えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

菅田将暉のオールナイトニッポン最終回を聴き終えて

初めて聴いた時は驚きました。

元々の印象は「この人の芝居が好き」。
だからこそ、スピーカーから聴こえる賑やかな声に納得するような、びっくりするような不思議な感覚になったのを覚えています。
そういうものが無い混ぜになって、表すなら「驚いて」、なんなら最初は熱心に聴いてたわけじゃありません。


たまにタイミングが合えば、タイムフリーで聴く番組。
それをいつから熱心に毎週楽しみにして聴くようになったのか、覚えていません。
他の聴いてるラジオは、「この日こういう理由で」ときっかけを覚えてるのに、このラジオはある日気がつけば、私の日常にありました。


薄暗いキッチンに携帯を持ち込んで、朝早く、憂鬱な気持ちのまま再生ボタンを押し、バカだなーと笑って、「普通」の顔を用意する。
それは決して嫌な感覚ではなく、「こんだけ笑ったから大丈夫やわ」みたいなあっけらかんとした心地で私はそれが大好きです。



菅田将暉オールナイトニッポンは、結構、テンションがずっと高い。
関西弁でテンポ良く進み、スタッフを弄り、リスナーをいじり、いじられ、吠えたり爆笑したりする。



俳優菅田将暉、ということを忘れて私たちは"ツレのまさき"みたいな感覚でラジオの前にいました。いつだか、リスナーは友達じゃないから!と吠えていたけど、それもげらげら笑ったし、なんというか、不思議な感覚がずっとあるんです。
ヘビーリスナーじゃありません。初回からどころか、聞き出してから習慣化したのも、ゆっくりでした。そもそも、もちろん、友達でもなくて向こうは顔も知らない私なわけで、それでもあの2時間ラジオのこっち側と向こう側で一緒にげらげら笑ってる私たちは、友達に似た何かだったのだな、と最終回を聴き終わり数時間経ったいま、思います。



最終回は、たくさん笑うだろうと思ってました。案の定たくさん笑ったし、新参リスナーにはわからないおからだけが残るまでの歴史を分からないながらに楽しく想像したりもしました。
思えば、まるで全員知ってる前提でお構いなしに話す内容はいつだって全て知ってるわけじゃないのになんでか楽しいあれも、不思議な感覚でした。
笑って笑って、ひたすら笑ってそのくせ最後にしっかり泣かしてくるの、ほんっとにずっこいわぁといまだに思います。知らないと思っていたにわかリスナーだから、という気持ちは最後の振り返りのほとんどに「ああ懐かしいな」と思った時、結構消し飛びました。


菅田さん(リスナーのメールのその呼び掛けへのはい、の温度感が本当にずっと好きです)
次の居場所を見つけてください、と言った、新しい番組もたくさんあります、と言ったとおり、私はこれからもたくさんラジオを聴きます。来週のCreepy Nutsのラジオだって楽しみです。
そうして新しい居場所を増やしながら、いつまでも、またこうして変な距離感で、名前のつけられない限りなく友達に似た関係で、一緒に笑える日を楽しみに過ごさせてください。

ひっそりとラジオを聴いていたリスナーの、勝手なお願いです。



菅田将暉第一章の終わりの少しの期間ではあったけど、お芝居だけじゃなく、ラジオでも出逢えて良かった。本当に幸せです。第二章も楽しみにしています。



人間菅田将暉劇場、見事な閉幕でした。
ほな。


菅田将暉オールナイトニッポン | ニッポン放送 http://radiko.jp/share/?t=20220405010000&sid=LFR #radiko #菅田将暉ANN #菅田将暉

Q10

なんの記憶から失われていくか、とはよく話題になる問いかけだ。
視覚の情報なのか、聴覚の情報なのか。
大切な記憶が失われることは、大切な存在を失うことのつらさをより一層際立たせる。


Q10とは、ある日、主人公平太と人間にしか見えないロボットキュート(Q10)との日常を描く物語である。
ロボットという実写ドラマにしては少し珍しい設定ではあるものの、
物語が描くのは本当に何気ない高校生たちの日常だ。

平太が主人公で、キュートとのやりとりも多いものの、
むしろ群像劇というのがしっくりくるような印象を受ける。


家が貧乏で学校に通えなくなるクラスメイト、
頭はいいが自分に自信がないクラスメイト、
赤く染めた髪とロックへの思いを隠し登校するクラスメイト…
教室には、いろんな思いを抱いているクラスメイトたちがいる。

そして物語が描くのはクラスメイトだけではなく、
平太の家族や先生たちの日常、思いなのである。


で、振り返るとキュートがロボットである、というのはこの物語の主軸ではない。
もちろん影響はする。

彼らが悩んだり諦めたりするとき、キュートは「人間ではない」からこそ
当たり前に疑問を問いかける。
その中で、それぞれが立ち止まり、考える。
ただ、では「キュートがいなかったら」まるっきり変わっていたかといわれるとそうでもない。
成り行きでキュートの主人となり、一番接することになった平太や
キュートがそっくりな漫画のキャラクターに夢中なクラスメイト、中尾はともかく、
他の登場人物たちはキュートの影響だけで、行動や思いが変わるわけではない。


なんというか、私はその温度感がとても好きだ。
何より、彼らが悩み考えることは「高校生らしい」と言ってしまえばそうなのだけど、
そうやって「高校生だから」と片付けてしまうのはなんだかズレてしまうような気がするくらい、「人間らしい」のである。


生きていくこと、やりたいこと、好きな人、その人と一緒にいること
自分ではどうしようもない不幸や、将来のこと



それは一過性の「不完全な時期」だから、なんて悩みでも喜びでもない。ただ、どんな人もいつだって直面する想いたちだ。

そしてその度、隣にいる人を、手の中にあるものを、そして本当にその中で大切にしたいものを確認した彼らは笑い合い、一緒にご飯を食べたりする。もしくは、ひとりで大きく伸びをする。




Q10を私は、10代で観た。
大好きな佐藤健さんが主演で楽しみに毎週テレビの前に座り、気が付けば全ての登場人物を大好きになった。
こんな物語を描くひとはなんて人なんだろうと生まれて初めてドラマで脚本家を確認した。


そしてその物語のエピソードを私はいくつか忘れていた。
大好きだった、毎週楽しんだという記憶だけは残り、詳しいところは朧げになっていた。私は少なからず、そのことにショックを受けた。
だって大好きで大切な物語だったから。

でも、実際に久しぶりにドラマを観終わって思う。
確かに私は忘れていたけど、完全に失くしてしまっていたわけじゃない。
むしろ形を越えていつだってすぐ近くで私と一緒にこの物語はいてくれたんだな、という実感が残った。
それはどこか、キュートの存在を必死に愛した平太の出す、平太が観る答えと繋がっている。そんな気がするのだ。
大切なものを失いたくない、何一つ忘れたくない、手元に残していたいと私は思いがちだ。だけど、もしかしたら、失くすものなんていつだって一つもないのかもしれない。


そう思うと、これからこの物語の記憶が薄れていくことを不安に思う気持ちはなくなっていく。
だってそれは、居なくなってしまうとイコールでは、決してないのだから。

あの夜を覚えてる 千秋楽

ラジオが好きだ、と思う。
長く聴いているリスナーではない。私がよく憧れる学生時代から支えにしていた、なんて思い出は私にはなく、ここ数年でラジオを聴き出した、しかもradikoのタイムフリーを駆使しての超ライトリスナーである。


それでも、ラジオが好きだ。
ラジオがある生活が好きだ。


オールナイトニッポン55周年記念で生まれた「あの夜を覚えてる」は、そんな私にとって特別な"あの夜"になった。



ラジオの魅力は色々ある。だけど、大きな一つは、作中でもそしてこの公演に夢中になった色んな人が口にした通り、距離の近さだろう。

どんな大スターも、ラジオの電波を通して声を届けてくれる時、ただの人になる。いや、人って言ったってそもそもずっと人だし、そしてラジオを通してもすごい人はすごいんだけど。
でも、笑い、時々は真剣に話す彼らのことを私は推しだとか関係なく、大好きになっていた。



どんなインタビューよりも、ドキュメンタリーよりも身近に思える。あれは、どうしてだったんだろう。


ラジオには、"本当"があるという。
それに私は大きく頷く。
たとえば、源さんの結婚報告の時。
たとえば、菅田さんのラジオ卒業発表の時。
たとえば、DJ松永さんのテレビで思っているのとは違う受け取られ方をした時。

彼らはその時々で、"自分の言葉"で私たちに声を届けてくれた。きっとそれは書き起こし記事や切り取り記事では伝わらない温度感で、私の中にずっと残る"あの夜"だ。



真面目なあの夜ばかり取り上げてしまったけど、それだけじゃなくて
松永さんの遅刻回だったり、菅田さんのグッズ発売でうまくいかずごたごたした回だったり、源さんの元に届いたリスナーのジングルに一緒に爆笑した回だったり。
そういうバカバカしい忘れちゃいそうな何気ない夜だってある。



なぜ、私はその夜を「本当の言葉」を聴けたと思うんだろう。実際、私は、その声が届けられる瞬間を目にしていたわけじゃない。
ふとそんなことを「あの夜を覚えてる」を観ながら思った。


このお芝居は、その人の中の「あの夜」があればあるほど、重なる物語である。
知らないはずのラジオが生まれるラジオブースでのやりとりに、ああきっとこうして私の好きなラジオたちも生まれたんだろうな、と思った。


この企画のすごいところは、本当にきっと、関わる人全員が、ラジオが好きなことだ。本当のところを知っているわけじゃない。だけど、こんなクレイジーな企画を成立させれるのは、好きじゃないとできないんじゃないか。そんな風に思うのだ。
そして私は、ラジオが好きなひとりの人間としてそうしてラジオが愛され、大切にされている様子に無性に泣けてしまった。



生でやるの破茶滅茶過ぎるんですよ。ガラスが多すぎることとか。そもそも、社屋で普通に仕事をしているなか、全体を使って放送って時点でも結構無茶だ。



でも多分、この物語は生じゃなきゃダメだったんだと思う。



配信とかもそうで、目の前にお客さんがいないから収録と一緒だと受取手も発信者も言うことがある。実際、そういう面もあるだろう。
あるだろう、とは思うんだけど、でもそうじゃないんだ。
見えなくても聞こえなくても、そこにいる。ずっと一緒にいる。
それはメールだとかチャット欄の話じゃなくて、届け!と念じることだったり、真剣に聴くことなのだ。
そしてそれが、私がラジオに対して「本当」があると思う理由なんだと物語のクライマックスを見守りながら思った。


声だけのメディアで、音だけが届くその中で、それだけじゃないものを私たちは受け取ってきた。
お互いの姿は見えないのに、私たちは互いがそこにいることを信じている。それはパーソナリティとリスナーだけじゃない。リスナー同士も、互いの存在を確かに知っている。
その距離感が、温度が、越えさせてくれた夜があった。
そこだけでなら伝わるいくつもの言葉を私たちは知っている。


本当に無茶苦茶な企画を、ばかまじめに作り上げてくれた全ての人に対してありがとうの気持ちが溢れて、もう昨日からずっと興奮している。
きっと私は、この夜も忘れないだろう。
繰り返し繰り返し聴いている大切なラジオの録音のように、記憶の中、何度も何度も、この公演を私は思い出す。


その夜は、私の大好きなものがいかに愛されるか教えてくれた、そしてそれは確かに存在し続けるのだと教えてくれた、そんな夜なのだ。



なんとまだ公演を観ることができます。
生だから意味があった、なんて書きましたが、きっとアーカイブで観ても、届くはず。
だってタイムリーで聴くラジオもまた、愛おしいものなので。

ハンズアップ2022

※ネタバレを大いに含みます


「そうするしかなかった」ように思えた。それしか選択肢がないように思った。
オープニングの映像で流れた言葉を見終わってずっと考えてる。


その言葉は、初演でもあったはずなのだ。そしてその初演を私はDVDで何度も何度も見ていたはずなのに今回ほどの強烈な印象を何故か私は覚えていなかった。演出の方法がそんなに大きく変わったわけじゃないだろうに、なんでだろう。


安里悠児は言う「可能性なんて10%もない」
この台詞は、初演を観た時から大好きな台詞だった。だけど、あの頃より私には切実に迫った。そんな気がする。
奇跡を信じられた方が嬉しいから、という言葉に確かにな、と頷いた。
初め見た頃は、どちらかといえば「10%よりも多いなんて余裕だな」と思う時に思い出しがちだった。
安里悠児が、あるいはあの洋館に集まったみんなが賭けた場面よりかは全然余裕だ、そう気持ちを落ち着けるために使った。


それが今ではどうだろう。


当たり前なんてないんだと思うことが増えた。
幕が開くこと、下りること。無事に楽しみな予定を迎えることができること、自分が大事な人が生きていること。
だというのに、私たちは気を抜くと"当たり前"に飽きてしまう。くだらないとまでは思わなくても大事にし損ねてしまう。
だからこそ、「奇跡が起きた」と思える方が嬉しいんじゃないか。
そんな風に今回、思った。


今回、ハンズアップも耳蒼も何度も観たはずなのに初めて引っ掛かるようなところで言葉が、表情が、刺さるような感覚がたくさんあった。

10%の台詞もそう、それから、そうするしかないように思えた、という言葉も。



それは、洋館であの変な声に導かれながらゲームに従うこともそうだし、それ以上に「死ぬしかない」と思ったそれぞれのいつかの瞬間のことなんだな、ということが妙に心に迫って苦しくなった。
俯瞰して見れば、他人事だと思えば、落ち着けば。
そんなことはないし、それ以外にいくらだって選択肢があるはずなのに何故か強く「それしかない」と思ってしまうこと。


その感覚がオープニングのあの言葉でひりひりと迫って、冒頭、14人が揃ってるのを見た時点でかなり胸にきてしまった。
それは私のこの数年での変化もあって、そして何より演じている人たちの変化があってなんだよな、と思うと無性に嬉しかった。
ああ今から、私は出会い直しをするんじゃなくてまた新しく出会うんだな、と思った。


ボクラ団のでの再演にあたって(と書きつつ、他団体での上演は見ていないのでいつからのリライトなのか正確には分からないけど)初演からいくつか変わった設定がある。
そして演じる役者さんが変わったところがあったり、同じ役を演じていても歳を重ねているからこそ表現が変わったところもある。
その一つ一つが愛おしくて嬉しかった。



たとえば、物部夫妻。そう、夫妻!
初演から大好きな二人で、初演の大神さん・真凜さんペアが好きすぎて、このお芝居の掛け合いが生み出すものがほんっとうに好きだったんですよ。
テンポも抑揚も表情も。いっこいっこ語れるくらい好きで、だから今回、すごくどきどきしていた。
これは今まで色んな「再演」を見てきたなかで自分に警戒しているところなんですが、初演を覚えすぎるあまり「ここが違う」と違和感探しをして没入できないことが度々ある。今回も、初め、そうして「あ、ここが違う」と思う瞬間はあった。
あったけど、このキャサリンさんのことをどんどん好きになっていった。それはたぶん、彼女の眼差しの柔らかさが心地よかったからだと思う。
真凜さんのキャサリンがどこか張り詰めたところがあったとしたら(そして私はそんなところが大好きだったんだけど)この片山さん演じるキャサリンはどこか余裕のようなものを感じた。それはどういう解釈から来るんだろうな、と考えながら、私は物語を楽しんでいた。



そしたら、そしたらですよ。



大神さん演じる物部さんの台詞に涙腺をぶん殴られ、気がつけば嗚咽を必死に噛み殺すことになった。知っているからこそちょっと俯瞰して見れていた感覚は泣きながら喋る物部さんに見事に奪われてしまった。
でもそうして愛おしくなるとやっぱりより、大好きな初演の影がチラついてしまう。なんとも言えないぐるぐるが迫り上がった時、キャサリンが後ろから思い切り頭を撫でた。
それを見て、もう、なんか、すごく嬉しくなった。奥さんだからか、とその時、全部がストン、と腑に落ちた。


あの瞬間、なんか、ものすごく嬉しかった。やっと思い出した?と問いかける声が優しくて、ああそういう景色もあるのか、とびっくりした。


思えば、今回の再演はそんな瞬間がたくさんあったと思う。


例えば、初演の思い入れという意味では大好きな役者さんが演じる中曽根さん・宗介(苗字の漢字めちゃ難しいな!)さんペアがどう映るのかもドキドキした。そして実際、違いを楽しもうと気合を入れて見たりもした。
ただ、見ていてどんどんふたりのことも改めて好きになっていったので、心配はほぼ杞憂に終わったように思う。
友常さんが演じると中曽根さんはすごく人間臭くなった。
酷いな、と思うところもなんか、人間くさく酷くて、そしてそれを凛太郎さんがコミカルに受けるので、可愛らしいコンビに思えた。面白い、というよりも可愛い。
だけどその二人がやがて互いにある因縁に気づいた時の会話が、すごくお互いに向き合っているように思えて好きだった。
人間みのあるふたりが言う「自分の命の重み」が分からなくなった時の苦しさは、なんだかより身近に感じることになった。



鷹野百合劇場の印象は、今回、私が観た回が図師さんゲストだったせいか、より映像で見た時とは全然違った。
だけど何より、彼女に対して印象が変わったのは最後の無声芝居での笑顔だろう。
虚言癖の台詞の中で「私の口から決して出ることはない本音を言えば」という台詞が好きだ。
そしてその台詞の苦しさがようやく晴れたような気持ちになれるあの瞬間の微かな笑顔が本当に嬉しかった。ようやく捕まれたという安堵、それが本当にものすごく、嬉しかった。



吉田宗洋さんが演じる黒鉄明は、初演に近い印象があって、それもまた面白いな、と思っていた。特に宗さんはどちらかというと格好良かったり、クールなお芝居を私は観ることが多くて、でも初めて観たのは時206の兄だったので、なんか懐かしくて嬉しかったというのもある。
でも、ラスト「生き直し」の時の彼の格好良さに、やられたー!と思わず心の中で叫んでしまった。いやもうギャップ。ギャップよ。
そしてそれこそ、宗さんの魅力全部詰め過ぎて最高のキャスティングだと思った。



バンドブリジッドジョーンズのふたりは、ほのぼのとした印象が嬉しかったのとともに、ずっと楽しそうなことが嬉しかった。
あのふたりが音楽をやるシーン、楽しそうで本当に好きだ。どちらかといえばメインはコメディ要素を担当している彼らが愛おしく思えるかどうかは、このお芝居の印象を大きく変えると思うので。
DAICHIがひたすらに可愛くてニコニコしてて、ふたりでじゃれあうシーンが可愛かったことは、軸がしんどいテーマなこのお芝居のなかで、癒しだったと思う。



そして、そのライブシーンでの春原さん演じる橋本麻由美さんが本当に好きで。
橋本さんが、恋愛としてNAOTOのことを好きになるかっていうのは時々初演を見た時から考えてたんですが、今回、より「や、少なくともしばらくはないな」と思ったりして。というよりかは、きっと、そういう恋愛として好きになるかどうか、なんてことは入り込む余地なく、ただただバンドとして人として彼らやNAOTOのことが好きだったんだなあと思った。


それでも、だからこそ、あの最後、NAOTOの音楽に応えて手を挙げる瞬間が嬉しかった。
初演の時以上に彼女から受ける痛々しさが増していて、男性不信というだけじゃなく、人間そのものに対する不信感とか、たくさん傷付いたんだろうな、というのが苦しかったからこそ、あの時、彼らの音楽だとか存在がどれくらい嬉しかったのか、物凄く伝わる気がした。
ふたりが恋愛に発展するかどうかはわからないけど、別に発展しなくても十分奇跡的で幸せな関係だと、あのふたりの笑顔を見て思った。



キャストが変わったことによる劇団員の方々のやりとりも最高だった。
例えば、冴子と牧村のアイドル・マネージャーペア。殴るのとか、容赦のなさがこの劇団での数年を感じさせた。テンポも相性もすごく良くて、その中で最後、ふたりの「え、そうなの?!」がちょっと切なくて可愛かったりして。
なんか、私は高橋さんの少しズレたお芝居がたまらなく好きなのですが、きっとそれは牧村のことが大好きだからなんだろうなって思いました。


それから佐知川幸子のパワフルさにああこの人はきっとお芝居が楽しいんだなって嬉しくなったし、その上で、最後幸子を抱き締める冴子が、いや、花崎さんを抱き締める空さんにぐっときた。

なんだろう。

お芝居に過度に役者さんを重ねるのは失礼だと思うんだけど、でも、やっぱり「その人が演じたからこそ」な場面はたくさんあって。
そういう意味で、色んな人になんだかんだ愛されて大切にされる幸子を劇団員の花崎さんが演じているのが嬉しかったし、その中で生き生きと演じられているのを見て、勝手ながら良かったなあと噛み締めてしまった。



それから、安里悠児と冴子という意味でも劇団員ペアが見れたのが嬉しかったし、ここもまた年月の変化を感じた(年月云々は私の変化な気もするけど)
最後、ふたりの会話のシーンが物凄く切なくて。
ああ、このふたりは生きていくために「言わない」ことを選んだんだな、と思った。
こんな長々とブログを書いて説得力はまるでないけれども、でも言葉にしてしまうと野暮になったり、変わってしまうことは多い。
言わずにいるから変わらないもの、大切にできるものはたくさんある。
言わないから、言葉にしないからそこにないというわけではないように、言葉にできないその複雑なふたりの愛情というか心のようなものをこの大好きな役者さんおふたりで観れて、本当に良かった。



そして、一番私が今公演、初演から印象が変わったのは添田さん演じるアルフレッドさんだと思う。
本当に疲れているように見えた。自分を覚えているひとがいないことにどんどん傷付いていくさまに、本当にしんどくなった。しかもそれは鮮明に傷付いていくというよりかは、ガリガリと静かに、でも確実に削られていくのだ。


一回目のゲームの参加者についても初めてこんなに想像したかもしれない。もう疲れた、死にたくてそうしたんだと手をあっさりと挙げていっただろう彼らについて想像する。



それも、一つの選択肢だと思った。


今まで、アルフレッドさん……いや、芹澤修一がそれでも手を挙げた先、助かっていたらいいと思っていた。ペナルティという形でも構わない。生きて欲しかった。あのゲームの中だけで出会った人で判断しないで欲しいとも思ったし、たとえ、俳優としての芹澤修一じゃなくてもきっとあなたを大事にしている人はいるのに、とも思っていた。
でも、あまりにも今回、そうして削られていくのを見て、助からない、というのだって、一ついいんじゃないか、とも思った。助かっては欲しいけど。
死んでしまったとして、それを「どうして」というのだって酷いんじゃないかと思った。


最後、無声芝居で手を挙げる芹澤修一は、幻なのか、それとも生き直していく彼なのか。たぶん、これからもずっとずっと、考えるんだと思う。



「課せられるペナルティ」…それが本当に死なのか、あるいは生き直すことなのか。でも結局それは突き詰めていけば同じところに行き着くのかもしれない。
いずれにせよ、一度はいらないと思った命を心底生きたいと思わせることはとんでもなく酷くて、それから、優しいと思った。


そんな奇跡は、本当は起きない。
現実ではきっと、そんなことはありはしない。


ところで、久保田さんの作品ではこのハンズアップをはじめre:callやレプリカなど、本当にはあり得ない「命の奇跡」が主軸になったものが多い。



物語として捉えること、俯瞰すること。それは耳蒼の感想でも書いたけど、ハンズアップ2022でも何度も考えていた。
何度も何度も、ボクラ団義の、久保田さんの作品で「生きていくこと」を考えた。
そして今回、暫定の最終公演の中で、ハンズアップにもう一度出逢って、やっぱり私は生きていくこと、を考えている。
疲れ切っていくように見えた芹澤修一や一回目のゲーム参加者が諦めてしまうことを「そうだよな」と感じながらも、それでも、やっぱり、「生きたい」と「なんであんなバカなことをしたんだろう」という彼らに嬉しくて、ああそうだよな、と思った。
きっとこれからも、私だって疲れ切ったりすることはあるだろう。「それしかない」ように感じることだってあるかもしれない。
だけどきっと、そんな時、もしハンズアップで出会った彼らのことを思い出せたら。
きっと、私自身がそうは思えなくても、生きようと思った彼らを大切に思えたことを反芻はできると思う。



ボクラ団義の公演はオープニングアクトや途中で入る無声芝居でそこからの伏線を描いていることが多い。
それは初見でもなんとなく「ああここは因果関係があるのかな」と気付くこともあるし、二度目以降、「ああだからこんな表情をしていたのか」「この人たちは対になっていたのか」と気付くこともある。


私はそれが、大好きだ。


何度も何度も、出会うこと。
正直にいえば、今公演ハンズアップも耳蒼も思い入れがありすぎて、観るかどうか本当に迷っていた。
見ることに決めたのは、ボクラ団義に出逢った頃の自分をがっかりさせたくなかったからだ。だけど、見終わった今、今の私として本当に観て良かったと思っている。
大好きな、繰り返し何度も観た初演も変わらず大好きで、そして今回のハンズアップ2022も耳ガアルナラ蒼ニ聞ケも大好きだ。
再演とは、好きなものが変わる、ではない。好きなものが増える、だったのだ。



そしてそれは、出会った頃から今まで、互いに生きていたからこその「嬉しい」なんだと思う。
だから私は暫定、であることに物凄く希望を感じながら、色んなことがある毎日を今回増えた宝物を大事にしながら過ごそうと思う。
そうして過ごしていればいつか、また、宝物が増えてる日がきっとやってくるので。

耳ガアルナラ蒼ニ聞ケ

※ネタバレを大いに含みます



耳ガアルナラ蒼ニ聞ケは、日本の歴史の中でも人気がありかつ、今でもこうだったんじゃないかと議論が交わされる「坂本龍馬暗殺」をテーマにした物語だ。
誰が龍馬を殺してのか、何故あれだけ人のために尽くした彼が殺されなければならなかったのか。


そしてそれをあの日、龍馬が死んだ近江屋に一日いた男、龍馬を思う3人の女からそれぞれ語られる視点から解いていく。


私は、初演で初めて生でボクラ団義を観て、
再演を観て、それからずっとそれぞれをDVDで観続けた。
その中で、私もわからなかったことがある。


「本当なら助かる道もあったのではないか」
「無論わざとまで言うつもりはない」


物語のはじめ、あの日一日近江屋にいてあの日の全てを知る今井は言う。
何かが一つ違っていれば、いやむしろ龍馬がもっと助かろうとすれば。違う未来があったんじゃないか。


そうなってくると何故助かろうとしなかったのか、となってくる。
肌感覚では、観終わったあと、その今井の言葉に「ああ確かにな」と思ってるような気もする。だけどなんとなく、しっくりこなかった。
それは、物語中語られるお芝居に夢中になるあまり他のことを感じ考えていたから気にならなかったような気もする。だけど、今回、改めてこの大好きな物語に触れるにあたり、ちゃんと考えてみようと思った。


それで、自分なりにああこういうことかもしれない、と分かったような気がする。気がしている。

ところで。

初演、再演を観た時とはまた私の状態は違う。
そもそも「暫定最終公演」であることはどうしたって頭の片隅にずっとあったし、
それ以外にもプライベートでも環境も変わったし色んなことがあった。その中で多少、価値観だって変わったように思う。


それに何より、世界の状況が変わった。


初演再演以上にこの物語の言葉が胸に迫る。

「斬る相手のことなど知る必要はない」
「知ってしまえば斬れなくなる」

自分と考えの違う人間を徹底的に排除しようとすること、それをする時、言葉ではなく暴力を用いること。それに疑問を感じず、感じたとしても仕方ないと切り捨てること。




それは何も、この1ヶ月の世界情勢だけの話ではない。そもそも、コロナ禍になった時、人は誰かと協力するより排他的になるのだとまざまざと何度も観ることになった。自分の思考回路にもそういうところを何度も見つけて嫌気がさした。

だからこそ、そう感じたのかもしれない。
そんな風に思っているからこそ、「何故龍馬は助からなかったのか」いや、「助かろうとしなかったのか」という自分の中の問いに出してしまった結論なのかもしれない。



なんとなく、沖野さん演じる坂本龍馬が酷く疲れているように見えた。
正しく在ろうとすること、ズルをする人間だけが生き残ること。
劇中描かれる彼の叫びが耳に残ってる。
何も、劇中の池田屋、土佐の過激派の行動・それに対しての粛清だけが彼を削ったわけじゃないだろう。
正しく、誰かを自分の大切な人たちを幸せにしようとした行動考えが、歪んでいくこと。そんな人たちを見続けること。それってすごくしんどいよな、と思う。


中岡慎太郎に刀を許したのは、何より彼への情だとは思う。思うけど、本当にそれだけだろうか。



知れば、生き延びてほしいと願ってしまう。だから知らない方がいいし、知る必要はない。
ひどいことを、ずるいことを選んでそれを「そうするしかなかった」と言う。……本当にそうだろうか。
誰かがそう言って、信念を捨てて諦めて迎えてしまう結末に何度か本気で喉が詰まるような気持ちになった。


耳ガアルナラ蒼ニ聞ケは男と女の視点から坂本龍馬という男を観る。
その中で、とんでもないお人好しで天才で剣の腕がたつ侍の人としての顔が見えてくる。私は、中でも姉の乙女さんから見える坂本龍馬の顔が好きだ。
元々好きだったけど、今回さらに好きになった。乙女姉やんにだけ漏らした弱音や迷いの表情でより坂本龍馬のことを好きになった。


そして今回、お龍さんを選んだことに物凄くしっくりきたのだ。坂本龍馬の姿に絶望とか疲れを見たからかもしれない。自分の好きなように生きる姿に癒されること、そのことにあーーーーー分かる、と腑に落ちた。そしてふたりのシーンが更に愛おしくなった。


とか色々書きながらもまだ坂本龍馬のことを格好いいと思ってるし、ほんの少し「疲れて諦めた」という自分の結論に納得していない私もいる。私にとって坂本龍馬はヒーローなのだ。
だけど同時にそうしてヒーローを押し付けることについて思うこともある。


でも、それで良いのだと思う。


正しさの結論を出すことは難しい。
「耳蒼のメッセージはこれだ!」と断言することはできない。
そう思えば思うほど、このタイトルを思い出す。


耳があるなら、蒼に聞け。
考え、聴いて感じ、心を揺らすしかない。これだけだ、とかこれが答えだと決め付けず、諦めず、ただただ、聴いて考える。生きてる限り、そうしていくことしかないのだと思う。

ボクラ団義へのラブレター

暫定最終公演。
暫定という言葉がついてるとはいえ、最終という言葉はものすごく重い。
その知らせを聞いた時、私は何をどう考えて感じたらいいか分からなくて一旦全部を保留にした。


コロナ禍であること、でも最終なこと、ただ最近は以前のように観に行けてなかったこと。その中で観ることに躊躇いもあった。
その上、上演される2本は私にとって特別な作品だ。見ずに綺麗な思い出のままにしたいとも正直思った。



だけど約1ヶ月前、仕事中唐突に思った。
ボクラ団義を観に行こう。

どう思うかとか、「何がなんでも行く」と思えなかった自分への失望とかどうでもよくて、
そんなことよりも2015年のあの夏、ボクラ団義を観ることで毎日なんとか過ごしていた自分に報いたかった。




私がボクラ団義に出会ったのは、DVDでだった。大学の大切な友人が面白いお芝居があるからと見せてくれたのだ。
クリスマス、好きな人たちで集まり美味しいものを食べながらハンズアップを観て興奮した。
その次の美味しいものを食べる会でも、ボクラ団義のお芝居を観た。観る作品観る作品どれも面白くていつか絶対、一緒に生で観ようと友達と約束した。
そうして、あの大学最後の夏、耳があるなら蒼に聞けを観に行った。
ようやく生で観ることができたボクラ団義のお芝居のエネルギーが想像以上で興奮した。次のシカクの企画内容を知って、絶対にこれも見るんだと決めた。




そしてそのシカクで完全にノックアウトされ、思い切り芝居の話がしたくてTwitterのアカウント「つく」を作った。ボクラ団義の過去の公演を掘り、客演で出ている方のホームの劇団を観て更に好きな人が増えていく。
いつの間にか、ボクラ団義がきっかけで広がった世界が私の大切な生活の一部になった。



時をかける206号室を見るためになんとか生き延びろと言い聞かせて入ったばかりの会社で耐えていた頃。
仕事中、頭の中でも外でも酷い言葉をたくさん聞いてふらふらになりながら携帯を開けば、そこには楽しそうにかつ真剣に稽古をするボクラ団義の人たちのツイートが観れた。それに笑っていれば途方もない帰り道も平気だった。
家に帰れば、好きなボクラ団義のお芝居を観れる。それがあの頃、家に帰る理由だった。
その時々、どんな気持ちになりたいかで観るDVDを決めていた。仕事の時も、辞めてからも。



ぐったりして帰ったときはわラワレ!を観る。仕事がうまくいかない自分への許せなさを主人公に重ねて何がしたいかずっと考えていた。

遠慮がちな殺人鬼はメイキングを見て、小道具について試行錯誤することに感動して、それを踏まえてお芝居を観るのが楽しくて仕方なかった。

さよならの唄は初演・再演ともに生きることとか死ぬことを観るたびに考える。

嘘つきたちの唄は本当に好きで、観るとしばらくあの歌をついつい歌ってしまうし、雪を見ると心がぎゅうっと締め付けられる。

鏡に映らない女 記憶に残らない男は3人の彼の声が重なるシーンを録音して、会社からの帰り、夜道ずっと聴いていた。決して心地いいシーンではなくて、どころか辛い苦しいシーンなんだけど、そのシーンを見つめながら夜道を歩くのが好きだった。

オトトイは大神さんのお芝居を好きだ、と何度見ても心の底から思ってしまう。そして、ほかのメンバーもそこから数年のほかの作品との変化を噛み締めて、全部、みんな大好きだ…!と震える。

耳があるなら蒼に聞けは、台詞を覚えるくらい観ていたんだと再演を観た時にびっくりした。糸永さんがいなくなってしまうのも悲しくて、大阪に大好きな劇団が来てくれるのも嬉しくて気持ちが忙しかったことを覚えてる。

シカクは、お芝居は演じる人で全く違う印象ななるんだ、という奇跡みたいな事実が嬉しくて、何度も違うバージョンを行ったりきたりして、シーンを見比べてが本当に楽しかった。そして、私はこのお芝居を生で観た時、本当に沖野さんに痺れてそれがきっかけでこのTwitterアカウントを作ったので、そういう意味でも思い入れが大きい。

誤人はその頃繋ぎでやっていた仕事を辞めることが決まって混乱しながら見に行った。不安しかなかったけど、面白いお芝居を観ればもういいやってあっけらかんとしてしまった。

ハンズアップのDVDが手元に来た時は震えた。放り出したくなった時は必ず観て、ちゃんと手を挙げようと思えることを確認した。

ゴーストライターズはセットに笑ったり物語に泣いたり忙しくてでもライトに観れるから(当社比)疲れ切った時に定期的に見ていた。

ハイライトミレニアムはHi-STANDARDを知ったきっかけだった。もちろん、音楽は聴いたことがあったけどそれがなんていう名前のバンドでどんな風に憧れられているのかを私はこの時知った。お芝居は、それ自体だけが記憶に残るわけじゃない。それを見た時の景色、記憶、状況も残るし、そして世界を広げてくれる。

今 だけが戻らないはあの初日を観に行った。幕が上がり、降りることが奇跡だと改めて思った。本当の初日をTwitterで見守って泣いて、映像で何ヶ月越しで見れてやっぱりまた泣いた。

ぼくらの90分間戦争は、阿佐ヶ谷でどうしても観たくて東京に行った。街を歩きながらボクラ団義の数年を想像して、観劇仲間と飲んで、大阪公演は観れはしなかったけど、やっぱり観劇仲間と飲んで。色んなことを話したし、そうしながら、増えた思い出のことをずっと考えていた。



長々書いちゃったけど、まだ足りない。


いろんなことが嫌になった夏も冬も、お芝居はすごい!と思えたら平気だったこと。
新卒の嫌な思い出が詰まった会社を恨まずに済んでるのはそこで最高の友人に出逢えたからで、そのきっかけはボクラ団義の「ハンズアップ」がくれたからで。
色んな素晴らしい劇団、役者さんに出逢うきっかけをくれたこと。
その出会いが、今日までの面白いをたくさんくれたこと。
ボクラ団義のお芝居の好きなことをどうしても話したくて作ったこの「つく」というアカウントのおかげで、初めて私は好きなものを好きだと語っても良いんだということを知ったこと。



本当に書ききれないくらい、色んなことがあった。色んなことを思ってる。


今回、観に行けないかもしれない、と出発前日思った時、全部全部投げ出したくなるくらい辛かった。そりゃ、そうだよなあ。
ボクラ団義さんがいなければ、私の人生は全然、違うものになってたんだから。


ずっと楽しみにしていた時をかける206号室をようやく観れたあの夏。時をかける206号室は可能な限り観たくて遠征ながらに取れるだけのチケットをとった。
千秋楽のカーテンコールの光景を観ながら「私はまだたくさんお芝居を観なきゃいけないからあんな仕事してる場合じゃない。生きて、お芝居を観たい」と決めたことを私はたぶん、一生忘れない。



ボクラ団義は、そこにいる人たちは、ずっとずっと、一生、私の恩人なのだ。



今回の公演は配信もあるよ。

ハンズアップ


耳ガアルナラ蒼ニ聞ケ

横道世之介


ライフプラン、なんて話がある。
それがお金のことなのかそれとも結婚のことなのかキャリアのことなのか、はたまた何か趣味などの生き甲斐を探すことなのかは様々だ。
さまざまなんだけど、そのどれもが「よく生きる方法」を教えようとしてくる。
ともかく何か正解を探そうとあるいは、正解らしいものを提示しようと世の中にはそういう類の情報に溢れてるなあと思う。
たまにそういうのを不安に駆られて見るけど、実際、ああなるほど役に立った!と思うことは少ない。
あとそれが行き過ぎると依存になったり宗教になったりと危うさを孕みだすし、だいたいはしっくりこねえなあーと携帯のブラウザを閉じることの方が多いのだ。



さて、横道世之介の話をしたい。

この映画を私はレイトショーで観たかったな、と心の底から思った。仕事終わりに疲れて適当に「なんとなく気になったから」という理由でチケットを買い、珍しくホットドリンクなんか頼んで人の少ない劇場でちょっと緩く座りながら観たかった。
妄想がいちいち具体的だけど、なんだか私は家のソファでそれこそだらんと座って観て、なんだかそういう見方をしたような気持ちにすらなったのだ。


横道世之介横道世之介が大学に進学するところから物語が始まる。九州の田舎から出てきたいかにも純朴そうな青年の物語だ。
そこで出会う友人、片想いの相手、恋人…ともかく色んな"横道世之介に出会ったひとたち"が描かれ、一章が終わるごとに未来のその人たちが描かれる。


すっかり歳を重ねた彼らが懐かしく愛おしいひとについて話す口調で「世之介がさ」と語る。
そこに横道世之介の姿はない。
なんなら、そんなに密に連絡をとっていた様子はなく、あくまで横道世之介は彼らの人生のある一瞬、通過点を共有した相手でしかない。


だけど、それを語る表情が優しくて私は本当に好きなのだ。



そうやって思い出を語る彼らのそばに、横道世之介はいない。いないけど確かに居る気がする。

今回の観るきっかけになった綾野剛さんが演じる「加藤」にとって、横道世之介は人間違いで話しかけてきた変わったやつ、である。
そしてなんなら、彼は大人になってしばらく、横道世之介のことを忘れていた。
その上、大学時代のことを振り返り「面白いやつはいなかったし、友達もいなかった」と語っていたらしい。それでも、ある日、世之介のことを思い出した彼は、心底おかしそうに笑って言う。

「ああそうか、お前は世之介知らないんだ」
「なんか、世之介を知ってるってだけで得したような気がする」


きちんとメモをとっていなかったので、記憶のままの台詞になってしまうけど、私はそう語るシーンが本当に本当に好きなのだ。夜景が映り込んだから、と片付けてしまえないくらい、加藤の目がきらきらと光ってた。
それだけで、彼にとって横道世之介との時間がどんな時間だったのか、その存在がどんな存在だったか、十分感じられる気がした。


同時に好きなのはそれが、加藤をはじめ、他の登場人物にとって人生を大きく変えたわけでもないことだ。
いや変えたとは思うんだけど。
でも実際、加藤は横道世之介のことを忘れていたし、他の人々も連絡をとったりしていなかった。どうしているかなあと語ったり、偶然知ってしまったその日、彼のことをぐっと考え込む瞬間がたまたまやってきたりする。
なんか、そのあたりがすげえリアルだなあと思った。と、同時にそれでも十分幸せなんだと思えて、私はすごく嬉しかった。


何か劇的な存在じゃない。だけど底抜けにいいやつでちょっとズレてて、みんなが彼を大好きだった。
特別じゃない、と、どうしようもなく特別だが同時に成立するようなそんな愛おしさが見終わった今も胸の奥でぐるぐるしている。
抜群の解決策なんてものでも、百点満点に変える劇薬なんてものでもない。
それでも、彼と出会えた人生はラッキーだった。あの人と過ごした自分は得したなって思える。それってなんて、すごいことなんだろう。



そしてそんな生き方をした横道世之介は、まさしく「よく生きた」だと思うんだけど
じゃあその生き方をどうやったらできるかなんてことは解説できたりしないのだ。それが本当に嬉しくてでも大変だなあと苦笑いしてしまいそうで、愛おしい。
いずれにせよ、この映画に出逢えた私は横道世之介と出逢えた彼らと同じようにラッキーだったな、とは思うのだ。