えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ANSWER… 大阪DAY2


※曲、演出バレがあります


ステージを作り上げる人なんだと思った。
登坂広臣さんのファーストソロツアー、「FULL MOON」でも冒頭映像演出があった。
物語仕立てで、ライブを始め随所にその映像を進めながらライブそのものを作り上げていく。
その作り込みも、私はすごく好きなのだ。


そんなことを、今回、ANSWER…のオープニングで考えていた。
それは最初にまた映像があったということもだけど、それだけではなくその後の楽曲たちのパフォーマンスがそれぞれその曲を"魅せるため"に作られているように感じたからだ。
特に恋愛の曲が多いおみさんの魅力を全部詰め込むように、恋愛を歌い表情や歌い方で表現する姿はとんでもなく美しかった。
また、シンプルな中で映像や階段を使い、まさに「作り込んだ」演出のように感じる。
登坂広臣さんの持つ「何を魅せたいか」の確固たる考えや、それを体現できる力にほぼほぼ最初は圧倒されていた。


プロデュースをしてみたい、と口にすることに物凄く納得するというか、この人がプロデュースして誰かをより輝かせる姿を見てみたいと心の底から思った。



おみさんが、何をどう見せようとしているのか。
なんというか、それを見せてくれるのが本当に楽しくて格好良くて、ああステージを作る人なのだ、と思っていた。



んですよ、前半。
だから結構冷静で「ああ格好いいな、そうだな、この人のこういうところが好きなんだよな」と思っていた。


それがだんだん変わってきだしたのはOVERDOSEくらいだった。
原曲に大きくアレンジを加えた演出に、頭が理解する前に涙が出た。
そして思い出した。
それこそ、最初の「FULL MOON」で思ったのだ。
おみさんの歌い方の自由さ、フレキシブルさ。
そのままその楽曲を歌うだけじゃなく、アレンジを加え歌い方を変え、歌う場所を変え。
音楽ってこんなに自由なの?と驚くと同時にそうすると聴こえ方がまるで違う曲のように感じること。


音楽って、誰がいつどんな状況で聴くかで全く別物になるのが本当に面白いと思っている。
そして、それは歌うひとでも変わるのだと思った。
その人が今、その曲で何かを伝えたいのか。それ次第で曲はいくつもの表情を見せてくれるのだ。
主題が何でも人が歌う以上、その人やその人の気持ちをいくらでも込められること。そしておみさんはそうして「歌うこと」で気持ちを伝えるのが、凄まじくうまいのだ。
言葉という明確に見えて実はすごく曖昧で難しいものじゃなく、音楽に感情を込めることでこの人は色んなものを伝えてくれるひとなのだ。


そんなことを思いながら、2年前のInstagramに投稿されたストーリーを思い出した。

「歌が唄いたい」

シンプルなその一言に込められていた気持ちに改めて、触れたような気がした。
その音楽に込められているものだけじゃなく、気持ち・感情を伝えるこのひとにとって唄えないということはどれくらいしんどいことだったんだろう。それを慮るというのは、とても品がないというか、失礼なことなのかもしれない。
だけど、私は今更、その怖さや理不尽さを想像してしまったし、改めてこの人が人前で思い切り唄えることに感謝した。



そして、そんな気持ちはステージが進むにつれ、強くなっていった。
観客である私たちへの愛を伝えるような構成のステージに心底驚いた。
でも、このステージが、舞台上から見える景色がどれくらい待ち侘びたものだったのかと思うと、そうかあ、とも思ったのだ。そして、心底思う。私も、私たちも、この光景が観たかった。



どうしようもない、許せない、人間にガッカリすることが多い中で
音楽で同じ時間を空間を共有することは、とんでもなく、大きな愛なのだ。



そう思えたのは、もしかしたら、このステージに立つことが苦しかったこともあったことをおみさんが口にしてくれたからかもしれない。
ただただ百点満点、一点も曇らず幸せだったわけじゃなく
むしろ苦しいこともたくさんある中で、それでもこの景色を、私たちを宝物だと言い切って笑ってくれたことにいまだに驚いてる。もしそうなんだとしたら、私も、それを大切にしたかった。歌い続けて良かったと思い続けられるように大切にしたいし、何より自分の人生を大切にしたいと思った。


これが答えです、と言い切ってくれたこの人を、ずっと大事にしたいし愛していたいと思ったので。



本当に幸せだった。嫌なことも多いんだけど、こういう瞬間が私は人生でものすごく、好きなのだ。


観たのがスタンド席だったので、会場中の青い光を観ることができたのも本当に嬉しかった。
この光が、あなたを傷付けることも残念ながらあるのかもしれない。そんなことを自分がしないことを願っているけど、過信は全く残念ながらできない。
だけど、それでもどうか一瞬でも長く多く、この光があなたの幸せに繋がりますように。
明日、次の瞬間、心底嫌なことがあっても大丈夫だと信じさせてもらえたことが嬉しくて、私はそんなことを祈っている。

生業 札幌公演

なんで表現するのか、ということをずっと考えていた。スピーカー前、音楽と声のエネルギーを振動として浴びながら、びりびり震える体内の水分の感覚を噛み締める。



HIPHOPの話をする度に私は「自分ごとを歌う音楽だから好きだ」ということを書く。今回も例に漏れず、そんなことをずっとずっと考えていた。



自分のことを歌うということは、それだけ誰かに自分の弱点を晒すことなのかもしれないとAwichさんとRさんの歌声を聴きながらずっと考えていた。
それは単に弱さも含めて歌うから、ということだけではない。



女だからとか
シーンに合ってないとか
いかつくないとか
育ちが普通だとか
見た目だけだとか



自分の属性、考え、価値観を歌えば歌うほどそこを揶揄したり逆に妬んだりされるわけで。
そういう外野の喧しさの中、ど真ん中に立って歌うのはなんて怖くて凄いことなんだろう。
知られるということはそれだけdisを挟み込める隙が増えるということだ。
そして好意的だとしても誤解からの検討外れの声だって増える(なんなら、この感想だってそんな無責任な検討外れの言葉なのかもしれない)




自分が傷付くのは嫌だ。
無闇矢鱈と外野から攻撃されるのは、出来る限り避けたい。
その上、そうして何かを表現することで意識的にあるいには無意識的に他人を傷付けることにもなったりする。
わざとそうしたこともあれば、軽はずみな言葉が思ったよりも相手を刺してしまうこともある。
意図しない取られ方で抉ることもある。
誰かを傷付けることは、いつかブーメランで返ってくる。




考えれば考えるほど、表現することはリスクだと思ったし、なんでやるんだろうと思った。
自分だって誰かの表現に傷付いているし傷付けているし、
じゃあそれを全部避けようとするとどん詰まりに行き着く。
たぶん、誰かを不快にしない・傷付けない・誤解されずに届く表現はないんだと思う。
かと言って「だから仕方ない」と開き直ってまで表現する意味が私には最近分からなくなっていた。



そしてそんなことを定期的に考えては嫌気がさして
その度に私は、Creepy Nutsに行きたくなる。
私に最初にHIPHOPは自分ごとを歌うのだ、ということを教えてくれた、
物凄く怖くて楽しくて危うくて格好いい音楽なのだと教えてくれた彼らの音楽は、
私にとって物凄くデカいのだ。



そして今回、ほぼ衝動に任せて北海道に行って触れた生業というツーマンライブは、やっぱりHIPHOPはめちゃくちゃイカすということをビリビリ味合わせてくれた。




Awichさんが最高にセクシーで語弊を恐れずに言えばエロくて、格好良くて可愛くて強くてあまりにも最高だった。
なんでこんなに真っ直ぐ立ってるんだろうとか、楽しそうでなんか、"クイーン"という表現にめちゃくちゃ頷いていた。
その上「等身大」でもあって、この感覚はなんだろうと思った。握り締めたマイクを通して届いていたのはきっと変な装飾もないど直球な"Awich"というアーティストの姿だった。
表現すればするほど、誤解が増えたり勝手な好意悪意が付き纏う。それ全部に中指立ててベロを出しそうな気配にひたすら、圧倒されていた。


しかもその人は、ひたすら観客である私たちと話をしようとしてくれる。対話というよりも、なんか気配と気配のぶつけ合いのような気がした。この人の前で変に取り繕ったり偽ったりしていたくないな、と心の底から思わせてくれる。
何もしていない外野のごちゃごちゃした野次は全部「は?あんた誰?」って蹴散らしていこ、と煽る声に背中を真っ直ぐにしてもらった気がした。




残念ながら松永さん不在の形になってしまったCreepy Nutsの音楽は、しかし、いない中でも「ふたり」の音楽だと思った。
どこまでも自由で自分たちの為に音楽を作っていて、その中、自問自答を繰り返しそれこそ表現することのエゴも矛盾も暴力性も何より楽しさもを詰め込んだ音楽は、ふたりで作り上げたものだった。
そしてやっぱり私は、そんな彼らの音楽が大好きなのだ。
Rさんが歌うRさんの自分ごとに勝手に自分を重ねて拳を上げ、身体を揺らすと最高に気持ちよくて楽しい。



理屈だとかではなく、"だからだ"と熱量を持って思う。どうしようもなくこれが必要なのだと叫びたくなる。



その上、AwichさんもRさんもそうして表現の先に、同じように逃げずに表現をし続けた仲間の話をしていた。



表現をすることは誰かを自分を攻撃することで
無理解と誤解とを作ることなんじゃないかと
ずっと思ってしまっていたけど、彼らは本当に反論の余地もないくらい、めちゃくちゃ格好良くて最高だった。



ツーマンという、対バンという形でこんなに格好良くて熱くて最高のステージを観れたことがなによりも「表現をすることで繋がること」の答えだと思った。

繋がるというのは、同じになることでも横並びになることではない。彼らはそれぞれ、自分ごとを歌っていて、だからおんなじ、ではないんだと思う。



うまく言葉にならない。まだ、あの時思った迫り上がるみたいな感情を言葉にする術を私は持たない。
持たないからこそ、表現し続けて探したいと思った。それは、私にとってそれが本当に本当に大事なもので、絶対に手放したくないものだからだ。
何度も何度も間違えながら傷付いたり傷付けたりしてしまうこともあるだろうけど、それに怯まずになんならちゃんと真っ当に傷付きながら、表現していきたい。




Caseのライブに行った時の感想



わりと近いことを言ってて、そう思うと私は何回忘れたりがっかりしたりするんだよ、と呆れてもいるけど。別にいいんだ。
きっと今のこの衝撃も日常の中で摩耗して薄れてわからなくなって凹むんだろう。
だけど生きてる限り、そして人が表現を続けている限り、何度だって思い出せるから、だから、良いんだ。

もしも英語が使えたら

英語が身近かと言われるとそんなことはない。

comeをこめ、と読んでしまった高校時代から進歩なく、相変わらず英語にはどこか尻込みしているところが自分の中にあると思う。

 

 

そんな私が唯一、英語が身近になる瞬間がある。

 

 

それは、映画を観ている時である。

上映時間のタイミングさえあえば、極力字幕で観る派だ。とはいえ、吹替で出会って大好きな作品もたくさんある。ふたりの演技をひとりの人物を通して観ることができるのもまたとんでもなく贅沢で幸せだとも思う。

 

 

 

では何故、字幕で極力観ようとするのか。

 

 

 

それは、英語の台詞を聴きたいからだ。

全ての台詞がきちんと聞き取れているわけではもちろんない。だけど、時々、たまたま耳がキャッチした言葉が頭に飛び込んでくる。

私はその時、ものすごく幸せな気持ちになる。字幕の台詞と聞こえた台詞を照らし合わせて、どうしてこの訳にしたんだろうと想像する。

 

 

思いがけないひとつの単語が長い言葉に表されたり、その逆があったり。

そこには翻訳の人の物語に対する読解や知識が出てくると、以前英語に精通している友人に聞いてますます時々起こる「言葉が聞き取れる瞬間」を心待ちにするようになった。

 

 

 

吹替が一役で二人のひとのお芝居を堪能できるとすれば、字幕でそうして台詞を聞き取れた時は、一つの言葉で二人のひとの想いに触れられる贅沢さがある。

 

 

もしも英語が使えたならそんな瞬間が増えるんだろう。

私は映画が好きだ。映画で、自分とは違うひとの人生に触れ、自分では経験しないような出来事をまるで自分ごとのように感じるのが好きだ。自分ごとのようには感じられなくてなんでだろうと考え続けるのが好きだ。

そしてそれは、きっと、英語を使えて聞き取れる言葉が増えたとき、もっともっと奥行きを増していくんだろう。

 

 

聞き取れた台詞で学生時代、嫌々覚えた単語の新しい意味を知ることがある。

もしくは、テストで「簡単な単語だな」程度にしか思ってなかった言葉がとてもよく使う言葉だと知って、なんだか急に楽しくなることがある。

 

 

私は、英語を使えるようになった自分が今より色んなシーンで彼らの言葉により色んな視点で触れるところを想像する。

なんなら、今まで何度も観た作品・吹替で見てきた作品を見てもいいかもしれない。もしかしたらそこにはよく知った親しい作品の気付いてなかった表情があるかもしれないと思うとわくわくする。

 

 

もちろん、ただ英語を使えるようになっただけで全部が分かることはないだろう。

最近私はこの「分かる」について考える。

喋ったり書いたり「言葉を使う」ことは大好きだけど、同時に意図していない捉え方ができること、もしくは意図している捉え方をしてもらえないこと、はよくある。よくあるどころか、常になのかもしれない。

そう思うと途方もないし、英語を使えたから「解ること」が増えると思うのはもしかしたら安易かもしれない。

 

 

だけど同時に私は思うのだ。その思ったよりも伝わらない(それは意図しない伝わり方をすることも含めて)と感じた時、もしかしたら初めて、コミュニケーションは始まるのかもしれない。

 

それはどちらかといえば、心底そう思ってるというよりも「なんで伝わらないのか」を考え続け、ちょっと疲れ出したからこそのヤケクソ気味の結論である。だけどきっと、そう検討外れな結論でもないと思ってる。

 

 

 

もしも英語が使えたなら、私は「分からないのだ」ということを理解したい。誰かの気持ちに触れて、分かったような気持ちになったのち、それでも理解しきれない、と心底思ったあと、もう一度あなたと、話がしたいのだ。

 

 

※この文章は下記キャンペーン参加のために書いた文章です。

#つくのラジオごっこ(23.8.7更新)

#つくのラジオごっこ


メインはTwitter(@tsuku_snt)のspaceにて、友達と一緒にその時話したいことについてあーだこーだ言ってます。

ラジオ「ごっこ」という名前の通り、
ここ数年ラジオに何度も面白い!となってきた私が小さい頃やってたごっこ遊びのように好きな番組への憧れを詰め込みまくって話をしています。

どんな話をする上でも「好き」を核において話がしたい。その中で、"ラジオ"でしか見えないものがあると思ってやっています。



またAnchorのアプリを使ったひとりで喋る #つくのラジオごっこ もしています。

AnchorというアプリはSpotifyと繋がっていて短いですが、Spotify上の音楽を流せます。
なので、ここでは自分の「好き」とそこから考えたことを話しつつ、最後に延長線上にある「好き」な音楽を流します。


また #つくのラジオごっこ というハッシュタグを最近つけています。
メインがTwitterのspaceになるため、コメント機能がないのですが以前ツイキャスでお話をした時、コメントをもらいつつお話できたのがとても楽しかった記憶があります。
そのため、実際拾えるか拾えないか、そもそもリアクションがくるのか分かりませんが、ハッシュタグを作りました。良ければご利用いただけると嬉しいです。


ともあれ、どんな媒体・テーマ・やり方でも変わらず、「好き」の話をしていこうと思います。
最近すごく思うのは、私は自分の「好き」をアウトプットしながら自分の外に出たその「好き」を確認することが大好きなんだと思います。


よければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。


ひとりでの #つくのラジオごっこ

エピソード1 "ラジオ"の話

エピソード2 エンタメの話

エピソード3 ブルーピリオドと表現すること、好きなものの話

番外編1 withセンパイ

エピソード4 THE TAKESの話


エピソード5 HIPHOPのライブを観て考えた話

#つくのラジオごっこ 日本語ラップ


日本語ラップって面白いな?!って話をソラちゃんに聴いてもらった回


#つくのラジオごっこ 雑談回


友達のしーくんとごった煮雑談をした回


#つくのラジオごっこ 畳屋のあけび


配信で観た畳屋のあけびが面白かった話をソラちゃんとした回


#つくのラジオごっこ アンサンブル・プレイ


2022年9月に発売されたCreepy Nutsさんのアンサンブル・プレイについての妄想を語る回


#つくのラジオごっこ 1周年だよやった〜!


なんとこの遊びを始めて1年が経ちました


エピソード6 伝わりますか?

今更ながらに伝わるって難しいな〜と思った話をひとりでしている


#つくのラジオごっこ 最近楽しかったこと


最近どう?何が楽しかった?の話をソラちゃんとする回



#つくのラジオごっこ(録音) 「好きに値する」ってなんだろう

色々あったので「好きに値する」ってことについて考え込むのにソラちゃんに付き合ってもらう回



#つくのラジオごっこ コチラハコブネ、オウトウセヨ


ポップンマッシュルームチキン野郎さんの22年12月公演「コチラハコブネ、オウトウセヨ」の感想をソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ FLOLIC A HOLIC


フロホリこと東京03さんとCreepy Nutsの公演についてソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ 好きなチャンネルが増える話

「推しを複数作ってリスクヘッジ!」は無茶言うなと思うけど好きなチャンネルが増えるのは楽しいという話


#つくのラジオごっこ ノンバーバルパフォーマンスギア


ソラちゃんと京都でロングラン公演されているノンバーバルパフォーマンスギアについて語りました。



#つくのラジオごっこ エブエブと映画を贈ることwithなっぱちゃん

友だちのなっぱちゃんと映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」の感想を。それから、映画体験の話。


#つくのラジオごっこ 毛布みたいなエンタメ・カツ丼みたいなエンタメwithなっぱちゃん

なっぱちゃんと一緒に「救われたエンタメ」の話から毛布みたいなエンタメとカツ丼みたいなエンタメ、人が作ってることの話になりました



#つくのラジオごっこ あの頃のインターネットあるいは発信することされることwithづめこさん

前回エピソードでその人にとっての大切なエンタメの話を聴きたくなって2人目づめこさんに聴いてきました。インターネットやそこで出会ったあるいは運営していた個人サイトの話から何故かラップバトルの話まで?!

恋せぬふたり

恋せぬふたりの感想では、いや感想というより前評判では「とか言いつつ、結局ふたりは結ばれるという終わりが来るんじゃないか」と言われていた。
多くの「恋愛を目的としない」男女の共同生活の物語が「そして二人は結ばれましためでたしめでたし」で終わることが多くて、だからこその心配というか、予想の声だったんだろう。


実際、観終わってなるほどなあと思っている。
どうやって終わらせるか、という期待と不安にこの恋せぬふたりはわりと誠実に向き合ってくれたように思うのだ。


第7話で高橋さんの過去の恋愛、仕事の変化や本当にやりたいこと、が描かれた。
若干この辺りの描写については広がり過ぎたような印象もあり、8話で描くには広いテーマだったのかもな、と思う。
しかし、実際結婚と仕事(キャリア)は深く繋がっていたりするし、誰かと暮らすこと=家族(仮)を描いてきたこの作品がこうした展開になるのはある意味そうだよね、と納得もするのだ。


いつの間にか、生き方の話になったな、とも思ったけどそもそもずっとそうだったのかもしれない。恋愛を絡めなくても人生は色々あって大変で楽しくて豊かだ。



恋せぬふたりの中で高橋さん・咲子が出した結論について私の中で言語化するのが難しい。分かったような、納得したような、いやでもやっぱりどこか(言葉を選ばずに言えば)肩透かしだったような気もする。
一方でそう考えれば考えるほど、咲子の台詞が効いてくるとも思うのだ。

「なんにも決めつけなくて良くないですか?」


物語なのである程度の結論、オチは必要なのかもしれないが、この恋せぬふたりの登場人物たちが「これからも生きていくんだろうな」と思えたことが嬉しかった私にとってスッパリと綺麗な結論、メッセージよりも「とりあえずは今はこれで」の方がなんだか良いなと思えた。



咲子さんが高橋さんの家に住み続けることは帰ってくる場所が高橋さんに出来たということかもしれない。そんな風に観ながら考えていたけれど、物語中、明確な台詞ではそんなことは描かれなかった。だからこれはもしかしたら、私の勝手な感傷かもしれない。



恋せぬふたりは元々「恋愛がなければ(成就されなければ)幸せになれないのか?」という問い掛けが核にあった。
あるいは「そういうものだから」と理由もなく当たり前になっているものを問い直すような物語でもあったと思う。
そしてそれは「恋愛ではない彼らの関係性こそ尊い」というものでもないように思うのだ。



恋愛関係なく家族になれれば正解だとかという話でもなく、ただただそれぞれ、その瞬間その人たちにとっての感情や想いを否定せず、決め付けず「話をすること」。
そうすることで生まれるものの一つ一つが愛おしく素敵なものだということをこのドラマは丁寧に描いていた。


ところで、高橋さんが最後、自分のやりたいことを選び、基本的にはひとりで立ちながら自身を貫くということを考えていた。
ある意味でこの物語の当初から高橋さんはそんな人だった。
自分の好きなように生活し、世間の当たり前にどうしてですかと問いかけ、あるいは受け流し、自分の言葉でそれに対する違和感を形にしながら暮らす。
ただもちろん、このドラマを最初から最後まで見た人は高橋さんが何も変わっていない、なんて思っていないだろう。
そもそも、ああして周りの農家の人たちと笑う表情はドラマの初めの頃の高橋さんなら見れなかったに違いない。


高橋さんは世間の当たり前からきちんと距離をとって生きている人だった。だからこそ、ドラマの前半(いやなんなら3分の2くらい)は咲子やその周りの人達がエクスキューズされる形で物語は進んでいったんだと思う。
でも、実際にそう思いながらも「恋愛を絡めなければ人生は送れない」という何故か世界に蔓延している思い込みに高橋さんだって捕まっていたのかもしれない。
だって「自分は自分の思うように生きるのだ」と念じ続けなければいけないのだとしたらそれはそれでしんどい。そう念じないといけない時点で、結構、苦しい。
だけど、咲子さんやカズくん、咲子の家族など色んな人と話しをして、考え、行動に触れたこと、
あるいは「高橋さん」という人を否定せず、知りたい理解したいと思う人達に出逢えたことがゆっくり高橋さんをそんな思い込みから遠ざけたんじゃないか。


拒むために念じる「自分の人生は自分で決める」という思いを、すとんと腹落ちさせられたんじゃないかと最後のシーンのふたりを観ながら思うのだ。
そしてそれは必ずしも同じ環境、身近にその存在を置いておかないと保たれないしあわせなんてものではなく、それぞれ、その時々したいようにできるようにしていても、大切にできるしあわせなんじゃないだろうか。



最後になるけれど、私がこのドラマを好きだと思ったひとつの理由は作り手の人々のスタンスが大きかった。
まだまだ、アロマンティック・アセクシュアルを描いた作品は少ない。その中でこの作品で描かれること・出した結論が「全ての正解」ではなく、あくまで一歩目、一つのパターンだと作り手の方々が発信されていたことを私はとても素敵だと感じた。
"エンタメ"を作るということ、あるいは"エンタメ"で何かを表現することには色んな側面がある。また、色んな問題や制限も出てくるんだと思う。
だけどその中で精一杯を作り込みながら、かつ、これだけ、と決め付けてしまわないことが本当に嬉しかった。それこそ、「なんにも決め付けなくて良くないですか?」なのだ。



これだけが正解なわけじゃない。
大事にしたい、大事なひとを大事にしたいやり方で大事にしていけばいい。それが伝わらない時は、あなたと話そう。分かるかどうかは分からなくても、分かりたいという気持ちだけは覚えたまま。
あとできたら、美味しいものを食べながら。




2話の時点での感想


5話を観て考えたこと
※ミステリと言う勿れ7話のネタバレも含みます

君は永遠にそいつらより若い

この映画が自分にとってどういうものだったか、を考えると難しい。それこそ「とっ散らかる」のだ。


食事のシーンが好きだったことや主人公を中心にしたそれぞれの人間関係が愛おしかったこと、出てくる表現ひとつひとつにああ分かる、と頷いたこと。
そういうことを挙げていってもきっと、「それだ」という表現には辿りつかないんだと思う。



ただ間違いなく私はこの映画が好きで、今観て良かったな、と思った。
だからそれを忘れたくなくて、とっ散らかっても良いので、忘れないために書ける限り感想を書いていきたいと思う。



はじめ、「あーーー大学生こういうとこあるよなあ」と思って観ていた。
ゼミの飲み会の本人は何とも思ってない悪意の言葉にごりごり削られることとか、微妙な繋がりの相手と「仲良し」として喋ることとか、たまにちょっとした会話が琴線に触れてこの人とは心底仲良くなれる気がする、と期待することとか。
大学内の表現もバイト先の表現も、ああ分かる、と思ったし、実際それに近い思い出も自分の中にはあるような気がした。
ホリガイが殊更ひょうきんというか、軽く振る舞うところが自分にも覚えのある感覚だったからかもしれない。



でも、観ながらだんだんと"ああ大学生だから"じゃないんだよな、と思った。
大学時代のモラトリアムの延長にあるセンチメンタル、とか。過渡期にいるからこそ物事をオーバーに、繊細に感じがちだからの感傷とか。そういうものじゃないんだよなあ、と思っていた。
大学を卒業してそれなりに時間が過ぎた今でも、ホリガイたちのあの感覚は私の中に確かにある。だからこそ、そこで行われる会話にひりひりして気が付けば「ああ分かる」なんて言えなくなっていた。
卒業してしばらく経っていても、彼らより"大人"と言われることが増えていても、今もあの感覚は私の中にある。変わったのは、無いふりをできるようになっただけだ。





それは、ある意味で「そいつら」に入ったことの証明に他ならないかもしれないけど。




最近、映画を観るのがしんどかった。
映画館に行きぼんやりするのが好きで、配信サイトでずっと気になっていた映画を観るのが好きな私ではあるが、ここ最近はそうして楽しんでいてもなお、頭の片隅でなんだかなあと考えてしまっていた。



だからか、タイトルにもある「君は永遠にそいつらより若い」という会話にぶん殴られたような気がした。



君は永遠にそいつらより若い。
若いことが何かその人を救ったりはしないかもしれない。むしろ、だからこその暴力や理不尽があったのだ、とも思う。それでも、何故だか、ホリガイの台詞を繰り返し頭の中で思い出していた。
永遠に、そいつらより若い。
この感覚はきっと言葉をいくら尽くしても伝わらないものだと思うんだけど、というか、言葉にできないってことだけ分かってる。ただなんか、ホリガイから直接そう言われたような気持ちになったのだ。そうして、なんだか、ほっとしたというか、叫びたくなるような気持ちになった。


度々、この作品では「その時のあなたを救えないことが悔しい」という言葉が出てくる。そのストレートな言葉にああ、うん、そうだ、と今も頷いている。頷くきっかけをこの映画がくれたのだ。





どうしようもないものを抱えて時々放り出したくなりながら過ごしている。放り出しても良いのだと思う。荷物の方か、自分の方かはタイミング次第で変わって、とどのつまりはほぼ運のようなものなんだと思う。
だけど、そうして過ごすことそれ自体をなんとなく私は今、悪くないと思っている。
それはホリガイをはじめ、あの映像の中の彼らに出会ったからだ。そしてそういう物語が、映画が、この世界でまだ生み出されるんだな、と思えたからだ。



ただただ感傷的な映画というわけでもない。何かを啓蒙することをただ目的としているわけでもない。でもたしかに何かを伝えようとしている映画で、存在している映画だった。



思えばたぶん、私はそういう映画に出会えたことが本当に心の底から嬉しいんだ。

喜劇

「悲劇に溺れすぎないことが大事だと思います。」


ある作品でのインタビューで源さんが語っていた言葉が好きだ。
それは何も「悲劇」を無かったことにしようという言葉ではない。むしろ、それをしっかりと見つめた上でなお、何ができるかという言葉に思えた。人生はままならない、とハッキリと口にする源さんは"ままならなさ"をドラマチックには扱わない。ただただそこにあるものとして扱う。そうして、溺れることなく過ごそうという。



「喜劇」はアニメ、「SPY×FAMILY」のエンディングである。
それぞれに秘密を抱え"普通"の顔をしながら家族になる三人の日常を描く物語に合うように歌は生活を歌う。手を繋いで、今日こんなことがあったと話す、そんな幸せを歌う。




それだけ抜きとるとあたたかなほのぼのとした音楽になりそうなのに、そこは星野源である。




そもそも「喜劇」というタイトルが発表された時からざわざわした。明るいタイトルな分、不穏さがある。




……いや、不穏さはない。
この辺が本当に私は表現にしきれなくていつも歯痒くなるのだけど、例えばわざと明るくすることで絶望を際立たせる、みたいな演出をやるというイメージではないのだ。
演出、という言葉をなんとなく私はそこに当て嵌めたくない。
あえてなんとか無理やり言葉にするなら、源さんが「喜劇」というならそれはその裏にある悲劇をしっかり見据えてもくれるんだろうな、という安心と信頼感があるということなんだと思う。




帰り道、その先、帰り着く場所について思いを馳せたくなる音楽だ。柔らかくて楽しげで、でもどこかちょっと寂しい音で構成されてるからだろうか。知ってるような知らないような帰り道のことを私は聴きながら考えた。




「帰りたい」と思うことがある。




でもそうして思う時私はいつも「でもこれ、どこかに帰っても"ああ帰れた"って思えないんだろうな」と思う。



帰りゆく場所は夢の中


そんな歌詞を聴きながら思った。
家族のもとへか、大好きな人の場所へか、懐かしい場所へか。どこなら、と考えるたびにどこでもねえなあ〜〜〜と悪態を吐きそうになる私は、あーー夢の中ね、と納得するような気持ちになった。





「喜劇」は、最初、誰かといる人の曲だと思った。
配信された0時に曲をダウンロードし、何度か聴く中で「家族」の歌だし、SPY×FAMILYの音楽だから、それは誰か、と一緒に過ごすひとの曲だろうというなんとなくその感覚があった。




もうこれ、本当に物凄く恥ずかしい感想だったな、と一晩経って猛烈に反省した。
なんだその自己憐憫盛りだくさんの感想。ちゃんと自分を切り離して曲を聴きなさいよ、と自分にぎゃんぎゃん吠えたくもなった。



ただ、そうして改めて夜、仕事終わりの帰り道にぼんやり流して思ったのだ。





一緒に帰る君、あなた。
そんなひとは、今この瞬間隣にいないかもしれない。いつか出逢う君なのかもしれない。いやなんなら、その君は自分かもしれない。





ふと急にそんなことを思った。
いや、分かってる。
実際これは家族のことを歌ってて、SPY×FAMILYの主題歌で、だから実際に"誰かといる私"の歌なんだと思う。
だけどそう思うのだって、ありなんじゃないか。




争って壊れかかったいかれた星で、私の居場所は作るもので誰かが決めつけた何かに従う必要もなくて。
そう淡々と歌う声になんだかたまらなく嬉しくなった。
そしてそう思いながらぼんやり空を見上げる帰り道はなんだかめちゃくちゃ良かった。ああこんな帰り道はまさしく、「帰る」ために歩いてる道だなと思った。



それこそ、


顔上げて帰ろうか
咲き誇る花々

がシンクロするような気がした。確かにこの音を聴きながら花を見たと思う。
結局自分のことかよ、と言われそうだけど、本当にあの一音を聴いた瞬間、音楽の端っこに触った気がして嬉しかったのだ。




悲劇に溺れる方が早いような、ままならない毎日の中で、そうして諦めてしまうことってわりと自分に近いところに常にあるんだけど
そうして、何かを綺麗だって思えたこととか、「喜劇」を聴きながらなんか良いな、と思えたことがいつかの自分のためになるんじゃないかと思ったのだ。


さあうちに帰ろうか

こんなことがあったって君と話したかったんだ


そう私は自分に呼びかけたい気がした。
その時の自分は帰る場所を見つけてるのか、一緒にベッドで笑い転げる誰かを見つけてるのか
もしくは
今近くにいる誰かにきちんと気付けるようになってるのか。
分からないけど、明確な何かの変化がなくてもそんないつかはこの喜劇のふざけた毎日の先にあるんだろうなと確信に似た気持ちになった。





喜劇、はどうしようもない現実を嗤う皮肉なんかじゃない。
殊更に明るく振る舞うことで影を際立たせようとすることじゃない。
本当に、心の底から喜劇だ、と思う。
君と笑える今日を愛おしく思って、こうして一緒に帰りたかった、ご飯を食べたかった、と思う。




アニメを観たら、ラジオで源さんの想いを聴いたら、MVでまた違う表現に触れたら。
また違う気持ちになるかもしれない。なるんだろう。
でもそれも楽しみなんだ。
そうやって毎回いろんな視点で、理由で、わくわくする。考えが変わる。生きて過ごすそんな日を私は喜劇と呼びたいと今思ってる。





そしていつか、「こんなことがあってね」と話すために、今日もとりあえず。まずはふざけた生活をできるだけ続けようと思う。