えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

モノノケオウジ

モノノケオウジを観た。
1weekクエスト企画公演と銘打たれたその公演は、稽古風景を配信しながら1週間で脚本を作るという公演だ。


私は諸々の都合で、本番しか観れなかった。
ただずぶずぶと飲まれるように過ごしている中で、ある日唐突に「そういやあと少しでクエストさんの公演じゃないか!」と気付いたあの日の、ボーナス感はなんだか、愉快で特別だった。
もし、いつものように遠征をするならその前後を調整するので、当然、日にちを意識しながら過ごす。
だけど今薄ぼんやりした毎日の中で、溺れないようにただただ必死に過ごしていると、
その日にちだとかを忘れる。何が何日に、という意味合いだけじゃなく、今日が何日か、すら結構曖昧だ。



それはともかく。
モノノケオウジ、はある家族の物語だ。
幸せそうな家族。
ピクニックをして、なんでもないおいなりさんの会話で戯れあって。
それでも、そんな彼らを人は「気が狂った」という。
息子は、数年前、不幸な事故で亡くなっている。だから、夫婦の間で笑う子どもは「偽物」で「モノノケ」だ。


この物語には、悪魔のような見た目の天使や
天使のような見た目の悪魔も出てくる。
そして名乗るたび、何者かわからなくなる人も出てくる。


「何が本物」なのか?
おかしくなっていく妻のために、夫が拵えた「モノノケオウジ」はなんなのか。
その三人で笑ったあの時間は、彼らの時間はなんだったんだろう。


配信とお芝居のことを、いつか、それこそこの毎日が終わるまでに一観客として、言葉にしたい。いやこれまでだって、いろんな作品の話をする折に触れ、してきた。だけど、そうじゃなくて。なんかもっと、作品に関係なく。
なんか、そうしないと私がこの一年、観てきたものがぼんやり、忘れてしまいそうな気がする。

そんなのは、だって、悔しいじゃないか。


演劇ってなんだろうなってここ一年と少し、ずっと考えてる。
何が揃ったら「演劇」って思うんだろうか。
配信は芝居とは違うとか、劇場じゃなくてもお芝居は作れるとか、なんか、もう、時々考え込んでは分からないなあって結論が出る。



モノノケオウジのいたあの時間が、夫婦にとってなんだったのかは分からない。
いつもより当然ながらランタイムは気持ち短めで凝縮されたものを全部掬いあげて理解できたかも、私には分からない。
だけど、何が本物なのかとかなんだったのかとか考えていると
そんな単純に幸と不幸を単純に決めることはないんじゃないか、と思った。



今回、この1week企画公演を観て。
王子小劇場のあの椅子に座っている時とは、そりゃ違う。
私が大好きな、あの風圧を感じることはないし、大好きな受付スタッフの皆さんの笑顔に期待でバクバクしてる心臓を抑えながら、会場の椅子に座る、あの感覚はない。

なんとか無理やり特別感を出そうと買ったビールを片手に小さい画面を覗き込んでいた。



だけど、それでも、やっぱりそこには私が大好きなX-QUESTさんがいるのだ。

私は、クエストさんに出会った頃、「便利棒」の存在に痺れた。
あの刀にも槍にもなる、あの最高の小道具が私は大好きだ。
エストさんは衣装も小道具もどれも素敵だ。いつか、展示されることがあったら近くでじっくり観たいとずっとずっと思ってる。
でも、その具象的に作り込まれた小道具たちどって大好きなんだけど、それ以上に「便利棒」が好きなのだ。
役者さんのお芝居で未来にも過去にも、ファンタジーの世界にも海にも山にも、どんなところにでも行ける。私は、お芝居のそんなところが大好きだから。

そして、今回のモノノケオウジでも、そんなクエストさんらしさ、は溢れていた。
あるものを最大限に使い、色んな遊びや工夫を繰り返し。
カメラのアングルや見せ方、リンクする台詞。
それは、大好きなクエストさんのお芝居だ。


劇場公演ができないから、の代わりではない。
私は、その言葉に物凄く励まされた。励まされている。公演が終わって、1ヶ月が経とうとしている今も。



何が揃えば演劇かは分からない。でも私は、代わりでもなくて、私が大好きな「演劇」を観たんだ。
そう、ほんの少しの意地といつかへの楽しみを込めて、思う。