えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ひきこもり先生

逃げてもいい、と言う。苦しい時は逃げてもいいと言う。そのヤキトリが今日、「いつかは一歩、立ち向かわないといけない」と言った。
なんなら先週、またぼろぼろに折れたヤキトリもその「一歩」を踏み出した。
無理をしなくていい、と言われ、無理をしなくちゃいけないと言って歩き出す。



元引きこもりで、十一年引きこもっていた五十の男が先生になり、同じように引きこもりになりそうだったり、不登校気味の生徒と触れ合っていく。

そんなあらすじを聞くと「ハートウォーミング」で「教訓」的ないわゆるお説教ドラマだと思うだろう。
タイトルもずばり「ひきこもり先生」。

だが、佐藤二郎さんのフレンドパークでのツイートが流れてきて、絶対に観ようと決めた。
思わず「キャラじゃない」ような涙をこぼしながら言葉に詰まって「ひきこもり先生」について語ったという話を聞いて一体そのドラマはどんなドラマだろうと楽しみだった。


そしてその期待は覆ることなく、むしろどんどん話数が進むごとに面白さが増していく。
説教臭さなんてものには対極の、いっそ残酷なくらい真っ直ぐ現実を見せつけてくる。
台詞選び一つ一つが、甘やかしてくれることもなく、それっぽい解決策なんてものを許さない。
生徒たちの問題が大きく解決することなんて、このドラマではほとんどなかった。ただただ、それでも言う。生きろ、と。生きろ、生きろ、と言い続ける。


生きてるだけでいいと言うには、ちょっと生きるのはしんどい。許せないこともありすぎる。
だからこそ、解決なんてものを示されたら、私はもしかしたら、このドラマを苦しく見ていたかもしれない。
しかし、ひきこもり先生は解決を見せてはくれなかったけど、生きろという言葉と、そうして生き続ける彼らを見せた。そして、その「生きる」ことを選んだ彼らが笑っているのは嘘じゃないと思えたのだ。



ヨーダのあの言葉はどこにいくんだろうと思った。
ヨーダこと依田もこのドラマの中では大きな存在感があった。学校というフィールドから少し外れたところにいる存在。だけど、地続きの彼。
第四話。美しすぎるとすら感じた照明の中、佐藤二郎さんと玉置玲央さんのやりとりは息苦しさも感じるのにずっと見ていたいようなそんな大切なシーンだった。
私はヨーダがすごくすごく、好きだ。
不器用で、でもそれこそ一歩踏み出した瞬間は美しくて。だというのに、全部がうまくいくような奇跡は起きない。
だから、私は彼の言葉が、物語がどこに行き着くのか、何を言うのかを最終回、固唾を飲んで見守っていた。
彼は自分の人生を良かったというのか、それとも最悪だったというのか。
でも、そうだよな、終わってないから、そんな結論出せるわけがない。




正しくあることは、幸せになろうとすることはとても険しい道なのかもしれない。
険しいというか、そんなもの、存在しない。
最近はより、思う。正しいこと、が一つあればもっと楽になるのに。



このドラマを企画された方が色んな教師の方々にインタビューした、と話されていた。




その中で、その教師の方々が「どうしたらいいか分からない」と言っていた話を観ながら思い出していた。でも本当に、どうしたらいいか分からない。
まるごと全部、白黒ハッキリつけられるような、あるいは丸っと解決できるようなものは、何一つないんだということばかり、悟っていく。
それは力が抜けるような気持ちになる。



それでも
誰かにとって「なら良かった」と思えるような瞬間になれたら良い。
お母さんの「あなたは自慢の息子よ」という言葉に、陽平の言葉に、喉が詰まるような気持ちになった。


ずっと正しくはいられない。放り出したくなるような、逃げ出したくなるような瞬間もある。
そしてその時、逃げても良いんだと思う。大切なのは、命なんだから。
でもきっと、そうして続けていくとどんどんより苦しくなると思うんだ。


その中でも、自身の命を放り出さずに「なら良かった」の瞬間を迎えることができたら。
一瞬一瞬、良かった、と思える時間が作れたら。そう思いながら生きていくしかない。



ところで。私は、教育現場が舞台の物語や、子育てがテーマの物語を見る時、苦しくなる言葉がある。
子どもたちが、教えてくれた。
度々出てくるそのフレーズに、たぶん、心の中の大人になりきれてない部分が喚く。
もちろん、実際そうだということはわかる。一瞬、教育現場で働いたこともあるので、その思ったことだって、何度もある。


何より、大人なんて生き物は存在しない。


だから、子どもに大人は学ぶ。それもまた事実だ。だけど、そんなの、知ったこっちゃねえよ、と、思うこともある。そんなのずるいだろうが、と思う。子どもだからと線を引いたくせに、と思う。
そんな中、堀田さんの台詞は痛烈で、ああだから私はずっと、あの言葉を聞く度喚きたくなったのかもな、と思った。
とはいえ、私も十分「大人」なわけで、だとしたら、あの言葉にそうだそうだ、と言うんじゃなくて、忘れず、過ごすしかないじゃないか。

週一で笑わせてくれる人々

「最近思い切り笑ったことある?」
ある日突然、職場の人に言われた。
会話には時々、ある程度テンプレートがあるし、たぶんそれは「あーなかなか声あげて笑うことないなあ」というリアクションを待っていたんだと思う。私もそのつもりでいた。
しかし、その時、頭の中でげらげら笑う声がした。



「や、笑っとるわ。わりと」



Creepy Nutsを聴き出したのは本当に何気ないきっかけだった。ネットで見たシラフで酔狂の歌詞が気になり、つぶやいた。


Creepy Nuts気になるんだけど、何から聴けばいいんだろう。


そんな呟きに優しいフォロワーさんたちがお勧め曲を何曲か教えてくれて、それをYouTubeの彼らの公式チャンネルで探し、聴く。
刻まれるリリックにも、音楽にも良いな!!!と思った。ストレートで聞き取りやすい歌詞、ラップは聴いていて「耳が喜ぶ」感じがした。


これはまた素敵な人たちを知ったなあと、まだその時は程々の距離感で楽しんでいたと思う。
気になる、がさらに一歩進んだのはたまたま再生したradikoのタイムフリーだ。


星野源さんのオールナイトニッポンを聴くようになっていた私は他のラジオ番組も気になるようになっていた。だから、時々、気まぐれに目についた番組をタイムフリーで聴く。
その中で、あ、そういやCreepy Nutsさんもラジオやってるじゃないか、と気付いた。なんなら、いつも聴いてる源さんのラジオのすぐ後だ。
これもなにかの縁だろうと再生したその日は、ちょうど松永さんが広島のライブで寝坊した回をやっていた。
後悔した。何故外出中に聞いてしまったのか。しかし後悔してももう遅い。停止ボタンを押す気はさらさらなかったこの話のオチが聴きたい。爆笑するこの人たちの声を聞いていたい。
ひとしきり盛り上がった彼らが、一曲の曲をかけた。


グレートジャーニー。その曲のイントロが流れた瞬間、うっそだろと呻く。


それは、ライブであちこち回る彼らを歌った曲である。
いやもう、そんなの、完璧過ぎる。あまりにも綺麗なオチだ。落語の最後一言、頭を下げて幕を閉じるような気持ちよさすらあった。



その週から、私は彼らのラジオに夢中になった。
もちろん、毎度毎度綺麗なオチを付けるわけではない。別にそれはそれで良いのだ。
最初に書いた通り、私は毎週、ひとりでラジオを聴きながら爆笑している。さすがに初回の失敗を活かし、なるべく家で聴くようにはしているけど、時々、散歩中に聞いて笑いを噛み殺す羽目になる。


でも、それが、ものすごく楽しい。


ふたりの会話は、大体、本当にくだらない話題だったりする。それにリアルタイムで聴いてるリスナーがのっかり、それをさばいてまた笑い、のっかって。
まるで、学生時代、部室や教室で繰り広げていたような馬鹿話を聴いてるような気分になる。

ふたりは、それぞれラジオの時間を多忙になってきた中で友達であるお互いとじっくり話せる時間だといつかインタビューで語っていた。



そんな彼らにとっての彼らのための時間が私にとっても心底おかしくて、1週間の大切な時間になっているのだ。

そして、そんな「ラジオのなかの友達のような時間」だけに彼らの魅力は留まらない。
もちろん、最初に出会った音楽だって知れば知るほど、最高なのだ。



勧められた曲をきっかけにYouTubeを漁り、Spotifyを漁り、新曲のたびにワクワクした。
ちょうど、歳が近いということもあるのだろう 。R-指定さんの刻む言葉は、どれもストレートに届いた。それが最高に格好いい音楽共にど真ん中に飛び込んでくる。


陰キャのヒーロー。
そう、彼らは表現されることがある。
HIPHOPというクスリに暴力、女、みたいな、ザBAD-BOYな背景を背負わず、ただただHIPHOPが好きで音楽が好きな彼らが、そのフィールドで活躍する。
イカツイ系とは遠い、むしろ親近感すら湧く彼らが、場を沸かす。たしかに、その姿はスカッとするものがある。


そして私がその中でも怯まず彼らを好きだ、と言えるのは、R-指定さんがはっきりと「俺は俺のために歌ってる」と言い続けるからだ。
彼らの曲に自分を重ね、日々の鬱憤や焦りや怖さを誤魔化したり笑い飛ばしたり真正面から見据えたり。
そうしながら、でも、その音楽は彼ら自身のためにあるものであり「見たお前が勝手に重ねる」だけなのだ。だから私は、彼らの音楽に安心して勝手に自己投影し、それから、まあなんとかなるか、なんて思ったりするのである。


そして、音楽自体も楽しい上に、今年の春、初めてオンラインで観た彼らのライブは、めちゃくちゃに格好良かった。
その上、初めて聴いたあのラジオの回のようにMCとセットリストがこれ以上ないほどにハマり、まるで一本の美しい物語を描くみたいに思えた。
とんでもないライブを観た、と思った。ライブのつもりが、お芝居を観たあとのような気持ちにすらなった。


彼らは、本当に彼らのために音楽を作ってるのかもしれない。だからこそ、その音楽は一歩一歩、彼らの足跡になる。
そして、それを繋げてみることができるライブは、一つ壮大な物語なのだ。


週に一度、訳が分からないくらいくだらないことで笑わせてくれる、まるでクラスメイトのような彼らが紡ぐこの話がこれからどんな景色を見せてくれるのか。私は本当に本当に、楽しみなんだ。

吾輩は社会人である

吾輩は社会人である。
名前はまだない。



週5、仕事だけしようかな、と思った。
仕事だけ、と言いながら相変わらずドラマは観ていたしこうして文も書き溜めていたし、締め切りが近い公募の文もぐるぐると書いては削りしていたから厳密には全くだけ、ではないんだけど。
でも、なんというか、ツイートしたりして「仕事以外の自分」に視線をやる時間を減らしていっそ思い切って仕事を軸に置いてみた。
そうしてしばらく違ったな、と思いはしたけど、その直後また仕事だけ選ぶべきなのかな、とまた袋小路に突き進んだ。


営業をしている。
詳しいことはもちろん省くけど、営業といえばだいたい喋り、物を売る仕事だ。
ついでに、大好きな星野源さんの歌から言葉を借りれば「好きでもないものを売る」仕事である。


どうだろう、もちろん、自分の販売してる商品を心から愛している人もいるだろうし、私はそんな人のことを尊敬もしている。ただ、私は別段自分の商品を愛してるわけではないし、なんなら結構売るものはころころ変わるので、一つを愛して、とかはない。業界的にも行きたくて、というよりかはのっぴきならない状況と偶然で出会い、そのままずるずると仕事を続けているので、惰性はあるかもしれないが、愛着はそんなにたぶん、ない。
仕事に対して、熱意のある人間かと言われても、やっぱりそんなことはない。



難しいことをやろうと思った。
転職活動を過去、2回やったことがあるけど、2回目は難しいことをやろう、と思った記憶がある。なんせ、年齢的にもその転職回数・転職スパンは短く、たぶん次折れるとその後の道を探すのが難しいな、と肌感覚で感じていたのだ。
ただ一方で、仕事は運も大きいしもしもまたダメになったら、潰しがきくようにしたい。そう思った。だからこそ、難しいことをして、なんとかしようと思った。難しいことをすれば、経験値も上がるし自信だってつくはずだ。そしたら、もしもの時もなんとか食いっぱぐれずに済むだろう。
そんなマイナス要素満載の中で始めた仕事をギシギシ歯軋りしながら続けてる。



面白くもないし、夢もない仕事。そう時々、自分の仕事を説明する。



でも、例えば伝えるために勉強すること。相手を見ること、観察した上でアウトプットを工夫すること。考えて視点を変えること。
そういうものがいくらでもこの仕事にはある。
どの仕事だってあるのかもしれないけど、でもこの仕事をしてる時に初めてそんなことを思ってだから、存外、私はこの仕事のことを気に入ってる。
人と一対一でどうやったら伝わるか、相手が何を伝えたいのか。相手の心が動く瞬間、方法を探しながら言葉を尽くす。
そうだ、私は、この仕事の言葉を尽くせることと思考を続けて続けてようやく一つ、答えに辿り着けることが楽しくて仕方ない。



才能がないと諦めた言葉を届けるという仕事を、畑は違えど、できているのだ。
相手が受け取りやすい方法、欲しい言葉を考え、一番刺さるタイミング、刺さる方法で、かつただ「聞こえのいい言葉」に落ちていかないように勉強したり準備したりしながら、喋る。
それは、確かに、ものすごく、めちゃくちゃ、楽しい。


だからこそ、自分の好きなものや軸を捨ててでもやってみるのもありなんじゃないかと思った。まあ半分というか大半は自暴自棄の結果の考えだったけど、その隅、どっか、それはそれで幸せじゃん?と思った本心もあったのだ。


私は社会人になって早々、躓いた。


仕方なかったとも思うし、私は悪くない精一杯やったと思う一方でいまだに悔しかったというかまだ出来たんじゃないかと思うことがある。

あの時ああしていれば、ここが変わったなら。

例えばそれこそ、今の少しは荒波に揉まれ乗りこなす術を身につけた今の自分なら。
そういう意味で「好きなもののと離れてでも仕事をすること」は不幸だとか、自暴自棄だとかいうだけではなく、あの日の自分に「あの時の分、殴り返しといたから!」と宣言できる日に繋がるんじゃないか、と思った。


とか、まあ、言ってるけれども。
何より、「ちゃんとできない自分」への劣等感からの「やってみようかな」だったような気もする。

些細なことにこだわったり抜けていたり、そういう真っ当さが足りないところに気付くたび、わりと本気で毎度凹んでしまう。なんでこいつこんなダメなんだよ、と自分相手に毒を吐いてしまい、そんな酷いこと言わなくてもいいじゃん、と落ち込み、負のループに足を掬われる。


昔から「どうして普通にできないのか」とうじうじ悩んでいたけど、それはその努力をする時間をとってこなかったというのも多分にあるし、じゃあ、その"努力"ってやつをやってみてもいいんじゃないか、だとしたらそりゃ、好きなものや人たちから離れることになるんじゃないか、とも思った。
好きなものがあると、どうしても躊躇う瞬間があるから。これ以上やると、良くない。そういう命綱みたいなリードみたいなのが、私にとっては好きなものだ。


みたいなことをぐるぐると考え、考えた結果、仕事の先輩と話した。一旦話そうと言ってくれた先輩は、それをそうかそうかと聴きながら、言った。


「いや、好きなものも仕事もとるのもつくちゃんじゃないの」



いつからそんな物分かり良い子になったの、と言われたのは多少気になるけど、あっけらかんと言われるとそっか?!と目から鱗が落ちた。
ずっと、好きなものも仕事もとってきたじゃん、と言われて、そうだっただろうか、と思った。
ついでに、そうか、どっちも欲しいから私は困ってたのかもなと思い至る。仕事だけ、好きなものだけ、が選べなかったのだ。
私は我が儘だし欲しがりなので、「これだけで我慢しなきゃ」と思うのが物凄いストレスだったんだな。
それこそ、先輩の言う通り、そこでどっちかを選ぶほど私は物分かりがいいタイプじゃなかったのである。



まだまだ仕事がしたい。自分がどこまでやれるか興味があるし、まだやれる、と思ってる。
好きなものだって、どれひとつ諦めたくない。芝居もライブも映画も観たい。なんなら音楽だって聴きたいし、本だって読みたい。
そして何より、文が書きたい。書いて何になるかとかじゃなくて、ともかく、書きたいんだ。
そうか、それ全部、諦めなきゃいいのか。
なんだかそう、すっきりしたので、書いた。



ここ、好きなことの話をする場所なのに、仕事の話してるな。まあいいか、結局、たぶん、仕事のことも好きなのだ。

生きるとか死ぬとか父親とか

ひやっとした。
観るのを決めたのはCreepy Nutsの松永さんが出演されると聞いたからだ。しかも、ラジオの話。ここ一年、すっかりラジオを聴くことが生活の一部になった私は、そのドラマをとても楽しみにしていた。
しかし、見出して、ひやっとした。分厚いし、苛烈だ。重たいわけじゃない。見やすいドラマでもある。だけど時々、とんでもないボディブローをキメてくる。



じゃあ何がそんなに私に刺さったかを語り出す前にまずドラマとしてたまらなかったところを話していきたい。
まず、原作のジェーン・スーさんをモデルとした主人公、トキコを演じられた松岡茉優さんと吉田羊さん。もう、この布陣があまりにも堪らなかった。
もともと、コウノドリを観ていて吉田羊さんが演じる小松さんと松岡茉優さんが演じる下屋のやりとりが大好きだった私にとって大歓喜のキャスティングだ。
そして、驚くほどお芝居の波長が気持ちいいくらい合うのだ。同一人物なので時折、ハッとするほど「同じ」に感じる瞬間もある。
年を経ての共演が本当に大好きな上にこんなご褒美みたいな共演を見れてすごくすごく嬉しかった。


そしてずっと淡々と続くドラマで、そこを彩るピアノをたくさん使った劇伴が本当に魅力的だった。なんだろう、あの寄り添ってくれる感じというか、しみしみさせてくれる本当に密なドラマだ。
派手なドラマではないけれど、深く深く沁み込んでくる。
でも、重苦しいとかではなくて軽快にピアノのリズムと一緒に進んでいくから楽しくて見易くて本当に好きだ。

そしてそれでも私はひやっとしたんだけど(笑)



特に、水をぶっかけられたような気持ちになった台詞を、私は携帯にメモしていた。

「私は自らeditした物語に酔っていた。それは父を美化したかったからではなく、私自身が私の人生を肯定したかったからかもしれない」

「美談とは、成り上がるものではない。安く成り下がったものが、美談なのだ」

こんな苛烈で、的確な言葉があるだろうか。なんなら、こうしてネットの片隅でブログを書いてるだけの私にも深く突き刺さった言葉だった。安く成り下がった美談。それは、なんとなく思い当たる節がある。
そして今打ちながら思ったんだけど、私がこのドラマが好きなの、このトキコがまたそうして"家族"と"文を書くこと"からブレずに目を背けるから好きなのかもしれない。
そしてそれでも重苦しくないのが本当に好きだ。重苦しいのがダメなわけじゃ、もちろんないんだけど。


トキコさんってすごく素敵なんですよ。


優しさとか面白さとか人間臭さのバランスがものすごくて。そしてその人が真っ直ぐに、でもなんだろう。
重苦しく深刻に、っていうのもすごいことなんだけど、生きていく中でずっと深刻にって難しいし、どうしてもこう、白々しくなってしまう。
そんな風に思うからこそ、そこが軽やかで軽やかなのに決して目を逸らさないのがすごく好きだ。なんでかな、その方が難しいような気がするからだろうか。変な物語性を持たせるんじゃなくてただただそこに在るものとして彼女は考えて生きているので。
そしてその姿を観ていると、つい、自分に立ち返りたくなるのだ。



そういや私も、ロッテリアで父親と喧嘩したことがあった。なんなら、このコロナ禍前も、私は父と喧嘩をしている。
そんなことを後半、父親とそして誰より母親と向き合い出すトキコを観て思い出した。忘れてたわけじゃないけど。
親はいつまでも親だけど、でも老いてはいくし、子どもはいつまでも子どもだけどでも自分の足で立ったり考えたりするようになる。そうなると「これはおかしいんじゃないの」って言ってしまったり、結果、すれ違ったりする。
変な話、親に何か「おかしい」って言うとして、そうなるとなんかそれが冗談レベルならともかく一人の人として言う時、なんとも言えない気持ちになる。
親もただの一人の人間で、同じような人なわけで、間違えないわけじゃない。そうは思いつつも、どうして、とより思ったりしてしまうし、
親であることに過剰に何かをのせてしまう。
更に言えば、親からしても子どもに嗜められたりすることはきっと良い気持ちにはならないと思うのだ。
ただ、なんとなくその黒々した居た堪れなさとかなんとか出来ないかという気持ち(そんなに拗らせきってるわけじゃないけど)そしてこうして会えなくなると、
もし会えないままどちらかが死んでしまったら後悔は残らないだろうかと心臓がちくちくする日がある。
本当に、一切拗らせてない。仲良くLINEもオンライン通話もしているんだけど。




ところで、このドラマをきっかけに私はこのドラマの原作者であるジェーン・スーさんを知り、彼女のPodcastを聴くようになった。


OVER THE SUNというタイトルのそのPodcastが本当にめちゃくちゃ楽しい。
ラジオこそ聴くようになったけど、Podcastといういつでも聴けることによる逆のハードルに今まで、聴く習慣がなかなか生まれなかった。
しかし、ジェーン・スーさんと堀井美香さんの楽しい会話は聴いてるとなんだか、気持ちいい。
元気が出るとか為になるとか、もちろんそういうところもあるんだけど、それ以上に気持ちいいのだ。
スーさんのバッサリとした口調は聴いていて心地良いし、美香さんの相槌は心がほっとする。これ、ドラマでもアナウンサー東さんの相槌があるからこそだよね、というシーンがあったけど、本当にそうだな、と思う。
ふたりの会話だからこそ、心地良いのだ。



まだ全てのエピソードを聴いてるわけではないんだけど、
聴いてる中でもお気に入りのエピソードがある。離婚したシングルマザーのお母さんのメールから、親が離婚したひと、あるいは本人が離婚したひとそれぞれからのメールを募り、話すというものだった。


色んなひとがいて、色んな思いがあり、それをふたりが「そこに在るもの」として受け止めて、話す。
解決策を見つけるわけじゃなくて、あくまで掲示板だから、と番組冒頭スーさんが言ったとおりに、番組は進む。



そんなスーさんの言葉で印象的だったものがある。
どんな物語も切り取り方によって間抜けな話にもシリアスにもなるというものだった。それはなんというか、そうだよなあ、と思うのだ。
このPodcastにしろ、「生きるとか死ぬとか父親とか」にしろなんでもなく聴く人がいて、一方でもしかしたら苦しくて聴けない人も、いるのかもしれない。
それはそこに、その人それぞれの生活があるからだ。



街の風景が印象的なドラマだった。人々の暮らし。それはどこか、ラジオに似てる。これを聴く誰かのことを私はよく考える。



名前を知らない、メールを送っても読んでもらえるかわからない。
だけど、ラジオを聴いてるとき、ハッキリとパーソナリティのひとがこちらを見ているような錯覚に陥ることがある。そして、夢みがちなことを言うなら、それは、錯覚なんてものではないと思うのだ。


いつだって、生活は寂しい。物語のように美しく、段取りよく、起承転結をつけることはできないのだということに私は時々、途方に暮れる。
しかし私は、ラジオを聴いてるとき、そのことをほんの少し考えずに済むような気がする。



色んな人がいて、生きて笑ったり怒ったりしている。その人たち全員に出会ったとして、全員と友達になれたりはしないだろう。嫌いになったり、嫌われたりする人もいるに違いない。
それでもその中でぼんやりと同じ周波数を漂うラジオの時間が、私はたまらなく好きだ。
生きるとか死ぬとか父親とかは、テレビドラマでありながらそんなラジオの時間を克明に描いていた。

コントが始まる

内臓を焼くように、なんていつか言ったけど同時にどうしようもなく毎週楽しくて楽しくて仕方なかったドラマが、終わってしまった。
最終回、後半はもう何が悲しくて泣いてるのか、いやそもそも悲しいのかすら分からず、嗚咽を噛み殺すことなく泣きながら画面を見つめていた。
やったことがある人はわかってもらえると思うんだけど、号泣しながらドラマ見るってわりと大変なのだ。なんせ泣けば泣くほど画面はぼやける。でもそれだけ心を傾けるドラマは一瞬も逃したくない。だからもう、ぼとぼと涙を落としながら目を見開いていた。



最終回、結局リアルタイム・配信含めて3回観たんですが
書きたいことがたくさんある。間延びしていたなんてことはもちろんないんだけど、最終回だけで書きたいことがありすぎて。
そう考えてると、他の話もそうだったな,と思う。だいたいどの話も2回以上観ているんだけど、
じゃあどのシーンが、とか話し出すのが難しい。
要素が濃縮されていたのもあるけれども、何より、思い入れがあちこちにありすぎて。あるんだけど、でもさらりとしている気もする。


本当に、不思議なドラマだ。
物凄い熱量で観ていた。それは間違いなく事実だけど、同時に、さらさらと当たり前にそこにあるような温度感で近くにあったような気もする。


書き始めると、好きなところはいくらでもある。
だから、以前、6話の感想を書いた時は要素を絞って書いた(あれでも)


言葉にせずにはいられないからというのもあるけど、一旦全部、書きたい。
最終回についてはどれだけ長くなっても。言葉にしない美しさももちろんあるんだけど、私は、この話について話せるだけ、話すというよりも、文字という方法で思ったこと全部、残せるだけ残したいと思う。




まず、推しとファン、の話から。
マクベスの物語にこんなに心が動かされた理由は、里穂子の存在なくては語れないと思う。
面白いか、と言われると分からないし、
彼らの芸人としての魅力、あるいは推しとしての魅力というのはドラマを全話観た今もうまく掴めていない。
それでも、日常のなか、里穂子がマクベスに心を傾ける様子に、私たちは彼らを大好きになったような気がする。


里穂子が、オタクとしていかに素敵で、見ているだけで幸せになる存在だったか。



好きになった理由とか、良さとか里穂子にきっと聞いたら色々、返ってくるのかもしれない。
だけど、そんな言葉も必要ないくらい、彼女が彼らを好きだという気持ちは伝わってきた。
その姿が、私は本当に好きだった。
その姿を有村架純さんがあんな風に魅力的に演じてくれることがとてもとても嬉しかった。


「オタク」が創作上で描かれる時に身構えるという話は度々このブログでしてきた。
なんか、過度に描かれてもいやいやいや…となってしまうし、
かと言って、たとえば"救われる"話はまたそれで、なんというか、怖いんですよ。その表現があってるか分からないけど。
なんというか、変な肩入れをする自分に身構える。し、肩入れしなくても「そんなのねーよ」と苦笑することで、いやもしかして「それ」を求めてたのか?となんか、物語に関係ないところで自分にがっかりしてしまったりもする。
だけど、里穂子の姿は少し違った。

「頑張りかたを間違えたのか、そもそも頑張ったのが間違いだったのか」


そう言う里穂子にとって「売れなくても続けるマクベス」の姿はどんな風に見えていたんだろう。
頑張ることは報われるためじゃない、と思うのか、と考えてそんなわけがないわな、と思う。
楽しければ、あるいは誰かに素敵だと思われれば努力が報われなくても良いとは思わないし、彼らだってそんなこと言うわけがないだろう。
それでも自己投影的に救われたということではなくて、
自分の好きな人が「頑張っている」ことは頑張ることへの躊躇いだとかその躊躇いに対する居心地の悪さを柔らかく溶かしていったんじゃないか。


そして最終回「あなた方が精魂込めて作り上げたコントは、この世からなくなることはありません」という台詞が本当に大好きだった。
あの台詞を聴いて、改めて里穂子は、マクベスという人々が好きなのはもちろん、その前提に彼らの作る作品が好きなんだ、と思ったからだ。
好きな作品を作る人のことを好きでいれることは嬉しいし、好きな人が作る作品を好きでいれることは本当に奇跡のように嬉しい。



"群像劇"だなあと思うのは、そういうワンカットワンカット、あるいは人それぞれに愛おしいと思う瞬間が本当に多かった。
里穂子がなんでマクベスが好きなのか、は語られすぎない。
こんなに面白いコントを作るからか!とストレートに思ったりは申し訳ないけどしないし、
でもかと言って、人柄だけで彼らが好きだということはないだろうな、とは思うし。
でもその掘り下げすぎない、かと言ってぼんやりと誤魔化したりもしないその距離感で切り取られる風景が本当に私は好きだった。



全部書くとか言ったけど、これ、たぶん書いても書いても書ききれないな。


芸人として成功するってなんだろう。何百人、何万人もの人に支持されることか。
それとも、マクベスのように誰かに心の底から愛されることか。
それは"人としての成功"というバカみたいに壮大な問いに似てる。




最終話、もう一つ印象に残った会話があった。公園で、春斗と里穂子はいつかの約束をする。

「その頃は何してるんだろうなあ」
「楽しみですね」


そうか、そうだ、「楽しみ」でいいんだ。

いいオチってなんだろう。どうやってつけられるんだろう。
かと言って、死ぬまでオチがつかないなんてこともないのかもしれない。だって、里穂子の「花」のようにある日突然、伏線が回収され、オチがつくことがある。
無駄に思える一日が思いがけないオチに繋がるかもしれない。誰かが見つけてくれるかもしれない。
そう思うとほんの少し楽しい。



マクベスが終わりに向かう話かと思っていた。だけど、そうではない。
むしろ今から、始まったのだ。


そういえば、第6話の感想で春斗は愛情を注ぐ先を見つけられるのか、見つけられるとしたらそれはどこなのか、なんて書いてたけど、結局その結論は出なかった。でも、それはいつか不意打ちでああ、そうだったかもって思うことがあるかもしれない。それはそれで、楽しみだな。

不思議/創造

不思議/創造が発売された。
くたくたに疲れて帰った日はちょうどフラゲ日でポストの中には楽天で注文した源さんのシングルが入っていた。


初めてリアルタイムで買う源さんのシングルだ。シングルボックスを買った時、この一枚一枚をリアルタイムで買っていた人もいたんだな、と羨ましく愛おしく思った。その最新シングルだ。

その日はともかく疲れていて、玄関に傷付けないようにCDを置いたままベッドで泥のように眠った。明け方、胃が痛くて目が覚めてシングルをベッド脇に引き摺り込んだ。目がしばしばして、開けづらい。頭も胃も痛くて呻きながら、開封作業をする。
そうして開いたCDの歌詞カードを広げた。ひとつひとつ、歌詞とコメンタリーの文字を追う。



すきだなあと思った。すきだなあ、と思った気持ちを迷子にならないように握りしめたまま、二度寝した。



今回「不思議/創造」に収録された4曲のうち、3曲は既にブログに書いてきた。

不思議

創造

うちで踊ろう(大晦日


なので、こうなると「そしたら」の話も書きたくなるし、
なんなら改めてこの両A面として販売された「不思議/創造」の話がしたいじゃないか。



ここ最近、この最近がいつからか分からないくらいずっと、息苦しい。気を抜くと溺れそうな、いやもしかしたらむしろそうして力んでるから溺れかけてるような、そんな水の気配が、ずっとある。

だから、今回の『不思議』の曲の話を源さんがANNでしているのを聴いて、びっくりした。

「(好きな人ができる好きなものができた時)水の中にいるくらい苦しかった思いが、その人と手を繋いでる時だけは息ができたりとか。そういう今の世の中に対して嘘をつきたくなかった」

恋という、あるいは愛という素敵なものを歌う時、それがあるのは世界が素晴らしいからじゃなくて、この愛は世界のおかげてあるわけじゃないという、ある種、怒りのようなものの話をするのを聴きながら、思い出していた。



少し前、仕事以外をするのを止めていた。極力、人と連絡をとるのも避けて、呟かず、何かを考えるのも最小限にして、考え事も仕事に寄せた。

そうするのが、楽だった。
好きなもののことを考えると、そうじゃないもののことを考えて余計に苦しくなるし、だったらもう、と思って仕事だけしていた。
そうして思ったのは、楽だけどどんどん全部どうでも良くなるなあということだった。
たぶん、私は好きなもののことを考えて、こうして文にしながら、少し際のところで、世界を好きでいようとしているのかもしれない。
世界を、なのか、分からないけど。



なんか、関係ないじゃんって言われそうな話をしちゃったけど。でも、なんというか、この『不思議/創造』を聴きながらそんなことを、考えてしまった。
4曲が、あまりにも好きだから。


『不思議』が1曲目に来ることで、好き、という気持ちについて考える。その中で別に幸せで満たされるわけじゃなくて、
むしろ好きだからこそ、好きであればあるほどそこにある孤独や地獄を思う。
好きという気持ちが、万能で、世界を薔薇色にする魔法だとは歌ってくれない。あくまで好きがくれるのは、仮の笑みだ。だけど、それがあるから私たちは日々を踏みしめて歩けるのだ。



そこから『創造』を聴いて楽しくなる。


創造が私は大好きなんですよ。
音楽の詳しいことは私には分からないけど、でも使われてるサウンドがもう、問答無用で楽しくてワクワクする。
そうして跳ねる心を

「僕は生まれ変わった 幾度目の始まりは澱むこの世界で 遊ぶためにある」

という歌詞が引っ張っていってくれる。



創造はそのまま、源さんが遊びに誘ってくれてるようだ、と聴くたびに思う。こんな面白いものがあるよとワクワクさせるびっくり箱のようなものを見せてくれる。驚いた笑顔見せて、なんていかにも、面白い仕掛けを作り続ける源さんらしくて、楽しくなって笑ってしまう。

そしてなんなら,君だって遊べる、と言ってくれてるような気がするんだ。
馬鹿げてた妄想も、全部何か始まる合図なんじゃないか。




『うちで踊ろう(大晦日)』はそうして跳ねた心で、ぽたぽた落ちてきた素直な、なんというか、なんだろうな、疲れたとか嫌だとか、そういうのをゆっくり濾過してくれるというか。
(大晦日)で驚いたのは、諦めを歌ったことで、そこにあったストレートにすら感じる怒りだった。
そして、だというのに、放り出すわけでもなく、生活が続くことが、苦しくてなのに好きだった。



マイナスなことってできれば口にしたくない。お前が言うなと信じてもらえないかもしれないけど、なるべく、そう思ってる。



だから、なんか人を傷付けずでも誤魔化さず怒ってうんざりだ、って口にしてそれでも、生活を続けることが歌を歌い続けることができるのかと思った。


なんてことを思いながらですよ。
そしたらですよ。
ええ、『そしたら』ですよ。
親子の歌なんだけど。だから、ある意味で優しい眼差しは、まあ、そうか、ともおもうんだけど。
あの柔らかな声で歌われる

「けど取り敢えず今日まで続いてよかった」


なんて、聴いてしまったらもうさあ。
なんか、そうか、と思いたくなってしまった。
良かっただろうか、今日まで。あの日、終わらずに続いて、それは「良かった」なのか。
でも、うん、まあ、そうだよなあ。


生きれば生きるほど辛いけど、生きることが唯一幸せな記憶を増やす方法なんだ。
シングル一枚に、何をめそめそとって思うでしょ?私も思うよ。
だけど、あの日、くたくたな中、枕元にあるCDにうんざりだって思いながらも目を閉じて大丈夫だって呟いちゃったんだよな。

モノノケオウジ

モノノケオウジを観た。
1weekクエスト企画公演と銘打たれたその公演は、稽古風景を配信しながら1週間で脚本を作るという公演だ。


私は諸々の都合で、本番しか観れなかった。
ただずぶずぶと飲まれるように過ごしている中で、ある日唐突に「そういやあと少しでクエストさんの公演じゃないか!」と気付いたあの日の、ボーナス感はなんだか、愉快で特別だった。
もし、いつものように遠征をするならその前後を調整するので、当然、日にちを意識しながら過ごす。
だけど今薄ぼんやりした毎日の中で、溺れないようにただただ必死に過ごしていると、
その日にちだとかを忘れる。何が何日に、という意味合いだけじゃなく、今日が何日か、すら結構曖昧だ。



それはともかく。
モノノケオウジ、はある家族の物語だ。
幸せそうな家族。
ピクニックをして、なんでもないおいなりさんの会話で戯れあって。
それでも、そんな彼らを人は「気が狂った」という。
息子は、数年前、不幸な事故で亡くなっている。だから、夫婦の間で笑う子どもは「偽物」で「モノノケ」だ。


この物語には、悪魔のような見た目の天使や
天使のような見た目の悪魔も出てくる。
そして名乗るたび、何者かわからなくなる人も出てくる。


「何が本物」なのか?
おかしくなっていく妻のために、夫が拵えた「モノノケオウジ」はなんなのか。
その三人で笑ったあの時間は、彼らの時間はなんだったんだろう。


配信とお芝居のことを、いつか、それこそこの毎日が終わるまでに一観客として、言葉にしたい。いやこれまでだって、いろんな作品の話をする折に触れ、してきた。だけど、そうじゃなくて。なんかもっと、作品に関係なく。
なんか、そうしないと私がこの一年、観てきたものがぼんやり、忘れてしまいそうな気がする。

そんなのは、だって、悔しいじゃないか。


演劇ってなんだろうなってここ一年と少し、ずっと考えてる。
何が揃ったら「演劇」って思うんだろうか。
配信は芝居とは違うとか、劇場じゃなくてもお芝居は作れるとか、なんか、もう、時々考え込んでは分からないなあって結論が出る。



モノノケオウジのいたあの時間が、夫婦にとってなんだったのかは分からない。
いつもより当然ながらランタイムは気持ち短めで凝縮されたものを全部掬いあげて理解できたかも、私には分からない。
だけど、何が本物なのかとかなんだったのかとか考えていると
そんな単純に幸と不幸を単純に決めることはないんじゃないか、と思った。



今回、この1week企画公演を観て。
王子小劇場のあの椅子に座っている時とは、そりゃ違う。
私が大好きな、あの風圧を感じることはないし、大好きな受付スタッフの皆さんの笑顔に期待でバクバクしてる心臓を抑えながら、会場の椅子に座る、あの感覚はない。

なんとか無理やり特別感を出そうと買ったビールを片手に小さい画面を覗き込んでいた。



だけど、それでも、やっぱりそこには私が大好きなX-QUESTさんがいるのだ。

私は、クエストさんに出会った頃、「便利棒」の存在に痺れた。
あの刀にも槍にもなる、あの最高の小道具が私は大好きだ。
エストさんは衣装も小道具もどれも素敵だ。いつか、展示されることがあったら近くでじっくり観たいとずっとずっと思ってる。
でも、その具象的に作り込まれた小道具たちどって大好きなんだけど、それ以上に「便利棒」が好きなのだ。
役者さんのお芝居で未来にも過去にも、ファンタジーの世界にも海にも山にも、どんなところにでも行ける。私は、お芝居のそんなところが大好きだから。

そして、今回のモノノケオウジでも、そんなクエストさんらしさ、は溢れていた。
あるものを最大限に使い、色んな遊びや工夫を繰り返し。
カメラのアングルや見せ方、リンクする台詞。
それは、大好きなクエストさんのお芝居だ。


劇場公演ができないから、の代わりではない。
私は、その言葉に物凄く励まされた。励まされている。公演が終わって、1ヶ月が経とうとしている今も。



何が揃えば演劇かは分からない。でも私は、代わりでもなくて、私が大好きな「演劇」を観たんだ。
そう、ほんの少しの意地といつかへの楽しみを込めて、思う。