えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 武道館 なんと括っていいか、まだ分からない

なんだったのか、誰もわからない。
観客どころか出演者もスタッフもたぶん、なんだったのか分からない。コントだしライブだしなんならラジオだし、でも、なんだったんだろう。

なんだったか分からないのに、とんでもなく、とんでもなく面白くて嬉しくて、ずっと噛み締めている。



面白いことってすごいのだ、とずっと思ってる。ここ数年、ひたすらずっとそう思ってる。



括れないと劇中、何度も語られた「FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in武道館 なんと括っていいか、まだ分からない」。
初日の終わりも、2日目の終わりも、公演が終わってから数日経ってなお、Twitterのタイムラインでは、感想やその公演に対しての想いが流れてくる。
そして御多分に洩れず、私もまだその興奮の中にいる。まだまだまだ、あの公演の話がしたい。あの時の感情や気持ちを言葉にすればするほど「括れば括るほど」ズレてしまう可能性を大いに孕むんだけど、それでも、この公演が本当に好きだった、と言いたくなる。




私にブツ刺さったのはこの公演の中、真ん中に「承認欲求」や「表現」「やりたいこと」があったからだと思う。





コント師、ラッパー、DJ、アイドル、声優、バンドマンたち。
そういう「表現のプロ」の人たちが本気で表現していくだけではなく「表現すること」に向き合っていく。それに心底食らっていた。




他人の目が気になって、評価されたくて理解してほしくて、でも勝手に理解った顔してほしくなくて、やりたいことがやりたくてでも、それを求められてなくて。



括ってくれるな、と言いながら括られたい願望も実際あって、でも括られたら「もうそこに俺はいない」になるから人間って大変だ…。



無理だよイタイよ誰も求めてないよそんなもんだよを生々しくかつ笑いも含めて書きながら「でも俺たちはこれをやるよ」を貫き通してくれたフロホリのことを、ずっと考えている。



自分がやりたいことをやる、表現する。それは前提恥ずかしいことなのかもしれない。



自分ですら持て余しそうな承認欲求や自己表現、「こう観られたい」という感情は時々、拗れてややこしくなる。

そういう自意識とも呼ぶようなものをこの「なんと括っていいか、まだ分からない」では時にあっけらかんと、時に容赦なく笑い飛ばした。




語られる言葉に括られる側、括ってもらえない側、括る側、それぞれ「ああそうだよ」って覚えのある感情、景色を見るものだから毎回頭がぐるぐると渦巻く。でもそれがどれも徹底的に嫌な感じがしないのは、ほぼほぼずっと笑っていたからで、コントってすごい、と思う。


「いるいる」「あるある」のそのまま受け取ると苦味のあるものを笑って受け止められることに毎度毎度、不思議な気持ちになる。
ぐしゃぐしゃになるようなものを、笑えること否定しきらなくて済むこと。
人は生きてるだけで「やらかす」生き物だけどそれを面白く「アリ」にしていくのがエンタメなんじゃないか。そんなことを思った後、HIPHOP、笑い、ラジオも全部そうだ、と思う。
そうか、私の好きなものって全部そうだ。


"アリにする"は、許してください、ではなく「これくらい良いでしょ」じゃなく、間違えたと後悔しても作り続けていく話なんじゃないか。
そして、私は、そういう景色を見るたびにじゃあまだ大丈夫だと思ってきたんだ。



そんな大好きなエンタメを作ってきてくれたひとたちが集まって、ただ一緒にコントをやるのではなく、それぞれの得意分野で全力にかましあう。
演者のそういった"それぞれのフィールド"の凄みが見れることもこの公演の大きな魅力の一つだったけど、その中心、大きな柱となっていたオークラさんがいることをずっと考えている。



今回、観ながらいかにオークラさんがCreepy Nutsが、そして2020のふたりの武道館ライブが好きで大切だったかを随所に感じて心が熱くなった。
ふたりのファンなら「これは!」と思うようなネタ、構成、設定。
それらは全て「オークラさんの目を通して描いたCreepy Nuts」なのかもしれない。ある意味では「括った」彼らなのかもしれないけど、その枠で暴れてまた新しい形を作り上げていくから、なんか、本当にすごかったな。


呼応するように「面白い」を作っていく。相手を信頼して、ラブコールを熱烈に送って、また一つ新しい面白いを練り上げていく。
それは、なんて素敵なことだろう。




「自分はこんな光景を見ることができないかもしれない」と武道館ライブで諦めを感じた彼が、こんなすごいものを作り上げたことに震えるほどの嬉しさを感じている。いや、分かってる、彼はずっと、とんでもない化け物というか、才能の持ち主なんだろうけど。
そんな人でも食らって、そこから進み続けて、こんなものを作り上げるんだよな。



だとしたら、私だって諦めるわけにはいかない。身体の奥底から湧いてくるこの感情や衝動もなんと括っていいかわからないけど、たぶん、良いものだ。



この公演は、人間というエンターテイメントだったんじゃないか。
いやきっと、これも誰かを暴力的に「括って」るのだ。でも彼らはそんなこちらにお構いなしで自分たちの好きなように押し付けた枠を壊し、新しい全然違う風景をまた、見せてくれる。そんな気がしている。