えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

そこのみにて光輝く

知人のおじさんが亡くなったらしい。
小学生、いやもしかしたら中学生だったかもしれないが、やさぐれた気持ちの時に決まって遊びに行く家のおじさんだった。白い犬を飼っていた。賢い犬だった。その犬も、大学で実家を出た少し後、亡くなったと聞いた記憶がある。
体調が優れず病院に行き、大きな病気が見つかって、それからはあっという間だったらしい。

私は、その知らせを母から受けた時、なんとも言えない気持ちになった。言葉にしてはいけない気持ちになった。

子どもの頃のような親しみはなかったけど、関係も悪化していたわけじゃない。少し記憶に曖昧なところがおじさんは出てきていたけど新たにきた犬の散歩を良くしていて、実家に帰ると愛犬の散歩をするのが好きな私も、何度かすれ違っていた。
だというのに、私はその知らせを聞いて言葉にしたくない気持ちになった。



そこのみにて光輝く、は函館を舞台にした話だ。
事故により山に戻れなくなった達夫が怠惰な生活を送る中で、パチンコ屋で拓児に出逢う。ライターをあげたことをきっかけに家に呼ばれ、拓児の姉、千夏と互いに惹かれあっていく。


覆うような閉塞感か、その中でももがく様か。
なんだかよく分からない感情が喉奥でぐるぐると鳴っていた。



惹かれあっていく様子は、可愛らしくて愛おしくて、それでいてどこか寂しい。惹かれてるのか、なんでなのかも言葉少なに、何度かにわたる二人の時間が描写されていく。
それでも、目を合わせて心底嬉しそうに笑う二人が好きだ。それまでどこか昏い目をしていた達夫が少しずつ生き返っていく。


人の目ってこんなふうに生き返るんだなあと思った。光の具合か、それとも嬉しそうに動くからか、表情が変わるからか。
なんでかは分からないけど、あるシーンを境に彼の目ははっきりと生き返る。血が流れる。生きようと大きく息をする。
本当に、あの絶妙な温度をなんで綾野剛は演じられるんだろう。
定期的に、彼の芝居が観たくていくつかの作品を見るけど、オタク的に言うと、綾野剛さんってよく「村を焼かれる」じゃないですか。
地べたを這いずるような中で生きる姿があまりに似合いすぎる。それが似合うからそういう役がくるのか、そういう役をやるから似合うと感じるのか。
それは最早、卵が先か鶏が先かに近い話な気もする。
ただ、一つ思うのはそうしたどうしようもなさ、苦しさの中にあっても彼は根本的には目が死なない。前述と矛盾してしまうけど、決して死なない。生きようとする。
どんな地獄も、そこで苦しむのはある意味で生きようとするからじゃないのか。



ところで、拓児の屈託なさとか、なんか、そういうのもすごく好きで。でも、わりとクズじゃないですか。
良いだけの人も悪いだけの人もいないことが最近好きになる作品の条件の一つな気もする。
し、それが言葉ではなくて表情とか仕草ひとつひとつで描かれると言いようもない気持ちになる。


達夫が、拓児を殴って抱き締めるシーン。
本当にたまらなく、好きだったんですが。
二回目観て、殴る姿にあー、と思った。悪いことをした子どもを叱る(もちろん、それで暴力は振うべきでは絶対にないけど)ようにも、親友を殴るようにも見えて。
なんというか、家族になるということについても考えてしまうし
なんだろうなあ、なんか、ああ、大切にしたいだけなのになあって私はこの映画を観てる間ずっと頭の中で考えていた。ただ、それだけなのに。それは本当なのに。
でもどうしてか一つ、うまくいかない。
いかないならいかないで、放り出せればいいのにぎりぎり、踏ん張ってしまう。踏ん張れてしまう。
それなら、大切にできたらいいのに。


この映画を見終わったとき、私は手帳にこう書いていた。


「映画を観ていて巻き戻したいと
生まれて初めて思った。
時が戻るなら変わるなら巻き戻したい」



ただ、もうなんというかそれ以上言える気もしなかった。達夫と千夏の、拓児の言葉になる前の感情や行動に、私の持つ言葉は足りそうにもない。
そしてこの感覚は、この三人に限った話ではなく中島にも抱く。彼が千夏に執着する様は狂気的にも見えるし、何より醜くもある。んだけど、なんだか妙に苦しくなる。
し、そもそも、彼が何故千夏にあれほど執着してるのかは、言葉としては描かれない。理由は分かるように分からないような、その、言葉の一歩手前でぐるぐると渦巻いている。


こうしてブログをしょっちゅう書いてるので全く説得力はないけれど、言葉にしなくていい人が時々、心底羨ましい。
言葉はいつも、追いつかない。そこにある微妙なニュアンスや色や温度が落ちていく。言葉は、と括るのは自分の表現力のなさを棚上げしてるな、と思うけど。
でも、どうしても思う。例えば、演技や音楽や、料理や絵が選べたなら。そこにしかない、それでしかできない絶妙な表現があるのに。


そう言いながらもブログで感想を書こうと思ったのは、そこのみにて光輝くの脚本家が『武曲』の脚本と同じ方だと知ったからだった。
武曲も私は綾野剛さん目当てで観た。
あの映画も、本当にすごく、良かった。
何が一番良かったかってきっと、そこにあったもの、そこから自分の中に入ってきたものを言葉で表しようがないことが一番良かった。


あのお終いがなんなのか、タイトルの意味はやはり、言葉にならない。
ただあのレンズに焼き付いた、息遣いや汗や空気だけがそれそのものだった。そんな得難いものが煮詰まったものを私は愛おしいと思う。


そして、武曲とそこのみにて光輝くの脚本が同じだと知った時、なるほど、という納得とともにどうしても言葉に表したくなった。
表す余地もない、どれだけ言葉を重ねても蛇足にしかならないと分かってはいるけれど。
言葉が追いつかない、あの瞬間瞬間の彼らに一歩でも近付く方法が私にはこうして言葉にしてし尽くせないことなんてものは百も承知で、そうし続けることしか浮かばないのだ。

創造

また大好きな曲が増えたぞ。
最高が増える、やばい、本当にワクワクする。
0時の解禁からずっと、そわそわと落ち着きなく、頭の中でメロディがなってる。

星野源さんの「創造」もう聞かれました?
MV見られました?
もうなんか、ヤバい。



0時に友達と通話しつつ、MV解禁を目撃したわけですが、
なんかこう、極彩色が頭の中にぶち込まれたというか、言いたいことや最高なことや好きな瞬間がありすぎて逆に言葉にならない。
観終わってまじで何言っていいか分からなさすぎて最終的に言葉になったのが「ニセさん!!!!!」でしたからね。
ニセさん、本当になんであんなに愛おしいんだろう。見てると落ち着く謎の魅力がある。なんなんでしょうね、彼ね。本当に不思議だ。


で、一旦落ち着いて眠って、YouTubeで観てコメント欄での任天堂リスペクトの色んなオマージュについて触れてへえー!と叫び、また寝て、YouTubeで見て、を、今日一日繰り返していた。
繰り返してるんだけど、ほんと、全然言葉にならないんだよな。
なんかとりあえず、本当に楽しくてワクワクして嬉しい。楽しい、が聴いてる間、MVを観てる間続く。



入場曲にしてえ、と気がついたら呟いていた。別に、野球選手でもレスラーでもないので、入場曲をかける機会ってないんだけど。
更に言うと、結婚式で、とかじゃなくて、そういうのじゃなくて、なんか入場曲なんです。
どっかに一歩踏み出す時とか、歩いてどこかに向かう、ばばーんと登場する瞬間にこの曲が流れてたらきっと楽しい。
そこから始まる全部を、楽しくできる気がする。


源さんを好きになって色んな表現に触れるたび、毎回わくわくしている。
お芝居も、音楽も文章も「わあ楽しい!」ってはしゃいでしまうし、あー良かったなあって大きな声を出しそうになる。
なんか、良かった、こんな楽しいことに出逢えたのってすげえ最高じゃん、嬉しいなってお腹の底から声が出る。


思ってること、感じてること全部を言葉に変えれなくてなんとなく焦ったい。
例えば歌詞の色んなここが好きだって話をしたくもあるんだけど。
うまく言葉になってくれそうになくて、そうなると毎度毎度、YouTubeに戻ってMVを観てしまう。



源さんの創造についての言葉の中で
創作を「自己と他者との間に流れる川に橋をかける行為」って言ってたのが本当にものすごく好きだ。



今回、創造がリリースされて、色んな人とこの曲いいね、って話をするのも楽しくて
「同じ」が欲しいかと言われるとそうでもないし、「繋がり」を声高に叫ばれると億劫になるなあ、と考えている中で
なんか、橋を渡れるような、こんにちは、って挨拶できる感じのそういうの、本当にハッピーだ、と思った。



楽しいが先立って、わくわくして、きっとこれからも、繰り返し繰り返し、聴くんだと思う。
入場曲だ、ってどっかに行く時、頭の中でかけることもあるんだろう。
その時、きっと楽しいが溢れるんだと思う。
その中でああこの歌詞!とかこの音!とか、腹落ちして悶絶したりするのが、今から楽しみで仕方ない。



なんか、創り出そうぜ、と楽しそうに弾む声にまるで、春がきたみたいにわくわくしている。ああもう、思い切り遊びたいな。遊ぶぞ。

「その女、ジルバ」を観て欲しい

フォロワー!頼む!このドラマを観てくれー!!
頼むー!!!!


今期、本当に本当にドラマが豊作ですごい。
1月に入ってから延々と嬉しい悲鳴を上げ続けている。すごい。ドラマが複数楽しみだと何がすごいかって、週に何度も「今日はこれがある」の楽しみがあるのだ。これってなかなかにすごいことだ。
去年、色んなことがあった時、ドラマを好きになって思い出した。
1週間で、この日、楽しみがある。
その約束は、お守りとなって1週間、元気をくれる。



そんなわけで、ドラマを毎日楽しみにしているんですが、その中でも特に今期推してるドラマがある。
土曜ドラマ「その女、ジルバ」である。
始まる前、ほぼノーマークだったこの作品を、本当に始まる直前ネット記事で知り、観て衝撃を受けた。
ドンピシャで好みだった。
なんだか焦がれるように観た初回から、毎週欠かさず、本当に楽しみにして観ている。

そんな大好きなドラマ、「その女、ジルバ」が今、期間限定で1話から見逃し放送をTver、FODでやっている。
そんなわけで、どうかフォロワーさんに観て欲しいという気持ちを込めて、ブログを書いている。元々、見逃し配信があると知って、書こうかなあどうしようかなあと思っていたけど、13日放送分を観て、もう、衝動的に書いている。



どっか、大好きな友人を紹介するような心持ちだ。
ような、というか、大好きな友人なのだ「その女、ジルバ」は。私にとって。
だからこそ、私はこのブログで「その女、ジルバ」について書こうと思う。


「その女、ジルバ」は夢なし貯金なし恋人なし、そんな40歳の新の物語だ。
こう書くと、なんだか観ていてしんどくなりそうな、或いはメッセージ性の高い、そういうお話に聞こえるかもしれない。
確かに、新が40歳以上のホステスしかいない……なんなら40歳なんてあのお店ではギャル、という扱いだ……『OLD JACK&ROSE』で働き出しどんどん輝いていく様は、
人生を肯定してくれたり、歳を重ねることの素晴らしさを伝えてもくれる。
だけど、なんというか、それが主題じゃないというか。
いや主題には違いないし、実際そのメッセージに励まされてもいるんだけど、だから私はあの作品を好きだ、というわけではない気がする。


優しい話を紡ごうとしてるわけじゃないのかもしれない。優しくしたいとかいう、そういうのでもなくて
いや、優しくはしようとしてるのかもしれないけど、
なんだろうな。そうあるべき、とかの話じゃないんだよなあ。
優しくありたいと思うことと、優しくすることはちょっと違う気がするんだ。
難しいな。



なんというか、「その女、ジルバ」に出てくるひとたちはみんな楽しそうなのだ。
色んな嫌なことを越えてきて、もしくはその瞬間直面したりしていても、ずっと楽しそうだ。
それは、まさしくバー『OLD JACK&ROSE』のお店の在り方そのものかもしれない。
美味しいお酒と料理、歌と踊り、お喋り。
お客さんもホステスもオーナーも、その場所ではただただ楽しそうに過ごしている。
馬鹿騒ぎ、というには穏やかな楽しい時間は見ているだけで優しいし楽しい。
私は、そんな時間を観ることが何より楽しみなのだ。


あと、手のひらをくるんと返すようなんですが
この先、どっか居場所はあるんだろうか、みたいなことを、考えてしまうことって結構あって
家族とか友達とか恋人とか、その他諸々の人間関係について思いながらどうしようもなく不安になることも、あるんですよ。
そういう時があるので、余計に、「その女、ジルバ」を観ながら人間関係の種類って色々あるよなあ、と思えることにホッとする。
さらに言えば、その人間関係はいつまででも、生きてる限り、きっと増え続ける。
もう増えない、なんて決めてしまうこともなくて、いくらだって、人は人と関わることができる。
そして、そうする限り、楽しいことはいくらだって起きるのだ。たぶん。


ひとの帰る場所ってきっと、たくさんあるんだと思う。
心の奥底、思う人がいることがうれしい。
その関係に名前を付けられるかどうか、互いに特別であるかどうかはどうだって、いいんだよ。

ああそうか、誰よりも、ジルバが帰りたいからか。だから、あの場所は居心地が良いのかな。帰ってきたと思っても良い。まるで、そう言ってもらってるような気がする。


今回、こうしてブログに私は大好きな友人を紹介するつもりで、「その女、ジルバ」のことを書いた。
それは、私がこのブログのことがとても好きだからだ。6話のシーンを観ながら、考えていた。
ここで、好きなものの話や考えてることの話をするのが、好きだ。読んでくれている方がどれくらいいて、何を思ってるかまでは分からないけど、少なからず、私はこの場所で文を書くことが好きだ。
そう思うと、なんか「その女、ジルバ」のことを書きたくなった。特定の誰かに、というよりかは、なんというか「あなた」に向けて。

それはきっと、あの『OLD JACK&ROSE』に好きな人を連れて行きたくなる、その感覚に近い気がする。


ひとが、ひとをただ大事にする。
その1時間1時間が大好きで、私はこの週1の時間を待っている。
できたら、その大好きな友人に、大好きなあなたが出逢ってくれたら私はとてもとても、嬉しいと思う。

箱入り息子の恋

「叫ぶ」描写が気持ち良すぎてびっくりした。
星野源の叫ぶ、の芝居はどうしてあんなに心地いいんだろう。


思えば、「逃げるは恥だが役に立つ」も、「11人もいる!」もそうだが、
『うまくやれないひと』を演じる星野源さんはともかく魅力的だ。
不器用だったりコミュニケーション能力に難があったり、ともかく、なんとなくどこか生きづらいひと。
あるいは、彼の作る音楽にも「うまくいかないこと」に寄り添ってくれるような柔らかさがある。
毒みを含んだとしても、それは「毒として存在すること」をそっと肯定してくれるような、そんな感覚。



何を隠そう私も、そんな「うまくいかないこと」に寄り添ってくれる源さんの表現が大好きなひとりである。
そして冒頭、叫ぶ、と書いたけど健太郎は正しくは叫ばない。叫べない。身の内を裂かれるような怒りに駆られても、彼は初め、唸るだけだ。
私はそのシーンが、切なくて苦しかった。大好きな「うまくいかない」表現だったけど、むしろだからこそ、苦しかった。



箱入り息子の恋は代理見合いパーティをきっかけに出会った男女が恋に落ち、紆余曲折を経てなんとか結ばれようとする物語である。
箱入り息子は、人とコミュニケーションをとるのがともかく苦手で普段職場と家の往復しかしていない。
そして、お相手の女性も8歳から徐々に視力を失う病気に罹り、今では完全に目が見えなくなっている。

ふたりはそれぞれに「できない」ことがある。
主人公健太郎に母は、普通に生きてほしいだけ、と言う。



普通に生きて、普通に友達と遊び、普通に結婚をして普通に家庭を築く。


「普通」というそのことが、実際とんでもなく難しいことだというのは、わざわざ私が書くまでもないだろう。
そしてそれが「普通」のことだからこそ、辛い。
これがとんでもない偉業だとしたら、できないことはそんなに辛くないのだ。世界を救えないとか大金持ちになれないとかスーパースターになれないとかなら。だってそれは「すごいこと」だから。
でも、一般的に「すごいこと」とはされない、「普通のこと」がとんでもない偉業と同じように「すごいこと」な場合がある。
そうなると「どうしてこんなことができないの」と周囲から責められる。し、何より自分が自分を責める。



どうして、こんなことくらいのこともできないんだろう。



健太郎も菜穂子もそれぞれ、理由は違えど、そんな普通のこと、が出来なかったひとたちだ。
出来なくて、その上、周りから「お前には無理だ」と決められて、自分を諦める。


選ばれなかった、諦めるしかなかった人のラブストーリーは古今東西、愛される類のものだと思う。
それは、可愛らしく見えて応援したくなるのかもしれないし、
もしくはきらきらのラブストーリーよりも自己を投影しやすいからかもしれない。
なんにせよ、一定の人気がある。私も、好きだと思う。
でも、なんか、それって苦しいなと見合い後の叫べないまま暴れる健太郎を見て思った。少なからず、そのシーンに心を寄せてスカッと……っていうと、語弊はあるが……したからこそ、なんだかなあと思った。
決めつけてしまったような、そんな気がしたからだろうか。


健太郎も菜穂子も、どんどん惹かれていく。
こうあるべき、なんて形でも「お前はこうだから」という決めつけでもなく、心が言うまま、惹かれるまま、お互いに手を伸ばす。
その姿が、柔らかく愛おしくて、なんだかそんなことにも泣けてしまった。
あれはなんでだろうと数日考えてたけど、もしかしたらどっかそんなことあるわけないよーあったらいいのにーちくしょーの苦しさだったのかもしれない。
ないわけでも、ないとも思うんだけど。
あとやっぱりなんか、肩代わりさせてしまった居心地の悪さもあるのかもしれない。決めつけて、他人に任せてしまった罪悪感みたいな。
それは、お父さんが菜穂子にしたような「お前はこういう人だから」と決めつける行為にすごく似ているような気がする。


笑われたことのある、他人から決めつけられたことがある、
そんな人たちが箱から飛び出して"自分の手"で相手に触れる。
そんな泣き出したいような幸福感を目に焼き付けたかった。
だってそれは、一生にそう何度もないような出来事だと思う。だからこそ、健太郎が最後に叫べて、良かったな。本当に。彼らが、彼らのために、何よりも相手が必要なんだと手を伸ばす。その格好悪くてだけどとんでもなく最高のシーンを、思い出してる。

一生に、一度くらい。

配信限定の公演。
舞台装置は病院の待合室にあるような長椅子ひとつだけ。そこで、ある姉弟たちの会話が繰り広げられる。

一生に、一度くらい。
そのタイトルのことを、ずっと考えてる。



余命僅かの父親の病室を見舞う次女と末っ子のもとに、数年前、ある事件をきっかけに家を出て行った音信不通の姉が帰ってくる。
ブログで感想を書きたくて、ずっとなんで好きだったかを考えていた。
姉弟の話なので、その会話の中には取り止めもないことも多い。たとえ、父が危篤でも十数年ぶりに姉が帰ってきても、小さい頃の何でもない思い出話やショッピングモールのアイスや、ゲームアプリの話をする。

日常のなんでもない空間、会話の中に、時々本音が混じり合うような感覚。
そのざらりとした手触りが私は好きだったのかもしれない。



見終わった後の感想ツイートで、喫茶店で隣の会話をこぼれ聞いたような、と書いた。なんとなく、そんな感覚があった。
大仰な会話というよりかは、つい漏れ聞いてしまったような、そういう会話を私は聞いていた気がする。
しかも、それは喫茶店で繰り広げられるのだ(舞台は、病院の待合なんだけど)
きっと話してる本人たちも、肩肘張って覚悟して、準備しての会話というよりも、するすると口からこぼれていったような、そんな会話だったような気もする。
その中で、家族が欲しかったのかも、や、ここまで生きててくれてありがとう、って言葉がこぼれたことが私は本当に好きで。
会いたくて会いたくて仕方なくて、手を尽くして会った、というわけではなくて
そうじゃなくて、勢いで唐突に訪れた再会で、目的のメインというよりかは、流れで生まれたような会話の中で、
生きててくれて、ありがとうって言葉がでるの、なんというか、良いなあと思ってる。


なんか、大袈裟じゃないんだけど、
でも感情は確かに揺れ動いてて、あーうん、そうだな。
なんというか、人と会話するってそういうことかもしれない。相手がこういうだろうなって予測して、とかじゃなくて
その人と同じ空間にいて、空気が揺れて表情が動いて、そういう一つ一つに気持ちが動いて、その先が自分にも予想できないものだったりして、それでひとつ、溢れるような。
なんか、そういう、ああ好きだなあの瞬間が詰まっていて、私は好きだった。
人と話すのが、好きだなあと思ったし、人と話してるひとたちを観るのが、好きだなあと思った。


私が購入した公演は、千秋楽だった。
そのカーテンコールで小岩崎さんが言った。


このお芝居を観た、あなたの幸せを確約します。



その言葉は、私の生きてきた中でのお守りのひとつだ。大阪で上演されたポップンマッシュルームチキン野郎の殿はいつも殿の千秋楽。
そこでも、小岩崎さんはそう言ってくれた。私は、その言葉がとても大好きで、お守りのように大切にもっているものの一つだ。
その言葉と、思いがけず再会して、変わらず、小岩崎さんがそう言いながら、お芝居を作っていてくれることが嬉しかった。
いつかとおなじように言った彼女は、脚本の中で言った。今日まで、生きていてくれて良かった。
基本的にネガティブな私だけど、その時、そうか、いつか、そんな日がくるかと、思えたし思いたかった。一生に、一度くらい。



実は、まだこの公演はアーカイブが購入可能です。千秋楽だと2021年2月20日まで、視聴可能。
ざらりとした手触りの会話が聴きたい方、ぜひ。

その女、ジルバ 5話

前、友人たちと映画を観た帰りにカップラーメンを食べたことがある。
ラーメンを食べに行くでもなく、カップラーメンにお湯を注いで少し肌寒いなかで食べた。
ドラマとは直接関係ないんだけど、そんな時のことを思い出していた。


これは今期最も楽しみにしている「その女、ジルバ」の5話の感想である。



そもそも、その女、ジルバがこんなに刺さってるのは何故だろう。
40歳独身貯金なしの新にいつかくるだろう自分の姿を重ねたからだろうか。もちろん、それもある。というか、見始めたきっかけはそんな彼女を大好きな池脇千鶴さんが演じるというのが気になってからだ。
だけど、たぶん、観続けている理由は少し違う。


5話、スミレのパワハラによるリストラ勧告、そしてそれを相談できない姿で終わった4話から引き続いて物語は始まる。
1話当初では想像もつかなかったほど仲良くなったシジュー娘たち。
だけど、スミレは、相談できない。しない。
さらには、ミカにも胸の内、ぐるぐると悩むものがある。だけど、やっぱり、それも直接シジュー娘たちは相談しないのだ。


まだシジュー娘には遠い小娘でも、なんとなくこの感覚は分かる。悩みを相談すること、はもちろんとても大切だし必要だけど、生きているとだんだんと「話せない悩み」も増えていく。
話してもどうにもならないこと、ちょっと話すには話すトーンに迷うこと。
そもそも、話す暇なんてなかったりもする。
ところで、それでも彼女たちは笑ったり踊ったりする。


OLD JACK & ROSEは、そんな場所だ。


なんか、どうにもならない、相談してもキリがない出口が見えないことを一旦預けて思い切り笑う。し、笑えないときはそのままでいれたりする。笑いな〜!!!と背中を思い切り叩かれる気はするけど、どんな悩み事もなんなら一緒にぷんぷんしながら聴いてくれそうなお姉さまたちが、あのお店では待っていてくれる。



結婚しない、となった時にどうしたって脳裏にはひとりでの生活、もっと突き詰めれば最期を想像してしまう。
それだけじゃなく、結婚していても振り払えない不安はある。結婚が幸せの最終奥義じゃないことは、別に私がここでわざわざ書くまでもないことだろう。

人生に確実に効く特効薬なんてものはない。


あの楽しいバーにいるお姉さんたちにも、いろんなことがあって時には塞ぎ込みそうなことがある。それでも、それを含めて彼女たちは笑って、お酒を飲み、踊って歌う。時々は転びながら。
仕事でパワハラを訴えられたスミレは、職場のメンバーから「彼女はそんなことはしてない」「リストラは撤回してほしい」と言われる。なんというか、なんだろうな。
丁寧に丁寧生きていても、どこかで落とし穴に落ちることがあって
そうなると、丁寧に生きることがバカバカしくなったりとか、するんだけど、そうじゃないんだよな。
大事にしていたものは、いつかその人を救ってくれたりする。とはいえ、救われるために、大事にするわけじゃないけども。
(そもそも、大事にするイコール必ず救われる、じゃないからそこの目的が逆転しちゃうと苦しくなるような予感がするんだ、漠然と)

自分の本心と向き合って、一歩踏み出したミカちゃんは、それでも自嘲気味に「きっと噂されてるんだろうね」という(あのシーン、田舎出身者としてバチバチに刺さってしまった)


なんか、一色だけのことなんてどこにも、ないんだよな。物凄くつまらないことにも愛おしさはあるだろうし、これでいいと決めたところにも不安はあるし。
不幸はどこにでも落ちてて、こちらの足を掬おうと手招きしている。私のことを見ている。でも、たぶん、そうじゃない。
それは、真っ逆さまに落ちるものではない。
ミカちゃんのお母さんの言葉を借りるなら、風でしかない。寒くて、流していって、でも時々、背中を押すのだ。


シジュー娘たちが三人でお酒を飲んで笑う姿を見て、私はカップラーメンをみんなで食べた夜を思い出した。
でもそれも、友達って良いよねー!最高!ってだけでは、なんとなくなくて。
そうじゃなく、いっこいっこ、の話なような気がしている。


人生の中で想像している「こわいこと」はとても大きな穴の形をしている。でも、きっとその穴に落ちていかないように、背中を繋いでる命綱はそうして重ねてきた糸なんじゃないか。
夜の、どうでも良いようなくだらないような、直接は抱えているものを解決できない時間でも。ここにいれて良かったなと呟く、そんな時間が好きなのだ。

泣くな、はらちゃん

漫画の中の登場人物たちと本当に話せたらいいのに。一緒に暮らせたらいいのに。
そんな風に想像したことのない漫画好きはいないんじゃないか。

漫画や、アニメ、小説に映画、ドラマ。
作り物の創作物たちに心を寄せてそれが本当ならいいのに、と夢想したことがある人間にとって描写ひとつひとつがダイレクトに刺さってくるドラマだった。


泣くな、はらちゃんは蒲鉾工場で働く越前さんとそんな越前さんがストレスをぶつけるようにして描く漫画の中の人々の話だ。
越前さん自身が大好きな漫画家の登場人物を使って、彼女は普段飲み込んでしまう鬱憤を漫画の中で晴らす。言えない不満を言い、怒れないもやもやを怒る。
そんな漫画の世界のはらちゃんたちは「神様が笑えばこの世界はもっと楽しくなるのでは」と漫画の中から飛び出して、
越前さん……神様を幸せにしようと奮闘する。幸せでいてほしい、と願う、片思いになり、両思いになりたいと口にする。



はらちゃんは漫画の世界しか知らないから
飛び出してきた現実世界の色んなことに目を輝かす。
そんな姿がまず、なによりも好きだった。
作中、「もっと聞いてください、あれはなんですかって」と蒲鉾工場の後輩がいうシーンがあったけど、
その気持ちはなんとなく分かる気がする。
はらちゃんは良いやつで、そんなはらちゃんが目を輝かせてあれは?!と聞いてくれる姿はなんだか嬉しい。
知ったそれを、嬉しそうに復唱しはしゃぐ姿を見るのは嬉しい。



しかし、
はらちゃんたちは現実の世界が、素敵なだけの世界じゃないことを知る。
その時に、越前さんが泣くのがなんだか無性に苦しかった。なんと言うか、なんか、あーーーーって叫びたくなった。彼らが好きだから、生み出してしまったから、存在させてしまったから、なんか、ごめん、みたいな、気持ちが胸に差し迫った。ごめん、こんな世界でごめん。
できたら、はらちゃんたちが目を輝かせていられる世界が良かった。そうじゃないならこんな世界手放せたらいいのにな、とも思う。
でもなんか、そうじゃないんだよな。
はらちゃんが言った言葉を考えてる。
世界と両思いになりたい、という言葉を噛みしめてる。



今日、ちょうど友人と電話していた。
哲学とか、倫理とかそういうの今こそ勉強したくなるもんね、と話ながら思った。
最近私は「ああだから芸術が世界にはあるのか」とよく思う。
芸術とか思想や宗教とか、なんか、ああだからか!と実感として差し迫っていて、なんというか、その感覚を知れたのはちょっとだけ、得をしたな、と思ってる。



越前さんが言う。
はらちゃんたちは友人で、恋人で、家族だと。
大切で大好きで、だからこそ、誰にも言えない苦しさや楽しさを、越前さんは漫画に描く。
一から生み出したわけでは、ないけれど。むしろ、ないからこそ。


創作物に心が救われることがある。
そんな「つくりもの」たちは、友人で恋人で家族だ。たった一つ、自分だけの。
生み出した作者すら介在できないくらいの「わたしだけ」の存在だと、思うことがある。観て、出逢った時心の中には自分だけの「彼ら」が生まれるのだ。
生身の友人達、家族や恋人も大好きだけど、そんな「彼ら」もとても大切で理由の一つで、どうしようもない日に逢いに行く人たちだ。


そして、きっと、そんな彼らがいるのは、好きなのはこの世界を好きでいたいからこそじゃないだろうか。
世界を好きになりたくて「つくりもの」を生み出して、好きでいること。




エンタメは不要不急だと言われるこの世界、このタイミングでこのドラマに出逢えてよかった。
私の世界への片思いは、きっとエンタメという「つくりもの」の形をしている。そんなような、気がしている。