えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

コウノドリと綾野剛というひと

出産は、奇跡だ。
奇跡だけど、それは幸福を約束することではない。


コウノドリをシーズン1、シーズン2と見終えた。視聴を始めたのはMIU404が終了した直後くらいからだったから全て見終わるのにずいぶん時間がかかってしまった。
ペルソナという産婦人科を舞台にさまざまな出産を描くこのドラマは、なんせそこそこ、1話観るのにも覚悟がいる。
それもそのはず。1話にて柔らかな綾野剛さん演じるサクラのナレーションが告げるように、出産とはそれ自体がとんでもなくハードで、生まれてくることそれ自体が奇跡的であり、更にその上、本当に大変なのは生まれた後なのだ。もうなんというか、ハードル設定が高すぎる。
産むことも命懸け、育てることも命懸け。そんな理不尽!と叫びたくなる複雑怪奇、とんでもない難易度の営みを私たちは続けている。


だから、当然、いつもが奇跡が起こるわけでもない。産まれる、と信じ祈っても叶わないこともあるし、せっかく奇跡が起きても、その生命が早々に失われてしまうこともある。
またその上、心ない言葉や出来事も当然あって胸が塞がれるような気持ちになる。


命は尊い、なんて綺麗な言葉で覆えないくらいの悲しみや苦しさがそこで濃く描かれていく。
だから、放送当時高視聴率だったというドラマではあるが、周囲にはコウノドリを観るのが辛かった、という人もいるし、
私もあまりにもしんどくて寝かしながら観ていた。



土井監督は人間を嫌いなのではないか。
そんなことをふと思う。コウノドリをはじめ、罪の声、花束みたいな恋をした、とこの短期間に、図らずもいくつか作品に触れて、触れるたび、え、土井監督、人間のことお嫌い…?とざわざわする。


だって容赦がないんだもの。


綺麗な映像とともに描くのは在りのまま、だ。良いことも悪いことも、幸せなこともどうしようもない不幸も、そのまま、本当にまっすぐ、描く。
と、思いながらシーズン2の四宮先生の台詞を思い出した。産後うつに陥り、死を考える患者にあなたの気持ちは分からないとはっきりと告げる、そのシーンが私は大好きだ。
そして、四宮先生は言う。これは俺のわがままです、と。


「治療できるかもしれない患者に、最後まで手を尽くしたい」


幸せでいてほしいとかせっかくあの出産を乗り越えたんだからとか、苦しいのを分けて欲しいだとか、そんな、柔らかな感情、優しさではなく、あなたはまだ治療で良くなる道があるかもしれない、という事実だけを伝える。


四宮先生は、過去の「救えなかった患者」の経験から、全てをただ「母親と子どもを医療で救う」ことに振り切らせている。患者から好かれることを望まず、その余力があるなら全て安全な出産に向ける。そこから先の子育て、に医師として関われることがほとんどないからこそ、なおさら、手の届く範囲は全て、医療を持って手を伸ばそうとする。
シーズン2は、切迫した自分を削ってでも、という角が取れ、柔らかくなったけれど、それでもその分強かさが生まれたようにも思う。迷わないのだ、彼は。自分が守りたいもののために。


なんか、土井監督も、そうなんじゃないか、と思った。
というと、あまりにも感覚の話になってしまい、伝わるのか分からない。
だけど、そこに当然、それぞれの思いはあれど、それはそれとして、目の前のものを描く。
目の前のもの、と言いつつそこはフィクションなんだけど、でも、たしかに人が演じ、支える中で生まれる事実はあるはずで、
土井監督は、そこをただただ、真っ直ぐ見つめているようなそんな印象を受けるのだ。



命が生まれるといういくらでも美しい「幸せな話」と描ける場面で、あるいは、生きるという「残酷な話」の場面で。
過剰に"そう"である、と描かない。だからこそ、私はそう感じたのかもしれない。



ところで。
コウノドリの話をする上で、私は綾野剛の話をせずにはいられない。
どの役者さんも(それはペルソナメンバーだけじゃなく、登場する患者やその家族も含めて)魅力的なのはもちろんながら、中でも、綾野剛という人のこの物語中での存在感は、凄まじい。
鴻鳥サクラという人が主人公だからというだけではなく、私がサクラから受ける印象と綾野剛さんから受ける印象がかなり近いからだと思う。(と言いつつ、いわゆる憑依型、と称される彼のお芝居は毎度、その人そのものに見えるんだけど)(この"憑依型"って表現とかでもろくろを思う存分回したい気もするけど、それはまたいつか)


私がコウノドリを思い出す時、必ず一緒に思い出すのは「怒り」という言葉だ。


それを、私はシーズン2の公式ページ、綾野剛さんのコメントで見つけた。

前作もそうですが、サクラが生きているうえで一番大切にしている感情があります。
「怒り」です。
もちろん怒りが一番手になってはいけません。優しさが一番手で二番手に怒りがあると思っています。


この一年、何度か綾野剛という人のお芝居を観てきた。
愛が1番大切だ、と言い切ったMIU404の鼎談を観た時この人はすごいな、と純粋に驚いたことを覚えている。

いや、愛はそりゃ紛れもなく大切だしそういう言説って世の中に溢れてるし、エンタメの多くはそんなことを描くけれど。
でもなんかこう、無理してる感だったり、あるいは本心から言っててもそこにそんな自分でありたいから、とか、そう言う必要があるから、とかが滲むものだと思ってた。なんなら滲んで良いと思ってた。


そして私はなので、愛が大切と言い切られるとおん…と受け取るかどうかのジャッジに入っちゃうタイプなんだけど、綾野剛さんのその回答はガードする間もなくすとんと自分の中に落ちてきた。そしてそれが一切不快じゃなかった。



なんとなく、その理由を鴻鳥サクラを見ながら分かったような気がしたのだ。



鴻鳥先生は、いつも優しい。柔らかく、患者さんに接する。赤ちゃんを観て柔らかく微笑む姿とか本当に綺麗だなあと思う。
ただそれは、何も知らない無垢ではない。その手が万能ではないことを知り、それにもがき、傷付いて、その上で決めた笑顔だ。

この一年、様々なことがある中で、きっと制約や許せないことをたくさん目にしてきただろう綾野剛さんは、それでも繰り返し、エンタメを愛情を込めて届けようとした。
あなたに届きますように、と祈るように。そして、愛が一番必要だと、それを心の底から信じていると。
その二番手にあったのもやはり、怒りなんじゃないか。
そんなことを、赤ちゃんとお母さんのためにもがく鴻鳥先生を見て思う。
うまくいくことばかりではない、そこに幸せや優しさだけがあるわけでもない、それでも、おめでとうと生まれたら口にし、君を待っていたと微笑む。



それは、もしかしたら生まれたからには在りたい姿であろうとする意地にも似た何かなんじゃないか。


無力感や遣る瀬なさに打ちひしがれるつもりもない。手を離すつもりもない。
優しい鴻鳥先生は、誰よりも、意志が堅いと思う。
生まれてきた不幸すら蹴散らして、絶対に幸福にひっくり返すという、そんな彼が私は好きだった。



生まれてくることは、幸福を約束するわけじゃない。
生きていくことは、苦しくて、そして生まれたその後の方が長い。だけど、それでもやっぱり、出産は奇跡だ。