えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

お耳に合いましたら 〜9話

疲れて眠って朝一。せっかく休みなのに妙に仕事のことだとか忙しさにかまけて見ないフリした色んなことが視界にチラつく。溜まってたドラマを観ようとか気になってた映画が配信されてるとか、心躍る予定だって準備して、なんならお菓子も買った。


のに、じとりとした"嫌な感じ"が部屋の中、足元に充満しててどうにも気分展開できそうにない。


みたいな休日。ラジオがあるじゃん、と気付いたらなんとか指一本動かせてそのまま再生したタイムフリーでげらげら笑ってたら何にあんなにイライラしてたか忘れたりする。


そんなことを思い出したのが『お耳に合いましたら』だ。


チェーン店のご飯、略してチェン飯を愛する「美園」が「お耳に合いましたら」というPodcastを始める物語。
ちょうどラジオを好きになって約1年が経ち、じわじわPodcastにも手を出していた私にはどうにも唆られる(しかもご飯ものという大好きなジャンル!)テーマで、始まる前から楽しみにしていた。
そして、始まる前には予想していなかったような柔らかな幸せを、このドラマは私に届けてくれた。




毎話完結で進むので、気軽に観れるというのもあるけど、何よりともかく美園ちゃんの語りが最高に良い。
うまいとか下手とかではなく「ひたすらに好き」が声の端々に詰まってるのだ。
そもそも、彼女がこのPodcastを始める理由が「好きを口にしないと自分の中でなかったことになってしまう」という不安からである。もう、この時点で、かなり好き。
物語に出てくる人たちはみんなちょっと変わってたりコミカルだったり、でも、優しい。
そして、どこかファンタジーに感じる。
ただその、御伽噺みたいな柔らかさがひたひたと沁み入るのだ。
気が付けば、その「お耳に合いましたら」の世界ごと好きになっていく。



そして、話数が進むごとに、その好きという気持ちが増してきた。



このドラマを作ってる人は、ラジオのことが大好きなんだと思う。それこそ、「好きを形にしないと自分の中でなかったことになってしまう」という勢いすら感じるような、そんなドラマだ。
まるでラジオを聴いてるような感覚になり、でもどこまでも「ドラマ」として成立させる。これは、いったい、なんなんだろう。


そもそも、ラジオってなんだろう。
本格的に「リスナー」と名乗れるほど聴きだしてからは1年くらいしか経っていないけれど、時々考える。



大好きな星野源さんやCreepy Nutsさん、そしてラジオに出演される色んな人が言うラジオだからこそ、というのをなんとなく、分かってきた気がする。
ラジオだから言えること、話せる話、伝わること。
そんなものに巡り合った時、私は心の中がぐるぐると熱くなる。


お耳に合いましたらはラジオの話なので、一番の見せ場は美園の「語り」である。
チェン飯を食べながら、色んな話、彼女が考えたこと、思ってること、チェン飯のおいしさ。そんなことをともかく矢継ぎ早に、楽しそうに話す。(またそのON AIR風景に様々なラジオ名物の人々が現れるのも最高の演出だ)
ストレートに動く彼女の表情や、好き、が嬉しい。楽しい。


そこに関わる人々の描き方とラジオとの共通点を描くのが本当に素敵だな、と思っていた。
そして、9話、とうとう、リスナーが描かれて、歓声をあげてしまった。


お耳に合いましたらを熱心に聴く西園寺さん。
その描き方が、本当に好きだ。
彼女がPodcastを聴き、それを直接話題にするわけではなく、でも、大切な誰かと話すこと。そのきっかけになること。
うまく言えないな。
あの時、西園寺さんは「お耳に合いましたら」に直接関係のある話はドミノピザ以外はしていない。でも、あの厨房の空気や柔らかさはラジオを聴いたからだと思う。そんな感覚を、私は知っている。
そして、最後、エンディングで美園ちゃんと会い手を振り合う姿に無性に泣けてしまった。
劇的に描くなら、作中、ファンです!と話させてもよかった。そうなるんだろうとなんなら思っていた。
だけど、そうじゃない。
メール職人じゃなくても、公開収録にいかなくても、パーソナリティと対面しなくても。
私たちは、パーソナリティとリスナーは何度だって会っているし、話してるんだ。



だって、ラジオってきっとそういうものだから。



日常の中で、ほつれていくものがある。
それを丁寧に手繰り寄せ、編み、もとの形に戻す。
それがラジオの優しさのような気がするし、この「お耳に合いましたら」の優しさだと思うのだ。

ああそれにしても、お耳に合いましたら、ずっと続いてくれないかな。それこそ、ラジオの長寿番組みたいに。
とはいえひとまずは、あと残り3話、精一杯楽しみたい。