えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Creepy NutsのオールナイトニッポンTHE LIVE2022

何を見たのか、と言われると難しい。
バカみたいに笑ったのに何がそんなに面白かったのか、とは説明できそうにもない。




Creepy NutsオールナイトニッポンTHE LIVE2022〜オレらのRootsはあくまでラジオだとは言っ・て・お・き・た・い・ぜ!〜を観てきた。
番組内で情報公開当時から「キモイベ」と呼ばれたこのイベント。なんせイベント当日にも一切情報が出てなかった。
いや、情報は出てなかったわけじゃなくて「地下DMCやります」「大江戸シーランとギャルオブザ・デッドももちろんあります」「指ポキ選手権もやる?」と色々毎週ラジオで話していたわけだけど並べていても何言ってんだ?すぎる。そもそも聴いたことなかったら想像すらつかないラインナップだ。





だから、観に行くまで友人と何が見れるんだろうね、でもだいぶとち狂ってるね、とそわそわしつつ、なんか、絶妙にニヤニヤ顔で向かった。
語弊を恐れずに言うんだったら「何観たんだこれ」って爆笑できれば、見るものが虚無だろうがなんだろうがありだし、それは間違いなく叶えてくれる信頼があるわけで。






そんな「どんな感情だこれ?」と笑ってしまいそうな気持ちで、私はライビュ会場に座った。
音楽が生業の彼らがトーク中心のラジオイベントでしかも本人たちが「キモイベ」と銘打っているイベントにこんなに人が来てる。なんかもうそれが嬉しくてこの後何を見てももう満足かもしれない。そんなことを思った。
ただまあ、ここでも相変わらず私は「何を見るんだ?私は」という気持ちは消えないわけで。




しかし、チャプター画面で始まった冒頭、ある意味で理解した。
彼らも口にした通り、そんなもん、映画館で観る想定、一切ないわけで、まじで友達の家で映画を見る時の感覚でその後のくだらない応酬含めて、あの瞬間、国際フォーラム含めて100会場が全部"ツレの家"みたいになった。





いつものコーナー、すぐ対決企画をやりたがること、自分たちの好きなものの話をすること。
容赦ないリスナーイジリや悪態、お互いへの文句。




私たちが毎週聴いてる、何度も何度も繰り返し聴いたラジオが、そこにあった。
いやまじで、くだらなかったの。最低なトーク多過ぎるして予算潤沢になってるけどそれを全部悪ふざけに使ってて、リスナーもバカだなー!って爆笑したくなるようなネタを送ってきてて。
なんかもう、笑っていた記憶しかない。




よふかしのうたで歌われる通り、白々しく正されることもなく、かと言って許されるわけでもなくダメはダメのまま、そのまま在るのが深夜ラジオなのかもしれない。


キモイベに揚々と現れた人々は、私も含めてたぶん、普段の生活では普通の顔をして生きていて、でも深夜、あるいは朝、昼、自分にとっての"よふかし"の時間にあの周波数に遊びにくる。



君が踊り、僕が歌う時
新しい時代の夜が始まる。
太陽の代わりに音楽を
青空の代わりに夢を。
新しい時代の夜をリードする。
オールナイトニッポン




このブログを書くために手帳を開いたら、初期のオールナイトニッポンの言葉をメモしていた。
そうだ。深夜ラジオには太陽も青空もないけど、でもそんな場所で私たちはずっとバカ話をしてきたんだな。




ちょうど今年の初めの方で、松永さんがゲスト出演したラジオ番組でラジオについて話していた(ニッポン放送のじゃなくてあれですけども)


"自分が辛い時にはラジオの世界に飛び込めば、好きなパーソナリティが自分のためだけに分かるよ分かるよって喋ってくれるような気がしてすごく助かる"



少なくともあの3時間弱バカバカしすぎてひたすら笑って、見終わった直後、何があったか少しも思い出せないことにまた笑って、そうした時の私は「すごく助かる」と思った。



まあ観たのは、キモイベなわけですが。




でも本当に楽しかったな、
願わくば、この人たちのラジオがずっと聴けますように。



映画 バクテン!!

心地よくて、美しい映画だった。
アニメを途中までだけ観た上で友人の勧めで男子新体操部を舞台に物語が広がるバクテン!!を観に行った。




※劇場版のネタバレを含む上、アニメシリーズをまだ完走できていない人間の視点での勝手な感想になります





「刺さると思う」と劇場に入る直前友人に言われたわけですが観てる中で「さすがにここまで刺さる要素あるんやったら言っといてや」と思いながら観ていた。もうほんとに、面白かった。


ところで、私はあのオタクな先輩たちが好きだ。
そのふたりが劇中話す、オタクについての話が好きだった。ああそうだったな、と嬉しくて穏やかな気持ちになった。そんな中で矛盾するようではあるけど、どうしても「語りたい」という気持ちに従って、面白かったと思ったこと、好きだった理由の話をしたいと思う。




男子新体操というものに詳しくないけれど、いやむしろ詳しくないからこそバクテン!!で描かれる男子新体操の表現がすごいと唸ってしまう。劇中、数段うまくなってる、という台詞があったけど、なんならアニメスタッフの皆さんもテレビ版から劇場版で数段うまくなってない?!と驚いた。最初の数話しか観てないから余計にそう思うのかな。それともそういう演出か。いや、いずれにせよ、めちゃくちゃすごいことだと思う。


ダンスのようにも思える新体操。筋力としなやかさ、跳躍力。表現力。ともかく色んなものが必要とされるし、でもその上で、ものすごくシンプルな競技なんだと思う。
そしてそれをアニメでは最低限のものに削ぎ落とし、キメてきていたように感じた。
例えば観客のリアクション、音響や照明(これは劇中の世界で実際に在るものも心象風景的に用いられたものも含めて)がどういつ入るのかにもうひたすらすげーーーー!と心の中で叫んでいた。



アニメの物語内、ここぞという時の新体操の演技の表現がおそらく"リアル"な表現になったことにひたすら感動した。



そこは「彼らの演技(パフォーマンス)を観たら絶対に伝わる」という強い強い意志と願いを感じた。もう、なんて愛おしいんだろう。
それは劇中の翔太郎が、あの部のみんなが新体操という競技を愛して信じている気持ちそのものだと思う。




そしてそれが「高校の部活」だということが愛しい。愛おしいというか、少なからず高校の部活に熱量を傾け、語弊もなく部活がほぼ学生時代の全てだった自分にとって、それはもう、ドストレードど真ん中で刺さるものだった。




高校の部活って、なんなんだろうな。時間も気持ちも込めに込め、それでもその後の人生に関わることはほぼない。あの頃情熱を傾けたものを仕事にする人が一体どれだけいるだろう。




正確には、仕事にできる人が、どれだけいるんだろう。努力をした上で、という前提にはなるけれど、その才能に環境に偶然に恵まれることができるのは、ほんの僅かだ。
「それだけの熱量をかけてやってたのにどうして仕事にしなかったの?」とひとは無邪気に問うてくるけど、なんでそんな残酷な問いかけができるんだろうと私はいつも不思議な気持ちになる。不思議な、というのはかなりオブラートに包んでてなんなら素直に言えば、結構怒りに近いものを覚えたりもする。




たった三年されど三年、時間の概念が歪むような無限の可能性を秘めた時間の中で、思いを込めれば込めるほど報われない確率が上がるという理不尽な世界が学生時代の部活動なんじゃないか。




なんてことを思うのが野暮天だというのを、このバクテン!!は教えてくれる。
仕事にならないなら、いやもっと言えば「勝てなければ」意味がないのかという問いかけに彼ら自身がもがき自分たちの中ですら言語化できない気持ちとひたすらに向き合い続ける。その姿にひたすら泣いた。しかもそれが大人である制作者の感傷でも願望でもなく、ただただ、彼らと一緒に向き合い続ける覚悟があるからこそなし得る表現に思えて二重に泣いた。





そしてだからこそ、この物語の大きく大切な軸が「さよならくらいで出会いはなくならない」というメッセージなんだろうな、と思う。
終わってしまったことも、望んでいた形じゃなかったことも、離れてしまうことも。
たったそれだけのことが、あの時間を気持ちを関係を無価値に変えてしまうわけがない。奪い去っていけるはずがない。そんな脆いものじゃないのだ。



彼らの時間は、これからも続く。そしてそれはあの尊く愛おしい時間の連続なのだということを美しい映像で描いてくれたこのアニメが、私はとても好きだ。

生きてて良かった

そこそこクソな気持ちを引きずってて機嫌取りに買ったドーナツとかお惣菜とかを無造作に通勤鞄に無理やり放り込んで、夜、散歩してた。
残業もしまくってるし、一分一秒でも早く家に帰りたいけど、でも帰りたくなくてこのまま寝ずに歩いてやろうかなくらいの不貞腐れた気持ちで帰ったら、やばいものが届いてた。



いやもうさ、散々Twitterで騒いで
その上なんの話をするんだって言われそうだけど、まじで、忘れたくないな。すげえ嬉しかったな。
当たるわけないか、の気持ちで、でもまだ倍率マシかなって応募したシャツの特典。


寝つきが悪いなかで繰り返し聴きながら、R-指定さんのインタビューやラジオでの深夜の散歩に憧れて歩いた。
夜道のお供になったアルバム。
何度も通勤のときに聴いたシングル。



ねえ、それの特典が当たる世界線って一体なに?じゃん。
いやもう、単に運が良かったと言われればそれまでだけど、でもなんかここ最近そこそこ頑張ってたつもりで「でもまだ足りない」って項垂れてたから余計に「まあ良くやってんじゃないの」と言ってもらえたような気がする。


すげえ、オーバーな受け取りにも程がある。
でも私の目の前に大好きなひとたちの限定Tシャツがある。何度も何度もラジオを聴いて笑って、インタビューを読んでそうだよな、と頷いて負けたくねえなってくらいにその姿から元気をくれてた人たちのシャツがある。
すげえな、生きてて良かったな。



とりあえず袋から出すのが怖くて出せないし、でもライブに着ていきたい気もしてるし飾っておいて定期的に気合い入れたい気もするしどうすりゃ良いんだろうな。
一旦、この気持ちを極力真空パックに入れておきたいからブログを書いた。

どうしようもない時は文を書く

悲しさを煮詰めたような気分になることがある。
夜中とかにどうしようもない気持ちになったりするといかにもなお決まりの気持ちだけどもう独りぼっちだという気持ちになる。しかもあれは、実際に独りだというよりかはこれだけの人がいるのに自分のことを本当に理解ってくれる人はいないのだというような気持ちに近い気がする。そしてそれは、酷く独りよがりな気がしてそんな気持ちを抱いたことそれ自体に大きく傷付く。
そこからは自分への怒りをボールに自分対自分のドッチボール開始になるわけで。



あなたの悲しさはいつか誰かが悩んだ悩みだ、と実朝に言う老婆の姿に何故か無性に泣けた。




2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」35回『苦い盃』の中の台詞だ。
辛い回が続くドラマの中で不吉さと優しさが両立するというすごいシーンで、しかし私は不意打ちに近いような気持ちで泣いてしまった。



そうか、という気持ちがあった。そのそうか、は大丈夫なのか、というのとも言い換えられる気がする。
実朝の表情も相まって噛み締めながらあのシーンは私の中でも大好きで大切なシーンになった。



一方で、久しぶりにフェスのDJプレイで聴いたクリープハイプの「社会の窓」を聴いて「そうなんだよなあー!」と叫びそうにもなった。

その日、ヤケクソに近い感覚でいったフェスでほんの少しほろ酔いの感覚と好きな人たちのライブを観た直後の興奮で振った頭にストレートにぶっ刺さった。


オリコン初登場7位その瞬間にあのバンドは終わった
だってあたしのこの気持ちは絶対シングルカットできないし



私はクリープハイプが好きだ。
かなりライトなファンではあるが、たぶん、彼らがずっと好きだ。それは、学生時代、しぬほど聴き倒したからだ。そしてその時の気持ちに引き戻されながら、同時に"今の私"にぐっと寄り添ってくれた気がする。



理解して欲しいと思うくせに理解ると言われた時のあの悲しさは怒りはなんだろう。理解して欲しいと言いながらどんどん閉じていくあれはなんなんだろう。



自分のどうしようもない悲しさや「この人だけは理解してくれる」という喜びがごくごくありふれたものだということに気付く虚しさや怖さ、絶望感。


そんなものを、同じ音楽で知らない人と身体を揺らしながら思い出した。でもそれは嫌な感じじゃなかった。
理解られてたまるか、という気持ちとおなじである、という嬉しさはたぶん、同居し得るのだ。




ところで、いまさらの話かもしれないし、実際鎌倉殿の劇中でも何度か話題に出てるように源実朝は和歌の名手だ。私の大好きな百人一首にも選ばれている。



世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも



自分という輪郭を曖昧にして水みたいにああそうだね、と柔らかく混ざるその感覚が好きだ。
その曖昧をいつも、物語が誰かが作った紡いだものがくれる。
いつかの同じ誰かがくれたものにひとりではないと思う。誰か、のままで、一対一のようなでもどこか対角線上で向き合ったような心地を積み重ねていると毎日の消耗もなんとかなったりする。



そうか。だから私は、誰かが作った紡いだものが好きなんだな。









クリープハイプがストレートにぶっ刺さったフェスの話

階段下のゴッホ

高収入バリキャリ女子。そうあらすじで見た時、あ、ちょっと思ってたのと違うか?と身構えた。
予告で見かけた「絵」と出会う話、ワンシーン。好きだと思ったからこそ、もしこれで「生活よりも」という物語だったらそれは私はNot For Meかもしれない。
とはいえ、気になっていたしと再生して身構える必要なんて何一つなかったと嬉しかった。


稼ぎ、描き、生きていく。


そういった都のことが既に大好きになってる。私は、この人が何を見て何に苦しみ喜び、どこに進むのか、観たい。



階段下のゴッホは、高収入バリキャリ女子である都がある一枚の絵に出逢うところから始まる。「夢みたいなこと」と絵を諦めた彼女が、真っ赤な絵に出逢う。



都は、「全部持ってる」ように見える女の子だ。美人で仕事も順調、上司からも信頼されている。
しかし、どこか虚しい。


描写としてすごいな、と思ったのは実家からの食べ物を広げ、電話で話した後、自分の部屋を見渡して呟く「広すぎたかな」の言葉だった。
家って多分、その人が出る。どんなところで暮らしているか、どんなふうに暮らしているかは、その人が詰まってると思う(だから私は人の家に行くのが好きだし、逆に自分の家に誰かが来るのは緊張する)


おそらく、都が住んでいるのは都心だろうし、そう考えるとあの部屋に住めている、というのは……あえて行儀の悪い言い方を選ぶと……彼女の社会的地位を分かりやすく示していたように思う。真新しい部屋、センスのいい家具、ひとりで住むには余裕のある部屋。
そして同時にそれが妙に寒々しく、がらんとしてるの含めて、リアルだ。
(ところで掘り下げられないからアレだけど絵と出会った後、メイクや照明が変わるのがまた愛おしい。あの出会いが、都にとっては世界の彩度を上げるものだったのだ、という演出、最高かよ!)




持ってる人だから、と敬遠される。勝手な羨望を向けられる。
あるいは。
持ってる人だから「本当」を持ってない。虚しい、可哀想。
そんな勝手な枠組みへの押し付けもなく、でもただただ、淡々とした温度感で階段下のゴッホは描いていく。



都にくっついてくる「高収入バリキャリ女子」に向く妬み嫉みあるいは冷笑に対して乗っかるでもなくただ強く否定するわけでもなく、描いていく。



絵に出逢うこと、一度は諦めたものを取りに行こうと手を伸ばすこと。
私がこのドラマが好きだと思うのはそれを描くために彼女が積み上げてきたものをただ否定するのではなく、手放させるのではなく、そのどちらもを掴もうとすることを柔らかく肯定する。


働いてないと私じゃないの。
そう言った都は最高に格好良かったし、可愛かったし、良いな、と思った。働くことが虚しいと誰が決めた、と思う。し、その上で、自分の好きなものに手を伸ばして何が悪い、と思う。




そして何より。このドラマで描かれていた絵のこと、芸術、とどのつまりは「返事を期待しない便り」のことを考えている。
誰かの評価ではなく、ただただ、自分が自分のために自分は最高だと確認するために生み出された送り出された手紙たち。
私は、そんなものをいくつも知ってるんだと思う。
あちこちに手紙がある。それを私は一つ一つ拾いたいと思う。
たぶん、返事は待ってないんだろう。私のために書かれた手紙なんかではないんだと思う。だけど、私はそうして送り出された、生み出された手紙が好きでそんなものに何度だって元気をもらってきたのだ。
だから、受け取った時、ここに届いてると大きく手を振りたくなるんじゃないか。



何かを為すには人生は短く、何も為さないには人生は長い。いつか聴いた言葉を思い出した。


"好き"を見つけるのも、
"好き"で一番になるのも難しい。
けれど"好き"を続けることが、
何より難しく、誰より美しい。



ホームページに書かれたその言葉が、好きだ。
きっと、ここからいくつも苦しいことが描かれるんだろう。でもその時、同時に美しく楽しいことを描いてくれる。そしてそれが単なる夢物語じゃなく、現実なのだと描いてくれる気がする、このドラマのこれからが楽しみだ。




階段下のゴッホ
#TVer

ヅカローを観た

宝塚を観に行った。
お芝居がずっと好きで、そんな中で何度も聞かれた「宝塚とかが好きなの?」という質問。しかし残念ながら実際は全く縁がなく、いつか観たい観たいと思っていた宝塚を観に行った。


憧れているあいだぐんぐん高くなった敷居というか、どこか遠くの存在のその場所で、まさか久しぶりの顔に出会えるなんて、誰が想像しただろうか。



宝塚がハイローとコラボをすると聞き、最初はいつもの「集団幻覚」かな?と本気で思った。集団幻覚とはこれまでも予期せぬ撮影当時の思い出や未公開ショット、オフショットが出たり、思いがけないコラボ(カップヌードル)が次々と繰り広げられる「ハイロー」らしい界隈のよくある表現だ。
まさか、と言いたくなるような公式からの投下がある。その度にTwitterのタイムラインがざわつく。
そういう「お祭り感」あるいは「共犯者感」がすっかりおなじみになっていたし、ある意味でハイローというさまざまなメディアミックスを展開してきたジャンルらしい現象だとも思う。



思えば2017年、HiGH&LOWのTHE MOVIE2をいきなり酔った勢いで観に行き衝撃を受け、ドラマを一気見し、あれやこれやと過ごしてる間にLDHEXILE三代目J SOUL BROTHERSにハマり、と手を広げ出してから随分が経っていた。
5年である。小学6年生が高校に入学するくらいのその期間。
思えば色んなことがあって、いい意味でも「慣れて」きていた。



ハイローの世界でもSWORDの物語が一旦終わり(いやバルジって誰だよとかはあるけども)、世間もハイローも鬼邪高の全日を中心としたクローズとのコラボ、「次の世代」へと移り変わっていく。




それが嫌だとかという話ではない。
むしろハイローはずっと「ひとは変わり続ける」ことを描いていた。



永遠はないのだということも伝え続け、それでも"無限"はある。




あの日泣きながらドラマとザム1を駆け抜け、すっかりムゲンで過ごした「ない記憶」をもとに分かったよ龍也さん…!琥珀さん…!と思った人間がどうしてその変化を嫌だなんて思うだろう。



穏やかに自分たちが知った時から変わり続け、でも変わらないものもある「ハイロー」の物語を一歩下がってにはなるけど、見守り続けよう……変わらず同じ距離感で愛してる人たちもそれぞれに好きの形はあるし、それって素敵なことよね……。





なーーーんて、穏やかな気持ちで今回の「宝塚でハイローやります!」も聞いていたわけです。
あらあらハイローってば相変わらずトンチキ度数が高くて予想外なことを繰り広げてくれるのね…びっくりしたわ…なんて気分は近所の昔馴染みのおばちゃん、みたいな感じ。


でもせっかくだし、憧れていた宝塚とのコラボもこれは何かの縁、と友達の力もあり、チケットを入手しながら迎えた観劇当日。







泣いた。
もう泣いた。
オープニングで泣いた。
あの日、繰り返し観た、聴いた、思い出したハイローの世界がそこにあった。




オープニング、お馴染みのナレーションをヅカバージョンで繰り広げながら、彼らが揃う。その時の気持ちをなんて表現したら伝わるだろうか。



SWORDの5人が揃った時、たまらない気持ちになった。
彼らの名乗りと照明、歌。もう、最高。



宝塚、派手なんだな。めちゃくちゃ派手だった。衣装とかはもちろんハイローのそれなんだけど、派手だ。
あとあのセットに負けないデザインのハイロー衣装すごいな、とも思った。キャラデザインが優れている、っていう話は度々ハイローで聞くけどたしかに、と思う。


宝塚がすごいな、と思うのは、セット転換のスムーズさだった。あまりにも滑らか。気付かない。気が付けば変わってる。幕と回転舞台と奈落とって全ての機構を使いながらセットをがんがんと変えていく。


すごい。



これが宝塚…と拝みたくなった。
派手なセットなのに転換してる時にほぼ意識いかないのがすごい。本気で「日常を忘れて夢を見せる」覚悟がある。すごい。




そして、ハイローと宝塚のミュージカルって親和性が高いんだな、と気付く。
そもそもハイローの彼らはコミュニケーションが少ないというかちょっとちゃんと喋りな!!!!と思わず首根っこ掴みたいことが多い。でも気が付けば、彼らが何を考えているか。感じているか伝わる。


そんな魅力が宝塚だと更に増し増しになる。
彼らが何を感じてるか、信じてるか、どうあろうとしているか。



それを美しい人たちが歌って踊って殺陣をする。
すごい。
否が応でも伝わってくる。



歌い上げられる。
格好いい。音楽の力に圧倒される。
更に言えばKEN THE 390さんがラップ指導に入り、ラップまでしてくれる。
ハイローの好きなところは音楽でもあったわけですが、それを宝塚の人々が奏でてくれる。いや、この音楽、最高だな。




魅了されている間に、気が付けば終わっていて私は呆然と舞台を見ていた。感謝しかなかった。




当たり前だけど、宝塚とハイローは相性が良いところもあれば、合わないところもあると思う。
例えば、今回の宝塚ハイローの脚本演出を担当された野口さんも仰られていた通り、ハイローが掲げる「全員主役」と「トップスターが主役」の宝塚はシステムの部分では大きく異なるようにも思う。
また宝塚ではお約束(と、言いつつそもそも精通していないから勝手なイメージなのかもしれない)である「ラブロマンス」もハイローと相性が良いかと言われると意見が大きく分かれるところだとは思う。



そういった"違い"はもちろん感じた。あくまで宝塚のフィルターを通した「ハイロー」の表現である。
それはもう、間違いない。
なんだけど、ハイローだ!と興奮した、あの感覚はなんだったんだろう。





一つには間違いなく、SWORDの人たちのことが私が大好きだというのもあると思う。
それはなんというか、理屈じゃないのだ。
この文を書きたい、と思った時からずっと考えていた。なんでだろう、なんでSWORDの彼らがこんなに好きなんだろう。



年齢が近いからか。
持ってないひと、失くしたひとが描かれていたからか。
でもどっちもそうだな、とも思うのにどっかしっくりこなくて、ずっとなんだろうな、と考えて考えて思ったんだけど、


この5年を、そしてあの私自身も迷いまくっていた2017年を一緒に過ごしてくれたからなんだな。



それは制作時期が、というのもそうだし、それだけじゃなくて(正確には私はザム2からなので厳密な制作、という意味では出逢ったタイミングが若干遅い)ハイローという物語と出逢いながら、楽しみながら、私は私で私生活の中でもがいていて、そんな自分に寄り添うように「変わること」「失くしたこと」「自分の足で立ってどこまでもバイクで自由に走り出せること」を見てきたのが、彼らだと思ってるから、だから、きっと、彼らが好きなのだ。




それはもう、理屈じゃないのだ。



2017年、ドラマと映画を一気に観終え、この物語の続きに何が描かれるんだろうとドキドキしながらザム3の公開を待ち望んでる時も、そういや私はブログを書いていた。






その中で書いていた

理想だけでも生きていけないことを知りながら、
決して現実に埋もれ切らない

という文を今回久しぶりに読み直して、ああ私にとってハイローってそんな物語だったな、と思い出した。

それは私がそう観たかったんだと思う。

あの頃、現実に負けそうで自分と理想の自分のギャップだとかうまくいかないこととかそつなくこなしてる人たちへのやっかみだとかそういうのを全部全部煮詰めて這いつくばっていたので、村山さんの「俺とお前何が違うんだよ!!!」がぶっ刺さり、それ以外にもたくさんたくさん大切な瞬間が重なって私にとってハイローは大事な物語になっていったわけだ。



そしてそんな彼らが、ザム3で青春の終わりを描き、ザワで大人になることの肯定してくれたことが、私の人生に大事な彩りを与えてくれた。
だからこそ、彼らのことが私は今でも変わらず大好きだし、ヅカローで演じる人、表現方法は違えど、SWORDの彼らと出逢った時、まるで楽しかったクラスの同窓会のような嬉しくてたまらない気持ちになったんだと思う。




そして、それは私にとってはSWORDの彼らであったように、
誰かにとってはザワやザワクロでの彼らで、あるいはこれからも紡がれ続けるだろう物語の中の誰かで。それぞれがそれぞれの大切になっていくんだろうな、とも改めて思った。
そういう強さ、面白さがあるから、私は「ハイロー」というプロジェクトが好きだ。



宇宙のどこかに地球と似た惑星を発見した時のような驚き



そう、ヅカローの脚本演出の野口さんが書いた言葉を見て、頷く。
そう、そうなんだよな。


野口さんのごあいさつ文末の文が、私は大好きだった。だからこそ、私たちは劇場に映画館に足を運び、テレビを着けるんだと思う。
それは単なる逃避という話ではなくて、ここで地に足をつけて生きていく、生活をする糧の話なのだ。


そしてハイローは、まさしく、そんなエネルギーを生み出し、脈々と受け継ぎ絶やさずいてくれるんだと改めて今回実感した。



自分にとってハイローがどれくらい大事で大好きなのか。久しぶりにこんな長文が書きたくなるくらいの気持ちを思い出させてくれたヅカローに心からの感謝を。



石子と羽男 -そんなコトで訴えます?-

石子と羽男、面白かったな。



観たいドラマが立ち並んでわくわくしていた今期、結局ドタバタと生活に追われてそのほとんどが見れなかったなかで、なんとか見切れたのがこの「石子と羽男」だった。


石子と羽男が描いたのは、日常の中に潜む「そんなこと」に苦しむひとがいること、そして、徹底して「助けてと声をあげてほしい」ということだった。



3話の感想でも書いたけど、このドラマが描いたそこにいる人たちが心底愛おしくて、その生活と地続きである今私が生きているこの世界までも、ちょっと愛してしまえるような気持ちになってるからすごい。



例えば、街にたむろする少女たちを助ける回。
終わった直後流れた制作陣のアンナチュラルやMIU404から徹底した「助けてと声をあげる人を助けるひとがいる」という物語は、色んな人に届いて、お守りのようになったと思う。


加えてそんな石子と羽男が単なるヒーロー譚とならなかったのはそんな「助けてと声を上げるひと」を、ただただ生きてきた生活をする人を踏み躙る悪意もしっかりと描いたからじゃないだろうか。

綺麗事ではなく「弱いから悪い」と嗤うひとを、法律という誰かを守るための傘の隙間を縫う悪意を、目を逸らさずに描いた。そしてその上で、それを覆すのは超現象的な奇跡でも、誰か突出した特技を持つ超人でもなく、ひとりひとりの積み重ねた努力や地味な作業であり、なんでもない"普通の人"であり、何より「助けて」と声を上げた人なのだと語りかけ続けた、そんなドラマだから、私はものすごく、このドラマが好きだ。


ヒーロー譚ではある、あるんだけど、そのヒーローは私たちと同じ人であり、被害者自身なのだ。



思えば、羽根岡の一度見たら忘れない能力や石子の思考力・発想力はそれだけ見れば「特別」な気もするけど、ただその能力があるから全てうまくいくわけではなく、その上で足りないところを補い合い、「この人たちとなら最強になれる」と思える人たちと立ち続けるその姿が、私はたぶん、大好きだった。



悪意が積み重なる、生きてることこそ怖くなるこの世界で、無駄じゃない、と繰り返し言ってくれたこのドラマのことを忘れないでいよう。


それから。
羽根岡の家族を単なる毒親、毒家族と描かなかったことも本当に良かったな、と思う。
もちろん、そうではなく、本当に加害性に満ちた親族はいるし、例えその人にどんな事情があれ、許されるべきではない身内の加害だってあるから、難しいけれど。
いや、難しいというか、なんならシンプルに「羽根岡家はそうじゃない」という話でしかないか。
(実際、7話では家族との和解以外の道を描いている)



誰かが特別ではなく、それぞれに生きている場所があり、生活があり、時々それが交わって助けてと言えば助けてくれる人だっている。
それが家族の時もあれば、友人、恋人、弁護士のような専門家、公共の福祉の時だってある。
道は一つではないのだ。
一歩踏み出した石子の明日が、傘を差し出した羽根岡の明日が、一生懸命で不器用な大庭の明日が、晴れていたらいいと思う。



苦しむ誰かに傘を差したいと生きる彼らに、また会えたらいいな。