えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

恋はDeepに

恋愛ものが好きではないと思っていた。
その理由はいくつかあるけど、一つ、大きなものはハッキリしてる。恋愛ものは自分の中の地雷を思い切り踏まれる可能性が高いのだ。
その地雷とは「私と仕事、どっちが大事なの」というそれである。
定番といえば定番だけど、この展開、まじでしょっちゅう出てくる。仕事、の部分は他のものに置き換えてもいい。
とどのつまり、ヒロインにしろヒーロー(って言い方でいいのか、いつも迷う)にしろ、自分と相手にとって大切な何かを天秤にかけ、自分への愛情を確かめようとする展開が苦手なのだ。直接聞かないまでも本人の中で「私より○○の方が大事なんだ…」と拗ねたり落ち込んだりするのもかなりグレーゾーンだ。
それでどんだけ感情移入して見ていようがうっせー!!!!!とちゃぶ台をひっくり返してしまう。


そもそもそれ比べるべきものじゃなくない?とイラッとしてしまうし、そうなるともう、別れろ別れろ!と暴れ回ってしまうので、以降の物語に集中できなくなるのだ。



しかし、今期ドラマあるいはそれ以外でも観ている映画・ドラマを振り返ると意外に恋愛ものを観ていたし、好きな作品もかなり多い。
さすがにこうして今期の恋愛ドラマを楽しんでいるともう「恋愛ドラマが嫌い」は成立しないだろうと思った。
そうか、きっと、私はなんだかんだ、恋愛ドラマが好きなのか。多分その中で好きなものと苦手なものがあるだけで。


それをハッキリ認識できるようになったのは、今期様々ある恋愛ドラマが一つのものを描いているように思うからだ。




そのテーマとは「違うのに好きってなんだ?」ということだ。
人が人に惹かれる時は色んなきっかけがある。例えば「私とあなたはこんなに似てる!」ってことだったり。
と言いつつ、実際、相入れないからこそ燃えるってことだって昔から言われているしこのテーマは何も今回に限ったことじゃないかもしれない。まあ、それはそれとして。少なくとも、私は今期のドラマたちを通して、そんなことを何度も何度も、考えた。
前提として、嫌な言い方をすると他人といるっていうのはリスクがある。傷付くリスク、がっかりするリスク、そして傷付けるリスク、がっかりされるリスクだ。
それでも、一緒にいたいと思うこと。そしてそう思ってもなお、違うこと。


そして、恋はDeepにはその「違う」をひたすら突き詰めた話だ。
海を守りたい渚海音、海にリゾートを作りたい倫太郎。価値観も違う、やりたいことも真逆、ついでにいえば、種族も違う。
そんなふたりが、惹かれあっていく。



ところで、私がこの通称恋ぷにを楽しみにしていたのはもう一つ理由がある。

MIU404完結後、ゲスト出演をしていた菅田将暉さんのオールナイトニッポンがあったからだ。
その放送内で、綾野剛さんは「ラブコメをやってみたい」と口にされていた。
今までも恋愛ものをしてきたけど、どちらかというと重たい話が多く、もっとそうじゃなくて、フレンチキスをするようなラブコメがやりたい。
正確な言葉じゃないが、そんな話をされていた。
私は、それを聞きながらわくわくした。たしかに、綾野剛さんが「ラブコメ」という世界をどう生きるのか、興味があった。



私にとって綾野剛さんは、愛の人だ。
しかもそれは愛が綺麗なものだからということではなく、なんというか、もっとずしりと重たい。でも、それはもちろん嫌なものではなく誰かに押し付けるものではない。ただ一本大きな木を見つめるような気持ちになる。


この間、コウノドリの感想の中でも考えていたけど、

いつかじっくり自分の中の綾野剛さんという人を掘り下げてみたくもある。
それはさておき。


重たいドロドロとした愛ではなく、フレンチキスが似合うようなラブコメを生きる綾野剛さんはどんな姿だろう、どんな表情をするんだろう。とても、楽しみだった。
だって、命懸けの極限の状況になくても、人は人に惹かれる(そしてそれは、私たちの日常と地続きでもあるし、奇跡でもある)
そこに生きる綾野剛さんの姿はきっと、すごく好きな気がしていたのだ。


そして、実際「ラブコメ」である恋ぷにの中で生きる綾野剛さんはとても魅力的だった。
全力で、海音に惹かれ、好きだと表現するところも。それを伝えることも。
あのキッチンでわかめを食べるシーンが大好きだったんですよ。
好きだから、理解したい。同じことを経験してみたい。

それでも、ふたりはそれぞれやりたいことを譲ったりはしない。そこが、ともかく、好きだった。
でもじゃあ一緒にいるために、どうしたらいいのか。試行錯誤する。その中で相手を知ろうとする。
(もっとも、正直その描写がもっと双方向的で丁寧だったらより好きだったなあとか思わないところがないわけじゃないけど)(どちらかと言えば、倫太郎からの歩み寄りが多かったし)
私と○○どっちが大事なの?なんてことは彼らは言わないのだ。だって、どっちも大切だから。


ところでラブ"コメ"ってなんだ。
ブコメディということは分かる。そして私はコメディが大好きだ。
だけど、ラブコメって、実は結構難しくない?と思うのだ。
恋ぷには荒唐無稽な設定も多く、ある意味でそれを「真剣に」演じすぎた、重く演じすぎたから面白くなかったんじゃないか,というのを考える。
でも、たぶん、私は真剣だったから、好きだったんだよなあ。
もちろん、ツッコミは入れてたけど。でも、誰も彼もが真剣で、恋心にしろ彼ら自身の持つストーリーにしろ、心の底から信じて向き合って、物語は進んでいたように思う。私は、それが好きだった。



だって誰かをまっすぐ、恥ずかしいくらいに好きだと思うことはすごく、素敵なことじゃないか。



成功作!と言われるとうーんと正直返してしまうけど、駄作!というには、彼らに愛情を感じてて、それはまあ確かにキャストが好きだからというものもあるけど、でも、それだけじゃないと思うんだよな。なんなんだ、これ。これがぷにってやつなんですか。

大豆田とわ子と三人の元夫

会って話せたらいいのに。
考えても仕方ないのにそう思う。今期のドラマは本当にどれも「他人と私」を描くのがとても丁寧で、だからこそそれを羨ましく、眩しく感じるたびに思う。
会って話せたら、きっと。
目を見て、あるいはその人の呼吸を感じたりしながらなら、きっと寂しくない。実際そんなわけもないし、今とは違う寂しさがくるだけだと知っているけど、それでもむしろ知っているからこそ、ならその寂しさが今は恋しいと思う。


三人の元夫。
そんな印象的な言葉が、タイトルに入っていた。坂元裕二作品に、今期が始まる前、Tverで配信された過去作を観たことをきっかけに惹かれた私は、やはり、この『大豆田とわ子と三人の元夫』を楽しみにしていた。


さて、私はもともと、坂元裕二作品に対して面倒なコンプレックスを拗らせてしまってるタイプだ。

この『大豆田とわ子と三人の元夫』そして『コントが始まる』を観て、「"いま""私の目で"ちゃんとこの作品を観たいぞ…!」と震えながら行った『花束みたいな恋をした』の感想ではそんなコンプレックスを爆発させたりもした。


しかし、私は、そんなコンプレックスに焦がれることも含めて、坂元裕二作品が好きなのだ。
私がどうあがいてもなれない姿を羨ましく、愛おしく思いながら、とても綺麗で素敵だと思う。どこか、浮世離れしてるようにも思うし、生々しい生活を感じることもある。
いやむしろそんな生活を感じるのに浮世離れしていることが、羨ましいのかもしれない。



このドラマは、毎話冒頭、ナレーションによって「今週こんなことがあった」と始まる前にハイライト的に紹介が入る。
そのせいか、出来事それぞれの印象が強く、
私としては一連の大きな流れのような物語というよりか、"大豆田とわ子"という人の日常を垣間見ていたような感覚がある。


つまり、何か大きな起承転結というよりかは断片的な思い出のように感じるし、その中で人間関係が動いて、というより、
とわ子と○○さん、の瞬間瞬間があっただけだ。
だからこのブログでの文と大きく矛盾するけれど、
心を揺り動かされるというより、友人の話を淡々と聴いてる、そんなこの3ヶ月だった。

もちろん、その中でも印象的に残った言葉もあるし、感動したことも、嬉しくなったこともあるけれど、
やっぱりそれは「物語」への感覚というよりかは、友人からの又聞き、のような感覚が私の中ではしっくりくる。



そんなわけで、先週まで私はきっと、このドラマについてブログは書かないだろうと思っていた。
感想はあれこれとツイートしていたけれど、
このブログに書くような「私とドラマ」の楽しみ方とは違っていたし、
私がこのドラマの中で何を思ったか、というのは少し、違ったのだ。
それに最初に書いたとおり、私は坂元裕二作品に対してコンプレックスを抱いている。それはどうあっても「こうなれない」と作品やそこにいる人物たちに感じているからだ。
こうなれない、というとちょっと語弊があるか。


どこか、違う世界のお話として楽しんでるからという方がしっくりくる。

だから異国のお話としてのワクワク感こそあれど、自分の中の変容というのはちょっと違うのだ。




ところが、6月15日放送された最終回。
観終わって、言葉にしたくなってしまった。
それは、翻って私とドラマ、「私と大豆田とわ子と三人の元夫」という世界の見え方に変わったからでは無い。
相変わらず、この物語はどこか異国のようにも思える。だけど、そこにいるのは、同じ人だ。
そうなんだよ、なんか、勝手に線を引くみたいに異国のお話なんて表現しちゃったけど、そうだよ、どうあっても、どこまでいっても同じ人だよ。
思想だとか行動原理が違おうが使う表現が違おうが、そうじゃん。


そんな風にぐりんと目がひっくり返った瞬間がいつだったのか、私には自信がない。
マーちゃんのシーンだったのか、それともお父さんのシーンだったのか。あるいは、三人の元夫のシーンなのか。その全てなような気もしている。

人はひとにラベリングしながら生活している。友達、家族、恋人、同僚。
しかし、もしかしたら、そんなラベリングはなくてもいいのかもしれない。
そんなことを思った。
網戸をなおすのは「夫」かと思ったらそうじゃなかった。
そして、TLを大きく揺るがした"マーちゃん"だってそうだ。


思い込み、あるいは時代で「浮気をしているとしたら、男性」と思ったこと。
恋人、ではなかったこと。


それはまず前提として時代だとかの価値観もあったんだと思う。なんなら、今ですら「男性だ」と思い込んでいた自身の視野の狭さに呻いたりした。
だけど、それだけではなく。単に、恋人、という枠にふたりはお互いをおいただろうか、とも思う。



なんか、私はそう思いたいのだ。
ラベリングから外れた相手だったり、ラベリングする気がない相手だったりそういう人たちが。ただ相手の名前と自分の名前だけがある間柄で、でも君が大切なんだよ、幸せになってほしいし、笑ってて欲しいんだよ、と思うこと。
それは、なんだか、とても好きなものの気がするのだ。


そして、よくよく考えると、大豆田とわ子をはじめとするあの作品に出てくる人たちは、私にとってそんな人たちな気がする。
なかなか人に会えない今、毎週賑やかになのに淡々と色んな出来事を話して聞かせてくれた人たちのことを思う。
うん、そうだな。私は、君たちがとても好きなんだよ。

コウノドリと綾野剛というひと

出産は、奇跡だ。
奇跡だけど、それは幸福を約束することではない。


コウノドリをシーズン1、シーズン2と見終えた。視聴を始めたのはMIU404が終了した直後くらいからだったから全て見終わるのにずいぶん時間がかかってしまった。
ペルソナという産婦人科を舞台にさまざまな出産を描くこのドラマは、なんせそこそこ、1話観るのにも覚悟がいる。
それもそのはず。1話にて柔らかな綾野剛さん演じるサクラのナレーションが告げるように、出産とはそれ自体がとんでもなくハードで、生まれてくることそれ自体が奇跡的であり、更にその上、本当に大変なのは生まれた後なのだ。もうなんというか、ハードル設定が高すぎる。
産むことも命懸け、育てることも命懸け。そんな理不尽!と叫びたくなる複雑怪奇、とんでもない難易度の営みを私たちは続けている。


だから、当然、いつもが奇跡が起こるわけでもない。産まれる、と信じ祈っても叶わないこともあるし、せっかく奇跡が起きても、その生命が早々に失われてしまうこともある。
またその上、心ない言葉や出来事も当然あって胸が塞がれるような気持ちになる。


命は尊い、なんて綺麗な言葉で覆えないくらいの悲しみや苦しさがそこで濃く描かれていく。
だから、放送当時高視聴率だったというドラマではあるが、周囲にはコウノドリを観るのが辛かった、という人もいるし、
私もあまりにもしんどくて寝かしながら観ていた。



土井監督は人間を嫌いなのではないか。
そんなことをふと思う。コウノドリをはじめ、罪の声、花束みたいな恋をした、とこの短期間に、図らずもいくつか作品に触れて、触れるたび、え、土井監督、人間のことお嫌い…?とざわざわする。


だって容赦がないんだもの。


綺麗な映像とともに描くのは在りのまま、だ。良いことも悪いことも、幸せなこともどうしようもない不幸も、そのまま、本当にまっすぐ、描く。
と、思いながらシーズン2の四宮先生の台詞を思い出した。産後うつに陥り、死を考える患者にあなたの気持ちは分からないとはっきりと告げる、そのシーンが私は大好きだ。
そして、四宮先生は言う。これは俺のわがままです、と。


「治療できるかもしれない患者に、最後まで手を尽くしたい」


幸せでいてほしいとかせっかくあの出産を乗り越えたんだからとか、苦しいのを分けて欲しいだとか、そんな、柔らかな感情、優しさではなく、あなたはまだ治療で良くなる道があるかもしれない、という事実だけを伝える。


四宮先生は、過去の「救えなかった患者」の経験から、全てをただ「母親と子どもを医療で救う」ことに振り切らせている。患者から好かれることを望まず、その余力があるなら全て安全な出産に向ける。そこから先の子育て、に医師として関われることがほとんどないからこそ、なおさら、手の届く範囲は全て、医療を持って手を伸ばそうとする。
シーズン2は、切迫した自分を削ってでも、という角が取れ、柔らかくなったけれど、それでもその分強かさが生まれたようにも思う。迷わないのだ、彼は。自分が守りたいもののために。


なんか、土井監督も、そうなんじゃないか、と思った。
というと、あまりにも感覚の話になってしまい、伝わるのか分からない。
だけど、そこに当然、それぞれの思いはあれど、それはそれとして、目の前のものを描く。
目の前のもの、と言いつつそこはフィクションなんだけど、でも、たしかに人が演じ、支える中で生まれる事実はあるはずで、
土井監督は、そこをただただ、真っ直ぐ見つめているようなそんな印象を受けるのだ。



命が生まれるといういくらでも美しい「幸せな話」と描ける場面で、あるいは、生きるという「残酷な話」の場面で。
過剰に"そう"である、と描かない。だからこそ、私はそう感じたのかもしれない。



ところで。
コウノドリの話をする上で、私は綾野剛の話をせずにはいられない。
どの役者さんも(それはペルソナメンバーだけじゃなく、登場する患者やその家族も含めて)魅力的なのはもちろんながら、中でも、綾野剛という人のこの物語中での存在感は、凄まじい。
鴻鳥サクラという人が主人公だからというだけではなく、私がサクラから受ける印象と綾野剛さんから受ける印象がかなり近いからだと思う。(と言いつつ、いわゆる憑依型、と称される彼のお芝居は毎度、その人そのものに見えるんだけど)(この"憑依型"って表現とかでもろくろを思う存分回したい気もするけど、それはまたいつか)


私がコウノドリを思い出す時、必ず一緒に思い出すのは「怒り」という言葉だ。


それを、私はシーズン2の公式ページ、綾野剛さんのコメントで見つけた。

前作もそうですが、サクラが生きているうえで一番大切にしている感情があります。
「怒り」です。
もちろん怒りが一番手になってはいけません。優しさが一番手で二番手に怒りがあると思っています。


この一年、何度か綾野剛という人のお芝居を観てきた。
愛が1番大切だ、と言い切ったMIU404の鼎談を観た時この人はすごいな、と純粋に驚いたことを覚えている。

いや、愛はそりゃ紛れもなく大切だしそういう言説って世の中に溢れてるし、エンタメの多くはそんなことを描くけれど。
でもなんかこう、無理してる感だったり、あるいは本心から言っててもそこにそんな自分でありたいから、とか、そう言う必要があるから、とかが滲むものだと思ってた。なんなら滲んで良いと思ってた。


そして私はなので、愛が大切と言い切られるとおん…と受け取るかどうかのジャッジに入っちゃうタイプなんだけど、綾野剛さんのその回答はガードする間もなくすとんと自分の中に落ちてきた。そしてそれが一切不快じゃなかった。



なんとなく、その理由を鴻鳥サクラを見ながら分かったような気がしたのだ。



鴻鳥先生は、いつも優しい。柔らかく、患者さんに接する。赤ちゃんを観て柔らかく微笑む姿とか本当に綺麗だなあと思う。
ただそれは、何も知らない無垢ではない。その手が万能ではないことを知り、それにもがき、傷付いて、その上で決めた笑顔だ。

この一年、様々なことがある中で、きっと制約や許せないことをたくさん目にしてきただろう綾野剛さんは、それでも繰り返し、エンタメを愛情を込めて届けようとした。
あなたに届きますように、と祈るように。そして、愛が一番必要だと、それを心の底から信じていると。
その二番手にあったのもやはり、怒りなんじゃないか。
そんなことを、赤ちゃんとお母さんのためにもがく鴻鳥先生を見て思う。
うまくいくことばかりではない、そこに幸せや優しさだけがあるわけでもない、それでも、おめでとうと生まれたら口にし、君を待っていたと微笑む。



それは、もしかしたら生まれたからには在りたい姿であろうとする意地にも似た何かなんじゃないか。


無力感や遣る瀬なさに打ちひしがれるつもりもない。手を離すつもりもない。
優しい鴻鳥先生は、誰よりも、意志が堅いと思う。
生まれてきた不幸すら蹴散らして、絶対に幸福にひっくり返すという、そんな彼が私は好きだった。



生まれてくることは、幸福を約束するわけじゃない。
生きていくことは、苦しくて、そして生まれたその後の方が長い。だけど、それでもやっぱり、出産は奇跡だ。

マスターピース 〜傑作を君に〜

「劇場のパイプ椅子って、長く座るとお尻が痛くなるんです。だから、観てる間そんなことを忘れられるお芝居が作りたい」
どこかにメモしていたわけじゃないから正確な言い回しじゃないかもしれない。
だけど、私が森崎博之という人を好きだと思った理由の全部がこの言葉に詰まってる気がする。なんなら、NACSの芝居が好きだというのを突き詰めるとこの言葉に行き着くのだ。




以下、ネタバレを含めた感想です。


スターピース 〜傑作を君に〜
NACS第17回本公演。
物語はある戦後まもなくの温泉宿で繰り広げられる。
三人の作家にサブプロデューサー、それから温泉宿の湯番をする男。
この五人に共通するのは映画が好きだというその一点である。この五人でまだ誰も観たことがない傑作を生み出そうとする。


傑作を生み出そうとする、とは書いたが彼らの執筆活動の中に「鬼気迫るもの」はない。
天才たちの傑作を作るときに伴うようなそんな気迫はなく、むしろ、酒は飲むし温泉には入るし散歩にも出掛ける。
凡人が天才に追いつくためにただ必死になるわけではなく、なんなら天才のように自身を追い詰めることもできず、ただただ時間を過ごす。
でも、じゃあ、やめられるかといったら、やめられるわけがないのだ。



安田顕さんが演じる乙骨は書いても書いても、書きすぎて倒れても、その作品が映像として完成したことがない。
映画とは、シナリオだけで成立するわけじゃない。スタッフの手に渡り役者の身体を通し、それから観客のもとに届く。だけど、乙骨の心身を削るようにして生み出した作品はそこに行き着くことなく、どこにも行き場がなくなってしまう。
その心境を想像するだけで、心が苦しくなる。
そんな地獄のような日々を過ごしても、筆をおくことができない。おきたくない。




私はまず、彼らの映画を作りたいと話す顔が好きだった。そしてそれを喜ぶそれぞれが好きだった。
彼らはそれぞれに、相手の「映画が好きだ」とはしゃぐ、あるいは熱を込めて語る姿に本当に嬉しそうにするのだ。


そして、明るく陽気な彼らも、実は戦地では死線をぐぐり抜けた人々である。
満州をはじめ、それぞれに「厳しい」戦地で生きるか死ぬかの狭間を掻い潜り今、温泉宿で脚本を描いている。
生き残れたのは運を使い果たしたからじゃないか、と明るく笑う姿は逆に、そこにある壮絶な時間を思い起こさせる。
生き残った理由は、面白いものを作るためなんじゃないか。そういう彼らが私は、本当に好きだ。



温泉宿に集まった五人は、決して天才ではない。
天才ではないどころか、中には志半ば、筆を折り役者を辞めた人もいる。
そして書き続けてる人も書けなくなっていたり、真面目過ぎてこん詰めてにっちもさっちもいかなくなったり、あるいは関わる企画関わる企画がことごとくダメになり一度も日の目を見たことがない人がいる。
それでも彼らは作るのをやめられない。
いや、実際には酒を飲んだり枕投げを始めたり温泉に入ったりするからやめてると言う人もいるかもしれないが、でも、やっぱり、彼らは映画を好きだと言い、誰も観たことがないような、あの巨匠黒澤明も唸るような傑作を生み出そうとするのだ。

彼らの好きだという言葉に嘘はない。
そこに真っ直ぐにしか進めなくても、あるいは貫けなくても、「こうあるべき」なんて正しい道が見えなくても、ただただ、好きなのだ。
どうしようもなく。



だから、たとえ書くことから逃げても、あるいは書くことに正面から向き合いすぎてつまらないとしても
それでも、彼らの「傑作を作る」という気持ちは本物なんだと思う。



スターピースは、コメディだ。
わりとずっと、バタバタと賑やかにバカバカしい話が繰り広げられる。もちろん、その中に散々ここまで書いたような「グッとくるやりとり」はある。あるんだけど、それ以上にずっとバカバカしいのだ。
そして、それを彼らの本拠地である札幌で観たせいだろうか。なんだか、変に気を張ることもなく、まるでお茶の間で見るような「当たり前」の気楽な笑いがそこらじゅうに溢れているような気がした。
なんだか、私はその空気の中で気がつけばけらけらと笑っていた。



別に、何も変わらない。
誰かが成長することもない、黒澤明を唸らせるような傑作も生まれない。
足りないまま、うまくいかないまま、時間は過ぎる。


でもなんか、それでも良いじゃん。
感動して胸を震わせるような物語だとか人生を変えるような啓蒙的な内容だとか
それだってまあもちろん、素敵で素晴らしいものだと思うけど。
そうじゃなくて、意味だとかそんなことよりも楽しそうで楽しくて気が付けば2時間げらげら笑ってた、みたいなそんな光景にだって、
私たちが日常の中、置き去りにしてきた何かはあるんじゃないか。




エンタメは、世界を救わなくたって良いのだ。高尚じゃなくても、何かの為に存在しなくたっていい。


彼らの作る物語は、やがて本当に個人的な、些細な結末へと辿り着く。だけど、それが本当に愛おしかった。
小さな、本当に個人的な物語にだって、意味があるのだ。



ところで、マスターピースって素敵な言葉じゃないか。
傑作は、ただそれだけでは完成しない。一つのピースに過ぎない。あと何が必要かはもう、そんなの、一つだろう。

100SEASONS

三代目のライブに通った時間があった。
2019年に開催されたライブツアーRAISE THE FLAG。
初めて生で観れる(その前のUMPの終わりごろにLDHに出会ったのもあり、UMPはギリギリライビュで参戦していた)ライブだったことや、追加公演が続々と発表されたこともあり、
自分でも驚くほど、そのライブを観るためにあちこちに行った。
当時住んでいた大阪の京セラはもちろん、福岡、名古屋。
各地に思い出ができて、京セラも私の中ですっかりなんだか観ると安心する建物になった。



そんな日々が今はもう随分遠い。
去年の今頃に比べれば、それでも格段にエンタメは戻ってきている。ただ、未だに私は彼らのライブを生で見れてはいないし、あの大阪の日(それはEXILEだけど)いえなかったおかえりは今後も一生、言うことはないだろう。次、がいつ来るか分からない。
(それでも映画やドラマ、身近である公演は行けてるので、贅沢言うなと言われれば本当にそれまでなんだけど)
それは私個人の話だけにとどまらず、世界全体がまた「元通り」から一歩遠のいたような雰囲気に包まれている。
もうそろそろ、元通り、を諦めて忘れてしまった方が楽になる頃合いなのかもしれない。



ともかく、そんな中で発表された三代目の新曲を私はなんとなく聴くタイミングを逃していた。
流れてくる評判にいつかの「明日」を約束してくれる曲なんだろうと悟ったから尚更、手を出せなかった。
のだけど、機会があって曲を聴き、書きたくなったので書く。





柔らかな光の中で、たくさんの額縁が下がっている空間でツインボーカルであるおみさん・隆二さんが柔らかな歌声で歌っている。
そしてパフォーマーの彼らが人々の生活にそっと寄り添う。


最初に響いた歌詞は

君からのメッセージ 指先で小さく贈るハート

というワンフレーズだった。
Instagramのいいね、をクリックすると可愛らしく赤くハートが瞬くし、
最近じゃTwitterもハートがぱちぱちと光る。


いいね、は時に承認欲求のモンスターみたいに揶揄されることがあるけれど、
それでも、好きな人に贈るハートはそんな化け物みたいに言われることではないと思う。
そして好きな人から贈られるハートにはほんの少し、いや結構にこにこと嬉しくなったりする。


SNSは、人と気軽に会いにくい今、重要な"ひと"を感じるためのツールなのだ。
もちろん、それは人によっては眉を顰められるような、SNSとリアルな人間関係は違うよともう1000000回聞いたような嗜めを受ける「若者感覚」なのかもしれない。



それでも例えばいま、だらだらと無意味に友達とお酒を飲んで話したりとかそのまま寝落ちたりとか
ちょっと良いカフェ見つけたからケーキセット食べない?とか
会った時のハグとか

そういう一切が「しない方がいいこと」になるなら、文字と少しの画像を使っての誰かとのシェア、をコミュニケーションと呼びたくなっても、良いじゃないか。


そういえば、三代目J soul Brothersの楽曲『Summer Madness』では

そのケータイのカメラじゃきっと写りはしない景色がこんなにも
世界には溢れている

と歌っていたし、

『RAISE THE FLAG』では

スライドされていく画面越しの
HYPEBEASTじゃ掴めない

と歌っていた。
なんだか、その彼らが画面越しのハートを「贈る」と表現するのは素敵じゃないか。



いやなんだろう、きっとこれは私の受け取り方の話で、もしかしたら少しズレているのかもしれない。
実際、この曲の後に続くフレーズでは、
肌身や温度感を伴っての生活への恋しさを歌っているし
既読もつけずに過ごしてたりもする。


それはやっぱりSNSじゃ満たない、と言ってるというよりかは、そこにある時間や思いを優しく肯定しているように思えるのだ。


MVの中で、様々な人の"生活"が映し出される。家族や恋人、友達と過ごすその時間はSNSで切り取るには何気なかったり、
大切な時間だとしても、それは「特別」とは少し違う。
きっと日々の中に埋もれていく時間だ。


ライブに行く時の高揚感とか、ちょっとお洒落したいって気持ちとか、
あと何日って指折り数えるその先にある大好きな「特別」ではない。
この一年と少しの間にかろうじて残った「日常」だ。


その景色を、三代目の彼らが優しく見ている。
見てはいるけど、干渉しない。そして見られている「私たち」は彼らの存在に気付かない。



ライブが戻ってきた時、自分たちのことを覚えてくれているだろうか。



そうLDHの誰かが言っていた。
ライブがなくなったとき、私たちだって会えなかった寂しさがあったけれど
それ以上に自分たちの「強み」を活かせなくなったと思った彼らがどれだけの不安と一緒にいたんだろうかと思った。
人気商売、というシビアで道らしい道のない場所にいる彼らにとって「自分たちの武器」である「ライブ」をできないこと。
もちろん、LDHの活動は多岐に及ぶ。音楽やアパレル、バラエティ、役者業。色んなことを彼らは手がける。それでもそれら全ての根っこにはライブがある。歌とダンスで作り上げる彼らにしかできないエンタメがある。


そのライブがなくなった時、自分たちがファンの中からいなくなった、と思うことがあるかもしれない。
そんなことをふと、ただ人々の生活を見つめる三代目の姿を見て思った。その想像は、わりと苦しい。心臓がギュッとする。
それでも、柔らかな歌声に思う。



三代目を好きになって、振り返って過去の曲を聴くと昔の思い出の中で彼らの曲を耳にしていたことを知った。
大ヒットし、彼らの運命を大きく変えたR.Y.U.S.E.Iはもちろん、C.O.S.M.O.Sや花火は大学時代のバイト先でしょっちゅう流れていた。あまりにもよく流れるからサビくらいは口ずさめるくらいに刷り込まれていた。
そしてそのメロディは聴くと当時の会話や光景を思い出すスイッチになったりする。


もっと言うと、好きになって以降聴いた曲にはさらに鮮明に思い出が詰まっている。
何回も聴いたり観たりしたEeny, meeny,miny,moe!を聴けば、カラオケで飲みながらきゃあきゃあ騒いだ記憶が蘇るし、
Rat-tat-tatを聴けば自然と身体が踊る。



show must go onとはいうけれど。
当たり前の約束は、いつでもなくなる。ずっとあると思った毎日の幸せは、実は結構脆かったりするのだ。
mustなんていっても、いくらでもぐしゃぐしゃに握り潰されてしまう。

だけど、ライブがない中でも、何気ない一瞬に、彼らの音楽や存在がある。見えないくらいささやかでも触れ合っていなくても。



恋しい、あなたに会いたい。
そう思うことで、自分にとってなくなったそれがどれだけ大切かわかった。
ライブが当たり前で、何度も色んなところに通った日々が遠くてそこに帰る方法も分からない今、時々あえて遠くに好きを置きたくなることがある。
実際、会場いっぱいに人が入ったライブ映像を観るのがしんどくて観るのをやめていたこともある。今でも、「行けない」ということを直視したくなくて、そのために彼らのことをまるごと考えないようにする日だってある。



それは、もしかしたら不誠実だと言われるものかもしれない。
それでも今回、曲を聴いて相変わらず好きで大切でそれは「変わらない」と言っても良いんじゃないかと思った。
そしてああ、手を離しちゃダメだ、と思った。
どんだけ些細な繋がりでも、薄いように見えても、何があっても、手を離しちゃダメだ。
音楽を聴いたり可能な限り何か彼らの活動に触れられるように手を伸ばしたい。できるかぎりにしか、ならなくても。



そして、それでもそんな会えない時間を憎みたくはないのだ。画面越しでしかない触れ合いを「意味がない」と切り捨てたくもない。足りないといってしまいたくだってない。



会えない時間が愛を育むだなんて手垢にまみれた話なんかじゃなくて、
今もこの瞬間も変わらず好きで、彼らは歌い踊っている。
同じ時間を、毎日を生きてるのだ。
だとしたら十分、それは愛するに値するし、いつかその毎日は季節を重ねて、待ち合わせの明日に辿り着くだろう。

加々美と人生の主役の話

加々美のことを、考えている。
加々美とは、昨年放送されたMIU404の第2話の登場人物だ。
その前に放送されていたスカーレットで目を引いた松下洸平さんが演じたということもあり、思い入れも大きい。
だけど、役者さんがという以上にあの「加々美」という人物が私にとっては忘れられない、わりと頭の片隅の容量を大きく占めるのは彼の持つ「物語」のせいなのかもしれない。



友人と、去年MIU404の話をした時、2話を観るのは体力を使うという話になった。
大好きだし良い回ではあったけど、それはそれとして体力を使う。加々美を観るのがつらい。
頷きあいながらそんな話をした。



「なんで自分(の人生)はこうなんだろうか」



新人、若手という可能性の言葉から遠ざかれば遠ざかるほど、頭を過り出す。こんなはずじゃなかった。普通に生きれたら良かった。高望みをしたわけでもズルをしたつもりもない。
なのに自分はどうして"こう"なんだろう。
どこでいったい、"間違えた"んだろう。


松下洸平さんの芝居が真に迫るのもあって、私はMIU404の2話を観るたびに、その思考の渦に飲まれそうになる。
そして作中、加々美はその渦に飲まれたまま、押してはいけない「スイッチ」を押してしまう。
そうして、その原因を自分以外、それも自分ではどうしようもなかった「親」に求め出す。
間違えたスイッチを私はまだ押してはないけれど、その苦しさや苦さはまざまざと自分の中に残った。
だからこそ、私の中で2話は観るのに体力のいる、しかしとても思い入れのある回になったのだ。


そしてこのあいだ、また別の初見の友人とMIU404を観る機会があった。ドキドキしながら、感想を聴きつつドラマを観るという贅沢な経験は様々な楽しさがあった。
その中でも、2話は想像だにしなかった経験になった。

爽快に加々美に怒る友人の反応を見ながら、目から鱗が落ちるような気持ちになる。
そ、そうか、怒るというリアクションもあるんだな…!


それは、私だけでは起こり得ないリアクションで物凄く面白かった。
そして、そんな反応や考えを聞きながら考えた。



加々美は、自分の人生を生きていたんだろうか。



人のせいにするな、ということを考えていた。どうして、自分の人生はこうなのか。どこで間違えたのか。そう問い続ける中で「自分は悪くない」という理由を探してしまう。
だけど、そこで他人を理由に挙げれば挙げるほどもしかしたら自分の人生の主人公の座を譲っていってしまったのかもしれない。


自分の人生のけつを持てるか。
責任を取れるか。それはつまりは自分の人生を生きているか、ということだ。


自分の人生が悪くなっていく、あるいは自分の人生は良い人生ではないと思うこと。
それはきっと自分が主役から外れれば外れるほど大きくなっていく。誰かに対して押し付けた責任が結果的に、自分をその主役の座から引き摺り下ろしてしまったのかもしれない。




いつなら満足できるのか、ということをよく考える。
例えば私は所謂"推し"に対し、「負けねえ」と口にする。それはともすれば、そもそもお前は同じ土俵にも登ってないくせに何を言ってるのかという荒唐無稽な話かもしれない。事実、時々嗜められもする。
だけど、それでも毎度、好きな人に出会うたびに負けるかコナクソ、と思う。極端な話、自分が何をしようとしてるかに関わらず、更に言えば、同じフィールドに立ちたいと思ってない分野の人に対しても、だ。
勝ちたい、というよりも負けたくないんだと思う。推しの方がすごいと一方的に押し上げてしまうことは、私の価値観をもって話すと違和感という言葉になるのだ。


同じ人間じゃんか、と思う。


分かってる。とんでもなく素晴らしい才能や人間性、努力に知識、経験を持っているひとを、「同じ人間」と括るのはいささか乱暴だろう。冷静な私は確かにそう、ツッコミを入れている。それでもなお、いやいや同じ人間じゃんか、と思うのだ。
それはたぶん、私にとって人生がイコールで物語であり、かつ生きてるそれぞれが主人公に思えているからだ。
もしも、より面白い、誰かを楽しませることを良い人生と呼ぶのだとしたら。そんなことを妄想して日々過ごしてる私にとって、どんな人だってそれぞれ生きてるだけで同じフィールドにいる。


しかし、そういう言動を続けていれば心配もされる。ただの社会人で、特に面白くもない特殊でもない仕事をして、何かを表現しているわけでもない。せいぜい、こうしてネットの片隅で益にもならない文を書いているだけだ。そんな中で自分を火にくべて「物語」を作ろうとするなんて誰も求めてないし、意味もない。ただただ、しんどいだけだ。
そんなしんどい、というか無謀なことしなければ良いと思う。言われる。でも違う、私はそうしたい。
そんなことしなくても人生は素晴らしいという言葉は、とても素敵だ。でも私の中でまだ実感として落ちてきてない言葉だから、他人の言葉を借りて尤もらしく納得するわけにはいかないのだ。
何者かになりたい、という言葉からも少し擦れたきっとその「何者かになりたい」と「そんなことしなくても人生は素晴らしい」という言葉の間の言葉や意味を探してる。
それが、私が描いている物語の主人公らしい歩み方なのだ。
誰かに借りた尤もらしい言葉ではなく、最終的にありきたりな言葉になったとしても「自分の手で見つけた」と思える言葉を探し続けなきゃいけないし、そうしたい。


にしたって、そうやって主役の座にしがみつこうとしても譲っても蹴落とされてもしんどいのはさすがに人生のバグな気がするんだけど、そこんとこどうですか。
まあでも、そんなバグがあるならあるで、ある前提、やりたいようにやるしかないか。



加々美は最後、「加々美」を見てまっすぐに届けられる言葉を受け取る。加々美の人生を加々美のものとして扱い続ける伊吹や、志摩から……そして誰より、あの夫婦から。
いや、夫婦にしろ加々美にしろもしかしたら最初は"代わり"だったのかもしれない。それでも、あの時後悔を口にした相手は、怒りを口にした相手は、失った息子でも怒りをぶつけることができずに勝手にこの世からいなくなった父でもなく、共に車の中で会話をした相手なのだ。
そうだとしたら、その時、彼は久しぶりに……もしかしたら、初めて彼自身の物語の主人公の座に座れたんじゃないか。そんなことを私は得意の感傷で願わずにはいられない。

コントが始まる 6話

こんなに内臓を焼きながら観るドラマがあるだろうか。毎週、呻き倒して観ている。


キャスト陣を確認した時点で楽しみで楽しみで仕方なく、またきっと観ながらのたうち回るんだろうな、とわくわくしていた。


コントが始まる。それは、土曜日という個人的には仕事で自分をミキサーにかけまくりしんどさでノックアウトされかけている曜日に放送されるドラマであり、それでもどうしても観たいとテレビをつけてしまう不思議な魅力に溢れたドラマだ。



このドラマは誰も彼もが魅力的だ。それは、登場人物たちが特異的な魅力、性質を持ち合わせているというよりかは、どこか「ああ私だ」と共感できるようなむしろ、平凡性……それはつまり、芸人として売れるという「特別」になれなかった人々だからだということもあるだろう。
だから私たちは、いや、私は毎話毎話、画面に映るいつかの誰かに心を寄せる。
そんな中、6話で春斗を見た時、不安が胸をよぎった。


5話の終わり、保留にされていたマクベスの解散がもう一度確定したものになり、それぞれが「終わり」へと歩き始める。中浜姉妹もまた、同居解消という「終わり」へ。それらは、終わりというよりも、「変化」という方が正しいかもしれない。
物語の中心は潤平と奈津美の話だ。芸人を辞め、結婚を考えるかと思われたふたりは一変、別れの危機に直面する。
何かがダメだった、というよりかは少しずつボタンがずれるというか、スイッチが押されてしまう状態。何かが嫌だというわけじゃないからこそ、危ういバランスでそれこそ「終わり」に傾いた状態。
このふたりの関係の描き方、展開もそれはもう最高で語り出したら止まらないのだけど、私がここで話したいのは春斗についてなのだ。



春斗はふたりが付き合う時も一役買っており、また今回もふたりがこれからも一緒にいるために行動する。


それは奔走する、という言葉を使ってしまえば途端にズレるようなそんな行動である。だけど、確実に1になる行動でもある。
大人になるなんて簡単なんだよ、という台詞に心を打たれながら、でも、やっぱりざわざわとした不安がずっとあった。
手放してくれるな、それは手放すのは簡単ででも、今……それはつまり、生活に飲まれ現実に負けて、いや同化していく「三十手前」の今、もう二度と手に入らないものだと春斗は言う。
それは、本当にそうで、でもほんの少し違うとも思う。
失くしたと思った青春時代の無邪気さは今も(マクベスの彼らと同世代の私の今)時々ひょっこり顔を出すし、
あの頃ただ無意味に消費していたことを考えると噛み締めているいまこそ、本当は手の中にあると言える気もしている。
そしてそれは何も私個人で完結する話というよりかは、マクベスたちの日々も、同じように続いてる、と思うのだ。


話がずれた。



春斗は、リーダーだ。
マクベスを作った張本人である。彼がお笑いをやりたい、と言ったからこそ、あの十年がある。もちろんそれは、ニ話で潤平も瞬太もそれぞれが言った通り「この選択は間違っていなかった」選択で、自分で決めたことだ。
だからマクベスの十年を春斗が背負う必要はない。一切ない。というか、背負おうとするのはふたりにとてもとても失礼だ。驕りで、傲慢だとすら思う。
それでも。
彼の言う十年を後悔してほしくない、意味があってほしいと願うことも、それを証明するために行動することも、「理解って」しまう。
それはある意味で、春斗が春斗の為にする自分の行動、だと思うのだ。



ところで、愛情は受け取りたい派ですか?受け取られたい派ですか?
愛されるよりも愛したいまじで、なんて曲もあったけど、私は数年前より延々と「愛情を受け取られることの幸福」についてろくろを回し続けている。
例えばHiGH&LOWのスモーキーについて語るときは「愛情を注ぐ先を持つ神様の幸福」の話をしたくなってしまうし、まあもちろんここではそれは割愛するけども(神様、と呼ぶことが正しいかのろくろを一旦止めつつ)つまり、愛情を注ぐこと、は、しあわせだと思う。


そして、春斗はもちろんお笑いもマクベスも大好きだったと思うけど、その上さらに、その場に愛情を注いで注いで、そうして時を重ねることがとんでもない彼にとっての幸福だとも、思えるのだ。
そうだとして、今の解散に向かって歩き出した春斗が潤平や瞬太のために行動する姿は最後に愛情を注ぐためのそれに思えてしまう。
もちろん、実際、彼らの付き合いはマクベスが終わっても続くだろう。一緒に暮らさなくても互いの存在はそれぞれの生活の中からなくならない。

でも、変わってしまうじゃないか、と子どもじみた不安が、私の中にある。

そしてその変化を「愛情を注ぐ」ことの変化だと感じてしまうのだ。マクベスという場を失って「友人」に戻った時、そこにはもう、愛情を注ぐ理由、は失われてしまうんじゃないか。


だとして。


春斗は、愛情を注ぐ先をこの先見つけることができるんだろうか。それは自分だったら物語として、あるいは人生として美しいのかもしれないけど、実はそれって、とても残酷なんじゃないか。


現在、コントが始まるはちょうど6話が終わったところだ。全何話の物語かは分からないけど、大体折り返し地点だというのは間違いないだろう。
終わりが決まってから物語はまだ半分ある。そう思うと、ここから私は何を見届けることになるのか、考えるだけでしくしくと胃が痛みだしそうな気持ちになる。
それでも。



青春の終わりは、どこにあるんだろう。
本当は、実は、どこにもないんじゃないか。
まもなく解散が決まったマクベスのコントの題材は日常の中にある。結末は、日常へと繋がる。
だとしたら、終わりなんて、ないんじゃないか。
それは彼らの笑う姿に何も終わるものなんてない、と思いたい私の願望でしか、ないんだけど。