えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

推しとか結婚とか人生とか幸せとか

※以下全文個人的な私による私のための文です。だからこれが正しい!ということではなく、あくまで私はこう思ったので残しとこーの文なのでライトにお読みいただけると幸いです。




結婚を祝えないと思っていた。



リアコだとか捻くれた結婚願望とか嫉妬心とかではなく、ただただ、自分は、星野源という人の結婚を祝う自信がなかった。
私が星野源という人に強烈に惹かれたのは志摩一未というMIU404の役柄が大きかった。そして、そこから出会ってきた彼の生み出す音楽や文に払いきれない寂しさや苦しさを見たからだった。



去年、どうして生きてるんだろうとぼんやり朝焼けを眺めてる日々があった。だからどうということもなく、延々とどうして生きてるのか、結局死ぬのに生き続けることのどこに意味を見出せばいいのか、というのをわりと真剣に考えていた。
そういうことを言うと「病んでる(笑)」と言われるのかもしれないけれど、むしろそんなつもりはなくて、空が青いなあくらいの当たり前さで考え込んでいた。
だいたい、そういうのが気になる周期って人間あると思う。
ともかくそんなことを考えて考えて、あんまり考えすぎるとしんどいなあオチも結論も見つからないし、考えるの止めようかなあと思っていたある日、源さんのエッセイの中で、ある文章にであった。

「死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。」

ああ、そうかと思った。
諦めにも似た、でもなんかスッキリした気持ちになった。だとしたら生きなきゃいけないなと素直に思った。頑張って頑張って、その先にしかもらえないものなのか、というのは一つすっきりと私の心の中に納得というかたちでおさまった。


私は、源さんのそういうところに初め惹かれたんだと思う。だからこそ、結婚を喜べる自信がなかった。



自分のことを棚上げになんてしんどい仕事だろうと思う。歌手であり、役者であり、文筆家である彼の仕事は否応なく人の心を動かす。それは確かに彼の仕事の範囲かもしれないが、そこから先、結婚だ何だの心根の部分というか、パーソナルな部分について何かを言いたくもなかった。
しかし、そう思う一方で、どうしたって祝う自信がない私がいた。


それはもう120%のエゴで我儘で身勝手な感情だ。
当然ながら、他人に対してとやかく言うつもりはない。というか、他人の心の内がどんな風に動くか分からない以上、そこに私の言葉を挟むつもりも挟みたいとも思うわない。



それを1番ハッキリ自覚したのは、「箱入り息子の恋」を観た時だと思う。
うまくいかないままならなさの中でもがき怒り、泣く姿に胸がスッとして、スッとした直後、物凄く自分の感覚にゾッとした。
寂しさの代弁者を任せているような罪悪感が湧いた。
もちろんその表現は星野源という人の魅力の一つだと思う。絶望や孤独は、その人のチャーミングさだということにも頷く。
だけど、それに自分の身勝手な感情をのせて消費してしまったような感覚にすごくいやになった。それはなんだか、違うような気がした。
寂しさに惹かれたのは事実だけど、それだけじゃないはずなんだ。むしろそれだけだったならこんなに好きにはならなかったんだと誰に言ってるかわからない気持ちが渦巻きながら、映画を見終えたことを覚えている。
しかし、それでも結局そこで苦しくなったのは、そんな自分を否定しきれなかったからだ。


それから一度、真剣に結婚をする時がいつか来るのかもな、と想像してそれを「いやだな」と感じてしまった自分への嫌悪がずっとあった。置いてかないで欲しいという意味のわからない身勝手な感情こそ、どこかに置いてきぼりにしたかった。歌や芝居や、文だけを楽しみたかった。
寂しさに惹かれたけれど、それ以上に源さんの生み出すものは面白かった。ワクワクした。だから、そんなところに共感してしまうことが先立つのが嫌だった。


だからこそ、今日のツイートに「あ」と思う。心臓が大きくはねる。見るのを止めようか、と一瞬迷って、でもここで見ずに内容を知ることになれば、より、辛いだろうという予感があった。
多くの「オタク」がそうであるようにタイトルにビビり、1番恐れている活動を休みます、とかではないはずだ、昨日だって元気にラジオで話してた、と内心言い聞かせながら、おそるおそる、インスタを開く。




文字を、1文字1文字丁寧に読んだ。
何を考えてたのか、覚えてるようで覚えてない気もする。ただ、心の底から湧いてきたのがうれしい、という4文字で面食らった。
あ、あ、あ、と動揺しながら、紛れもなく、嬉しい、と思った。
どうしよう、どうしようと1人自分の部屋でパニックになり、なんなら「え、あ、私嬉しいんだ?!」と自分の頬をつねった。
いやーーーーもう、なんか、嬉しかったんですよ。
嬉しい、と思えたことが、ものすごく、嬉しくてちょっと泣いた。
泣きつつも、「いやこれ私、嬉しいって思おうとしてないか?」と自分を疑う気持ちも否定できなかった。


だってさ、好きな人の幸せって祈りたいじゃないですか。
好きな人の幸せを嬉しい!って思える人って素敵じゃないですか。
こちとら、推しの結婚が初めてじゃないですからね、そういうのもあって「今私は"良いファン"でいるための努力をしてないか?」と自問自答をした。



して、これはラチがあかねえな、と地元の友人に連絡し、電話で話をしてもらった。わりと最低な自分の言動を見慣れてる友人だし、喋ってる中で何が飛び出しても大丈夫だと思った。

話して、話して、やっぱり無理に祝おうとしてないかって検証して、源さんの新曲や、昔の曲やラジオやバラエティでの言葉の話をして、しながら


やっぱり、私は嬉しかった。


その中に寂しいという気持ちはあった。幸せになるのか、という気持ちもあった。でも、同時に出会ってこの一年、源さんの活動に触れたことを一つ一つ思い出してると、大丈夫か、とも思った。


源さんが、孤独や絶望はなくならないとはっきり言うところが、たまらなく好きだ。
どこまでも寂しさや孤独はなくならない、苦しい年の次にくるのは、やっぱり大変な年なのかもしれない。
そう言われることにホッとしていた。それは諦めがつく、というとちょっと違って、むしろそう思うことでそんな毎日でも好きになれるきがしたのだ。そう思うことはだんだんと静かに私の中に何かを積もらせたのかも知れない。

楽しいと思うこと。1週間に一度、源さんのラジオを聴くためだけに開いていたradikoでいつしか聴く番組が増えた。
好きな音楽のジャンルが広がり、ドラマや映画も色々と出会った。
どうしようもない、の中で楽しいことをする。面白いことを見つけて、それを心の底から楽しむ。
初め、源さんを見て良いなあと思ったことを、気が付けば私は真似し始めていた。そしてそれは「そうすれば、寂しさはなくなる」と思ったからではない。
きっと、それがこの地獄でやっていく方法だと思ったからだ。
そして、そうできるこの地獄という場所は存外悪いところでもないと、思えたからだ。



そして、そんな話を聴いてくれる友人がいた。
結婚が嬉しいこと、こんな表現に惹かれたこと、この考えにスッキリして共感したこと、こんな面白いことをする人なんだという話。
話せば話すほど尽きなくて、なんなら源さんの話から結局脱線したり、また戻ったり、ともかくひたすら楽しい話をした。


しながら幸せなことと寂しいことは両立するのだ、とその時唐突に理解した。
源さんがいつか、どうしようもない気持ちになった時深夜に洗濯機を眺めると言っていた。それを、じゃあこれから結婚したから眺めないか、と言われると、別に眺めても良いんじゃないか、と思う。
結婚が幸せの必須条件でもないし、そこで洗濯機を仮に眺めたとして、それは幸せじゃないという話でもない。


私は結婚はしてないけれど、こんな人によっては「どうでもいい」と言われそうな「イタイよ」と笑われそうな話を真剣に聴いてくれる人がいるんだな。そして、そういう人と今までたくさん楽しいことをしてきたな。

推しがとか最早関係ないけどふと通話中そんなことを思った。え、やべえ、私ものすごく幸せじゃん、とそもそもの通話の目的を忘れてニヤニヤした。



そして、そうか、と思う。なんにも変わんないわ。



生きてて、明日もしかしたら嫌なことあるかもしれないし昨日の最低なこと思い出してあーって叫ぶかもしれないしかと思えば、明後日最高に幸せで飛び跳ねたくなるかもしれない。1週間後、夢みたいな出来事が起こるかもしれない。
いつも、生きてる限りそういうどっちに転ぶかわからない日々を私たちはそういや過ごしてるのだ。
その中で、一緒にいたい人がいるというそのことを、こうして聴くことができたことはなんて幸せなんだろう。別に、それを絶対に公表するべきだ、なんてことではなくて、幸せのお裾分けのような、そんな柔らかなものに触れた気がして、
そうかだから、私はあの時、嬉しかったんだな。


私は、星野源が結婚したら苦しくなると思っていた。
寂しくて、ああ、あなたも幸せになるのかって遣る瀬無くなるに違いないと思っていたし、それは確信に近かった。

だけど、それすら飛び越えて嬉しいという感情がやってきた。これだって、私には予期せぬ「生きてるから起こった」ことだった。
おいおい、まじで人生面白いな。飽きてる暇がないじゃんか。
本当に、こんなことを体験させてくれる"推し"という存在は、私の人生の中で本当に大きな意味がある。そして、そんな素敵な彩りをくれる人の明日からの毎日が、1分1秒でも多く幸せに溢れてて欲しいと、心の底から思うのだ。
私ももう、負けないくらい幸せに過ごすので。

EXILE TAKAHIROさんのTHE FIRST TAKEの話

一発撮り。たった一回、それだけ。
その上、舞台はほぼ真っ白な空間にマイクだけだ。あるいは、ピアノとマイクだけがそれぞれの目の前に置かれている。いずれにせよ、プレイヤーは音楽と自分自身だけの空間におかれるのかもしれないな、と思う。


敬浩さんが何で好きなんだろう、ということを定期的に考える。なんとなく、私の中でEXILE TAKAHIROという人は好きになって何年経っても不思議な人だ。
どこが好きなんだろう、なんで好きなんだろう。
色んな人に愛される人だからこそ、自分の中の好き、を好きだと認識しきれなかったある日、いや、私はこの人にずっと笑っていてほしいぞ、と思った。
それは、幸せでいてほしいと言葉にするには自分勝手な感情でむしろ「笑っててくれると私がハッピーなので、笑っていてほしい」という方が正確な気がする。

そんなことを、THE FIRST TAKEを観て思い出していた。
いや、正直、一弾目のLovers Againを観た直後はそんなことを考える余裕なんてなかった。
なんでか訳もわからず、泣いていたので。



さすがに大袈裟だと自分でも思う。更に言えば第二弾のもっと強く、ならまだなんとなく理解できるような気もするが、この曲で号泣すると思わなかった。いや、楽曲としてはもちろん好きだし、ライブで触れる時はパフォーマーのパフォーマンスもあいまって泣くことは実際多いのだけど。
だけど、THE FIRST TAKEのLovers againで沸きたった感情は、ライブ中のそれとは少し違った。違う何かで、言葉にもならないまま蹲って泣いた。


EXILE……LDHのパフォーマンスは歌とダンスの融合である。ヴォーカルの歌声がパフォーマーに力を与え、パフォーマーのダンスがヴォーカルの響きに艶を与える。
そう思うと、THE FIRST TAKEで触れる敬浩さんの歌声は、なかなかにレアだ。
もちろん、道の駅をはじめ、ソロ活動をする敬浩さんの表現にはこれまでも触れてきた。
だけどどうしたってシンプルな空間での一発撮りはその音楽の輪郭を際立たせる。
そうして思うのだ。
敬浩さんの、音楽を纏った時の姿が好きだ。
彼の作る音楽そのものがクリティカルヒットで刺さるという以上に、私にとって彼を目が追う理由はそこにあるんだと思う。


歌いたいという気持ち、歌が好きなこと、EXILEが好きなこと、この十数年歌い続けたこと。
その全てを込めるように丁寧に一音一音、歌われる。そしてそれは、しっかりと私たちの手元に届けられるのだ。
ファンだけじゃなく、多くの人の耳に当時から届いていただろう大ヒットソングが、また形を変えて生まれる。


そう思うと、このTHE FIRST TAKEという感謝しかない。


そして、もっと強く、だ。


Lovers Againもそうだけど、それ以上にメッセージ性の強い曲を2曲目に選んだ敬浩さん。
また、ハラミちゃん(さん)とのコラボである。
このパフォーマンスを聴きながら、ああ敬浩さんの音楽って会話してるみたいだな、と思った。
それぞれ、ハラミちゃんも敬浩さんも一発撮りの中、本当に楽しそうだ。
その中で、まるでふたりが会話してるような気がした。それは、もしかしたらライブでヴォーカルとパフォーマーがそれぞれのパフォーマンスで会話する、その感覚に近かった。
"会話"といっても具体的に言語化されるものではもちろんない。だけど、そう見えたのだ。


そして、歌詞の内容も相まってふたりの会話はそのまま真っ直ぐに私たちに届く。
なんだろう。
それは、敬浩さんのことが好きだというその感覚を物凄く際立たせる。そうか、そうだな、私は敬浩さんの音楽をする姿が好きなのだ。
音楽そのものが好きだというそれ以上にたぶん、人に対する姿勢を好きだ、と感じるその瞬間そのものだと思うので。

道の駅もそうだったけど、私は敬浩さんが真っ直ぐ愛情を歌う時、感極まって泣くというよりも、嬉しくなって笑ってしまう。だから、もっと強く、も聴きながらずっと笑っていた。あまりにも楽しそうで愛おしくて。そうして歌うこの人のことが、私は大好きだと思う。

不思議

気が付いたら、繰り返し聴いてる。
朝通勤する時、仕事が終わった瞬間。再生ボタンに指が伸びる。
なんなら最近は家でぼんやりしている時も、再生してしまう。


家にいる時、なんだか無性に焦ることがある。
何もしてない、という焦燥感に何かを始めようとする。たとえば、いつまでも放置している部屋の片付けや、1週間溜まったレシートの束。もしくは書こう書きたいと思ってる文のメモを捏ね回したり、気になったまま放置していたドラマの配信。
そういうものに手を伸ばしてほんの少しだけ触れて結局くたびれて止める。そうすると焦燥感はますます増して、嫌になる。
そんな時に、不思議を再生するようになった。



はじめ、ドラマで聴いた時は「ああ良い曲だな」というライトな感想だった。
こないだ友人達と音楽の話をして気付いた。私にとって音楽は音を楽しむというそれ自体もだけど、それ以上に歌詞を楽しむ側面が大きい。
なので大抵初めて触れる音楽は、歌詞を検索して楽しむことが多い。また源さんはだいたい公式サイトに歌詞や関わった人たちのクレジットを掲載してくれるので、まずはそれをじっくり読んで楽しむ。
不思議は、そうした中でも「ああ、良い曲だな」というふわふわした感想が先立った。穏やかにじんわりと、興奮して、とか「この曲は!」という衝撃は薄かった。かつ私はなんとなくそれが嬉しかった。
好きなものが増えるというのはいつだって嬉しいけれど、同時に何かに熱狂し続けることは私の中では怖いことだ。自分の思い込みやすい性格に疑念しかないので。
なので、この曲はそこそこの距離感を持って楽しむのかもな、とほわほわと楽しんで、初聴の夜は眠った。



そんな印象が覆ったのは、星野源オールナイトニッポンで曲を聴いてからだった。


歌詞が全く、違って聴こえた。耳に残る言葉が変わる。
ラジオだからか、源さんの作詞の時の話やリスナーのリアクションとともに楽しんだからか。
分からないけど、曲の印象がどんどん変わった。
それは、違う顔、とも表現できるけど、どちらかといえば奥行きに気付いたような感覚に近かった。
ここまでだと思っていた景色の向こうに、また違う植物や空や建物があるような。そこに、見知らぬ、でも仲良くなりたいと感じる人々がいるような。そんな気がした。


そしてそう思って聴くと、この不思議という曲はどこまでも愛おしく、何度も何度も触れていたくなる曲だった。どうして私は、初聴時そこそこの距離感で楽しむかもな、などと思えたんだろう。いまとなっては、そんな自分が全く理解できない。


不思議は、ドラマ『着飾る恋には理由があって』の主題歌で、ラブソングだ。
様々なインタビュー内で"初めて"自分なりのラブソングを正面から表現と源さん自身が口にする通り、その歌詞やメロディの中には恋心の柔らかさ、甘さが滲む。
また、ピアノを使って作曲されたメロディは優しくあたりにじんわりと満たすような心地がある。


そして同時に「ラブソング」とは人と人の間に生まれる恋愛感情のことだけを歌うわけじゃないのかもな、と思った。

友人や音楽、お芝居に映画、小説に漫画、そんなものにきゅんとすることがある。そんな瞬間にも、この曲はすごくマッチするような気がしたのだ。
 


そんな私に最初に刺さったのは歌詞のこの部分だ。

"好き"を持った日々をありのままで
文字にできるなら気が済むのにな

こうして、好きなものについて延々とろくろを回すタイプだからこそ、本当にそれ…!と言葉を噛み締めた。
伝わりきった、と思える日がくるなら、たぶん、その時文にすることを私は止めると思う。し、そんな日はきっとこない。



あなたが好きなのだ、一緒にいられて嬉しいのだと心の中のものをどれだけ吐き出し切ろうと言葉を尽くしても、いやむしろ、尽くせば尽くすほど伝わらない途方もなさに呆然とすることがある。
それは受け取ってもらえない寂しさとは少し違う。むしろ、相手はきっと受け止めてくれているということが分かるからこそ、余計に寂しい。
言葉にしてしまうことで生まれるズレや、この世のどこにもこの心の中にあるものを表現するものがないのだということに何度も、驚く。
そこにあるのに、いやむしろあるからこそ、伝わらない。手渡せない。


だけど、きっとそれが、どうしようもなさに飲まれずに済む唯一のお守りだ。
手渡せない、確認できないそれは確かにそこに在ってだからこそ、歩いていける。
そんなことを、今ではすっかり私の毎日の中に必要になった音楽を想いながら、考えている。

ボイルド シュリンプ&クラブ

なんであの時、まるで劇場にいるような気持ちになったんだろう。


楽しみにしていたシュリクラの一気公演の配信を購入し、観た。


自称「予知能力の達人」海老蔵と、自称「変装の名人」蟹子の探偵コンビがさまざまな事件を解決する4つの話で構成されている。
地下鉄ジャックを阻止したり、レストランで起こった殺人事件を解決したり、殺人現場から逃げるピエロと風俗嬢を逃したり、警察の浮気調査をしたり。

起こる時間はそれぞれに全く違うけど、
その全てに共通してるものがある。
それは、「犯人が分かった後」物語が始まることだ。
誰が犯人か、を探るわけでもなく、大どんでん返し的に犯人が変わるわけでもない。

私は初め、この設定を聞いた時に???が頭の中を渦巻いた。なんならあれ、大どんでん返しじゃないんだ?と困惑した。
じゃあどんなものを軸に進むんだろう,とワクワクしながら観た。


何故,犯人はその事件を起こしたのか。
もちろん、それも大きなテーマの一つではある。だけど、それは軸ではないように私は感じた。
むしろ「その後どうするのか」を描いてるように見えた。
事件を起こした犯人が大体依頼主になることが多いんだけど、それは「罪を懺悔したい」というより(もちろんそれはあると思うけど)そのこと自体を飲み込むための時間稼ぎなようにも思えるのだ。
そういう意味で、それぞれの話の主人公は徹底して犯人たち、だ。
でもそれを楽しく掻き回す探偵ふたりが、物凄く楽しくて、格好良くて、最高なのだ。……いや、掻き回すというよりかは解決しようとしてるんだけど!(笑)

舞台上にいる、全ての人たちが楽しくて愛おしくて全話、ずっとワクワクしながら観ていた。楽しかったなあ、本当に。



配信は、演劇とは違う。
何回も、何万回も言われた言葉である。
最近では、無観客上演に切り替えを、なんて無茶苦茶な要請があったこともあってさらに聞く機会が増えた。
作り手にとってはもちろん、私にとってこのことは、日々、考えない日はないくらい消えようもない事実だ。

どれだけ工夫がされても、配信は生の観劇とは違う。
お芝居の細部にある生きた人の気配は生で観なければ受け取りきれない。実際今回の公演は生での観劇の方々の感想ツイートを見ていると細かいところまで遊びがあって、それは配信だと拾いきれなかったりする(定点の場合は特に。でも、編集も例えばそっちに寄っちゃうとあざとくなるから寄る可能性は低いだろうな)
そして、何より劇場で観る時のあの会場内の空気がどんどん変わっていくことは、どうしたって体感できない。たとえ、笑い声が入ろうとそれは画面の向こうの出来事であり、空気を共有する、とは違うのだ。

だから、言われるまでもなく、配信は配信だ。


それでも、今回、色んな役者さんが画面が割れる勢いで届けます、と言っていた。
単に物語が伝わるように、という話だけでは、ないような気がする。

配信でお芝居を観るとき、そのスタイルは人それぞれだと思う。
なるべく会場に近づけるため,電気を消したり開演時間に合わせたり,配信をリアルタイムで観たりする人もいるだろう。
ちなみに私はじゃあせっかくだし配信でしか楽しめない楽しみ方をしようとお茶を淹れたりおやつを用意したりする。お酒を開けることもある。どうせなら、それでしか楽しめない楽しみ方をしたい。感想をメモしながら観ることもある。
今回のシュリクラも、そういう"配信スタイル"で楽しんでいた。それは没入とはすこし違う楽しみ方かもしれない。
それでも、ある瞬間。
目が引っ張られた。
劇場にいるような気持ちになった。それは確か,派手なシーンじゃなかったと思う。何気ない、物語の展開のキーの一つだった。

面白い、ってのと、なんか、ああ、お芝居観てる!と言葉にしようがない気持ちになった。なんだったのか、考え続けてるけどわからない。
なんなら、もっと物語としての感想を書ける人でありたいんだけど、どうしたって、こういう気持ちの話ばっかりになっちゃうな。

細部まで見切れなかったとしても、それでも、確かに、画面が割れるような熱量は届いていた。間違いなく。

ボイルド・シュリンプ&クラブが楽しみだという話

ボイルド・シュリンプ&クラブの配信がある!やったー!!!
苦しくなるようなニュースが多い中で、嬉しい告知があった。


「芝居が終わったら観客の心の中で芝居が始まる」をモットーにしている大好きな劇団6番シードさんの最新公演の配信が決まった。
今、様々な声があって、判断があって、その中で私はただの観客なので観たいということ以外の言葉を持ち得ない。
なので、時勢がどうこうではなくて、ただただ、観たいお芝居が観れるんだやったー!ということを言葉にしておきたい。言葉にしておけば、忘れない。ブレたとして、思い出せる。

今公演、劇団員以外の客演の方にも好きな方が多く、また6Cさん(劇団6番シードさんの愛称、以下、この表現をこのまま使う)で出逢うまだ観たことない役者さんにも毎度わくわくさせてもらってきたから、とんでもなくはしゃいでいる。好きな人たちのお芝居は私にとってモンスターやレッドブル以上に効果抜群の栄養ドリンクである。


そして何より、私は冒頭書いたことをモットーにしている6Cさんのお芝居が大好きだ。
観終わって、それから物語が始まる経験を何度もしてきた。
6Cさんの物語の多くは突拍子もない設定というよりかは丁寧な会話劇だ(あえていうならその会話劇は超高速会話劇だったりするけど)
ただ人が出会って、物語が始まる。


そして基本的には笑いがたくさん散りばめられている。コメディ、ということも多い。


ところで私は、笑わせてくれる脚本が好きだ。
これは完全に好みの話だけど、コメディやギャグがたくさん散りばめられた話が好きだ。笑えるという意味で「面白い」は最強だと思う。
だって笑ってると楽しくなるし。
さらに言えば、6Cさんのお話はコメディな上にヒューマンドラマだ。


こういう説明するときに、ヒューマンドラマ、と便宜上使うけど、これって結構難しいな、と思う。
なんか、だって、人が出る時点でヒューマンドラマでは…?とふと疑問が湧いてしまうのだ。でも、確かに自分がヒューマンドラマが好きな自覚がある。人が出ていてもヒューマンドラマ、には分類できないな、と思う作品もある。
とりあえず、ここで言いたいのはひとりひとりがわりと、しっかり生きてるということだ。
しかも、変に物語を背負ってとかではなくて、ただただ、生きてる。
きっとこの人は今日、布団から身体を起こしてご飯を食べたり歯を磨いたりしてここにいるんだな、と思う。もちろん、当然、役者さんの話ではなくて、その人が演じてる役の話だ。


6Cさんの作品の中でも特に私にとって大切な公演がふたつある。
2015年に上演された、「ふたりカオス」と、2016年に上演された「Life is Numbers」という作品たちだ。
私はその時、息を潜めるように、呼吸を忘れるように、舞台を、観た。
生の生きている人の強さと美しさがそこにはあった。

人と人が出会ったことで奇跡は生まれる。
だとしたら、舞台のあの瞬間瞬間、瞬くそれは、たぶん、奇跡そのものなんだと思う。



とはいえ、じゃあ生で観ないと体感できないのかというとここがまた難しい。
間違いなく圧倒的に、絶対、そりゃ、生がいい。というか、生と映像はまた違うものなのだ。私は喫茶店で飲むコーヒーも家で淹れるコーヒーも好きだけど、そういう話というか。同じコーヒーだけど、その二つは絶対的に違う。全く違う。でも、家で淹れるコーヒーも美味しい。
なんなら、私は6Cさんのお芝居に映像でも何度も、嬉しいくらいに出会ってきた。
そもそも、最初は別の劇団の役者さん目当てでDVDを見た。観て、そこに生きる人たちがコロコロと表情を変え、笑い怒り生きてる姿に惹かれて、劇団6番シードさん自体が大好きになったのだ。
生きている人間は最高だと思う。変わる表情とか、呼吸とか。そんな瞬間、人に出会える劇団6番シードさんが好きだ。



そして、劇団6番シードの代表である松本さんの脚本が大好きだらこそ、私は毎公演楽しみなんだと思う。大好きだ、と思う理由は先程書いた、笑えるという面白さは最強だということが一つ。
それから…間違いなくこれが大きい…一番核というか、ああだからだ、と実感した公演があった。

2018年に上演された「劇作家と小説家とシナリオライター」という公演である。
タイトルの通り、物語を描く人々の話だ。劇作家、小説家、シナリオライターが協力しながら一つの物語を描くことでお芝居自体が進んでいく。
その中、大切なシーンで登場人物である劇作家が言うある台詞が私は大好きだ。そしてだから松本さんの脚本を信じているし、大好きなんだと思う。


私がお芝居を観るのは、その時が一番、人間を好きだと思う瞬間だからだ。
そして、そんな私にとってあのワンシーン、人がそこにいて生きて、動くことで変わるということを信じた松本さんの言葉が、たまらなく好きで、だからこそ彼の描く作品を大好きだと思うのだ。


なんで長く書いてしまったけれど、明日から幕が開く「ボイルド・シュリンプ&クラブ」がともかくとんでもなく楽しみだというそれだけの話です。
大好きな劇団の、さらに大好きな人たちが客演で出演しているその舞台は、稽古期間のツイートを見ながらとんでもなく楽しみにしていたものなのだ。そしてその舞台を観たら、私はまた、ああ人間好きだなー!と大きな声で叫びたくなる、そんな気がしている。

手を繋ぐ話

今期、たくさんドラマを観ている。当社比ではあるし見逃してあとでまとめて観ようと決めているのもあるからあれだけど、たくさん見ている。
そして今見ている作品の中には、普段なら「好みじゃないな」と観ていなかっただろうな、と思うものもある。なんなら、ラインナップを眺めていたときにはこれは1話で離脱かなーと思っていた作品もなんだかんだ見続けそうだな、と思っている。
それが物凄く楽しい。これ、ツイートもしているし、なんならブログにも以前書いてるので、何回言うんだと自分に少し呆れるところではあるんだけど、どうしたって嬉しくて楽しいので、何度も言葉にしたくなる。
そうすることで、私はこの感覚を自分のものにしたいんだと思う。


ところで私は人と話をするのがわりと好きなんだけど、こないだ話していてすごく嬉しくなることがあった。話す話題は人それぞれ相手によって様々だけど、やはり、"推し"の話をすることが多い。その中である友人に推しの活動を見る中で「後悔したこと」の話をしてもらったのだ。


(あまり詳細には書けないなか念のため補足しておくとその「後悔した行動」は推しや他のファンに迷惑をかける類のものでは一切なかったし、何かマナー違反だ、と呼ばれることでもなかった。多くのファンが、そうしていることで、でも、その人は自身がやった後、違和感を感じた、という話だった)


推しに限らず、人との向き合い方、というのは人それぞれで、正解の形は人の数ほどあるんだと思う。
だから、私はその人がしたその行動が間違いだった、とは思わない。だけど、その人が自分の行動に違和感を感じた、というのはものすごく、分かる気がした。
し、同時にだからこの人から推しの話を聞くのが好きなんだよなと再認識した。
このコロナ禍においてエンタメや推しとの触れ合い方は今まで以上に多様化した。そして、その結果、今までにはなかった"違和感""間違え方"が生まれたのかもしれない。
これはあくまで、私を通しての結論だから、少しズレるかもしれないけど。
でも、その違和感を覚えたその人がこれからその推しさんの活動を観てどんなことを考えるのか、感じるのか、どうするのか、を私はまた聴いてみたいと思った。
だってそれは、きっとコミュニケーションや人間関係が生まれ続けてるからこそだと思うのだ。


推しだからコミュニケーションでも人間関係でもないでしょ、と言われるかもしれない。直接触れ合ったわけじゃないと言われるかもしれない。だけど、そこに人と人がいて、向き合いたいと思うならそれはもう立派な人間関係でコミュニケーションじゃないのか。
その人の表現が好きで、その表現を受け取ることが好きだとして。その"表現を受け取る"はコミュニケーション以外の、なんだというんだろう。
逆に、どれだけ身近な人でも向き合ってないそこには人間関係もコミュニケーションも存在しない。そんな風に私には思えて仕方ない。



私が後悔した、と聞いて嬉しくなったのは、それが生身のリアルな関係に思えたからだ。
好きな人との間で間違えるのはしんどいし辛いしできれば無い方が良いのかもしれないけど、
人は間違える。でも、その間違える、100点じゃなかったと思うのは相手が好きだからこそ、あり得ることなんじゃないだろうか。
相手にベストなやり方で何かを届けたい、と思っていなければ、あるいは受け取ろうとしなければ、きっと「違った」と気付くことはない。
一方だけの話なら、正解も間違いもなくて、ただそこに消費があるだけだ。するりと通り過ぎる時間があるだけだと、私は思う。
積極的に間違える必要があるかはもちろんまた別の話だけど、試行錯誤して、伝わるように、相手が喜んでくれるように(それは結果的に、そういうのが自分が嬉しいからこそ)することは、本当に、なんか、愛だよなと思う。


そういえば少し前、職場の人にそんなに人に会えなくて寂しいなら出会いに行けばいいのに、と言われた。
今はマッチングアプリもあるし、友達でも恋人でも作ろうと思えば知り合いがいない土地だろうといくらでも相手は作れるよ、と。
確かに、と検討してみて、いやでもこのご時世だし、とか色々考えながら、私はそういうのは必要ないな、と思った。
なんというか、それよりも今はドラマとか映画に出逢う時間にしたい、と相手に伝えた時「変わったこと言うねえ」と返された。


そうか、変わってるだろうか。私はそうは思わないけどな。


その違和感を、ふとその友人と推しの話をして思い出した。聴いた推しの話やドラマを手当たり次第に観ることがとても楽しいということを考えてる時に、蘇った。
そうか、私は、「あ、面白くなかったな」「合わなかったけどここは好きだったな」と思いながら観れる時間が、嬉しかったのか。


それは、後悔したり違った、という100点以外が生まれることが、生身の感覚だと捉えてるからかもしれない。


ドラマを怒涛の勢いで観ながら(本当にこんなにいくつもの作品を一度に観たのはほぼ初めてだと思う)私は、何度も思いがけない瞬間を味わった。面白い!と思ったり、え、なんでと思ったり。違うんだよな、と考え込んだり、その瞬間は言葉にならなくてもずっと小骨のように残る違和感について考え続けたり。

それって、すごく、コミュニケーションに思えた。少し前に放送された作品を観ることも多くて、その当時のことを思い出したり調べたりしながら"出逢い直し"をすることが楽しかった。

寂しいから、で自分の違和感(この時期に人と出会うことへの)に蓋をして動くよりか、よっぽど、正しく間違えたりズレたりしながら、思いがけず、好きなものが増えることの方がずっとずっと嬉しかったのだ。



違った、の中でどうしてだろうって考えたり、手を繋ぐ方法を探すことと、普段観ないドラマを好きになることをイコールにするこの感覚がどれくらい伝わるかは分からない。
私も結局、感覚でしかわかってないのかもしれない。でも、ともかく、普段「好きだろうな」だけでドラマを観ていた時とはまた違う幸せが今私にはある。
そのことに、友人と話していて気付けた気がする。

人は時々間違えるし、うまくいかないことだってたくさんある。そもそも、どれだけ似てても違うし、変わるから重なったりもしないのかもしれない。だけど、その時、手を離したくない・もっとしっかり手を掴みたいと思えることはすごく幸せなんじゃないか。

私は、なんというか、そういうことを考えてると無性に嬉しくなるのだ。

花束みたいな恋をした

これは、花束みたいな恋をした、にコンプレックスをゴリゴリに刺激された人間の感想だ。
誤解を恐れずに言うと、坂元裕二さんの作品を観るのが怖かった。
だってなんか、坂元裕二さんってお洒落な作品の印象が強すぎるのだ。台詞に洒落っ気があって、深みがあって、一つ一つの質量が重い。ちょっと捻ってあって、それこそ、花束みたいな恋をしたに出てくる麦くんや絹ちゃんが好む作品だと思えて仕方なかった。



そして、恥も外聞もなく白状するなら、私はそんな彼らにコンプレックスを抱いていた。
一つ一つのことにこだわれて、流行だとか社会だとかの目を気にせずに自分の好きなものをただ好きだと愛せる。
もう、そんなの、めちゃくちゃ格好良いじゃないか。お洒落じゃないか。
だからこそ、そんな坂元裕二作品を観るのが怖くて、そんな作品を好むふたりのラブストーリーなんて観ようもんなら身悶えしながら死んでしまうんじゃないかと半ば本気で思った。
だって、きっと彼らはお気に入りの音楽があって、古着屋で服を買い、レコードとか聴くのだ。今打ちながら偏見すぎて自分に引くけど、でもだってあれだろ、お気に入りの家具があって、こだわりのちょっとレトロだったりアンティークだったり、なんかカタカナのお洒落な感じのアレでまとめた部屋に住んでるんだろ。


残念ながらこちらは特に何かにこだわれず、と言って流行にも乗れずなんか薄ぼんやりした、どっちつかずの立ち位置でお洒落な人にも世間にも愛想笑いしてる感じですよ。
そんなコンプレックスと偏見にごりごり固まった私は、半ば本気でこの映画を観たら途中で身悶えして死ぬんじゃないかと思っていた。お洒落さや格好良さで人は死ぬ。オーダーメイドな人生を選びたいと思える人間への羨望で絶対に目が潰れる。その上べつに世間にも馴染めてるタイプじゃないから彼らをまたまた、なんて苦笑いすることもできない、確実に死ぬ。やってらんねえってなる。その自信だけはめちゃくちゃある。怖い。


そして、その予感はまあ、もちろん、めちゃくちゃ的中する。もう、なんか、冒頭の出逢って惹かれていくシーン、うわーー!!!!!!!!と羨ましさでハゲるかと思った。なんなら多分、心の中で二、三回禿げた。なんだろう、二、三回禿げるって。
手作りの生活たち、大切なもの、彼らだけの"共通言語"。普通になるのって大変だ、と呟く彼らが羨ましかった。特別な彼らがひたすらに眩しかった。


そして、眩しかったからこそ、生活に飲まれていく麦くんと絹ちゃんに、寂しくなった。
子どもみたいなこと、と言ってしまう言葉に傷付いた。いつかの言葉が届かなくなることが、共通言語が失われていくことが悲しかった。
あと、ほんの少し、悲しい寂しいと思える自分にほっとした。そこで、あのふたりのすれ違いを喜ぶような最低な人間になってなくてよかった。


あとさ、その、これは誰がそう思ったのかというのが難しいんだけど、観終わって数時間経って、思う。
特別、なんかじゃなかったんだよなあ。
たぶん、この話できるあなたが特別、世界で私たちだけなんてことはなくて。
さらに言うと、私と麦くんと絹ちゃんは違う種類の人なんかじゃなくて、
わりと当たり前にあちこちにいる人で、だからこそ羨ましかったし、寂しかったし悲しかった。


語弊をおそれずに言うなら、麦くんと絹ちゃんも、特別でありたかっただけなんじゃないかなあというか。
普通の人だった。
だからこそ、生活に飲まれていく彼らを悲しいと思ったんだな。


絹ちゃん、分かるよ。わかるんだ、でも実用書を読む姿を悲しいなんて思わないでよ。
なんとか二人でいられないかな、とファミレスのシーンで唸って、でも、いられないよなあと思った。
別れなくてもいいじゃん、やっていこうよ、という麦くんの台詞を思い出す。本当に、そうだよ。でも彼らのあの時間が特別であるためには、お別れしかなかったかもな。



私は、ゴリゴリの"労働者"だ。夢のある仕事をしてるわけでもない。よく、仕事で会う就活生に言っていた。憧れる仕事ではないかもしれない、将来の夢で挙げてもらえる仕事なんかじゃない。
でも、私は、毎日が楽しい。

あの頃の自分は、と考えて思う。たぶん、私は、将来こんなふうになりたいなんていう夢もビジョンもずっとなかった。
だけど今日、モーニングを気になった店で食べてのんびり街を歩き、本を読んで、映画を観て、それから昼間酒をする。それは、想像しなかった未来だ。なりたいとも、なりたくないとも思ってなかった。でも、わりと今、こんな生活が嫌いじゃない。


どっちが偉いとかどっちが正しいとか、
大人だ子どものまんまだとか、どーでもよくて、羨ましいとか共感とか、そういうのでも、ないんだよ。


そして、そんなことを考えながら思った。
お洒落で、ポストカードとか部屋に貼ってて色んなことを知っててこだわりがある絹ちゃんや麦くんも、「それっぽい」人なんかじゃないのだ。
それぞれに、彼らだけの人生を生きているのだ。

あの、好きなものを共有した特別な夜も、パズドラしかできないと呻いた日々も、どちらも変わらず、彼らの生活だと思う。
そこに、有利不利なんてなくてそれぞれに大変で、それぞれに幸せなんだろう。そうであって欲しい。彼らは彼らの幸せを、私は私なりの幸せを。まあ、そんなこと言っても、たぶん、生きてる限りどうなるんだ、って生きていくしかない。


だとして、彼らに「楽しかった」「幸せだった」と束ねて飾りたい時間があることは、とても、彼らのこれからにとって、心強いものだと良いと心の底から、願う。
そしてそれは、特別と呼んで、良いんじゃないか。