えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

トリコロールスター

近頃、クエストさんを観ていると不思議な感覚になる。
物語の深く深くに沈んでいって、最終的に自分とにらめっこするみたいなそんな感覚だ。
うまく言えないけど、私は何となくその感覚ってどうなのかな、と思っていた。

お芝居が好きなつもりだ。
だから、なんか、それは違う、と思った。少なくとも私にとっての話だけど自分のことや演じ手(役者さん、というよりも、そして、というだけでなく、その背景とかへの)…私がやる場合は…邪推みたいな感情移入が何とも妙に、言葉を選ばずにいえば、気持ち悪かった。自分で自分のそういうのが、嫌だった。

だから案の定、トリコロールスターを観て一日どっぷりお芝居に浸って幸せで幸せで仕方なくて、ぐるぐる自身の中の感覚に浸っていたら、やっぱりその自己嫌悪と向き合うことになった。なんかが違う。
その違和感で、見終わって数日、うまく感想が文となって整わないまま、今日を迎えたわけだけど、四天王をDVDで観たらなんとなく言語化まで漕ぎ着けそうなので、書こうと思う。しばらくしたら忘れてしまいそうな些細な感覚だから、尚更に。

 


トリコロールスター
鬼せつない、明日への活力、問題演劇。
驚異の3本立てのお芝居の話をしようと思う。

 


ベニクラゲマン、金と銀の鬼がラインナップに入ってるのを観た時の心臓の跳ねっぷりったらなかった。
ベニクラゲマンは、わりと本当にどん底の時にミハルの人魚と一緒にずっと観ていたお芝居だし、金と銀の鬼は何と言っても初めて生で観たクエストさんの作品だ。
思い入れがすごい。いや、クエストさんの作品で思い入れのない作品なんて、幸いなことに、ないのだけど。


ベニクラゲマン、ほんと、一番しんどかったのが「ああじゃあもう死んじゃおう、寝てる間に死ねますように」(一度しか観てない上に、その台詞の時に心ん中がざわざわして、どうしようもなかったので台詞に自信がないです)ってところで
覚えてられない彼のことを苦しくなった完結編だった。ケイのことも、ピノキオのことも、覚えてないんだなあって思うと悲しくて、何より、それを持たないベニクラゲマンにそわそわしてしまった。

 

 

プリウスだとか、そういうメタな要素が入ったせいもあるけど、一時期たくさん見た「死ぬなら一人で死ねよ」って言葉も思い出して、ものすごく悲しいというかどうしようもない気持ちになって、今も打ってると、うううう、って心臓のあたりが痛くて仕方ないんだけど、
だから、老齢フォルムが俺がもらうよ、引き受けるよ、と言うのにも、覚えてないベニクラゲマンがそれでもケイだけは助けようとするのにも、なんか、スコン、と晴れ間を見たような気がした。
ブラックベニクラゲマンやリュウグウツノカイマンたちのお母さん!って叫びとかにも、なんか、あーそっかあ、とワケもわからず、に近い感覚で泣いてしまった。

 


ベニクラゲマンって、たぶん、めちゃくちゃコメディに見えるし、ギャグっぽいというか、なんだろう、うまい言葉が見つからないんだけど、すごく、あっけらかんとしているんですよね、私の中で。描かれるテーマや主人公たちが抱えてるものって実はわりと重たいのに。重たくて、どうしようもなかったりするのに。
だけど、あのフォルムのベニクラゲマンがもう迷わない!って戦ってくれるから、なら、もう、大丈夫だ、なんて、根拠のないことを毎度思ってしまう。分からないのに。言語化できない感情そのままに、なんか、根っこの部分が、スッキリする。

 


どだい、生きてる限り、生きていくしかなかったんだな、と思う。生きていくために、忘れても許したり憎み続けたりしながら、いずれにせよ、たぶん、生きていくしかない。

 

 

 

 

そして、金と銀の鬼ですよ……。


シロガネのあの、コンジキを連れて行くシーンからずっと、ほんと、顔ぎゅってしながら見てた。というか、トリコロールスター、たぶんほんとに表情筋の運動かな?みたいな顔で見てた気がする。変な顔しててすいません。
金と銀の鬼、大好きなんですが、あのコンジキとシロガネの互いの寂しいの共鳴とか、その上での互いの意味とか、本当に、心が苦しくなるくらい考えて感じて大好きなわけですが、

 

 

シロガネーー!!!!!!
おま、おまえ、シロガネーー!!!!!!!
シロガネーー!!!!!!

 

 

 

もう、ほんと、人形と一緒にコンジキ傷付けたら許さんからな、と心の中でめちゃくちゃ思った。
あとトリコロールスター、鬼の怖さとか倍増してましたね。いろんなシーンを濃縮する中、あえて、村をああして蹂躙するシーンをそれぞれ入れたのがグッとくる。あと、人を殺すとこのクロガネさん顔が怖くてびっくりしました。表情も動作も冷酷すぎてもう。あれは鬼ですね……そしてその鬼にあれはもう人ではない、鬼より恐ろしい、と言われる助佐よ……。
人形も助佐も、増えたシーンで心を寄り添わせてしまって、どちらも心臓がやっぱりぎゅっとした。

 

 

助佐のいらねえよおー!!ってぐるん!って桃太郎たちの顔を覗き込むシーン、怖くて可笑しいから尚怖くてですね…。
あのシーンほんとに…竹内さんの空気ぐるんってするのが……刺さり方がエゲツない。
助佐と緑丸のシーン、もっともっと見たかったなぁって思うくらい、ふたりが揃ってるシーンの空気の、確固たる感じが凄まじくてですね。
語られた言葉は少ないのに、表情が、伝えてくる。
というか、やっぱり、緑丸と一緒にいる時の助佐の柔らかさを思えば思うほどに……語りのシーンの度に思うけど、助佐って別にバカな人でもなくてむしろ理知的な人なんですよね、その人がああして緑丸と無邪気でいたことについて考えて泣いてしまう……迎えが……なかったのが……
なかった、よね?どうですか、ありましたか、むしろあってくれ、なかったように思ってる私の勘違いであってくれ、私は助佐の緑丸……ごめん、が悲しくて悲しくて仕方ないんだ。

 


金と銀の鬼は特に、誰かと一緒にいること、の物語なんだな、と感想を書きながら思う。

 


緑丸と助佐みたいに、コンジキとシロガネみたいに、最高のライム兄弟たちみたいに。
誰かと一緒にいたい、と願って一緒にいる時間を楽しい時間だ、って呼ぶ彼らの話なんだな、と思う。
そして、そう思うと、見ていることしかできなかった人形や動物たちの言葉が分からなくなる桃太郎に、なんとも言えない気持ちになってしまうのだけど。

 

 

 

コンジキの心を勝手に慮って、頼むから、連れて行ったその時言った通り、絶望に叩き落とすようなことは、この無邪気に笑っていた彼を傷付けるようなことは最後の最後、してくれるな、と願って願って、もう半ば祈るように思ってたんだけど

 

そりゃ、そうだよなあ、と最後、殺陣の途中くらいから、思っていた。

 

シロガネの、あのシーンが入ろうがひとりが寂しく、兄とコンジキを慕って生きた彼の魂が変わるわけではないんだよなあ。
そしてそれを、コンジキは全部分かってたんだなあ、と思って、さらに泣いてしまう。
これで良かったといい、弟と村を襲っていた頃を一番楽しい時という、コンジキを想うと、途方に暮れながらそれでも必死に取れてしまったツノを戻そうとする小さな背中が蘇る。

 

 

少し話は逸れるけど、今回「ツーノ!」を聞くたびに、to know、で聞こえていて(もともとどのバージョンでもあった掛詞だと思うけど、わたしには今回が一番刺さるto knowだった)(クエストさん楽しい、と思うのは見るその時の状況、私自身でも全然気になる部分が万華鏡みたいに変わることだ。楽しい、世界は広い)知ること、知るため、とtoの使い方についての中学の英語の授業を思い出していた。知る為のツノ。だとしたら、誰が何を知る為の、だったんだろう。その答えはそれぞれに、優しいと思う。

 

 

 

そして、白である。
なにもない空間の男、である。
自分自身でも、既に観た友人からも、これを見たら大変なことになるのでは、と思っていた作品だった。

 


なにもない空間には、全てがある。

 


観終わって、こんな優しいキャッチコピーがあるだろうか、と思う。


お芝居を作る劇作家の男が語る、物語たち。そしてそこに入る、彼自身の話。
リング舞台でお芝居のワンシーンが生まれ、消えていく。彼の語る、お芝居の話。
あんな贅沢な時間、ほんとに……。
幸せだった、あまりに。
もうまず、大好きな役者さんの喋りを、綺麗な台詞運びをあんなに堪能するというのが最高に幸せで、この時間がずっと続いてくれ、と思わず思ったんだけど、なによりも

 


あの、お芝居が目の前で繰り広げられるのを見る淳さんの表情が、大好きだったんですよ。
お芝居の話をする表情とか、声の穏やかさとか、本当に。
あーお芝居が、好きなんだなあ大切なんだなあ嬉しいなあ、と思ってたらほぼほぼ泣く形になった。

 


例えばプロジェクションマッピングと.5舞台の話なんかも出てきたけど、
あれって別にプロジェクションマッピングや.5舞台が、って話ではないじゃないですか。


お芝居の好きなところなんですけど、私は海だ!って言えば、海が広がる、みたいなお芝居の懐の広さなんですよ。
(話は変わるけど、ちょうど昨日劇シナを観てたら、劇シナにもそんな話がありましたね、好みではあるよね、私はそういう、海だ!って台詞で世界を広げる想像力フルで使うお芝居がより好きです、という話です)


ただ、それをせず、プロジェクションマッピングで説明!だけなら勿体ないなあ、とはたしかに思ってしまう。大好きなんだけどね、プロジェクションマッピング!!お芝居でもイベントでもはしゃぐんだけどね!


だけど、お芝居だから、の何かが欲しくて、.5もただ舞台にあげた、じゃなくて、だから舞台化したのか!と膝を打ちたくなるというか……実際、そういう.5舞台もたくさんある……なんか、そういうことを考えてることがあって、そういう意味で、私はあの台詞たちにそうだなあ、と思った。色んな捉え方があって、あの台詞たちについて話すのも楽しかったなあ。


ともかく、役者がひとりいると、それだけで舞台が生まれることがあるという
そんな、演劇の話の舞台のキャッチコピーが、なにもない空間にはすべてがある、なのは、とてもとてもとても、優しい。あたたかい。

 

 


語られる彼の半生は、苦しかった。
土田さんの穏やかな声で紡がれたとおり、明確な暴力ではなく、その穏やかでしかし間違いなく虐待だったその日々を思う。
識字障害についての、違和感として描かれるシーン。占いや、店の予約。誓約書を読むこと。
あのシーン、彼の表情は空白、だった。嫌悪でもなく、隠したいという気持ちでもなく、空白。存在しない。
表情豊かに芝居について語り、嬉しそうに見ていた彼と同一人物とは思えないほどに。

 


もしも、彼が
お芝居のことを、その生い立ちから憎んだらどうしようと過ぎった。
高田淳という、本人名でのお芝居だったから尚更、そんな描写があったら、ちょっと、かなり、辛いな、と思った。
でも、と同時にそんなことにはならないだろうな、という気持ちもどこかにあった。
それは別に淳さんが演じているから、なんていうファンの勝手な妄想でも贔屓目でもなく、思い入れでもなく、ただただ、舞台上にいる高田淳(役の方)が楽しそうだったからだ。

 


識字障害を指摘された時の、彼の台詞が焼き付いてる。
シェイクスピアをはじめとする彼の中で生きている、彼を生かした物語たち。
演劇、お芝居という、そのもの。

 


それを、才能だと、魔法だと言った、あの光景の光が本当に綺麗だった。
嬉しかった。
私もそう思ってきた。そう思って、何回も幸せだ、と思ってきた。生きてて良かった、と泣いたことだってあった。

 


そうして踊られた、伸びやかで朗らかなダンス。
劇中言われていたとおり、言葉にならないものを伝えてくれるパフォーマンスが、私も大好きだ。
隣で見ていた友人が後半、つくの気持ちがくしゃくしゃになっていくのが横で見てても気配で分かったよ、と言われたんだけど(友人のは好意的だったけど、迷惑かけてないといいな、声とかは出してないと思う……たぶん……気配はうるさかったと思う…ごめんなさい……)
ほんとに、あんなくしゃくしゃに心がされると思わなかった。
そしてそれを、あんな優しい言葉で包んでくれた、あれはきっと、奇跡だったように思う。

 

 


エストさんの物語はわかりやすくない。
なんとなく、見え方が見た人でも少しずつ変わるように思う。もちろん、それはクエストさんの作品に限らず、どんな物語でもそうなんだけど、クエストさんは特に非言語表現が多いことや明文化されない物語の傾向からより、そう思う。
だからこそ、観客である私たちは、自分たちの経験にもとづき、自分の中にある言葉に照らし合わせ、物語を紐解いていく。自分の中に、息づかせていく。
そう思うと、私がここ最近、見れば見るほどに、自分とにらめっこしていたのはそりゃそうか、と腑に落ちる。

 


私は、だけど


よく、気持ちも嘘をつくし考えることを放棄したがるし、それっぽい、で終わらせることもある。
だけど、クエストさんのお芝居を観てる時は幾分か、心が素直に動くように思う。それに、それが、嬉しい。

 

 

音を聞き、色を見て、光に目を細め、風を感じていく中で自分の中の言葉を探していく。

 

 

そもそも、神芝居でウサギさんも言っていた。言葉にすれば、主観が入る。そりゃそうだ。ならば、にらめっこ上等、自分の中に落とし込んで、これからも共に、このお芝居たちが在って欲しいと思う。

 


だってそれは、とんでもなく、優しいことのように思えるのだ。