程度の解像度で書くのはいかがなものかと何度も躊躇いはした。でも書く。
書かずにはいれないというか、書きたい。



そう思ったのは、野音……Creepy Nutsオールナイトニッポンpresents日本語ラップ紹介ライブin 大阪城野外音楽堂でのライブを観たからだ。




格好良いことは知っていた。Caseも生業も毎度ルーティンにはぶち上がっていた。なんなら、札幌生業で「ああ私、松永さんのDJプレイすげえ好きなんだな」と改めて思い、大阪で聴けた時には本気で頭がびりびりした。
それでも、いや違うな、だから余計に、ここ最近DJ松永さんのルーティンがぶっ刺さってるんだと思う。
その指先が音楽を止めた瞬間の空白の静けさも、そこから爆音でかかる気持ち良さも、音のキレも。全部全部、一つ一つが好きだ。


何かを好きになることは世界の見えるものが増えることなんだと思う(まあ同時に見えないものも残念ながら増えるんですが)




ステージ上でのCreepy Nutsは本当に格好良い。めちゃくちゃ格好良い。
ラジオきっかけで好きになった彼らの一番格好良い瞬間は、やっぱり板の上で音楽をしている時だと何万回も言いたくなる。



DJ松永さんのルーティンが大好きだ。
音楽に詳しくなくても、流れてくる音楽に最高にわくわくする。
音楽に触れるという表現をいつか、DJ松永さんがしていた。DJとしてターンテーブルで触れた時、好きな音楽に触れた気がした。その言葉が、私はとても好きだ。
音楽とかお芝居とか、そういう決して触れられないと思っていた「素敵なもの」に触れるひとがいるのか、と思ったし、それを感覚として感じたひとだということになんだか無性に嬉しくなった。だって、それは場合によっては特になんの感慨もなく通り過ぎてしまうものだと思うので。
だから私はライブや音楽番組でのパフォーマンスで手元がアップになるたび、ああ音楽に触ってるんだなあと思う。思うし、その手が今、こんだけすげえ音楽を次々と作り出していくのが本当に最高で素敵だと思う。
音楽が生まれる、ということを改めて考えてしまう。



そして、その音楽が生まれる・音楽に触れるということもすごいな、と思うんですが、
私がDJ松永さんのルーティンを何度も何度も見てしまうのはその煽りを初め、パフォーマンスがすごく好きだからだ。


ところで私はお芝居が好きだ。
学生時代に出会ってからずっと舞台上で人が観たこともないくらい魅力的に見えること、格好良く見えることにやられてきた。そこで、色んな人が世界一格好良く美しく見える。
日常生活では感じたことないような感情がその姿を見ていると湧き上がってくる。




そんな気持ちに、Creepy Nutsのライブに行くと、DJ松永さんのルーティンを観るといつもなるのだ。
その指先から最高の音楽がなってる。
それだけでも十分にわくわくするのに、その上、DJ松永さんはめちゃくちゃ煽るしキメるし、本当にそんなところが物凄く好きだ。

私は、板の上に立つ人が、そこに立っている時世界で一番格好良いと思ってる。そして自分でもそう思ってて欲しいと勝手に思ってる。だって格好良いんだもん。




DJ、と一言で言ってもその言葉が表現する意味はいろんなものがあるのだと知った。曲を作るライブを盛り上げる、音楽をかける人にパフォーマンスする人。これだって、正確な表現じゃないんだろう。
それでもステージ上で立つDJ松永さんが、出演者のひとりで演奏者でパフォーマーであるのだということには深く深く頷くし、そんな姿がたまらなく好きだと書きたい。


ダンスを観るのが好きな理由にも似てる。その人の中のリズム、呼吸、それからこちらの感覚が煽られて合って、ブチ上がる。
魅せるために全部を懸けて表現してくれるひとが、そこから生まれるものが私は大好きなのだ。



色々と書いたけど、結局私はワクワクする、すげえと思う、ということが好きだという感情の理由の全部な気がしてきた。


秋のツアーで、またそんな姿を観ることができる。それは今の私にとって、たまらなく希望というものに近い楽しみなのだ。

ええじゃないか音頭

大人って、もっとしっかりした生き物だと思ってた。
人間関係にいちいち凹まなくなると思っていたし、苦手な事務作業とかもちゃんとこなせるようになると思ってた。そういうのは無理でも、納得した方法で自分の食い扶持を稼げるようにはなるだろうし、家族だとか友達とかを自分の気分で傷付けたりしなくなると思っていた。



ところがむしろ私は年々人間関係に無理が効かなくなってきてる。
周りを見回しても不調となんとか折り合いつけて過ごしてるひとが多い。
子どもの頃の方が良かったとはそれでも思わないけど、でも子どもより大人がしっかりした生き物だとはこれっぽっちも思えない。
自分の子ども時代なんて情緒ぶれぶれでみんなが当たり前に出来ることができなくて人付き合いが下手くそだったくせに、それでも大人の自分の方があの頃の自分よりしっかりしているとは思えない。
変わりがないどころか体力が落ちた分、落ちぶれた気がする。
歳ばかり重ねて小理屈だけ捏ねられる分可愛げも減ったし、今まで散々言われてきた自分への批判の声が溜まりに溜まって定期的に吹き出すそれに真正面から食らって落ち込む。そのくせ反論も思い浮かばないので「ああそうだよ」としか返せない。
人と会っても落ち込む、会わなくても自己嫌悪で落ち込む、その上落ち込んでいることに対しても腹が立ってもうにっちもさっちもいかない。


でも落ち込んでも仕方ない、落ち込むようなことでもないし、落ち込んだところで解決策がないどころか迷惑だからやめたほうがいい。



考えて考えて、吐きそうになったらブログを書いて寝れないままYouTubeを見てある程度周回が終わったらやっぱりブログを書いてしていたらアホみたいな更新頻度になった。
そういうどうしようもなくのたうち回る姿が他からはひどく滑稽に見えてるんだろうと思ったし、滑稽だと笑わない人には無用な心配ばかりかけて良い迷惑だろうな、と思った。




みたいなことを、ずっと考えていた。



中で、今朝、というかここ二日。久しぶりに寝れているんですよ。
いつからか思い出せないくらい入眠がスムーズだったことも夜通し寝れたことも悪夢を見なかったこともなくて最早これは寝ない方がマシなのではと真剣に検討し始めていた私が。めちゃ、しっかり、寝た。二日。
そしたらなんだか説明のつかないようなスッキリがきた。あ、大丈夫だ、と思った。毎晩毎朝やってきていたこのまま続けて何になるのかという嫌悪も虚しさも周りに落ちてなかった。



その現金さに笑って、こうやってたかが寝れただけで、もっと言うなら大した睡眠不足でもなかったくせに大袈裟なといつもの自己批判をしようとしたところで、でもそうだよな、と思った。自己批判にも静かに「本当にねえ」と相槌を打つけど、でも本当に、しんどくてそれはそもそも自分のものだから誰に何を言われる必要も誰かに何かを言う必要もないものなわけだ。



これくらいで復活するならいちいち泣き言を言うなと先週の私なら言うだろう。
そうやって誰かに構ってほしいだけの悲しさだとかしんどさを振りまくな、もっとしんどい人はいくらでもいるんだと正論とかも吐いてくるかもしれない。
ずるずる生きてることに腹が立って、でも生きてるから仕方ないだろと喚き返して、その一連のやりとりに羞恥心が沸き上がって、夜中延々と考え込んでいた。



先週これを書いた時は実はもう少し悲観的な気持ちだった。でもそういう悲観的な感覚が自分のものだけじゃなくて誰かが寄り添ってくれたことが嬉しいと思った文章だった。



ヤケクソ感満載に乗り越えようとしたその感覚を、ぐっすり寝た私が、ひょいと飛び越える。



確かに、こうしてしょっちゅうギシギシ言うのは情けない。更に言えばたぶんと付けるまでもなく確実に数日後、また疲れが溜まったり夜寝れなくなったら私はまたメソメソとするのだろう。大人になろうが何しようが、きっとそれは変わらないのだ。



でもそれでも良いじゃないか。人よりも落ち込みやすいならその分人よりこう思えた時大はしゃぎして帳尻を合わせにいく。自分の好きなものを見て嬉しいと思った時も声を大にして言う。
こちとら人生のたうち回り部所属なのだ。人生のたうち回り部のモットーとして、のたうち回った分、嬉しい時は大袈裟に見えてでも喜ぶってスタンスでやっていきたい。




歳を取ったから何が変わるんだよ、と大好きなハチミツとクローバーの中で修ちゃんが言っていた。せいぜい階段がきつくなって、息切れしやすくなっただけ。


全く、その通りだ。


生きることはちっともうまくならないし、相変わらずのたうち回って人に迷惑をかけてばかりだし、そういうことが時々無性に情けなく申し訳なくなってバックれたくなる。
それでもこういう一つ一つ、手の中に落ちてきた感覚が大事なものだと知ることはできた。大袈裟な物語にもなりはしない一つ一つが私は好きなんだということだって知っている。



一個一個に丁寧に躓くさまはダサくて格好悪くてみっともないだろうけど、しっかり寝れた朝、泣き出したいくらい喜べるのは、差し引きしてお釣りがくるくらい最高だと思う。

なんてふうに、自分をよいしょしまくって、今日を良い日だったとラベリングして、明日もやっていこ。

Creepy Nutsのオールナイトニッポンpresents日本語ラップ紹介ライブin大阪城野音

Creepy Nutsのラジオが好きな理由はたくさんある。週に一度思い切り笑わせてくれるからだとも言えるし彼らの喋りの温度感が落ち着くからというのもある。
でも一つ、大きな好きの要素があって、それが彼らが好きな音楽を紹介するところなのだ。
いつだかのインタビューで、オールナイトニッポンでまるで友達にこの曲やばいって勧めるみたいに好きな音楽を、HIPHOPを勧められるのがる楽しい、と言っていたのが私はとんでもなく好きだった。


もともと、私の音楽の楽しみ方が友達の「この曲やばい」が中心だったというのもある。やばい音楽はそれだけでももちろんやばいが、誰かの「この曲やばい」はなんというか、思い出もそのままくっ付いてきてよりその曲が好きになるのだ。薄暗い公園、ブランコの上、携帯から流れてくる音楽に興奮したあの夜みたいな夜を、私は何度も、Creepy Nutsオールナイトニッポンで味わってきた。
それの"実写版"のライブがCreepy Nutsオールナイトニッポンpresents日本語ラップ紹介ライブin大阪城野音である。




初め、ふたりの足音(って勝手に思ってるけど違うかもしれない。でもともかくあの演出ほんと好き)が近付き、板の上に立った瞬間からライブがスタート。
初っ端、二人の表情に目を奪われる。
Creepy Nutsってね、格好良いんですよ。めちゃくちゃ格好良いんです、知ってました?
私は知ってたけど毎回びっくりします。
板の上の魔物と合法的トビ方のススメでぶちかまされた。

砕いて裂いて巻いて
焚いて吸って吐いても
まして炙っても打っても得れない快感


歌詞を聴きながら思う。本当にそうだ、これだ。
昨日から何度も何度も昨日の記憶を擦り減りそうなくらい再生して、それでもあの瞬間、あの野音のじりじりした暑さの中で観た聴いた感じた快感が恋しい。あの気持ち良さは、たぶん、代用が効かない。ぶっ飛びそうな、というか完全にぶっ飛んだ心地よさのことをずっとずっと思い出している。




そこから彼らのトークになって、いつもラジオから聞こえていた軽口とともにイベントの趣旨が紹介され、トップバッターの775さんへとバトンが渡される。

出てきたその姿を見ただけで納得する、というRさんの言葉に納得した。まじで爆発するようなエネルギーとでもどこか軽快な感覚。歳下の方なのに姐さん!と呼びたくなるような心地よさの音楽。
音の運び屋。そうご自身を表現していたけど、懐の大きさとおおらかさ、それでいてちょっとぶっ飛んだパンチライン
音楽って楽しい、と思った。


レゲエもそういえば、Creepy Nutsを本格的に好きになるまでそんなに意識して聴いたことがなかった。でも、ラジオでかかるたび、そのリズム感や流れる言葉、考えにリペアされていくような気分になる。



気取ってなくて、ラフででも格好良くて、なんというか、着心地のいいTシャツみたいだ。落ち着く。よってらっしゃい、という言葉にふらふら招かれてしまう。し、招かれた先、あんなに楽しい音楽があるならもう、寄らない手は無いと思う。



そしてDOZAN11さんですよ。それこそ、誰の曲かすら、レゲエというジャンルすら理解しないまま我々世代の人間なら一度は口ずさんだことのある一生一緒にいてくれや、を聴いてしまった。やばい。
し、なんだろうな、本当にふたりがライブしてる時、楽しそうで楽しくて心地よくてすげえそれが良かった。


レゲエのパフォーマンスの話がすごく好きで。
音楽のジャンルにとかく疎い私ではあるけど、当たり前だけどそこには歴史があるし人がいる。
775さんもDOZAN11さんも、レゲエという音楽を信じていてそこに向き合って音楽を作っているんだな。
音楽ってすげえってずっと考えてる。だというのに、すげえって言葉にするとどうしようもなく軽くなってそれが歯痒くてうまくいかない。
775さんパートのライブ中本当に楽しくてクラクラするくらい気持ちよくて、こういうのが良いな、と思った。知らない言葉や文化、思想をこんな風に触れられる好きになれる。こういうのが良い。
DOZAN11さんのMCを思い出してより思う。



続いてのMC TYSONさんは、ラジオでゲストで来られていたこともあり、どこか親しみが(勝手に)あった。
腕にめっちゃいかつい刺青が入ってて、ある意味でこんな機会がなければなかなかそれこそ触れることのなかったかもしれない音楽、ジャンル、人だったけど屈託のないトークも、空気感も1発で好きになってしまった。すごくこう、リスナーとの話とかを交えてくれて、なんか、サービス精神の塊みたいなひとだった。
その上で、ダークな音楽も愛情のこもった音楽もあって、なんか、本当にHIPHOPってその人の物語を歌うんだな、と納得する。私はHIPHOPを聴くたびにそういうところが好きだと毎回思う。


ともすればすぐに冷笑されがちな「自分語り」をこんな風に格好よくする人たちを知れたことは私にとってめちゃくちゃラッキーだった。
そうやって音楽を作ってストーリーを紡ぐひとたちのことを大好きだと思った。


音楽を作ることが、自分と向き合う方法でそれがしんどいこともあれば、消化にも昇華にもなっていて、しかもそれがこんな風に誰かに届く。すごいことだな。



MC TYSONさんとRさんのコラボ、I NEEDも最高にキマっていた。全然違う生い立ちのふたり、スタンスも違う。その違いを歌ってるんだけど根っこがかなり近いことを向き合って歌う二人に感じてグッとくる。
近い、というとやっぱりズレるな。
でもそれぞれに自分に必要、というものの先は違うんだけど必要な理由、それを求める熱量、その結果はきっと、同じところに繋がってる。

MC TYSONさん、優しくてブリンブリンでめちゃくちゃ強そうで、それでも足りないって思うこと、もストレートに歌っていて、なんか、ああ好きだ、と思った。
すごくないですか。一曲一曲は短くて、でも聴けば聴くほど、この人のことが好きだと思う。
ライブってすげえ、音楽ってすげえ。
こういうことが伝わるってことなのか、と心底思った。


し、そこからの三人のトークが、完全にあの日のラジオでそれにも最高ににこにこした。そうなんだよな、やっぱりこのライブ、オールナイトニッポンpresentsであの番組の実写版なのだ。私は昨日、それを噛み締めるたびに嬉しくなった。



ゲスト大トリのSHINGO★西成さんは、もう、凄い。DJ松永さんが始まる前、神社みたいな人、って言ったことに納得する。目の前に神社があった。土着でちょっと怖くて、でも安心する。
言葉の一つ一つが、重い。真っ直ぐに届く。伝統芸能みたいだと思った。
能楽を一時期勉強していた頃があったけど、あの頃に触れていた言葉に似ていた。それは高尚って話が言いたいんじゃなくて、脈々と受け継がれてきたような言葉の強さの話だ。
茶目っ気もあって楽しくて安心する。居酒屋でああいうおっちゃんに出会えると私はいつも嬉しくてついつい話し込んでしまうんだけど、そんな気分だった。
心地よくて安心して、おかえり、とRさんに言ってたけど、自分にまで言ってもらったような錯覚があった。
ここにきて音楽を聴けば大丈夫だと思った。音楽、やっぱりすげえ。セラピーで暴力にもなり得て、でも、やっぱりそれを作る人がそう願えば、そんな気持ちを込めれば、どこよりも安全な場所になる。



ラジオもそうなんだよな。ここだけは大丈夫だ、と思える場所なのだ。
エンターテイメントという誰かを楽しませようと他でもない人間が作り出したものが私は大好きだな、と思った。傷付けたり嗤ったり、そういうことの方が簡単でシンプルな中で、楽しませようと思っている人がいることを何回でも思い出させてくれるエンターテイメントが私は大好きだ。


SHINGO★西成さんの音楽の懐にじんわりもう頭のてっぺんまで浸かっていたら、まさか灯取虫まで聴けると思わなかった。イントロが流れた瞬間、心臓が止まるかと思った。
セカンドオピニオン、Rさんのソロアルバム、私めちゃくちゃ大好きなんですよ。どうしようもないドツボハマった時に絶対聴くアルバムで、その中で灯取虫は、まだ大丈夫だと手を握ってくれるような気持ちになる。そういう曲だった。
頭のてっぺんまで音楽に浸ってるこのタイミングでこの曲はやばいと思ったし実際やばかった。
30歳のRさんが、しかも生でSHINGO★西成さんと歌っている。目の前でそれがみれている現実が信じられなかった。
滲むような寂しさと遣る瀬なさが好きだ。どうしようもない気持ちでわざと遠回りして歩いた仕事帰りの道の光景が染み込んだ音楽の記憶に優しい景色が付け加えられていく。



Rさんの歌い方も柔らかくてすごく良かった。あの頃の寂しさがなくなったわけじゃないのかもしれない。でも大丈夫だ、と言える根拠を得て、それを抱える方法を少し見つけた、そんな気がした。そしてそれを優しい顔をして笑って一緒に歌うSHINGO★西成さんの姿に心底安心したことを、私はずっと忘れないと思う。


そんなやべえ音楽を怒涛で聴いて、その後のCreepy Nutsの二人のMCも最高に良かった。
今回私は気付いたんですが、好きなものがある人が好きなんだと思う。好きなものできらきら目を輝かせている人が心の底から好きだ。ただただ好きだ、最高だという気持ちだけのその表情を見てるだけでお腹がいっぱいになる。
今回、座席が驚くほど近くて最早途中で見るのに照れてしまう距離だったんだけどDJ松永さんの横顔、目がすげーーーきらきらしてて、うっわぁすげえ!と思った。この人のこと好きだなあと思った。
なんか、良いな。嬉しいな。好きなものに自分が触れられたこともだけど、本当に誰かの嬉しそうな顔をあんな風に見れたの、奇跡なんじゃないか。



言葉は、ナイフにもなるし毛布にもなる。
そのSHINGO★西成さんの言葉のことをずっと考えてる。ずっと、聞きたくない言葉ばかりが溢れててそういうものに触れる度にごりごりに削られていた。確かに刺さりまくっていたナイフが一つ一つ、SHINGO★西成さんはじめ、昨日触れた音楽、MCでの言葉で取れた気がする。まだ血は流れてるけど、それをあったかい毛布で包んでもらって、まだ大丈夫だって何万回も呟いている。
どうせ使うなら、毛布みたいな言葉を使いたい。ナイフの方が効果ってたぶん分かりやすくて即効性があるのかもしれないけど、そうじゃなくてそんな簡単なことじゃなくて、毛布が良い。
音楽や、それ以外のエンタメ、ラジオで聴いた笑い声、真剣な声、そういう毛布をそれこそライナスの毛布のように抱えてきたから余計に思う。
私は毛布が良い。


もうこれだけで、かなりお腹いっぱいだったけど、そこからがCreepy Nutsタイムである。
空が暮れなずんできた。湿気を含んでるせいか真っ直ぐな夕暮れではなかったけど、むしろそれが良かった気もする。じわじわ夜に染まっていく。照明の色がはっきりしていく。そんな中、よふかしのうたが流れる。
何も正さないし、何もかもを映し出さない。そんな居心地の良さを、ここで昨日いっぱい味わった。それは何かを誤魔化してるわけじゃなくて、むしろ昼間の明け透けさだとか強引さだとかじゃ絶対出せないような核みたいなものな気がした。



音楽をやっている時のCreepy Nutsが好きだ。自分たちの音楽の格好良さを誰よりも信じている、彼らが好きだ。かましてんぞって顔してパフォーマンスしてくれる彼らが、私は心底、大好きなのだ。



あと、何度ライブに足を運んでも思うけど、DJ松永さんのDJが死ぬほどうまい。詳しくなくても分かる。まじでうまい。抜きがあんなに気持ちいいのすごいし、一度あれを生で味わってしまうと定期的に摂取したくなる。完全に合法の麻薬か何かだと思う。
そしてRさんの歌声と松永さんのDJプレイが会話してるみたいでそれが本当に好きだ。今回も途中もっともっと!と煽る瞬間があったけど、お互いのパフォーマンスでお互いのボルテージが上がっていく感覚が本当にすごい。
Creepy Nuts、あまりにも最高のコンビ過ぎる。



そして新曲の堕天もぶちかましてくれたわけですが、最高に気持ちよかったな。リハでやること急遽決めたとは思えぬクオリティ。まじでさすがCreepy Nuts過ぎる。
どんな表現もそうだけど、私は最新作が最高傑作って作り手が言ってくれるとわくわくするしすごく嬉しい。そして昨日の堕天でもそんなふたりの自信とか愛情が伝わってきて最高にニヤニヤした。
あとライブで初披露の曲の時のファンの空気感が好きだ。聴ける嬉しさがぶち上がって、どんどんその曲にのっていく、あの感覚が本当に好きだ。

その後ののびしろへ続くRさんのMCも良かった。というか毎度言うけど、Creepy Nutsのライブの曲振りは本当にマクラとして最高。天才。本当にR-指定っていうひとはすごい。言葉の遣い手として最強最高過ぎる。
続けてきたこと、それがこんな日に繋がること。そしてそんな毎日がこれからもまだまだ続くこと。日暮れに照らされて、青のライトがより綺麗に映える中で聴くのびしろは完全に背中を押してくれる応援ソングだった。
かつて天才だった俺たちへ、も締めのBad Orangezも何度も何度も音源を聴いたはずなのに「野音の音楽」で聴くと全然違って聞こえた。



特にBad Orangezに関して言えば、バックボーンがそれぞれ違う、歩いてきた道も歩いていく道も違うアーティストを聴いた後にあのMCと共に聴くと聴こえ方が全く違った。
嬉しかったな。
なんか、ああそうだよな、と何回も噛み締めてる。この感覚は、さすがに下手に言葉にした後の安っぽさに私が耐えられないからみんな聴いて欲しい。見て欲しい。
私は、少なくとも、あの瞬間、たまらなく嬉しかった。



身体は思い切り挙げて振ったおかげでギシギシだ。でも圧倒的な幸福感に包まれている。



ラスト、ラジオの話をした時の言葉を何度も思い出す。これからも変わらず、Rさんと松永さんの関係もスタッフさんたちとの関係も、リスナーとの関係も変わらず、末長く。その言葉をたぶん私はこれからお守りにしていくんだと思う。
寝れない夜に聴いて寝れなくてもいいかと笑った、だるい朝に聞いてげらげら笑った、最高の音楽にたくさん出会わせてくれた。そんな居場所の一つである「Creepy Nutsオールナイトニッポン」が私はこれまでもこれからも、大好きだ。
ハケながら、いつものお決まりの挨拶をしていくふたりがあまりにもらしくて最高だった。完璧にキメるのではなく、でもちょっとだけキメて。目の前の"実写版"ラジオが、あの瞬間も全部現実だと教えてくれた。
また特別なあの夜が増えたな。ずっとずっと、この日のことを覚えてられたら良いな。



電波の中の月曜深夜の溜まり場にああして集まれた瞬間のことを、私はきっと忘れない。



なんとまだこの最高のライブの配信を買えるよ!!!!!!

ぜろ

オタクなので、推しの誕生日はついケーキだとかその人の好物だとビールだとかでお祝いしてしまう。本人不在の誕生日会はオタクならわりと馴染みのあるものじゃないかと思う。


そんなわけで、私は今週1週間、この誕生日を祝うことを一つ杖のように思いながら過ごしてきた。うっかり暑さにやられてダウンしたりもしたけど、それでも今日、彼の誕生を祝い彼の生活がこれからも……クソでも良い、それでもと歩めるものでありますようにと願うことに決めていたのだ。



彼、とはMIU404の志摩一未のことである。
星野源さんが演じているとはいえ、「架空の登場人物」。そんな彼に、私はなぜかずっと、心を寄せすぎなくらい寄せてしまっている。
一応は存在しない、ということを理解しているつもりだけどでもどっか本当に伊吹とふたり、走り回っているような気がしている。
それは、源さんとあやのごさんが、ではない。
志摩と伊吹が、あのメロンパン号で東京の街を走り回った彼らが、どこかでたしかに生きて、同じようにこのクソな世界で一緒に生きている。私はどうしてもそう、信じ続けている。



この話は、2020年の時もしていた。



全く、感傷も良いところだ。子どもならともかく、成人して随分経つのに情けない。そう思うくらいずぶずぶに、たぶん、私は志摩のことを心のどこかで本気で存在させてしまっている。
音というものが聴くひとが存在して初めて「音」になるんだとしたら、この思いをもってして、志摩ちゃんも存在してるということにならないだろうか。


なりはしないんだけど、まあ、それはもう十二分にわかってはいるんだけど。



それでも、あの2020年の時間を(正確には作中では2019年の彼ら、なんだけど)過ごした彼を、彼らを他人事に思えない。

そういえば、2020年はそこそこにかなり個人的な範疇でいろんなことがあって、結果的に未だにずるずる引きずっている1年でもあった(とはいえ、そんな人はたぶん、たくさんいた。むしろあの1年からみんなずっと非日常の中を生き続けてるし、それは本当はずっとそうだったんだと思う)
それまで無理やり押さえ込んでいたものの蓋が外れたせいか、ネガティブな自分と再会することにもなったあの年、バッドトリップでの志摩の選択は言葉じゃ表し辛いほど、衝撃があった。
自分を重ねてみすぎてしまったせいかもしれない。
分かる、という共感と、それでも私なら出来ないような強さと誠実さでまっすぐ彼なりに立ち続けようとすること。そんな姿が、私が志摩のことを好きだと思った一番核の部分だったわけだ。だというのに、その志摩が「もう疲れた」と言うこと。
あの選択をするということ。
それを、理解できないと思えないことが悲しかったし、もう良いよ、と思ってしまったことが未だに時々、心底悲しくて苦しくなる。



そしてだからこそ、それを越えた彼が「間違えてもここからか」と笑ったことをずっとずっと、大切にしている。


ああもう良いか、と思う衝動はたぶん、理屈ではなくてタイミングなんだろうと思う。それこそスイッチで、何か一つが違えば全然結果が変わる。理不尽と言ってしまえばそれまでの、理屈の通っていないものでしかないんだと思ってる。
でもだからこそ、私にはあそこで、生きてここで苦しめ、と笑ったことも、間違えてもここからか、と笑ったことも大事なのだ。
そういうこと、と、笑った伊吹と今日もどこか、東京の空の下、ブーメランを食いながらでも、悪態を吐きながらでも生きて生活しているんだと信じられることが、大事で何度も何度も確認しているのだ。
あなたがそう笑うならとメロンパンに齧り付いてでも過ごすと決めた。



自分を切り離してエンタメを楽しめないことが情けなくて心底嫌になる。
それでも、やっぱり私は、そうして楽しむことができるエンタメが好きだ。別にこうして心をずぶずぶにしてもしなくても楽しいエンタメが好きだ。




分かるよ、という言葉が追いつかないことがいくらでもある。自分の内側にあるものをどうあっても届けようがないんだということに誰かの内側にあるものを寸分間違えずに理解できることはないんだということにどうしようもない気持ちになる。
それでも自分を重ねて、誰かを重ねて、心を揺らせるエンタメが好きだ。この形で触れなければ、共感どころか想像すらできなかったものを知ることができる、触れたと勘違いできるエンタメが好きだ。


答え合わせをすれば、全く違う景色を見ているかもしれない他人同士が笑い合えるエンタメが、好きなのだ。



それを、思い出させてくれた、そう思っていても大丈夫だとあの年教えてくれたMIU404のことが私はずっと大好きだ。そしてその私の好きの真ん中にいる志摩ちゃんの誕生日はやっぱり私には特別なんだ。
志摩ちゃん、生まれてきてくれてありがとう。あなたのクソなことがあってもそれでも楽しい今日や明日をこれからも祈ってる。それが私なりの誠実の形だ。