えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

HIPHOP・日本語ラップ、あるいは向き合うということ

HIPHOP、いや正確には日本語ラップが今、気になっている。
何を今更と言われそうだけど、私の中で確かな実感として「日本語ラップが気になる」に変化したのはごく最近のことだ。その上、それもまだ、あくまでCreepy Nutsから見る日本語ラップ、という存在が気になってる。


大きなきっかけは二つ。最近Twitterでやっている"ラジオごっこ"と悩みに悩んで参加したCreepy Nutsのワンマンツアー[Case]で観た光景だろう。


まずラジオごっこ。これは、最近私が友達とフォロワーにお付き合いいただきながらTwitterのspaceでやっている遊びである。
詳しくはいつか別で文を書きたいと思っているけど今回はラジオごっこ自体は要素の一つなのでその詳細は省略する。
ともかく、そんな遊びをやっていて、第一回で私はまさしくCreepy Nutsの[Case]について語った。ようやく手元にやってきたアルバムに興奮していた私はその一曲一曲の完成度だとか曲順の演出の凄さ、Creepy Nutsというユニットの好きなところを語り倒していた。
そんな中、聴きにきてくれた方からもらった感想で日本語ラップHIPHOPについて考える機会をもらった。
まだあの数週間前、私はそんなに日本語ラップの解像度が高くなかった。高くないながらに、その日本語ラップというカルチャーの中のCreepy Nutsについて語っただけだ。
でも、そのラジオごっこをきっかけに「ああそういうカルチャーがあるんだ」と感じてくれた人がいたという事実は私に「もっとちゃんと日本語ラップのことを知りたい」と思わせた。
なんでこんなに惹かれるのか。それは、もちろん、結局Creepy Nutsのことが好きだからという枠をまだ飛び出してはいないけれど、もっと知りたい、と思った。


そして、ライブである。
ぶん殴られたような感想についてはもう前回ブログに書いた。



元々Creepy Nutsを好きになる大きなきっかけはライブ「かつて天才だった俺たちへ」や初めて聴いたラジオでの構成のうまさだった。落語のようにオチがつき、「何故そのタイミングでその曲がくるのか」が物語的に演出されている。構成そのものがメッセージなのだというのが痛快で心地よかった。
そしてそれは悩みに悩み、落ち込み、焦がれて意味がわからない理屈を捏ねながら行ったライブで頭で以上に体感として理解することになったのだ。
ともあれ、ぶん殴られ、そのライブMCでようやく、私はHIPHOPはありのままを描く、ということを理解した。
約2時間の時間を使い、Creepy Nutsが、R-指定という人がどういう人間なのか。
何を考えて、何を思ってるのか。どんな人生を送ってきたのか。
そんなことを物凄い熱量で彼らは届ける。もちろん、シンプルに音楽として楽しみ、バースの技巧やラップとしての凄さ、DJとして楽しむだけでも十分成立する。
しかし、私がこんなにも彼らに惹かれるのは"ありのままを描く"という音楽だからだ。



嘘をつくこと、取り繕うことは「ダサいこと」とされ、ありのままをそのままぶつける音楽。
変わっていく自分の人生を音楽へと昇華して届ける音楽。



そうしたカルチャーに触れ、私は一つスッキリしたような気持ちになった。
こんなブログを書いているから今更ではあるが、私は「思ったことを書く」ことが好きだ。
そうしていないと頭の中がパンクするような心地に陥ってしまい、だからこそ、感想のみならず最近では思ったこと見たこと考えたことを形にする。
そうしながら、同時に「そんなことまで書かなくて良い」「無意味だ」「恥ずかしい」という感覚がどうしても顔を覗かせてきた。自意識と自己愛に満ちた文にどうしてもなってしまいがちだし、そんなものをネットの片隅とはいえ書いて良いものなのか、と考えてきた。
しかし、Creepy Nutsに出会い、曲を聴き込むなかで「これが好きだ」と思った。
そのままを全て描く、その中で「かます」こともあれば「自己嫌悪」を昇華することもある。
そしてそれは同時に"表現すること"の責任を背負うことでもある。そんな苦しさと楽しさを、圧倒的なパフォーマンスで、彼らは教えてくれた。


そこに自身を重ね、憧れ、音と言葉に身体を任すこと。自分が日々の中で押し殺した感情がアウトプットされていくサマ。そういうものが、私はたまらなく好きなのだ。


そしてそれは、いわゆる"推し"という存在についても考える。
三次元で活動する推し、を持つオタク、と一言で括ってもそのスタンスは様々だ。なんなら大きなジャンル分けこそできても、結局は人の数だけスタンスがある、というのが答えだろうと思う。
どれくらい活動を追いかけるのか、その人を知りたいと思うのか。知りたいと思うとして、人柄を、なのか、活動を、なのか。
それにはきっと、千差万別の考え方があり、場合によって、人はその考え方の違いでぶつかったりする。私はどうしてもインタビューだとかエッセイだとかラジオで語られる人柄含めて好きになりがちで、それはある意味推し……いや、ここでその表現も良くない気がする……人一人を「物語的に消費」していることにはならないだろうか。そう、不安になる。
先日、星野源さんがラジオで"芸能人だから"という理由で大喜利的に自分という存在が消費される、オモチャにされることを語っていた。それは何も、悪意を向けてるときだけ発生することではないだろう。
むしろ、善意だ、としてやっていること・発言がオモチャにすることに繋がることだって往々にしてあるのではないか。そしてそんな時、私はきっと、そのことに悪意でやる時以上にごとの重大性に気付かない可能性が高いと思うのだ。


だからこそ、今回、HIPHOPというその人のあるがまま、その人そのものを音楽に昇華する文化に触れて、感動した。
向き合い方の一つを示されたような、そんな気持ちになったのだ。
そして、そうした「今の彼ら」に向き合いたいと思えば、自身の背中をぴんと伸ばしたくなった。あれだけのパフォーマンスを受け取りに行くのだ、自分と重ねるのだ。まさか、情けない自分のままでいるわけにはいかない。というか、そんなん、私が嫌なのだ。



そしてそんなことを思いながら、私はひとを好きで居続けることができる、そんなきっかけをくれる"面白いもの"が好きなんだな、と再認識した。
また一つ、楽しいに出逢えて、私は本当に嬉しい。これから、どんどん好きなもの・好きなひとが増える予感にとんでもなくワクワクしてる。

昨日ライブに行った

どうしていいか分からない日があった。身体がギシギシにしんどくて胃も痛くて頭も痛くて、もう放り出したいけど、仕事の用事がある日だった。
動かなきゃいけないという気持ちと、もう嫌だ逃げたいという気持ち、無理をするのは誰のためでもない自己満足だと喚く気持ちが頭の中で跳ねて殴り合って、なおさらしんどくなる。
そんな中、流れてきた雑誌のオフショ動画で笑って、気がついたら仕事の予定をキャンセルしていた。


欲しいものを欲しいと言い、褒められたいと言い、嫌なことは嫌だと言う、悪ふざけで遊ぶ時は全力で。



のめり込むように、知れば知るほど好きになっていく彼らの魅力を私はたびたび言葉にしたくなるけど、そのたびに難しいなと思う。
だってたぶん、言葉で伝えても伝わらない。どうしようもないところが好きだ、と言うのは簡単だけど、そうなんだけど、そうじゃない。
「ダメな自分」「足りない自分」そんなものを繰り返し彼らは音楽にするし、
ラジオでの雑談はだいたいとんでもなくてそこだけ切り取られたらずいぶんニュアンスが変わって伝わってしまうだろう。
かと言って、彼らの"本心"のようなことを知ったような顔でああだこうだ書きたくはないし、「実は良い人たちなんです」なんて安い言葉に変えるのだってやっぱりズレるんだろう。
ともあれ、私にとってCreepy Nutsに触れている時間は言葉にできない種類の憧れと居心地良さがあるのだ。



Creepy Nutsライブ配信を春に観た。かつて天才だった俺たちへ。そのライブを観ながら、いつかこの人たちの音楽や空気を生で楽しみたいと思った。同じ場所で声は出せないとしても、拳を突き上げて身体を揺らしたいと思っていた。
だから、関西に帰れることが決まり、ちょうどその頃、Creepy NutsのONE MAN TOUR [Case]のチケットが発売されたため、思わず久しぶりにチケットを申し込んだ。
当選、という言葉に心が跳ねることもそわそわしながら、入金を忘れないようにすることにも、いちいち心が踊った。これこれこれ!と叫びたくなっていた。



しかし、そのあと結局、私はライブに行くか迷っていた。
感染状況とか、いろんな出来事とか、そういうことでライブに行かない方が良いのではないか、と思った。
生でのエンタメが心の底から好きだと思ってるんだけど、でも迷いが生まれたというか、行くべきではないんじゃないか、と思った。誰かに対して同じように「行くな」と思うとかいう話ではなくて全くもって、ただただ自分への葛藤でしかない。

この話をすると本当に難しくて、なんか、もう、誰かがどうするとか、そういうのは私には関与できないし分からないし、責任を取れないから全部自分に対しての言葉なんだという前提で読んで欲しいんだけど。


これがないと死んでしまうから行く、というには自分の好きや熱意に自信がなかった。そうして口にするには、心が死んでしまうほど好きで、それでも仕事や家族、自身の理由で耐えてる人のことを思って言えなかった。
まるで、良い人ぶるような書き方をしてしまったけど、そうじゃなくて、結局、そこで嫌われるかもしれない、誰かを傷付けるかもしれない覚悟が私にはなかったというだけだ。
そういう覚悟がないなら、行くべきじゃないと思っていた。

「自分の責任は自分でとる」

そう思って過ごしてるけど、こと今回についてはそういうこともできないと思う。誰かに移したら、罹ったら。どうやって責任を取るのか。
自分の悲劇のヒロイン的な気持ちで我慢をすることは、普段なら無意味だけど、今回は少なくともひとりの感染リスクが減る。だとしたら、意味がある。
そんな雁字搦めの思考回路でいっそライブに行ってそのまま2週間どこかに閉じ込められて引きこもりたいとか無茶苦茶なことを考えながらずっと考えていた。


更に言えば、この数ヶ月、何度も演劇やライブの配信を観て心を揺らしてきて、
その中で「生のエンタメ」を観ることでこれを待ってたんだ、と思うのが怖かった。
本当に0か100の思考回路過ぎるし、生のエンタメを観て幸せだと思うことは別に配信の幸せな記憶を嘘だということにはならないんだけど、それは分かってるんだけど、どうしても頭が納得してくれなくて、身動きが取れなくなっていた。



そんな「勝手にしろ」と自分でも吐き捨てたくなるような気持ちと考えで頭がぐちゃぐちゃになりながら、結局、ライブに行った。
どんだけ偉そうなことを言っても結局行くんじゃないかと言われそうだと思う。というか、自分に何度も言ってる。呆れてもいる。
それでも、大阪に帰ると決めた時、生で彼らの音楽に触れれると信じて、なんとかもう少し頑張りたいと思った自分を裏切りたくないと思った。結局自分のことかよと思う。
これについて、正当化したかったけどもう全然無理で、理屈もこねられなくて、でも、もう、行きたかったのだ。




正しくありたい。
在れないことなんて分かってる。
でもこうありたいという形を探していたこと。
ライブに行く行かないの話だけじゃない。いつも結局私はそんな形を探してる。
誰かのツレか、家族か、先輩か後輩か。
どんな顔をしているのが自分だったのか。
どんな顔をしてたらここにいて良いと思えるのか。



二時間、音楽が鳴り響いて、知らない誰かが会場に溢れて、ラジオで何度も聴いた声が笑う煽る歌う。



身体の芯を揺らす音が、目の奥を刺す照明が今も身体の奥に残ってる。
初めて生で、目の前で手が届く距離で音楽を奏でるCreepy Nutsは、想像以上に最高で格好良かった。
初めてHIPHOPのライブを生で体感したんだけど、腕を振り身体が揺れ、拳を突き上げてしまうんだということを知った。


"生きてる限りは勝ち逃げできねーな"
そんなバレる!の歌詞を聴いて、ちょっと私は卑怯だったな、と思った。正しく勝ち逃げしたくて間違えたくなくて、ありもしない正解を探していた。ありもしないのは、そもそも「どうありたい」の答えがなかったからだ。そこにすら、正解を"あるべき顔"を探していたからだ。価値観や立場なんて、すぐに変わるのに。


「毎日が選択の連続」そんな台詞が昨年放送されたドラマ、MIU404にあった。私は、あの台詞を本質からは多分、理解してなかった。
ソーシャルディスタンスがうまれたからか、見えるようになったものが容赦なく責め立ててくるのに、そのくせ、正解をくれない。
そんな毎日にうんざりしていた。
だけど、音楽で身体を揺らし、声が出せないならと会場の空気を動かしながらそこにいることは、すごくシンプルだった。



ダサいこと、うまくやれないこと、足りないこと、そんな劣等感を逆手にとって
それでも俺たちが顔役だと名乗りを上げる。そうだよな、そんな彼らが大好きで、その音楽に勝手に自分を私は重ねてきた。



音に乗った、言葉に乗った。
私は音楽を好きだと思うけど、うまくメロディに乗れない。リズムへの劣等感が今までの人生ずっとあった。憧れて好きだと思うほど、隔たりがあった。だけど、日本語ラップで言葉のリズムという身近な存在が近付いてきた。言葉というどうしようもなく惹かれ、焦がれる存在が楽しみ方を教えてくれる。
誰かが手を挙げる身体を揺らす、音が跳ねる。
生きてる、目の前、ある。
生きている。


言葉にならない、どうとも言えない気持ちや考えを形にできるのがHIPHOP日本語ラップだとR-指定さんが言った。責任を持ってかませ、とも、傷付けた存在への言葉も、バックレることへの肯定も。全部全部が目の前にあった。


Caseで自傷行為のように自分と向き合い、まさしく自分を削りながらR-指定さんが生み出した言葉が、容赦なく、私にも"自分"と向き合う時間と場所を突きつけた。だけど、たぶん、私はずっとそれが欲しかった。



正しいかわからない。どうしたらいいか分からない。これだって、書くべきなのか分からない。
だけど、なかったことにはしたくない。
責任をとるなんてことも、言えない。言えるわけがない。だって、私にできることは何もない。
だけど、生きて、その瞬間正しいと思うこと、やりたいことを必死に、生きて、過ごして行くしかない。
私は文を生業にしてるわけでもない。だけど時々、こうして頭の中に跳ねる言葉を書き殴る。目を逸らしたり、良い感じに整えて逃げるんじゃなくて、見つめて見つめて、形にしたいと思う。
だって、格好良いんだもん。



なんかもう、昨日あれからずっと頭の中がチカチカと光っている。
ただ、こんだけ好きだと思える人やものがあって良かったと、幸せだと揺らした心があったことを突き上げた拳を開いて見つめて思ってる。
これだけは忘れるなと何度も何度も念じる。それでも、忘れて迷いもするんだろうけど、それでも良い。勝ち逃げするその日まで、何度だって確認し直すだけだから、それで良い。

ピーズラボ 9月20日公演 異界の魚、闇を操る糸

ピーズラボが物凄かった。本当に物凄かった。
楽しみにしていたなかで、もちろん「楽しむ」つもりでいたんだけど、正直、こんなに楽しいという気持ちになれるとは、と驚きすらしている。
結果、もうなんかいてもたってもいられなくなり、こうして書き殴るようにブログを書いている次第だ。


ピーズラボ、とは「プロデューサーの実験室」という意味で、
ポップンマッシュルームチキン野郎さんやX-QUESTさんなど様々な劇団、企画をプロデュースしてきた登紀子さんの企画配信公演である。


私はそもそも、登紀子さんの関わる公演が大好きだ。それこそ、しんどくて全部うんざりしていた2015年。アイビスプラネットの上映会として、惑星ピスタチオさんやポップンマッシュルームチキン野郎さんのお芝居を大阪に連れてきてくれたこともいまだに克明に覚えてるし、
劇場に足を運ぶたび「ここに来たら大丈夫だ」と安心するような優しさと楽しみをくれるプロデューサーさんである。
その人が作る「実験室」しかもそこに大好きな高田淳さんと野口オリジナルさんが出演されるとなれば、観ない手はない。もうそんなの、私にとっての超パワースポット状態である。

そんなわけで、告知画像の隅まで張り巡らされた気遣いと優しさに涙ぐみつつ、ワクワクしながら私は9月20日公演を予約、夏は色んなことがあったからえーい自分へのご褒美だ!と生まれて初めておふたりのチェキもポチり、私は今か今かと万全にその公演が観れる日を楽しみにしていた。



この今回のピーズラボという実験室はインプロと事前収録された短編公演の2部構成である。
インプロバトルとは視聴者からのお題をもとにわずかな打ち合わせのみで役者たちが即興でお芝居を作る企画だ。コメント欄で役柄、シチュエーションなどを投げ、それをくじでひき、演じる。

なかなかひりひりする企画なわけだけど、見た回は毎回面白い。
即興でこんなお芝居ができるのか、と思うし、即興だからこそ普段見れないジャンルが見れたり、逆にその役者さんの十八番を堪能できたりと"ファン"としては堪らない企画だ。
あと役者さんがきゃっきゃしていて楽しい。楽しそうなのを観ているのは本当にそれだけでエネルギーだな、と思う(上演当日、仕事でしおしおだったので映像に集中できずにいたんだけど、その中でぼんやり音声を聴いてるだけでなんだかまあいいか、なんとかなるか、と思えたから不思議だ)


そして、そしてですよ、短編公演なんです。
インプロももちろん面白かったんだけど、今回、私は初めて短編公演と同時、という配信を購入して、それが本当に凄まじかったんだ。

私が観た回は西田シャトナーさん作の「異界の魚」を野口オリジナルさんが演じて、
望月清一郎さん作の「闇を操る糸」を高田淳さんが演じた。


ところで本当にこれは贅沢だなと思うんだけど一人芝居、一人芝居なんです。
大好きな役者さんの一人芝居なんです。
もちろん私は会話劇が好きなので、一人芝居にめちゃくちゃ固執してるわけではないんだけど、
でも、やっぱり、だって、ねえ!嬉しい!



まだ配信期間もあるため、あくまでネタバレに注意しながら書く。


異界の魚は、ある稽古場の男の独白で物語は進んでいく。
演劇に並々ならない執念を燃やし、素晴らしい演技をすると稽古場に現れるという「異界の魚煮」を観たいと願う男。
芝居を繰り返し、今度こそはと思いながらもなかなか現れない魚に焦がれながら、彼はお芝居を続ける。
その独白がもう愛となんなら少しの痛みすら伴っていて、私はもう、ちょっと観た直後から頭がバーストし続けている。こまった。
何があれば「素晴らしいお芝居」なのか、何をできる人を素晴らしい役者というのか。そもそも、何を演劇というのか。
苦しくなるほど、見入ってしまう。
そんで、野口オリジナルさんの熱量が凄いんですよ。凄いんですけど、暑苦しくないんです。
暑苦しくないってのも語弊があるな。
なんというか、誰かを排除する熱量は一切そこにはない。むしろ、ただただ、自分に向かってるとのな気がした。でも、もちろん、だからといって観ているこちら側を置いてきぼりにしないのだ。
男はひたすら、お芝居を続ける。祈るように叫ぶように続ける。それは劇中の男の言葉でもあるし、野口オリジナルという役者その人の言葉でもあるし、この本を書いた西田シャトナーの言葉であるように思えた。
そして、それは、たぶん、この演劇という目の前で人が虚構を演じるという、しかもそれが残らず消えてしまうものだという不思議なものに焦がれる全ての人への、優しい答えのような気もする。


闇を操る糸は、昔話を題材にした物語である。ある小屋で孫とともに暮らす老婆が、訪れた修験者に聞かれた物語を語って聞かせる。
淳さんはスラリとした身長のそれはもう格好いい方なんだけど、メイクなどはあるとはいえ、もう完全に佇まいが年老いた老婆で引き込まれる。話される物語は、東北の悲しく恐ろしい物語なんだけど、見入ってしまう。
(話はズレるが、私は淳さんの指先のお芝居が大好きで、それがインプロバトルでも物凄く堪能できて私はすごくすごく嬉しかった。はー、大好きだ!)
語りの凄さもあるんだけど、その目が、それはもうきらきらぎらぎら光るのだ。すごい。本当に。
「浴びる」という表現が似合うようなお芝居に魅入っていると引き返せないところまで、連れて行かれてしまう。
恐ろしい話なんだけど、その目の奥底、語られる声に滲むどうしようもない情が、愛おしく思えて、今も鳩尾あたりでぐるぐるしている。
どうしようもない。
そう表現するのは逃げかもしれないが、哀れだと他人事にするには愛おしく、自分ごととして抱え続けるにはあまりにも苦しい。
ただ、あの物語を演じている姿を見れたことは間違いなく幸運で、私はやっぱり、言葉の追いつかないような気持ちの中にしんしんと沈んでいる。




ピーズラボは、配信公演である。
配信公演、というものがすっかりお馴染みのものになりつつある今日この頃、そこにあるハードルや大変さ、便利さ、そんなものも、なんとなくぼんやりとではあるが、理解できているように思う。
同時に、どれだけ発達しようが、劇場のお芝居こそ本当、なのだという言葉も何度も目にした。
しかし、最近、私は何故か生のエンタメに触れるのを怖がっていた。
どうしようもなく、喉から手が出るほど欲しいと思いながらでも同じくらい強く「観たくない」、いや正確には「観たいと思えない」と思っていた。その件で、いろんな友人に話を聞いてもらったり心配してもらったりして、私もなんだこれ、とずっと、考えていた。
配信は寂しいと、配信の演劇は結局代用品でしかないのだと言われるたびに、私は寂しく思っていた。私だって、そう思わないわけではない。劇場で同じ空気を吸い、空気が揺れ、その瞬間しか生まれないものがある。
だけど、それでも。
私はこの一年半、何本も配信公演を見、配信ライブを見てきた。その度に心を揺らしてきた。
愛おしくて、大好きで大切な公演がたくさんある。その記憶で、送れた毎日がある。
私はきっと、生のエンタメを観ることで、これまで観てきた配信を代用品だ、と思うことが怖かったのだ。
全くもって、相変わらず、0-100な思考回路で頭を抱えてしまう。別に、生のエンタメを観ても、それは変わらないのに。


今回、ピーズラボを観て、インプロバトルを観て笑い、異界の魚と闇を操る糸で心を震わせて思う。
この公演は、私の大好きな演劇である。
どんな困難も、想像力とスタッフの方の創意工夫と役者の方の肉体をもって、飛び越えていろんな世界を作り上げる、そんな私の大好きな演劇である。
それがわかったから、私はもう、大丈夫な気がする。
幸せなお芝居を見せてくれた上に、そう気付かせてくれたピーズラボとそれに関わった全ての人へ感謝と愛をもって、この勢いだけの文を締めたいと思う。

本当に、ありがとうございました。



この奇跡のような9月20日の公演は、10月4日までアーカイブが観れる。やったー!

https://twitcasting.tv/aptokiko/shop

Vivid Scramble

振り返ると「Vivid Scramble」というタイトルは本当に秀逸で素晴らしかったなあと思う。


ここは人生(ドラマ)のスクランブル交差点


そうキャッチコピーを与えられた一人芝居を観た記憶がなんとも幸せで噛み締めている。


そもそも"vivid cafe"とはボクラ団義に所属の大神拓哉さんが続けてきた一人芝居のシリーズである。大神拓哉さんはボクラ団義でも他の団体でもコメディアンとしてそれはもうすごい才能で今までたくさん楽しませてきてくれた役者さんだ。
その彼が作り出してきたvivid cafeはどこかにいそうな人々を個性的にあぶりだし、生き生きとそこに生まれさせる作品だ。
今作でもあった、「バックレを決行する!」など、耳とインパクトに残る台詞とともに生きる彼らが、私は本当に大好きだ。
なかなか遠征組であることと仕事柄土日の観劇の機会に恵まれず、生で観ることは今までも叶ってないけれど、いつか絶対生で観たいと決めている作品の一つだ。



さて今回はcafeではなくScramble。
役者も大神拓哉さんが担うのではなく、7人の役者を招き、大神拓哉さんは脚本・演出に徹する。
もう、その時点で「どうなるんだろう?!」とワクワクしたのだけどそこに参加される役者さんの名前に大好きな方々を見つけ、テンションは一気に急上昇した。



しかし、このコロナ禍で「もしかしたら今度こそ生で」という願いも潰え、落ち込んできたところに飛び込んだ「配信決定」というお知らせ。本当に嬉しくて飛び上がって喜んだ。
全ての好きな作品を観れるわけでもなく、また配信公演は様々な負荷が大きくかつメリットがあるかは賭けだという話を聞けば聞くほど、軽く配信してくれ、とも言えない中、本当に本当に嬉しかった。ありがとうございます。観れたよ〜!!!!!



そんなわけで、私はこの公演はそもそも、どこか「会えた」嬉しさがあった。



大神さんの前説、好きでした。なんというか、私は大神さんが楽しそうに話すところが本当に好きだ、とボクラ団議とかの活動でも思うんだけど本当にわくわくする。
楽しそうな人を見ると、こちらまで楽しくなる。
そして、「想像してみてください」という言葉に胸が高鳴った。白い額縁のような舞台セットが、少しおかしな、しかし愛おしい人たちのいる"場所"に変わる。


いつだか、大神さんが街中で嫌だなって思った人を見るとvivid cafeに出せないか考える、と話していたのがすごく好きで覚えている。
実際、今回のVivid Scrambleでも出てくる人はなんなら少し困った人もいる(バックれようとしたりするし笑)

でも、その中でなんだかんだ笑ってるうちに愛おしくなり、好きになる。
それは、なんだか、優しいし楽しいよなあと思う。

そして今回、魅力的な役者七名によりまた新たに生まれ変わった彼らは変わらず愛おしくて困った人でチャーミングで最高だった。
おいおい!とツッコミを入れたくなるような、あーでもいるいる、と思うような、その感覚がたまらなく好きだ。

そして、演者が変わることで印象が変わるというそのお芝居を観る上で最高の贅沢を、七本味わえる。それはね、もうね、最高なんですよ。嬉しすぎていまだに思い出してはニヤニヤしてしまう。
それがなんで最高なのかは色々あるけど、たぶん、「引き出しが開く」のが楽しいんだと思う。
こんな引き出しが!とまるでびっくり箱に驚くように、楽しい。次は何が出るんだろうとワクワクする。


そんな七色が集まり私たち観客の想像力が合わさって生まれる、まさしく"極彩色"な光景を楽しんでいると、思いもよらない幸せな終わりを観れた。


七人の登場人物たちが、一同に会したのだ。



たしかに台詞のなか、「あ、この人さっきの人の?」と思わせるものが多くあり、笑ったりなるほど!とワクワクしていた。
それが、しかし、実際に「会った」瞬間、なんとも言葉にできない感動が込み上げた。
そうか、だから一人芝居を七人の役者で上演したのか。そうか!



もともと、vivid cafeで好きな演出で、合間に写真を使い、その人物たちの「生活」を映すものがあった。さっきその人たちが語った物語を絵として楽しむこともそこにボクラ団義のひとたちが写っていることも大好きだった。
何より、その写真を見るたびに、ああ彼ら彼女らは"いる"んだ、と嬉しくなった。




その感覚が、更にはっきりとした輪郭というか、実態をもって目の前に現れたような、そんな気がした。




ああ会えた!という嬉しさを、しかもこのタイミング、この時期にもらえたことが、本当にどれだけ嬉しかったか。
あのちょっと困った、でも愛おしい人たちを思い出すたびに、私は思い出し笑いをするだろう。同時に私は「いつかきっと会える」と信じられるような気がする。
"スクランブル"どこかの街角で交錯する人々、交わる役者。そしてその先はきっと、私たちの生活に繋がっている。

Case

9月30日、20時から。
Creepy Nutsが生配信のライブをやるらしい。
私はそのニュースを観て嬉しくて興奮して、いやしかし幻覚だったのでは?と疑い、
どうやら本当にあるらしい、とわかって慌ててこのブログを書いている.


ライブは彼らの最新アルバムCaseの曲を全曲やるという。
しかも、セトリはそのアルバムの順番、そのままで。
飛び跳ねたくなった。なんなら、心の中では結構かなり、飛び跳ねている。
私はこの「Case」というアルバムが大好きだ。それは、一曲一曲の完成度の高さはもちろんのこと、何より、その曲順によって紡がれた彼らの物語が大好きだからだ。


世界をひっくり返す、とラジオで悪ふざけをするように、でも真剣に言う彼らに、本当に心から楽しみにしていた。



アルバムは初め、彼らのここ数年の快進撃をそのまま音楽にした曲たちで始まる。
とはいえ、私はど新規もど新規、ある程度知名度が広がった今年から好きになった。それでも、本格的に好きになる前から「なんかやばい音楽をやる人たちがいるらしい」ということは聞こえていた。
(自分の記憶を遡ると、コタキ兄弟と四苦八苦、の主題歌が彼らの『オトナ』に決まった時、おお、最近噂で聴くひとたちだ、気になってるんだよな、と思ったし、主題歌として聴きながらあーなるほど、と思った記憶がある)(まあその約1年後、オトナを聴きながら泣くような日が来るとはさすがに予想はしていなかった)


以前も彼らのことをブログに書いていたけど、


彼らはたびたび、ファン達、リスナーの間で"陰キャのヒーロー"と表現されることがある。



それまでの彼らの性格・人生、そしてHIPHOP、あるいは音楽業界での立ち位置。
そういうものを指して主役にはなれない「助演」だといい、オードリーの若林さんと南海キャンディーズの山里さんのユニットたりないふたりになぞらえ、自分たちのことを"たりない"と卑下する。
それでも卑屈なわけじゃなく、隙あらばかます、好きなことをする。そんな彼らの作風や振る舞いはたしかに、「陰キャのヒーロー」とも言えるかもしれない。


そんな彼らが、どんどんかましていく。お茶の間に出て、活躍のフィールドを広げる。名前が広がっていく。
多忙を極め出した彼らの姿を見て思う。ああそりゃヒーローだよなあ。
たりなかった、使えない奴らと揶揄された、主役の座につけなかった「彼ら」の快進撃。それを観て、同じようにうだつのあがらない日々を送る「陰キャ」の私はスカッとする。



「売れた彼ら」は今、体内時計が狂うほどの時間の中にいて、「only one」で戦ってる。
やすやすと色んなものを飛び越え、ど真ん中でかまし、スポットライトを浴びる。
その多忙過ぎるさまに心配になるとともに、変わらない彼ら、誰の上下にも立たず、そのままマイペースの極みな歩みで進む彼らを本当に格好いいと思う。


そんな感情は風来・のびしろと曲が進むとどこか柔らかな感覚に変わる。
のびしろは、コラボ曲以外ではかなり早く解禁された曲だったと記憶している。30になる節目、オトナという仮想敵にしていた相手に近づく自分への、でも清々しい感情、焦りではなく「まだ伸びしろしかないわ」と歌ってくれる頼もしさがすごく好きだ。
そして、風来なんですよ。
(アルバムの順番としては風来→のびしろの順)


NHKの金曜17時に放送されているニュースのテーマ曲でもあるこの曲を、私は張り詰めすぎて脳みそが限界を訴えているとかけたくなる。


特に刺さったのは歌詞のこの部分だ。

「まだ繋がってたいけど姿はくらましたい」

「指を指し合うゲームに疲れた
見張り合うのに嫌気がさした」

「すぐ変わっていく価値観や立場
がんじがらめのらしさ正しさ」

もう気を抜くと、全ての歌詞を抜き出したくなるんだけど。
この曲を聴くと私の頭の中でCreepy Nutsは「陰キャのヒーロー」じゃなくなる。MC、DJとして、ではなく、同じように30年生きてきたひとりの人になる。
そして思うんだけど、陰キャのヒーロー、と押し付けてしまうのもある意味、物凄く怖くて酷いことなんじゃないか、とも思うのだ。
今だから、ということもあるけれど、「あるべき正しさ」とか「幸せでいることのハードルの高さ」で毎日息苦しい。
そのくせ、幸せではない、ということも許されず、何を選んでも指をさされかねないし、自分だって気を抜くと誰かを叩きのめす機会を狙ってしまってる気がする。



なんというか、そういうの全部、知るかバーーーーカ!と放り出したくなるというか。
この辺の感覚は、彼らのラジオが好きな感覚に近いのかもしれない。ただただ、頭を気持ちのいいところにおきながら過ごす時間。放課後の帰り道、お気に入りの穴場の公園で延々と好きな漫画の話をしていた感覚。スクールカーストだとか面倒なことを放り投げて、ただの自分、で話をできていた時間に戻る。



と、打ちながら思ったんだけど、これ風来の後に、のびしろが来て良かった。
風来聴くと私は疲れを正しく自覚するし、それをまあそりゃそうだよな、って思う。
でも、のびしろを聴くとその疲れまでもまるごと、愛せるような気がする。まあそんでもかましてやるけどな、と無責任に明日の自分のハードルを上げてしまえるような、期待できるようなそんな気がするのだ。


そこから曲はデジタルタトゥー、15才と、今まで「こけおろしてきたもの」やそれに伴ってやってきた自分の「暴力」について思いを寄せる。

このタイミングでデジタルタトゥー、という曲が出ることをどうしても感情的に考えてしまう。
この数ヶ月であった色んなことは、全く関係ないところからの引用でアレだけど、9月21日放送の星野源オールナイトニッポンでの言葉を借りれば「これからはもうしません」と思えることが大切だという教訓になった。
それはもちろんポジティブな変化でもあるんだけど、同時に、自分がそうしてきた……もうしません、と反省すべきことをしたことへ向き合う必要があると思う。


R-指定さんがこのデジタルタトゥーや15才について語る上で、MCバトルでのこと、そもそもラップが自分にとってどんなものだったかを話していた記事を繰り返し読んだ。


(特にお気に入りは8月に発売されたMUSICAだ)



ある意味で、その「間違い」を声高に間違ってた、おかしいと非難だけすることは見ないことと同じなんじゃないか。
このアルバムを作るにあたり、自傷行為にも近い向き合い方になったと話していたラジオでの話も含めて、つい考え込んでしまう。
間違いだと認めることは、たぶん、その存在そのものを否定することとは違うのだ。



それは続くBad OrangezやWho am Iでも思う。このブログではBad Orangezにスポットを当てながら考えたい。



ワルって格好いい。もちろん、人に迷惑をかけるのは大前提間違いないとして、でも結局「不良モノ」がなくならないのはそんな共通認識がある一定あるからだ。

「あの日のお前も怖くて強がっていただけなんて
今更言うのは勘弁いつまでだって憧れさしてくれ…」


ワルにもなれず、そんな人を冷やかしたり眉を顰めたり、でも結局憧れていた人間にとって「実は俺も」なんて言われるのは恐ろしいことだ。
お前は「俺とは違う」んだから今更そんな無責任なこと言わないでくれ、と思う感覚は私も知っている気がする。同じ人なんだ、と思えることが救いにも絶望にもなるし。

でも知ってた。
いつも哀しい目をしてたっけな…

そう続くあたりがBad orangezの優しさというか、柔らかさだと思う。
うまく行き出して、肩肘を張ってることを認めて、それでもまだまだと良い力の入れ方で奮起している彼らが自分のこれまでを認めながら、
自分とは"違う"ひとへ視線を送る。見つめる。


陰キャのヒーローという話にも少し重なるけれど、好きという気持ちや憎いという気持ちはどこまでも自己責任なのだ。
自分の考えも、気持ちも。

今までのアルバムと違い、今回は誰かを敵にしていない、という話があったけど、
結局、それぞれ、自分に向き合ってそれが時に自分を思い切り否定したり逃げたりしたくなったりするようなものであっても、続けていくしかない。



アルバムは、最後、土産話へとつながる。
これまでの彼らを振り返る、DJ松永への手紙のような歌詞は同時にまだまだ彼らの物語がエンドロールを迎えないことへの宣言にも思える。
そしてこのアルバムは紛れもなくCreepy Nutsという最高にイカす彼らの現在地を高らかに宣言するものでありながら、
今この瞬間を生きる全ての人に向けた賛歌なような気もするのだ。




そんな最高に格好いいアルバムを「曲順」に体験できる配信ライブがなんと無料であります。正気か、なぜ無料なのか。
4000字くらいかけて長々と書いてるけど、そんな野暮なことより、きっと直接食らっていただく方が分かりやすいのでよろしければぜひ。
9月30日木曜日、20時からです。

ヘイ磯野、パーティー組もうぜ

諸々あって、最近、なんとか世界を愛せないものかと考えていた。何をいきなりと言われそうだけど、わりと本気で、真剣に、この難題に取り組んでいた。
世界を愛して、自分の人生をなんとかこう、真っ当に、取り組めないものだろうか。


なんせこちとら、365日1年に日があれば、350日くらいうんざりしてるのだ。



でも、こうして世の中で「嫌なもの」が増えれば増えるほど、おっしゃじゃあやってやろうじゃん!と天邪鬼が顔を出す。
程よく環境が変わったり、推しが結婚したり、そういう「人生を考えるタイミング」がやってきた。


昔から「真っ当に人生を歩めない自分」に落ち込むことが多いので、このタイミングじゃないか?!と思った。


思ってそれじゃあ、と人生というものに取っ組み合うを挑み、
そして結果、わりと、惨敗に近い試合結果がやってきた。今、これ、大の字になりながら打ってる。
もちろん、概念の話だ。



価値観が違うこと、を面白がったり知りたくなった。



中学生の頃、今以上に捻くれ、常に毛が逆立ってる猫のような状態だった私の席の隣に、陸上をしてる女の子が座っていたことがある。そこそこにギャルで明るく、勉強は苦手で運動が得意な「私とは違う世界」の住人だった。
気が重いと思いながらその席でなるべく小さくなって過ごしていたある日、なんでか、その子と進路の話をすることになった。
きっと、適当な学校に行って適当にキャンパスライフを謳歌するんだろうな。そんな最低なことを考えながら、彼女にこれからの夢を聞いた。
予想に反して、彼女は楽しそうに「走りたい」と言った。陸上が好きで、だから陸上が強い学校に行く、走る。それが楽しみなんだと。



走ることが嫌いで、陽キャをどこか「自分と違う世界の生き物」と思っていた私にとって、彼女が話す世界は、知らない世界だった。目の前が大きく開けたような、「そんなところにも扉があったの?!」とびっくりするような気持ちになった。
なって、それから、



猛烈に私は恥ずかしかった。



勝手に線を引き、何もないと決め付けた彼女ともし仲良くなっていたら、どんなものが観れただろう。仲良くならなくても、切り捨てたそこに、切り捨てて良いものがあったのか。
本当に「くだらない」のはどっちなのか。



そんな恥ずかしさのことを、思い出す。


そんで、人生……出世とか自分が疎かにしてきた人付き合いとか恋愛とか結婚とかその他諸々、所謂ライフプランというものと、一旦この機会にちゃんと見つめて取っ組み合いをしようと思ったのだ。
どうせこのご時世、起こそうと思わない限り、イベントは起きないし。


手始めに、ちょっくら人付き合い関係をまとめて取り組もうと思った。


たびたび書いてるけど、恋愛も含めた人付き合いにずっと苦手意識と劣等感があるので、おっしゃここいらでいっちょ向き合うか、と思った。
それに、好きな人が世界に増えるっていうのは結構、かなり、幸せなことだ。
そう考えても、一石二鳥だ、と思った。



それで、とか言うと、「結局寂しいんでしょ(笑)」と言われるんですけど。というか、言われたんですけど。
まあ、言ってしまえばそうなってしまうかもしれないけど、
そうじゃないのだ、私の中では。




そうじゃない、そうじゃなくて、例えばケンタッキーのパックが安くなってたから買ってきたよとか気になるお茶だのお酒だのを一緒に広げたりだとか、
シャインマスカットを食べて「これが果物の王様か!」と感動したいのだ。

それはもちろん一人でだって楽しいことなんだけど、「誰かと一緒にってどうかな?」と思った。
それもやっぱりくだらないと一笑されたけど、でも、そうかな、くだらないかな。




きっと私が、コントが始まるの春斗や、家族募集しますの蒼介に共感したのだって、結局のところそこだ。誰かの人生の責任を取ろうとすること、誰かと幸せや嫌なことをシェアすること。
そういう柔らかさがくれる心強さのことは、なんとなく知ってる気がしている。



だとしたら、手を開いてみようと思った。思って行動した結果、わりとズタボロに「伝わらない」ことに凹み、何時間もああでもないこうでもないと考えてるんだけど。



理解し合えない、そもそも、例え誰かと手を繋いだとして私は私の寂しいを手渡すつもりも、解消する気もない。だってこれは、私の人生の中の面白みなんだ。

それでも丁寧に傷付いてるのは、結局、どこかで期待してた、ということなんだろうか。



恋人がいないから寂しいだとかそういう話じゃないのだ。というか、そんなもん出来ても解消しないものだって百も承知なのだ。
でもなんとか、日々生きていくしかないなら、楽しむ方法を模索して模索して、だとしたら好きなものを一つでも多く、好きな人を一人でも多く増やして大切にしていくしかない。


ただただ、自分が好きだと思ってる人たちが笑ってたらちょっとはこの世界をマシだと思えるような気がして、それをなんとか味わいたいだけだ。120%私のためにやってるのだ。
だってもう、最近何を見てもうんざりすることばっかなんだもん。



そう腹を括って足掻けば、それはそれで失敗する日々である。


「そんなことしなくても」と言われたし、私もさすがに「意味ねえなこれ」と気付き出した。まあでも意味がないって気付くのもやらずに理解するよりやってみて放り出す方がいいし、とぶつぶつ唱えながら納得させようとしてる。


そもそも、
恋人になってください、付き合ってください。そのどちらも私の体感の言葉とはズレる。
家族になってください、は近い感じはするけど、ちょっと違う。



そういえば、推しが結婚した時、動揺と衝動に任せて書いたろくろがあった。



その時の「ああでも私も負けないくらい幸せなんだよな」という感覚を、思い出した。
なんでだよ、痛いし辛いし理解し合えないしもうやだよとぐるぐる壁を睨んでる中、
色んな話をして、それでも放り出したくないんだよな、とか、
理解し合えなくても解ろうとしあえるんだよな、という"綺麗事"を確信しながら、思い出したんだ。


私が私に幸せだなお前、と言いたくなるのは、そうして、「どうしようもないこと」を一緒にああでもないこうでもないと話せたり、
それを忘れるくらい許せるくらいの「楽しい」を作れる相手がいることを実感した時なのだ。



うーん、そうか、なるほど。
わかった、言いたいことは、たぶんこれだ。
へい磯野、パーティー組もうぜ。



間違いなくそれがどんぴしゃな正解かは試してみないとわからないけど、幾分、自分の肌感覚にしっくりくる呪文を見つけたから、一旦これでやってみようと思う。
ついでに言えば、「理解し合えない」ことにまたガッカリしてはいるけれど、それでもあの猛烈な恥ずかしさを覚えるよりかはよっぽど幸せだとも思うから、手を閉じてしまうのも、もう少し先にする。


つまりは、まだもう少し人生と取っ組み合いを続ける予定だけど、それと平行してどんどんパーティーを組みながら、それでもひとりだと噛み締めながらこのどうしようもない状況を、私は楽しむ予定である。

お耳に合いましたら 〜9話

疲れて眠って朝一。せっかく休みなのに妙に仕事のことだとか忙しさにかまけて見ないフリした色んなことが視界にチラつく。溜まってたドラマを観ようとか気になってた映画が配信されてるとか、心躍る予定だって準備して、なんならお菓子も買った。


のに、じとりとした"嫌な感じ"が部屋の中、足元に充満しててどうにも気分展開できそうにない。


みたいな休日。ラジオがあるじゃん、と気付いたらなんとか指一本動かせてそのまま再生したタイムフリーでげらげら笑ってたら何にあんなにイライラしてたか忘れたりする。


そんなことを思い出したのが『お耳に合いましたら』だ。


チェーン店のご飯、略してチェン飯を愛する「美園」が「お耳に合いましたら」というPodcastを始める物語。
ちょうどラジオを好きになって約1年が経ち、じわじわPodcastにも手を出していた私にはどうにも唆られる(しかもご飯ものという大好きなジャンル!)テーマで、始まる前から楽しみにしていた。
そして、始まる前には予想していなかったような柔らかな幸せを、このドラマは私に届けてくれた。




毎話完結で進むので、気軽に観れるというのもあるけど、何よりともかく美園ちゃんの語りが最高に良い。
うまいとか下手とかではなく「ひたすらに好き」が声の端々に詰まってるのだ。
そもそも、彼女がこのPodcastを始める理由が「好きを口にしないと自分の中でなかったことになってしまう」という不安からである。もう、この時点で、かなり好き。
物語に出てくる人たちはみんなちょっと変わってたりコミカルだったり、でも、優しい。
そして、どこかファンタジーに感じる。
ただその、御伽噺みたいな柔らかさがひたひたと沁み入るのだ。
気が付けば、その「お耳に合いましたら」の世界ごと好きになっていく。



そして、話数が進むごとに、その好きという気持ちが増してきた。



このドラマを作ってる人は、ラジオのことが大好きなんだと思う。それこそ、「好きを形にしないと自分の中でなかったことになってしまう」という勢いすら感じるような、そんなドラマだ。
まるでラジオを聴いてるような感覚になり、でもどこまでも「ドラマ」として成立させる。これは、いったい、なんなんだろう。


そもそも、ラジオってなんだろう。
本格的に「リスナー」と名乗れるほど聴きだしてからは1年くらいしか経っていないけれど、時々考える。



大好きな星野源さんやCreepy Nutsさん、そしてラジオに出演される色んな人が言うラジオだからこそ、というのをなんとなく、分かってきた気がする。
ラジオだから言えること、話せる話、伝わること。
そんなものに巡り合った時、私は心の中がぐるぐると熱くなる。


お耳に合いましたらはラジオの話なので、一番の見せ場は美園の「語り」である。
チェン飯を食べながら、色んな話、彼女が考えたこと、思ってること、チェン飯のおいしさ。そんなことをともかく矢継ぎ早に、楽しそうに話す。(またそのON AIR風景に様々なラジオ名物の人々が現れるのも最高の演出だ)
ストレートに動く彼女の表情や、好き、が嬉しい。楽しい。


そこに関わる人々の描き方とラジオとの共通点を描くのが本当に素敵だな、と思っていた。
そして、9話、とうとう、リスナーが描かれて、歓声をあげてしまった。


お耳に合いましたらを熱心に聴く西園寺さん。
その描き方が、本当に好きだ。
彼女がPodcastを聴き、それを直接話題にするわけではなく、でも、大切な誰かと話すこと。そのきっかけになること。
うまく言えないな。
あの時、西園寺さんは「お耳に合いましたら」に直接関係のある話はドミノピザ以外はしていない。でも、あの厨房の空気や柔らかさはラジオを聴いたからだと思う。そんな感覚を、私は知っている。
そして、最後、エンディングで美園ちゃんと会い手を振り合う姿に無性に泣けてしまった。
劇的に描くなら、作中、ファンです!と話させてもよかった。そうなるんだろうとなんなら思っていた。
だけど、そうじゃない。
メール職人じゃなくても、公開収録にいかなくても、パーソナリティと対面しなくても。
私たちは、パーソナリティとリスナーは何度だって会っているし、話してるんだ。



だって、ラジオってきっとそういうものだから。



日常の中で、ほつれていくものがある。
それを丁寧に手繰り寄せ、編み、もとの形に戻す。
それがラジオの優しさのような気がするし、この「お耳に合いましたら」の優しさだと思うのだ。

ああそれにしても、お耳に合いましたら、ずっと続いてくれないかな。それこそ、ラジオの長寿番組みたいに。
とはいえひとまずは、あと残り3話、精一杯楽しみたい。