えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Creepy Nutsゲスト回のマツコ会議を観て勝手なことを延々と考えている

マツコ会議に情緒を乱されている。
情緒を乱されている、と表現するのも躊躇いがあってそれでさらにまたぐちゃぐちゃに考え込んでいる。


なんならリアタイした直後、叫び出しそうな気持ちというか、いやというよりもぐつぐつと内側から崩れそうな気持ちに苛まれ、衝動のままにSpaceでラジオごっこをした。

しかし、しながら、あ、なんか良くない、と閉じた直後思う。

ラジオは伝えるツールだ、という大いに感傷を含んだ気持ちでついラジオごっこに頼りがちな最近だけど、それはなんというか、ここにおいてはズルかったんじゃないか。



言葉にする、ということをし続けている人生だ。
基本的に言葉にすることに対して抵抗がないし、むしろ言葉にしないままそこに置いておくことの方が落ち着かない。
だから、ついつい考えていること感じたことを言葉にすることが多いんだけど、それってやっぱり暴力でもあるのだ。
特に私の場合、矢継ぎ早に言葉を紡ぐことが多いしそういう時、強い言葉を使いがちだ。そういう言葉ってたぶん、テンポよく言われれば言われるほど誰かの言葉を殺してしまう。
ついでにいえば、強い言葉それっぽい言葉は使っていると気持ちいいことが往々にしてあって、それはやっぱり、違うと思うのだ。



ということで、終わった直後反省し、反省することに自己嫌悪もして眠り、一晩どころかその後も延々と考えていた。


考えながら、この脳内シャッフルはたぶん、私の中であの30分が色んなところ、角度で刺さり、嵐のように風が吹き荒れているからこそ、起こっているんじゃないか、という仮説が生まれた。

そんで、仮説が生まれるともう脳が止まらないのが私なのだ。延々と考え込む、言葉が溢れる。

じゃあ、またラジオごっこでだらだらと話しながら考えをまとめようか、と思いながら、いや、今度は文字にするべきじゃないか、と思った。喋り、しかもリアルタイムで誰かが聴いてくれるからこそ、行き着けることも間違いなくあるんだけど。
でも、ラジオごっこは少なくとも今のやり方では残らないし、残らないという油断で、もしかしたら私はズルをするかもしれない、と思った。


いやなんか、本当に、なんだろう、みっともないくらいあの放送が刺さってる。刺さってるから、絶対に誠実にいたい。いれるか分からないし、何をもって誠実とするのか検討もつかないけど、これを手放しちゃいけないと思う。
そうやって深刻に捉えていることももしかしたら、自惚れなんじゃとか自己陶酔でしかないとかいう批判はもうこの数十時間で百回はしたので、とりあえず。
自分の納得のいく、そして自分にとって表現、である文であの30分を自分なりに咀嚼して飲み込んでみたいのだ。


それが、例え、「勝手な解釈」の域を出ることができないんだとしても。
このぐちゃぐちゃを研ぎほぐして、考えたい、残したい。



まずは、
HIPHOPという表現について。
前提、私は今年になってからCreepy Nutsを聴きだしたゴリゴリの初心者だ。
聴くのも彼らの曲中心、あとはラジオなどで紹介された曲が気になれば少々、というライトな感覚で楽しんでいる。

しかし、知れば知るほどこのHIPHOP、もしくは日本語ラップというジャンルが面白い。





のブログでも書いたんだけど。
ラップという、言葉が連なって音になる、韻を楽しむのが、本当に楽しくて仕方ない。
そして、そのHIPHOPにある「ありのまま歌う」スタンスがたまらなく好きだと思う。かますこと、自分のままでダメなところも格好いいところも全部歌う。私にとって、HIPHOPは「ありのまま」の音楽なのだ。もちろん、中にはブリンブリンに自分の力を誇示しようとする音楽……ボースティングという表現もあるくらいなんだけど、なんというか、それすら「ありのまま」だと思う。


そしてその中でゲットー…貧困や暴力、過激な過去があってこそ、という流れ、それに対して所謂"ワル"以外が歌っても(かましても)良いじゃないか、という流れ。

なんというか、そういうのが一つ一つ嬉しくて大好きなんだ。


そしてCreepy Nutsの主流と少しズレた作風、スタンスがどんどん大きなうねりを作ったことが面白くて大好きだ。


昔、大好きな舞台役者さんが「舞台には全部が出る」と言っていて、私はそれが何年経っても大好きな言葉なのだ。そして、そんな私にとってHIPHOPが刺さったのは、まあそりゃそうだよな、と思う。
正しくHIPHOPという文化を理解できているのか、というのは分からない。まだまだ知りたいと思うこと、知らないことはたくさんある。
だけど、それも含めて、私は「そのまま」を出す、出してしまうHIPHOPを面白いと思う。


で、その上で「でもありのままじゃ許されないこと」について考えてしまう。
もちろん、人が人を傷付けることを肯定するつもりはないし、ありのままやりたいことをやる音楽だから何をやってもオッケー!とは思わない。
でも、この問い掛けを繰り返すたびにわからなくなる。



例えば、テレビが面白く無くなった、という考え。以前の"面白かったなんでもありなテレビ"は、それに傷付いた人の口を塞ぎ、そんなもんに傷付くお前が悪い、と切り捨ててしまってたんじゃないか、と思う。
でもじゃあ、傷付けない・間違えない、ことだけを目指すのは正しいのか。
そうとだけで紋切りしてしまうことは、何かを同じように殺してないか。
そして例えば「不適切な表現」をしたからと誰かを殺してしまうのは、それだって暴力じゃないのか。


少し話は違うが、昔、あるラッパーの映画を観て、音楽をやり通した結果、殺されてしまう結末に、どうして、とずっと考え込んだことがある。そこには私が汲み取りきれていない歴史や文化、政治的背景もあったんだと思う。だけどどうしても「何故自分の信じた音楽を続けた結果に殺されてしまうのか」が納得いかなかった。そこでそう思うこと自体が、平和ボケした日本人の感想だと言われてしまうかもしれないけど。



で、なんでこんなにぐちゃぐちゃ考え込んでるかってそれは、エンタメが好きだということもあるけど、
それだけじゃなく、そこにあるどうしようもない途方に暮れてしまいたくなる絶望感に覚えがあるからだ。


やり直しがきかない、間違えたら落ちていくしかない恐怖感に付き纏われた生きづらさ
あるいは、受け入れられるために受け入れやすい形に自分を整え続ける息苦しさ。
そういうものは、何も、表舞台に立つ人だけが感じてるものじゃないんじゃないか。
番組内でマツコさんも言った通り、今の日本でもそんな苦しさや鬱屈を抱えている人はきっとたくさんいて、だからこそ、Creepy Nutsの卑屈さやそれを吹き飛ばしてかますところ、そこから広いところに出ても悩み迷い続けるHIPHOPに共感しているんじゃないか。


そしてそれは、誰でもない私自身の話だ。私が勝手に彼らにそんな自分の生きづらさ、やりきれなさを重ねてきっと彼らを"消費"してるのだ。だから、私は、そんな自分を卑怯だと思う。



で、どうしたらいいか考えてたし考えてるけど、答えが出ないんですよ。出たような気がするけどその度に振り出しに戻って分からなくなるんですよ。
このブログだって、全然まとまってない自覚がある。
だけど、卑怯な私ができることは、考え続けることくらいしかない。できること、以上にしたいという、だけなのかもしれないけど。



マツコ会議を観て、本当になんなら友達までも巻き込んで、ぐちゃぐちゃに考えていた。怒っているのか悲しんでいるのか傷付いているのか、それとも嬉しいのか。
分からないまま、その正体不明の感情に胃が焼かれるかと思った。
だけど、その時の感情を振り返りながら思う。
私はその感情を手放したくないんだ。
そんなものを手放せば楽になるのかもしれないけど、たぶん私はこれからも色んなエンタメに触れるたびに胃を焼かれるような感情に悶絶してぐちゃぐちゃに考え込むんだろう。そしてそんなエンタメに出会えることを願ってる。


日々、色んなことにがっかりし、ウンザリし、何より自分のことを嫌いになりながら過ごす私にとって、そうして、感情をぐちゃぐちゃにされることは人生だとか人間だとかを手放さないために必要なものなのだ。
そして、ものすごく勝手なことを言うなら、松永さんやマツコさんの涙に同じようにいろんなことにがむしゃらに自分の好きなことや思いを貫こうとする、信じようとする人を見た気がして仕方ない。それもこれも、勝手な共感・解釈だけど。
だからこそ、それが嬉しかった私は、こうして嬉しかった、と叫び続けたい。
それが私なりの合ってるかどうかも分からないけど、誠意の形だ。


マツコ会議
クリーピー松永の涙が止まらない…マツコも涙…一体なぜ?
#TVer #マツコ会議
https://tver.jp/corner/f0088865

とりあえず、視聴可能期間、あと何回か観て考えたい。

劇場版 きのう何食べた?

きのう何食べた?のドラマが好きだった。元々、美味しいご飯が出てくる作品が大好きで、そんな私にとって、この作品はドンズバで好きなものが詰まったお話である。

ドラマも、感想を書いていた。


その中で書いた

次の日になれば忘れてしまいそうなやりとりを彼らは心底楽しそうにするのだ。
だけどなるほど確かに、そんな「忘れてしまいそうな会話」で私たちの毎日はできている。

という、彼らの大好きだったところを映画館で見ることができて、そしてそこにいる彼らがドラマからの時間を私たちと同じように「生きてきた」んだという実感があって、私はいま、じゃぶじゃぶと洗濯をしたかのように幸せな気持ちになっている。


ドラマの感想で、私はシロさんのことを「しょーのない人」と書いていた。
今の私はドラマを復習がてら見返しながらシロさんのことを「言葉にしないしさせないひと」だと感じていた。

言わないし、言わせない人だと思う。

もちろん、それでも情の深いケンジは、たびたびそんなシロさんを捕まえて伝えていたし、直接的な言葉はなくとも丁寧にご飯を作り食べするなかで気持ちを伝え、慈しんでいる。それが彼らふたりの愛おしく大好きなところだ。


しかし、映画が始まり早々に私は「シロさん、変わったな」とむずむずと嬉しくなった。
伝えようとする、言葉にしようとするし、相手の……ケンジの言葉を受け取ろうとする。
言葉に全てする必要はもちろんないんだけど、それでも、言葉にして受け取ってもらえたり手渡されることはすごくすごく、幸せなことだ。
だから、私はシロさんにそんな変化を見つけた瞬間、泣きそうになってうぐ、と心の中でうめいた。

それは、例えばずっと行かないと言っていた京都旅行がそうだ。ドラマ最終回でも口にしていた「もういいかと思って」の延長、歳を重ね、同じ時間を過ごしながら、少しずつ、許し合えること、できるようになること。それは、なんて愛おしいんだろう。



また、ドラマでは言葉にせず逃げたりしたことを一つ一つ拾っていったような気もした。
私はドラマ版の言わないこと、の誠実さもものすごく好きだった。
感情的になり言葉をぶつけることは、カタルシスすら生まれるけど、どこか嘘くさくなることも事実だ。
シロさんとケンジは、言葉にしたりしなかったりしながら、等身大の体温、距離感で一緒にいて、私はそんな描写が大好きだった。誠実だ、とも思っていた。


だけど、劇中語られたとおり、「一番近くにいるひとに本音を言わなきゃ誰に言うんですか」なんだ。
全て常に誰にでもそうする必要はないけど、きっと、伝えないままなら後悔することがある。


だって、歳を重ねなことで相手に伝えること・相手の言葉を受け止めること。
つまりは、それは大切にする、ということではないか。


そしてそれは、食事を作り食べ、美味しいねと言い合うこの作品の中にある生活を大切にすることにも通じている。
派手さもない、大きな感動ではないかもしれない。夢のような話でもない。だけど、すごく愛おしくて、大切で、結構、大切にするのが難しい。得難いものだったりするのだ。


そんなことを思うと、私は嬉しくて無性に泣けてしまった。



また、彼らは二人きりで生きているわけではない。
お父さんお母さんや、ジルベールたちお馴染みの人物たちをはじめ、関わり一緒にご飯を食べたり笑ったりすれ違ったりする。
そこには、ゲイやホームレスなど、問題が幾重にも重なってて、積極的に誰かを傷付けようとしていなくても、傷付いてしまうことがある。うんざりすることも多い。
でも、この映画を観ながら、それを殊更に騒がず、しかし無視するわけではもちろんなく、ひとつひとつ、取りこぼさないようにお互いさまで、出来うる限り大切にできないかな、と思った。願った、と言っても良いかもしれないし、この映画を観ながらそう信じたくなった。あまりにも、画面上、映される世界が愛おしくて。


大切なたったひとり、を大切に愛しむ方法はきっと、誰かだけを大切にするんじゃなくて、きっと、誰かの幸せを喜ぶことだと思うんだ。


ところで、今回の脚本では「言った人が同じことを言われる」という構成が何度か出てくる。この構成がとても心憎く愛おしい演出になったりする。
それが愛おしく思うのは、なんでだろうと観終わって考えていた。


きっとそれは、その構成がずっと正しくなくて良いし、強くなくていいし、生きてる限り続くのだ、と言っているような気がしたからかもしれない。

歳を重ねるって、正解を叩き出そうとすることではなく、ただただ、何かを積み上げていくものなんじゃないか。
そうしながら、手元に残ったものは、とんでもなく、愛おしいものなような気がするのだ。そんなことをラストシーンを観ながら、考え、私は嬉しくなった。

みらいめがね それでは息がつまるので

9月21日のラジオがとても好きで、萩上チキさんの本を買った。声や言葉の柔らかさ、そして何より源さんの「若林さんとの放送回が好きだった人には、お守りのようになる本だと思う」という言葉に、気が付けば本を注文していた。
(聴いた時の心の動きをとっておきたくて、あの日の放送はわざと極力言葉をメモしなかったので、ニュアンス満載の表現として受け取って欲しい)


一つ目の娘さんと観ているディズニーから、その変遷、価値観について描いたエッセイからこれは大切な本になるな、と確信した。
だから、一気に読んでしまわないように注意深く、ひとつの移動につき一エッセイという縛りを設け、慎重に慎重に読み進めた。


21日の放送の中で、読書という経験をふたりは「世界が変わること」だと表現していた。それまで見えなかったことが見えるようになる、見ていたものの表情が変わる。そんな経験ができるのが読書なのだと。



それを思い出したのは「僕の声とラジオ」の回の「インポスター現象」の話を見た時だった。
自分の能力について、ズルをしていると感じる・過大評価されていると感じ、いつかそのことが周りにばれて糾弾されるという不安感がある。
その感じは、私の中に身近な感覚だった。
例えば、喋ること・誰かに大切にされること。最近はちょっとずつそれを「認めること」という誠意の返し方もあるのだと言い聞かせ、納得するようにしている。
だけどどこか、お前なんか、という自分への謗りがあるような気がする。それはいつか聞いた誰かの声のような気もするけどよくよく聞けば、たいてい、自分の声なのだ。


その感覚に、名前がついた。ぼやけた世界が輪郭を持った。
今まで、例えばセクシャルマイノリティの話を考えた時、名前をつけることは必ずとも幸せとはいえないんじゃないか、そうすることで逆に生まれてしまったしんどさがあるんじゃないか、と思っていた。名前を得たことで安心した、という話を聞くたびに、考え込んでいた。
だけど、ほんの少し、感覚が分かった気がした。自分の中にある感覚に名前がつくことは確かに「安心する」。
もちろん、それで生まれるしんどさもあるだろう。だけど、それは安心することと両立して存在しうる。そんな当たり前のことを私は読書という体験を通して、理解して、世界が変わったような気がする。



生きづらさがずっとあって、それは何も私が特別だからというわけじゃなく、みんなそうなんだ、とずっと思ってる。それをおかしく希望に感じることもあれば、とんでもなく憂鬱な気持ちになり色んなことにがっかりすることもある。なんなら、後者の方が多いだろう。
絶望しきりたくない、諦めたくない、例えどれだけの地獄だろうがげらげら笑って過ごしてやりたい。
そう思いながら、いつもいつ足が止まってしまうか不安になるし、いっそ止まってくれと思うこともある。



なるほど、確かにこの本はそんな私にとってはお守りのような本だった。


目が悪い人が眼鏡をかけるような感覚で、遠くのものを見る時にかけかけえるような感覚で、この本を読む。知らないこと、知ってること、感じていたけど形が分からなかったもの。
それをこんな眼鏡もあるよ、とつぶやくようにチキさんが教えてくれる。


ゲームや音楽、漫画、文学。今までの人生のなかでチキさんのお守りになってきたもの、これがあるから、と「世界中が自分を拒んでるわけではない」と教えてくれたものたちがエッセイの中には出てくる。
また、チキさんの目を通して見た愛おしいもの、信じたいと思えるような話は、私にとってはお守りだとも、毛布のようだとも、絆創膏のようだとも思った。


この本がお守りになると思うという源さんの言葉通りだった。

「日常と、世の中から、呪いを解いていこうじゃないか」


そんな柔らかい言葉が誘って聞かせてくれる言葉たち。そしてそこに添えられたヨシタケシンスケさんのイラストと漫画がじんわりと染み込ませてくれる。


そしてこれは、ある意味で、チキさんにとっても「語り直し」の一つなのかもしれないと思った。だからこそ、私はこんなに惹かれるのだ。娘さんと息子さんへ語りかける回で、私はなんだか、泣きそうになった。優しくて力強くて、なんというか「ああこの言葉が読めて良かった」と思う。


誰かがそうして、語り直しをすること、世界の話をすること。私はそれを見ると、ああまだ大丈夫だ、と呟きたくなる。
がっかりすることも諦めたくなることも多い。だけどまだ、まだ大丈夫、まだ間に合う。
それは、力強く背中を叩いてくれるというよりかは、そっと一緒に伴走してくれるような優しい距離感なんだ。




まだ、2巻は読めていない。あと1冊、この人の本が読める。なんなら、チキさんが書き続けてくれる限り、そして私が生きている限り、まだこんな言葉に出会える。
何より、その実感こそ、生きる上での最高のお守りなんじゃないか。

【サンプルあり】『グレースケール』について

【サンプル】オープニング、あるいはボクはここで待つ【サンプル】




ボクは、ぼんやりと時を過ごしている。
見えるのは砂とその奥の街の残骸。もしかしたらその街の名残は蜃気楼かもしれないけれど、ボクに確かめる術はない。


人間は、人間であることをやめたんだと思う。


そんなこともボクが「そう思う」だけで根拠はない。ボク自身も「人がひとだった」と感じる時代を生きたことはないんだから、分かりようがないのだ。
人が文明を手放してからどれくらい経つだろう。
もしかしたら、ボクが知らないだけで文明が残るエリアもあるのかもしれない。それも、ボクも知ることはない。知ることがない以上、存在しないのと一緒だ。
人が人と一緒にいることをやめた。繰り返された戦争でそもそも人口が減り続けた世界はある一つの結論を出した。人は、人と生きるからいけないのだ。
もちろん、人がたった一人で生きていくのは難しい。だけど、極力、人と関わらないように。最小限の小さなコミュニティで生きていくことを選んだ。奪い合ったり傷つけあったりしないように。それぞれが小さなコミュニティに分かれて、生活するようになった。



砂だけがずっとあるもので、そこで遠く太陽がのぼり月とかわりばんこで光を降り注ぐのをただ、見ている。
ボクはそこで、ぼんやりとした時間の中で過ごしてる。時々やってくる誰かが、その中で起こる「ちがうこと」だ。その誰か、もいつくるかはボクにはわかるはずもないんだけど。
ただ、何故かボクのもとにはお喋りな誰かが来ることが多い。それはたまたまそういうひとばかりが来るのか。それとも、ここに来るとみんなお喋りになってしまうのか。どちらかは分からないけれど、ボクはその話を聴くのが楽しみなんだ。



…next track

ここから先は宣伝だよ〜!


さて、宣言したから、心置きなく宣伝したい思う。CDが出ます。といっても、私は音楽に関して楽器もできないし歌も歌えないし作曲もリミックスもできない。
だというのに、何故CDが出ると宣伝してるかというと、そのCDにつく小さな冊子に物語を書いたからだ。



イメージアルバムというジャンルで伝えると分かりやすいだろうか。
歌のないピアノをメインとしたインストゥルメンタルのアルバムに短いお話を書いた。
2000字弱のお話が8つ、9曲の曲が収録されたアルバムのと一緒に収録されている。その8つのお話の執筆を今回、担当した。お話としては同じ語り部が主に話を進める連作の物語になっている。


音系・メディアミックス同人即売会「M3」にて発売予定だ。

第一展示会場【N-20】にて『グレースケール』というアルバムが頒布される。
※後日、通販も予定されています。



音系の同人即売会という存在を知って、面白いなーと感動した。私は、同人文化っていうのがそれはもう大好きなんだけど、その音楽のジャンルに関わることができて、すごく、嬉しい。


今回のピアノインストアルバムは、癒しの、とかヒーリング効果、睡眠導入に最適、とか、そういうのではない。
でも、想像して向き合う時間を作る音楽って楽しくないだろうか?楽しいといいな、と思う。そしてお話を抜きにして、音楽だけ聴いてくれてもきっと、想像したくなるような音がそこには広がってると思う。
元々、どんなアルバムを作ろうかと相談していた時、夏休みの終わりの寂しさや久しぶりに会った親の背中が小さくなったのに気付いた時のような、という話になった。
そこから、どんな話を書きたいだろうかと考えながら、曲が上がってくるたびにわくわくした。


私が書いたお話は、この一年半、ずっと考えていたことや好きだったもの、なんでだろうと思ったものが詰まった形になった。
覚えのある寂しさのことを考えながら、今書きたい話はなんだろう、と考えたせいからだ。
明るい話なのか、暗い話なのかは分からない。私は明るい話書けたなー!と思ったら暗いな?!とリアクションが返ってきたりその逆があったり、なんだかそういうのも誰かと作るからこそで、そして、手に取った人の数だけリアクションが生まれるかもしれないことにすごく、どきどきしている。
そんな気持ちも込めて、今回『グレー・スケール』という名前をつけた。




museoという友人がいる。この友人が、今回、私を誘ってくれた。
高校時代からの付き合いで、学生時代は延々と公園で門限ギリギリまで、いや、なんなら門限を越えて怒られながら喋ってきた友人である。
読んだ本、観た芝居、部活の愚痴、気になってるニコニコ動画の動画、そして音楽の話。
ともかくいくら話しても話し足りなくて何度かやったお泊まり会ではうつらうつらしながらお菓子を片手に夜通し喋っていた。
私の好きな音楽の基盤を作った一人は間違いなく、むせおだと思う。
ブルハにピロウズ、ヨエコにミッシェルとともかく色んな音楽を聴かせてもらい、そのたびに私の世界の楽しいは増えた。
そして、そんなむせおの作る音楽が私は高校時代から大好きなのである。



高校時代、私が描いた話の音楽を音楽室で作ってもらった時のことを私はずっと覚えてる。
音楽への憧れのせいかもしれないけど、そこにないものが形を持って生まれる、広がるそんな感覚がむせおの曲にはある。



もし一緒に作ってて友達やめたくなるくらいなら作るのをやめようね、と高校時代ならきっと頷けなかったことを言われながら一緒に作るのが本当に楽しかった。


楽しいのに、作りたいものを作れたという実感もある。それは、結構、奇跡的だと思う。
そして願わくば、そんな奇跡の連続で、手に取ったあなたの心が動くような奇跡も一緒に起こりやしないかと、妄想している。



どんな時に聴くのが合うのか、どんな気持ちになるのか。それはもう、聴いてくれるあなたにお任せしたい。どうか、楽しんでもらえますように。

CUBE

※直接的なネタバレは極力避けていますが、ネタバレのような話は出てきますので十分お気をつけください。


根本的に「グロい話」が苦手だ。痛い、ということを過剰にもしくは丁寧に伝えられるとアアアアアアア…と言いながら折り畳めるだけ身体を折り畳みたくなる。
だというのに確実に「痛い」描写があるだろう『CUBE 一度入ったら、最後」を見ることに決めたのはいくつか理由がある。
一つにはもちろん、こないだブログも書いた星野源のCubeがかなり最高だったからだ。




しかし、それ以上にラジオやインタビューで語られた菅田将暉さんの言葉と、菅田さんの目を通して語られる監督の姿勢に興味を持ったことが大きい。



CUBEとは元々、カナダで作られた映画である。箱の中……1シチュエーション(いろんな箱を移動はするが)という制約のなか、極限の状況とそこに追い詰められ浮かび上がる人間の姿、というものを描いた作品らしい。
(まだオリジナルは見れていない。かなり日本版とは印象が違う予感はあるけどそれはそれで見てみたい)
オリジナルの監督から直々に公認されたこの"日本版CUBE"はオリジナルと枠だけ設定が同じである。
殺人トラップが仕掛けられた謎の箱の中、気が付けば連れてこられた6人の背景が違う男女。果たして、彼らは外に出られるのか。


なんとなくだけど"出られるか"ということよりも、その「生きるか死ぬか」の状況で人はどうなっていくのかの思考実験のような感じが、「果たして観れるのか」と色々調べているなかでしてきた。
もちろん、一つ作品……キャラクターたちの目的は「脱出すること」だとは思うんだけど、それ以上に浮き彫りになっていく人間模様、本性こそ、この作品の面白さなんじゃないか。



CUBEの予告を見た時から、キャストの豪華さに興味は持っていた。ただ、"殺人トラップ"という響きにああ、私には縁遠い作品だな、と一度はとった距離がぐっと縮まったのはその「人間模様、本性を描き出すこと」に惹かれたからだ。


そもそも、CUBEは出られない物語だ。
このコロナ禍というそれこそ「出口が見えない」状況下でこの作品が生まれたことを観たいと思うようになってから考えていた。
もしかしたらそれは無理矢理現状と作品を結びつけた野暮な憶測、表現なのかもしれない。
だけど、どうしても、例えば岡田将生さん演じる越智が口にした「もう疲れました、進むのも死ぬんじゃないかって怯えるのも」という言葉は私にとってあまりにも覚えがある感情だったのだ。
なんとなく、そうか、それは、今作りたいと思うな、と思った。それはもちろん、勝手な妄想からくる共感なんだけど。
だけど、CUBEを「日本の物語」として作りたい、と思った人がいたことがすごく、素敵だと思った。

ツイートもしたんだけど、



と、勝手に感じた。
それは「星野源オールナイトニッポン」にゲスト出演された菅田将暉さんが口にしたヒューマンドラマとして描くことへの葛藤があった、というエピソードからのバイアスもあったかもしれない。
だけど、たしかに私は観ながら恐らくオリジナルの中にもあっただろう核の部分、そこを守りながら、きっとその作品を「観客」として観た監督の愛情のようなものを感じたのだ。
その作品に心を動かされ、動いた心をアウトプットしたい、生み出したいと願うその人の心のようなものが愛おしくてたまらない私にとって、それはなんというか、眩しくてすごく、最高のものに思えた。


もちろん私は書いた通り、CUBEオリジナルを見ていない。ヒューマンドラマにすることへの違和感を感じるひともいるんだろう。
それはどちらが正解という話ではないのだ。



って、打ってまして、公式サイトを確認しにいったんです。キャラクターの名前の漢字確認するために。そしたら、各キャラクターのSNSのリンクを見つけたんですね。ああそういえば、上映後のアンケートの中にそんな話も書いてあったっけな、と思ってそれぞれのアカウントを見たんですけど…。


すごい。
なんだこれは。こんなに作り込まれたキャラクターのアカウントはなかなかに見れないやつだ…。
何をリツイートするか、いいねするかまで作り込んで、「生きてる彼ら」を身近に感じる。
作中は鈍くだけで済んだ彼らの運命への痛みとか悲しさがいま、結構、しんどいくらいに迫ってきた。生きてる、生きてるんだな、彼らは。同じように。


そしてアカウントの作り込みを見れば見るほど、「持ち得る手段全てを持って、伝えようとする」という姿勢と熱量を感じて、今大の字になってうーうー言ってる。すごい。凄まじい。愛じゃん、それは。

私が何かを伝えようとするひとが好きだというのはあるけど、でも、そっか、だからだ、だから私はCUBEが気になって、そして実際観て、すごく好きだ、と思ったんだ。



徹頭徹尾、伝えたい、伝われ、という熱が凄くて、それがしかも独りよがりじゃない、と感じたのは、全手段を持って伝えようという熱量のせいかもしれない。魅力的なキャストを揃えたことも、星野源が主題歌を担当していることも、恐ろしいほど作り込まれたキャラクターのSNSアカウントも。
そしてそのスタートは「日本版CUBEを作る」というこの企画そのものから、始まってるのだ。



ところで、救いのある話、というのは果たして本当に「救いがある」のか?ということを時々考える。
Cubeの歌詞の中にもあるとおり、逃げ場なんてないし、憎しみはここにある。
そんな中で描かれる「救いのある物語」に時々私は、勝手に傷付くことがある。
めでたしめでたしと無遠慮に語られる物語にそんなことあるかよ、と悪態を吐きそうになったりとか、現実の残酷さとのギャップにやられてしまうのだ。



生きていく、あるいは生きていける、は希望なのか。
むしろ、そんな酷い話があってたまるかと思う。CUBEのなか、恐ろしい殺人トラップが張り巡らされた箱を突き進む彼らはその間ずっと「死ぬかもしれない」という恐怖に晒され続ける。言葉は悪いけど、生きてしまってるばっかりに。
その上、この作品は「だから生きるのはこんなに地獄ですしんどいですね」なんて簡単な結論もくれないのだ。



CUBEは、安易に「生きてることは素晴らしい」や「だから生きていくのは地獄だ」とは言わない。人間という生き物の美しさも説かない。むしろどれくらい最低で愚かでどうしようもない生き物かを描く。
そして、その中でそれでも、ともがいてしまう、愛おしさと悲しさ、残酷さを描いたように思うのだ。
単に試練を乗り越えて生き続けることを讃えたり美化したりせず、救われるなんて優しい嘘もつかず、それでも、と本当に微かに、でも決して消しようもない苦さと強さを、描いてくれた気がする。


それはCUBEを描く必要のない物語だ、というひともいるかもしれない。もしかしたら、私もオリジナルのファンならそう思ったかもしれない。
ただ、思う。監督は、たぶん、ものすごくCUBEという作品が好きで、向き合って、作ったんじゃないか。
なんでもよかったわけでも、自分のために作品のメッセージをねじ曲げたわけでも、たぶんない。
どうしようもない状況の中でも生きたいと思ってしまう絶望も、どっちにいっても苦しくてしんどくて塞ぎ込むような閉塞感も、全部描きたいと思った時、もしかしたらCUBEという作品に行きあたったのかも知れない。



そして最後に、どうしても星野源ファンとして、この作品の最後にCubeが流れることが最高だった話がしたい。


ポップだから、とか明るいイメージがあるから、という世間評価について色々書くことは、野暮で下品かもしれないけれど。


私は星野源の音楽の容赦なさが好きだ。簡単に絶望させてくれない優しくなさが好きだ。知れば知るほど、好きだと思う。
希望は込めなかった、というCubeは映画CUBEの中の菅田将暉さんのお芝居があったからこそ、生まれたらしい。
それでも生きるのだと、歩き続ける・歩き続けてしまう彼の強さ、生命力。それを良いとも悪いとも言わず、ありのまま歌う、奏でる。
映画観てから、この曲聴くと、脳内で後藤さんが走り出すんですよ。作中、走り回る!みたいなのはないんだけど。
なんか本当に、徹底して、伝えたいテーマがブレてない気がする。テーマ、なんて一言で纏められやしない、すごい、なんだろうぐるぐるしたエネルギーのようなものが一本筋を通して作品の中にある。
この作品を作ろうとした時に星野源に主題歌を作ってもらおうって話が出たこともそれが実現したことも、この作品を受けて、この曲が生まれたことも、なんか、すごく、嬉しくて奇跡のようで、心臓がバクバクしてる。それは、まさしく、橋じゃないか。




もうね、感想書いてて思ったけど、書きたいことが、すごくあった。すごい、熱量がぐるんぐるんしている。それは、きっと、彼らが苦しみながら届け届けとこんなすごい作品を生み出してくれたのがたまらなく嬉しくて心臓が跳ね回りまくってるせいだと思う。


たぶん、私は何より、この話をこの今作ろうとして、本当に作り上げてくれたひとたちがいることがたまらなく嬉しいんだな。



ハッピーエンドだともバッドエンドだとも言わず、白黒ハッキリつけられない、あるいは言葉にならないどうしようもないものをそれでも形にしようとし続ける、物凄い彼らに心から拍手を贈りたい。ありがとうございました。

ラジオごっこの話

ラジオをやった。Spaceで、やりたいやりたいと騒いでいたラジオをした。
やった理由はそのラジオでも話していたんだけど、あまりにも嬉しくて幸せだったので、それを忘れないために文に残す。



ラジオをやりたい、と思ったのはドラマ「お耳に合いましたら」の影響と星野源さんがたびたびラジオで「ラジオやったらいいよ」と話していたからだ。

それはつまり、好きを言葉にすることでなかったことになんかするもんか、という気持ちだったような気がするし、言語化されないものを「誰かに聴いてもらう」という力を借りて形にしようとしていたからかもしれない。



じゃあ「友達に聴いてもらう」でも良いじゃないか。実際、私は通話や対面で今まで何度も何度も、人に話を聞いてもらってきた。最近、私は「コミュニケーションが取れないと諦めること」に過剰なまでに傷付いてしまう自分に気付いた。そこまで傷付くな、と自分を何度も宥めるけど、どうしても、毎度、傷付く。そしてそれはたぶん、今まで私がどれくらい向き合って人と話してもらってきたかという幸運の話に他ならないんだと思う。
真っ直ぐに向き合って、お互いの温度感を確認しながら私は色んな人と言葉を重ねてきた。
そうならば、これからもそうした「好きを失くさないため」「人に話を聴いてもらうことで力を借りて何かを形にする」為の話を友達と電話なりをすればいい。



まあ、言ってしまえば、そうなんだけど。
でも、まだ感覚の部分でだけどはっきりと確信を持ってラジオごっこと対個人への会話は違うのだ、と気持ちが騒ぐ。
例えば

見慣れたアイコンが並んでいる瞬間の心強さ。Twitterでやっているので、フォロワーさんが遊びにきてくれることが多いんだけど、私はそのアイコンをひたすら、毎回、目に焼き付けようとしている。
おおよそ、人に甘やかされ支えられながら過ごしている。この人たちなら、頭ごなしの否定をしない、この人たちがいるなら、たぶん、なんだってできる。
重たいようなそんなことを、私は時々真剣に考え、重いなあ〜と苦笑する。
もちろん一期一会だし、いつかお別れすることだってあるだろう。たまたま今、その人の興味の先に自分がいることができているのか、あるいは生活の邪魔をしていないから存在できているのか、また別の何かなのかはわからない。だけど今この瞬間、のそれに感謝しない話はないと思うのだ。 



そして、一緒に喋ってくれる相手がいる心強さを改めて考えた。
一人喋りのハードルの高さをじゃあ、と一緒に飛び越えさせてくれた友人のソラちゃんはすごい。
元々、彼女とは「OLごっこ」と銘打ち、好きなものや最近のことをひたすら話す「好きの殴り合い」をする。
彼女が見ていない作品について語る私の話を真剣に聴くだけじゃなく、楽しそうに聞いてくれるそれは、最早、ノーベル賞的な何かをとってほしいレベルでの才能だ。だし、そうしてワクワク聴いてもらいたい、がきっと、とどまるところを知らず言葉が怒涛に出てきた理由の一つのような気がする。



驚くほど言葉がするすると出てきた。まるで、せっつかれるように後から後から出てくるので、結構本気でびっくりしていた。
そしてそれは「届いた」感覚と「届け」という願いがバチバチずっと、スパークしていたということなんだと思う。




去年一年間、ひとりきりで過ごしながらどうやったら幸せになれるかをずっと考えていた。唐突なお別れが襲ってくるこの時間の中でどんな顔で過ごすのが正解なのか、ずっとずっと考えていた。それは、なにも去年いきなり考え始めたことじゃない。いつも気を抜くと襲われる不安感ではあった。
だけど、普段の日常なら友達の前で笑ったり戯けたりしてる間に忘れていたし、
何より大好きなエンタメを思うがままに摂取できる生活であれば、そんな不安を吹き飛ばしてこれた。これが答えだと非日常が教えてくれた心臓の弾みを答えにできた。

でも、そういうもの一切から切り離されたとき、私はずっと考えていた。
それでも残ったものを数えもしたし、手の届かない、は永遠ではないと信じるようにもした。大好きなエンタメの創意工夫はこんな時も起こるのだ、と知った。そして、好きなものだって増えた。


ラジオは、そんな増えた好きなものの一つだ。
多くの大好きなラジオで語られたようにそこでなら「当たり前」として話せる自分なりのまっすぐな道。そんな話を聴くのが好きで、私も話したくなった。
気が付けば悪態を吐いてしまう人間だからこそ、こんなに好きなんだとこんなに素敵なものがあるのだと言葉を尽くす機会や場所を増やしていきたかった。


すごい時代だと思う。やろうと思ったら、資格なんてなくても、始められる。誰かにやっていいよ、と許可をもらう必要なんてないのだ。やりたいと思って、足を踏み出せばいい。そうした後は、続けられるように大切にするだけだ。大切にさせてもらえる、その幸せを忘れないように確認していけばいい。
更に言えば、色んな人と話もしてみたい。あの場だからこそ、話せる人がいる。そんな気がしている。


なんて、2000字近くも感傷的に書いてみはしたけれど、結局は好きなものの話をひたすらやる場です。聴いてくれた友人が言ってた「カフェの隣の席のお喋りを聴く感覚」を続けられたら良いと思う。
不定期で遊んでいる「ラジオごっこ」。
もしタイミングが合えば覗いていただけたら、そして何よりほんの少しでも楽しいを増やせたなら私はものすごく嬉しい。


次回は10月28日22時からそーさんというお友達と話します。
音楽が好きなそーさんとお芝居が好きな私がダンス筋と表情筋の話をしたり、そうしたところに表れるような気がする地層や年輪のようなものの愛おしさとか面白さの話をする予定です。

Cube

本物のチャカを突きつけてきた。
そう思った。
あちこちオードリーに出演された際、「俺は諦めませんよ」と若林さんに言ったエピソードを交えながらだったと思うけど、源さんの言った"本物のチャカ"という言葉が心に残っていた。時々思い出すその言葉を、Cubeを聴いた時真っ先に思い出した。

生きていくうえで強く感じていること。


そんなことが反映されているというCubeという曲は、アップテンポで賑やかなメロディラインで進む。
ふとそれで地獄でなぜ悪いを思い出した。
軽快なメロディとたくさんの楽器で楽しい音楽を奏でながら、歌詞はゴリゴリに地獄を歌う。
私は、星野源のそんなところが好きだ。地獄や苦しさ、怒りをともかく楽しそうに歌う。奏でる。楽しそうでもそこにある苦しみは嘘じゃない。
Cubeも、楽しそうなメロディで淡々と怒りや絶望を歌う。
そしてその感覚が、どんどん研ぎ澄まされてるような気がする。それはある意味、本物のチャカ、だと思った。



何より、絶望させてくれないのだ。

"未来 閉ざした
もう終わりさ すべてに希望が見えない"

そうショートverの予告で流れていた歌詞からこれはやべえ気配がするぞ、と思っていたわけですが
フルで聴いて容赦のなさにしょっぱな笑ってしまった。清々しくて笑ってしまった。すごくない?
ボコボコにしてるのに曲は楽しい、曲は楽しいのにハッキリと希望はない、と言う。
その上、その上ですよ、絶望させてくれないのだ。
絶望させてくれないなら希望を教えてくれるのだろうか、と思えばそうでもなく「ただ生きていくだけだ」と突き放す。


星野源〜〜〜!!!!!




星野源は何を憎んでるんだろう。
もちろん、歌詞イコール彼の本心だとするのは違うと思うし、だからこの歌詞そのものが彼の思想そのものだとは思わない。
ただ、『よみがえる変態』の文庫化に際しての後書きの中で「今、僕の目の前には、いつも絶望があります。」と書いた源さんのことを、この曲を聴いて思い出した。ああ、絶望がいつも目の前にある姿とそれこそ「憎しみはやはりここにある」と歌う姿が重なった。



そうして考えながら、私だってきっと、何かにずっと怒ってがっかりして絶望しながら生きているような気がする。それは、ちゃちな共感というよりかは、みんなそうなんだろうな、と肌に感じるという、話なんだけど。



「死にたい」と思うことすら、破滅願望すら失った先にあるもの。
生きるしかない、そこでじゃあ楽しんでやると遊び出すのは、もう、なんだか、最高じゃないか。最高にイカれてる。


意味なんてない、希望はない。でもそこで、くつろいでやる、踊ってやる、口づけてやる。
それは運命のようなものへなのか、それとも世界へなのかは分からないけれど、ハッキリとした宣戦布告で中指を立てる行為で痛快で、とんでもない。
かと言ってまあ、もちろん、私たちに寄り添ってくれるわけでもない。じゃあ私はどうする?とその痛快な姿に問い掛けられてるような、いや問い掛けられてるなんて柔らかな言葉じゃ間に合わない。なんかこう、煽られてる。煽られてるって言葉は良くないな。でも、なんか、嬉しいんだ。それが。お前はどうする?って試されてる気がする。



CUBEは、極限の状況に閉じ込められた人たちの話らしい。でもたしかに、私たちだって「生きる」という中に、閉じ込められてるような気がする。ここまでいったら大丈夫なんて救いも出口も光もない。
死ぬことだけが決まったこの一生の中は、ある意味、そのCUBEの中と一緒じゃないか。
そして、そんな中、源さんがたびたび言う、面白いということが生きててよかったと思う、もう少し生きてみようと思える、そんな道標になるという言葉が好きだ、と思うことを思い出す。


どうにもならないことが多いけど、呪うことをしないのはそれに飽きたからだ。そうしていても人生とかいうものは変わってくれないし、だとしたら、自分の人生を紡ぎ直して、面白がって、ひとつでも多い、面白いを見つけたい。


そんなことを、繰り返しこの曲を聴きながら思う。
わりとストレートな怒りや絶望は今まで、彼がしてこなかったような表現な気もしている。もちろん、結構エグいことを言う曲は今までもあったんだけど、本当に、なんだろう、ストレートだな、と思った。そして、だけど、楽しくて面白いな、と。それは生きてきたから、できることだ。
それがなんだか、嬉しくておっしゃ、じゃあ私もやってやろと思う。


過去を紡ぎなおせ。
なんとなく身を任せてガッカリだということももっともらしい幸福や幸せに微睡むことでもなく、自分で、紡いで編んで、その先、出口へ向かえ。
背中を押してくれる、というわけではないけど、なんか、こんなヤバい楽しい曲を聴いてると負けてらんねー、と思うのだ。