えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Q10

なんの記憶から失われていくか、とはよく話題になる問いかけだ。
視覚の情報なのか、聴覚の情報なのか。
大切な記憶が失われることは、大切な存在を失うことのつらさをより一層際立たせる。


Q10とは、ある日、主人公平太と人間にしか見えないロボットキュート(Q10)との日常を描く物語である。
ロボットという実写ドラマにしては少し珍しい設定ではあるものの、
物語が描くのは本当に何気ない高校生たちの日常だ。

平太が主人公で、キュートとのやりとりも多いものの、
むしろ群像劇というのがしっくりくるような印象を受ける。


家が貧乏で学校に通えなくなるクラスメイト、
頭はいいが自分に自信がないクラスメイト、
赤く染めた髪とロックへの思いを隠し登校するクラスメイト…
教室には、いろんな思いを抱いているクラスメイトたちがいる。

そして物語が描くのはクラスメイトだけではなく、
平太の家族や先生たちの日常、思いなのである。


で、振り返るとキュートがロボットである、というのはこの物語の主軸ではない。
もちろん影響はする。

彼らが悩んだり諦めたりするとき、キュートは「人間ではない」からこそ
当たり前に疑問を問いかける。
その中で、それぞれが立ち止まり、考える。
ただ、では「キュートがいなかったら」まるっきり変わっていたかといわれるとそうでもない。
成り行きでキュートの主人となり、一番接することになった平太や
キュートがそっくりな漫画のキャラクターに夢中なクラスメイト、中尾はともかく、
他の登場人物たちはキュートの影響だけで、行動や思いが変わるわけではない。


なんというか、私はその温度感がとても好きだ。
何より、彼らが悩み考えることは「高校生らしい」と言ってしまえばそうなのだけど、
そうやって「高校生だから」と片付けてしまうのはなんだかズレてしまうような気がするくらい、「人間らしい」のである。


生きていくこと、やりたいこと、好きな人、その人と一緒にいること
自分ではどうしようもない不幸や、将来のこと



それは一過性の「不完全な時期」だから、なんて悩みでも喜びでもない。ただ、どんな人もいつだって直面する想いたちだ。

そしてその度、隣にいる人を、手の中にあるものを、そして本当にその中で大切にしたいものを確認した彼らは笑い合い、一緒にご飯を食べたりする。もしくは、ひとりで大きく伸びをする。




Q10を私は、10代で観た。
大好きな佐藤健さんが主演で楽しみに毎週テレビの前に座り、気が付けば全ての登場人物を大好きになった。
こんな物語を描くひとはなんて人なんだろうと生まれて初めてドラマで脚本家を確認した。


そしてその物語のエピソードを私はいくつか忘れていた。
大好きだった、毎週楽しんだという記憶だけは残り、詳しいところは朧げになっていた。私は少なからず、そのことにショックを受けた。
だって大好きで大切な物語だったから。

でも、実際に久しぶりにドラマを観終わって思う。
確かに私は忘れていたけど、完全に失くしてしまっていたわけじゃない。
むしろ形を越えていつだってすぐ近くで私と一緒にこの物語はいてくれたんだな、という実感が残った。
それはどこか、キュートの存在を必死に愛した平太の出す、平太が観る答えと繋がっている。そんな気がするのだ。
大切なものを失いたくない、何一つ忘れたくない、手元に残していたいと私は思いがちだ。だけど、もしかしたら、失くすものなんていつだって一つもないのかもしれない。


そう思うと、これからこの物語の記憶が薄れていくことを不安に思う気持ちはなくなっていく。
だってそれは、居なくなってしまうとイコールでは、決してないのだから。