えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

泣くな、はらちゃん

漫画の中の登場人物たちと本当に話せたらいいのに。一緒に暮らせたらいいのに。
そんな風に想像したことのない漫画好きはいないんじゃないか。

漫画や、アニメ、小説に映画、ドラマ。
作り物の創作物たちに心を寄せてそれが本当ならいいのに、と夢想したことがある人間にとって描写ひとつひとつがダイレクトに刺さってくるドラマだった。


泣くな、はらちゃんは蒲鉾工場で働く越前さんとそんな越前さんがストレスをぶつけるようにして描く漫画の中の人々の話だ。
越前さん自身が大好きな漫画家の登場人物を使って、彼女は普段飲み込んでしまう鬱憤を漫画の中で晴らす。言えない不満を言い、怒れないもやもやを怒る。
そんな漫画の世界のはらちゃんたちは「神様が笑えばこの世界はもっと楽しくなるのでは」と漫画の中から飛び出して、
越前さん……神様を幸せにしようと奮闘する。幸せでいてほしい、と願う、片思いになり、両思いになりたいと口にする。



はらちゃんは漫画の世界しか知らないから
飛び出してきた現実世界の色んなことに目を輝かす。
そんな姿がまず、なによりも好きだった。
作中、「もっと聞いてください、あれはなんですかって」と蒲鉾工場の後輩がいうシーンがあったけど、
その気持ちはなんとなく分かる気がする。
はらちゃんは良いやつで、そんなはらちゃんが目を輝かせてあれは?!と聞いてくれる姿はなんだか嬉しい。
知ったそれを、嬉しそうに復唱しはしゃぐ姿を見るのは嬉しい。



しかし、
はらちゃんたちは現実の世界が、素敵なだけの世界じゃないことを知る。
その時に、越前さんが泣くのがなんだか無性に苦しかった。なんと言うか、なんか、あーーーーって叫びたくなった。彼らが好きだから、生み出してしまったから、存在させてしまったから、なんか、ごめん、みたいな、気持ちが胸に差し迫った。ごめん、こんな世界でごめん。
できたら、はらちゃんたちが目を輝かせていられる世界が良かった。そうじゃないならこんな世界手放せたらいいのにな、とも思う。
でもなんか、そうじゃないんだよな。
はらちゃんが言った言葉を考えてる。
世界と両思いになりたい、という言葉を噛みしめてる。



今日、ちょうど友人と電話していた。
哲学とか、倫理とかそういうの今こそ勉強したくなるもんね、と話ながら思った。
最近私は「ああだから芸術が世界にはあるのか」とよく思う。
芸術とか思想や宗教とか、なんか、ああだからか!と実感として差し迫っていて、なんというか、その感覚を知れたのはちょっとだけ、得をしたな、と思ってる。



越前さんが言う。
はらちゃんたちは友人で、恋人で、家族だと。
大切で大好きで、だからこそ、誰にも言えない苦しさや楽しさを、越前さんは漫画に描く。
一から生み出したわけでは、ないけれど。むしろ、ないからこそ。


創作物に心が救われることがある。
そんな「つくりもの」たちは、友人で恋人で家族だ。たった一つ、自分だけの。
生み出した作者すら介在できないくらいの「わたしだけ」の存在だと、思うことがある。観て、出逢った時心の中には自分だけの「彼ら」が生まれるのだ。
生身の友人達、家族や恋人も大好きだけど、そんな「彼ら」もとても大切で理由の一つで、どうしようもない日に逢いに行く人たちだ。


そして、きっと、そんな彼らがいるのは、好きなのはこの世界を好きでいたいからこそじゃないだろうか。
世界を好きになりたくて「つくりもの」を生み出して、好きでいること。




エンタメは不要不急だと言われるこの世界、このタイミングでこのドラマに出逢えてよかった。
私の世界への片思いは、きっとエンタメという「つくりもの」の形をしている。そんなような、気がしている。