えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

不思議

気が付いたら、繰り返し聴いてる。
朝通勤する時、仕事が終わった瞬間。再生ボタンに指が伸びる。
なんなら最近は家でぼんやりしている時も、再生してしまう。


家にいる時、なんだか無性に焦ることがある。
何もしてない、という焦燥感に何かを始めようとする。たとえば、いつまでも放置している部屋の片付けや、1週間溜まったレシートの束。もしくは書こう書きたいと思ってる文のメモを捏ね回したり、気になったまま放置していたドラマの配信。
そういうものに手を伸ばしてほんの少しだけ触れて結局くたびれて止める。そうすると焦燥感はますます増して、嫌になる。
そんな時に、不思議を再生するようになった。



はじめ、ドラマで聴いた時は「ああ良い曲だな」というライトな感想だった。
こないだ友人達と音楽の話をして気付いた。私にとって音楽は音を楽しむというそれ自体もだけど、それ以上に歌詞を楽しむ側面が大きい。
なので大抵初めて触れる音楽は、歌詞を検索して楽しむことが多い。また源さんはだいたい公式サイトに歌詞や関わった人たちのクレジットを掲載してくれるので、まずはそれをじっくり読んで楽しむ。
不思議は、そうした中でも「ああ、良い曲だな」というふわふわした感想が先立った。穏やかにじんわりと、興奮して、とか「この曲は!」という衝撃は薄かった。かつ私はなんとなくそれが嬉しかった。
好きなものが増えるというのはいつだって嬉しいけれど、同時に何かに熱狂し続けることは私の中では怖いことだ。自分の思い込みやすい性格に疑念しかないので。
なので、この曲はそこそこの距離感を持って楽しむのかもな、とほわほわと楽しんで、初聴の夜は眠った。



そんな印象が覆ったのは、星野源オールナイトニッポンで曲を聴いてからだった。


歌詞が全く、違って聴こえた。耳に残る言葉が変わる。
ラジオだからか、源さんの作詞の時の話やリスナーのリアクションとともに楽しんだからか。
分からないけど、曲の印象がどんどん変わった。
それは、違う顔、とも表現できるけど、どちらかといえば奥行きに気付いたような感覚に近かった。
ここまでだと思っていた景色の向こうに、また違う植物や空や建物があるような。そこに、見知らぬ、でも仲良くなりたいと感じる人々がいるような。そんな気がした。


そしてそう思って聴くと、この不思議という曲はどこまでも愛おしく、何度も何度も触れていたくなる曲だった。どうして私は、初聴時そこそこの距離感で楽しむかもな、などと思えたんだろう。いまとなっては、そんな自分が全く理解できない。


不思議は、ドラマ『着飾る恋には理由があって』の主題歌で、ラブソングだ。
様々なインタビュー内で"初めて"自分なりのラブソングを正面から表現と源さん自身が口にする通り、その歌詞やメロディの中には恋心の柔らかさ、甘さが滲む。
また、ピアノを使って作曲されたメロディは優しくあたりにじんわりと満たすような心地がある。


そして同時に「ラブソング」とは人と人の間に生まれる恋愛感情のことだけを歌うわけじゃないのかもな、と思った。

友人や音楽、お芝居に映画、小説に漫画、そんなものにきゅんとすることがある。そんな瞬間にも、この曲はすごくマッチするような気がしたのだ。
 


そんな私に最初に刺さったのは歌詞のこの部分だ。

"好き"を持った日々をありのままで
文字にできるなら気が済むのにな

こうして、好きなものについて延々とろくろを回すタイプだからこそ、本当にそれ…!と言葉を噛み締めた。
伝わりきった、と思える日がくるなら、たぶん、その時文にすることを私は止めると思う。し、そんな日はきっとこない。



あなたが好きなのだ、一緒にいられて嬉しいのだと心の中のものをどれだけ吐き出し切ろうと言葉を尽くしても、いやむしろ、尽くせば尽くすほど伝わらない途方もなさに呆然とすることがある。
それは受け取ってもらえない寂しさとは少し違う。むしろ、相手はきっと受け止めてくれているということが分かるからこそ、余計に寂しい。
言葉にしてしまうことで生まれるズレや、この世のどこにもこの心の中にあるものを表現するものがないのだということに何度も、驚く。
そこにあるのに、いやむしろあるからこそ、伝わらない。手渡せない。


だけど、きっとそれが、どうしようもなさに飲まれずに済む唯一のお守りだ。
手渡せない、確認できないそれは確かにそこに在ってだからこそ、歩いていける。
そんなことを、今ではすっかり私の毎日の中に必要になった音楽を想いながら、考えている。