えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ボイルド シュリンプ&クラブ

なんであの時、まるで劇場にいるような気持ちになったんだろう。


楽しみにしていたシュリクラの一気公演の配信を購入し、観た。


自称「予知能力の達人」海老蔵と、自称「変装の名人」蟹子の探偵コンビがさまざまな事件を解決する4つの話で構成されている。
地下鉄ジャックを阻止したり、レストランで起こった殺人事件を解決したり、殺人現場から逃げるピエロと風俗嬢を逃したり、警察の浮気調査をしたり。

起こる時間はそれぞれに全く違うけど、
その全てに共通してるものがある。
それは、「犯人が分かった後」物語が始まることだ。
誰が犯人か、を探るわけでもなく、大どんでん返し的に犯人が変わるわけでもない。

私は初め、この設定を聞いた時に???が頭の中を渦巻いた。なんならあれ、大どんでん返しじゃないんだ?と困惑した。
じゃあどんなものを軸に進むんだろう,とワクワクしながら観た。


何故,犯人はその事件を起こしたのか。
もちろん、それも大きなテーマの一つではある。だけど、それは軸ではないように私は感じた。
むしろ「その後どうするのか」を描いてるように見えた。
事件を起こした犯人が大体依頼主になることが多いんだけど、それは「罪を懺悔したい」というより(もちろんそれはあると思うけど)そのこと自体を飲み込むための時間稼ぎなようにも思えるのだ。
そういう意味で、それぞれの話の主人公は徹底して犯人たち、だ。
でもそれを楽しく掻き回す探偵ふたりが、物凄く楽しくて、格好良くて、最高なのだ。……いや、掻き回すというよりかは解決しようとしてるんだけど!(笑)

舞台上にいる、全ての人たちが楽しくて愛おしくて全話、ずっとワクワクしながら観ていた。楽しかったなあ、本当に。



配信は、演劇とは違う。
何回も、何万回も言われた言葉である。
最近では、無観客上演に切り替えを、なんて無茶苦茶な要請があったこともあってさらに聞く機会が増えた。
作り手にとってはもちろん、私にとってこのことは、日々、考えない日はないくらい消えようもない事実だ。

どれだけ工夫がされても、配信は生の観劇とは違う。
お芝居の細部にある生きた人の気配は生で観なければ受け取りきれない。実際今回の公演は生での観劇の方々の感想ツイートを見ていると細かいところまで遊びがあって、それは配信だと拾いきれなかったりする(定点の場合は特に。でも、編集も例えばそっちに寄っちゃうとあざとくなるから寄る可能性は低いだろうな)
そして、何より劇場で観る時のあの会場内の空気がどんどん変わっていくことは、どうしたって体感できない。たとえ、笑い声が入ろうとそれは画面の向こうの出来事であり、空気を共有する、とは違うのだ。

だから、言われるまでもなく、配信は配信だ。


それでも、今回、色んな役者さんが画面が割れる勢いで届けます、と言っていた。
単に物語が伝わるように、という話だけでは、ないような気がする。

配信でお芝居を観るとき、そのスタイルは人それぞれだと思う。
なるべく会場に近づけるため,電気を消したり開演時間に合わせたり,配信をリアルタイムで観たりする人もいるだろう。
ちなみに私はじゃあせっかくだし配信でしか楽しめない楽しみ方をしようとお茶を淹れたりおやつを用意したりする。お酒を開けることもある。どうせなら、それでしか楽しめない楽しみ方をしたい。感想をメモしながら観ることもある。
今回のシュリクラも、そういう"配信スタイル"で楽しんでいた。それは没入とはすこし違う楽しみ方かもしれない。
それでも、ある瞬間。
目が引っ張られた。
劇場にいるような気持ちになった。それは確か,派手なシーンじゃなかったと思う。何気ない、物語の展開のキーの一つだった。

面白い、ってのと、なんか、ああ、お芝居観てる!と言葉にしようがない気持ちになった。なんだったのか、考え続けてるけどわからない。
なんなら、もっと物語としての感想を書ける人でありたいんだけど、どうしたって、こういう気持ちの話ばっかりになっちゃうな。

細部まで見切れなかったとしても、それでも、確かに、画面が割れるような熱量は届いていた。間違いなく。