えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

どうしようもない時は文を書く

悲しさを煮詰めたような気分になることがある。
夜中とかにどうしようもない気持ちになったりするといかにもなお決まりの気持ちだけどもう独りぼっちだという気持ちになる。しかもあれは、実際に独りだというよりかはこれだけの人がいるのに自分のことを本当に理解ってくれる人はいないのだというような気持ちに近い気がする。そしてそれは、酷く独りよがりな気がしてそんな気持ちを抱いたことそれ自体に大きく傷付く。
そこからは自分への怒りをボールに自分対自分のドッチボール開始になるわけで。



あなたの悲しさはいつか誰かが悩んだ悩みだ、と実朝に言う老婆の姿に何故か無性に泣けた。




2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」35回『苦い盃』の中の台詞だ。
辛い回が続くドラマの中で不吉さと優しさが両立するというすごいシーンで、しかし私は不意打ちに近いような気持ちで泣いてしまった。



そうか、という気持ちがあった。そのそうか、は大丈夫なのか、というのとも言い換えられる気がする。
実朝の表情も相まって噛み締めながらあのシーンは私の中でも大好きで大切なシーンになった。



一方で、久しぶりにフェスのDJプレイで聴いたクリープハイプの「社会の窓」を聴いて「そうなんだよなあー!」と叫びそうにもなった。

その日、ヤケクソに近い感覚でいったフェスでほんの少しほろ酔いの感覚と好きな人たちのライブを観た直後の興奮で振った頭にストレートにぶっ刺さった。


オリコン初登場7位その瞬間にあのバンドは終わった
だってあたしのこの気持ちは絶対シングルカットできないし



私はクリープハイプが好きだ。
かなりライトなファンではあるが、たぶん、彼らがずっと好きだ。それは、学生時代、しぬほど聴き倒したからだ。そしてその時の気持ちに引き戻されながら、同時に"今の私"にぐっと寄り添ってくれた気がする。



理解して欲しいと思うくせに理解ると言われた時のあの悲しさは怒りはなんだろう。理解して欲しいと言いながらどんどん閉じていくあれはなんなんだろう。



自分のどうしようもない悲しさや「この人だけは理解してくれる」という喜びがごくごくありふれたものだということに気付く虚しさや怖さ、絶望感。


そんなものを、同じ音楽で知らない人と身体を揺らしながら思い出した。でもそれは嫌な感じじゃなかった。
理解られてたまるか、という気持ちとおなじである、という嬉しさはたぶん、同居し得るのだ。




ところで、いまさらの話かもしれないし、実際鎌倉殿の劇中でも何度か話題に出てるように源実朝は和歌の名手だ。私の大好きな百人一首にも選ばれている。



世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも



自分という輪郭を曖昧にして水みたいにああそうだね、と柔らかく混ざるその感覚が好きだ。
その曖昧をいつも、物語が誰かが作った紡いだものがくれる。
いつかの同じ誰かがくれたものにひとりではないと思う。誰か、のままで、一対一のようなでもどこか対角線上で向き合ったような心地を積み重ねていると毎日の消耗もなんとかなったりする。



そうか。だから私は、誰かが作った紡いだものが好きなんだな。









クリープハイプがストレートにぶっ刺さったフェスの話