えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

朗読劇X

そういやもう随分長く感想を書いている。たぶん、このブログは5年近く……いやもうちょっとかな……続けているし、そもそもその前からツイートで呟き続けていて、流れていってしまうから、と作ったんだった。そう思うと、そこそこの年数、私は観たもの、聴いたものの感想を書いてきたんだなあ、と思う。

一時期、我ながらなんで感想を書いているんだろう、と思っていた頃があった。
例えば、感想を書けば作り手の方や同じようにそれを「好き」な人たちに喜ばれることもある。なら、誰かに喜んで欲しくて書いているのか、と言われたら全く0ではないけど、ちょっとしっくりこない。
届いていない、とは思っていないけど、私はむしろもっと自分のために近い感覚でこのブログで感想を書き続けているような気がする。

 

 


エストさんのお芝居を「生で観に行く」のがコロナ禍に入ったことで4年ぶりだと気付いた時に東京に向かうバスの中、震えてしまった。
ありがたいことにその間の公演についても配信で観ることはできたけど、その熱量を生で感じられなかったのは、やっぱり随分、寂しかったんだと思う。


だから、今回の朗読劇の上演の知らせとともに本公演の予告が流れてきて、飛び上がるくらい嬉しかった。来年、とうとう、また、彼らのお芝居が観れる。
そしてその「来年」の前、クエストさんの空気に触れることができる。


○○presents、という言葉はすっかりお馴染みになったけどそのまま「クリスマスプレゼント」ってことか、と気付いた時、わはは、と笑ってしまった。私は、クエストさんのそんなところが好きだ。
そして、実際に劇場にやってきて、会場が見えた時、そこに淳さんの姿があることにもギョッとしたし、場内の案内やチェキを大野さん、トクナガさんがされていて、更に重ねてわー…!とじたばたしそうになった。


すごい。おもてなしがすごい。心の準備もあるから、ちょっと待って欲しい。嬉しい。すごい。でもほんと、ちょっと待って欲しい。
下北沢亭はすごい距離感の劇場なので、開演までになんとかその距離で好きな人たちのお芝居を見れることに慣れなきゃ、と思ってたけどそんな心の準備も間に合わないくらい速攻でストレートに食らってしまった。


ただ、心の中はジタバタうるさかったけど同時に「ああ、帰ってきたんだなあ」と思ったのも、事実だった。
何度も通った、何度も繰り返し「ああこの人たちが好きだ!」と思ったひとがいる場所に、私は帰ってこれたんだな。
それは、ある意味で、この公演自体が、クエストさんからもそういう意味合いに近いような、ここにいるよ、というようなそんな「プレゼント」だったんじゃないか、となんとなく思ってる。もちろん、彼らはこのコロナ禍でも創意工夫でお芝居を上演してきた。
そしてそんなことに私は、画面越しでも力ももらってきた。

 

コロナに入った直後、中止が決まった七人の息子の知らせの時のトクさんの言葉を繰り返し読んだことも思い出した。画面越し、上演されたブラック西遊記とムサ×コジの時のカーテンコールの言葉も思い出した。いつか、また劇場で。
その言葉に「いつか」とずっと思ってきた。そのいつか、だなあ、と思いながら客席に座り、そこからみえる景色を見ていた。今年は本公演こそなかったけど「ここにいる」し「いつか」もクエストさんのお芝居もずっと「ある」んだってことだよな、なんてつい感傷的になってしまう。

 

そうして始まった朗読劇。

佐藤さんの語り掛けで、ほっと息を吐いて完全に「楽しむ」状態になった気がするし、
そこからの懐かしい台詞や彼ら、そして「朗読劇?」というやりとりに笑う。
中継が繋がっております。では映像や音声を使いつつ「クエストさん」の空気感ににこにこした。なんだろう、仲のいいわちゃわちゃ見れて嬉しい!と言葉にすればそういうことな気もするけど、なんかちょっと違うという気もする。
ただなんか、めちゃくちゃほっとするゆるい空気感が「あー良いなあ」と思う。

 


そして今回2本あった荻窪さんの作品は、今後も荻窪さん作品が見たい…!と心底思うものだった(そしてそれをお見送りの時に言うぞ…!と心に決めたのに色々いっぱいいっぱいになり繰り返し「次の本公演も必ずいきます…!」と言う人になってしまった。だけど絶対行くもん…)
特にふたりごと、は分かるわぁ…の女性ふたりの会話が「あれ?」と解釈が分かれるような展開になったのには「こういうの大好き!」と叫びたくなった。
また、タイプの違うふたりだけど、コンビとしての強さ・バランスが魅力の佐藤さん、荻窪さんだからこそ、ラストのハケには続々してしまった。

 


また、サランラップの女、はとにかくにもドラムの大野さんが演奏ごとに結構こまめに楽器を手で止める仕草を入れてて可愛いけどドラム!めっちゃこぎさみに音止めるやん!と笑ってしまったり、
他にも全体的に「朗読劇だからこその小ネタ」が楽しい作品集たち。

 

 

そして『メメントモリモリー』はもう、本当に…。淳さん落語やってほしい…と見終わってから100回くらい思ってる。
ご自身のチャーミングさを入れ込みながらも、台詞運びでぐるんぐるんテンポよく展開に巻き込んでいって、のあの展開の心地よさたるや…。あれ音源配信ないんですか?(ないよ)
タイトル表示された時点で予感していた感覚がすごく心地よく、ストレートにどすん、と決まったラストは本当に思わずため息をついてしまった。いやもう本当に私は淳さんのお芝居が好きだ…。

 


そしてかけことばで笑い、からの、からのですよ。
Xの朗読、で完全にやられてしまった。あの1本で、ああそうだよ、私はクエストさんのこういうところが、トクナガさんの言葉の、感覚のこういうところに何度も何度も「大好きだ」って思ってきたんだよ、と思った。

 

 

正直、今回の公演の告知画像がAI作成のものだった時、おやっと思った。
エストさんが朗読劇、というのも大きな驚きだったけど、今までの公演のフライヤーがかなり好きだったからこそ、なんか今回は随分毛色が違うな、と思ったし、個人的にAIのクリエイティブな使用についてはまだ難しいなーと思っていたので、そっかあ、ともほんの少し思った。

 


だけど、このXの朗読であーそういうことか…!としっくりくる。
トクナガさんはその独特のアウトプットもそうだけど、凄まじいインプット量もだし、それを「どうインプットするか」というか、「自分の目を通して自分の内側に入れる」ことをとても丁寧にされ続けてるんだな、と改めて思う。

 

 


今、あちこちに情報も言葉も感情も溢れてる。
インスタントに『表現』できるようになって、さらにはそれがインスタントに軽く、消費されていく(この辺りは冒頭の挨拶のようなものや改造人間にもほんの少し繋がる気もする)
その中で自分が読む言葉、発する言葉、感情、考え。
自分が読まずにいることで死んでいく言葉もあること。
言葉が……もっと言えば、感情が生きていくということ。
一回きりの観劇だったのでせめて感覚だけでも忘れないようにとあのXの朗読を繰り返し繰り返して思い出している中で、ああそうだよな、と自分がこうして感想を書きたいと思う理由に行き着いた気がした。

 

 


私は誰かの言葉や表現に触れることが好きなのだ。そしてそれが確かにあった、と確認したい。
動いた心を少しでも言葉にして、「在る」にしてくれた人に時間に最大限の感謝と愛情をもって、自分でも、「在る」に変えて残していたいんだ。
言葉も感情も、あまりにも溢れていて、じゃないとなかったことになってしまう気がするから。
ここに確かに読んだ自分が受け取った自分がいると小さな声だけど、言って、言葉にしていきたいんだ。

 

 


そしてそれはラスト、七人の息子のお母さんの独白にも思う。そうして自分の生活を大切な人との記憶を言葉にして表現にして残すことは、たぶん、何かを証明したいという祈りに似た何かなんじゃないか、って思っている。

 

 


エストさんのお芝居を観るたびに生身の人間が出来る限界を越えて異次元にいっちゃうようなお芝居だな、と思ってきた。
凄まじいアクションとダンス、テンポ良く進む台詞たち。そういうものがかけ合わさって、そうして人間の可能性を信じるみたいな、人を信じるみたいなそういうところがずっとずっと大好きだ。

 

そしてそれはアクションやダンスのない朗読劇でも相変わらず観ることができて、私はそれがすごくすごく、嬉しかった。ああやっぱり、私はX-QUESTさんが、大好きだ。