えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

言葉を使うことの所信表明

1月に入ってから毎日文を書いている。365日日記を書く、を目標に年を越してなんとか順調に続いてはいるけど、これ、仕事が始まったらどうなるか分からないな、と思う。思うけど、極力続けたい。
今までのように何かの感想も書きたいし、日記も書きたい。そう、日記が書きたい。私は今、そんなことを考えている。

それと同時に書けば書くほど、文を書くのが好きだ、と思う。書くほど、自分の文の足りなさを思い知るけど、それでも、と思うくらいに文を書きたい。
それをこの数日、ひたすらに書いてて思う。上手くなりたい、と思うし、それと一緒に考えていることがある。

 


私は、言葉を大切にできるだろうか。
ずっと、考えていることがある。

 


言葉は、圧倒的な暴力だ。
この世にはたくさんの種類の暴力があって、加害がある。誰かの心や身体を殺す、その手段も瞬間もあまりにも身近で嫌になる。
暴力表現がある、と聞くとちょっと見るのを控えてしまう。だけど実は身体的暴力よりも、むしろ心に深く傷をつける、そんな表現の方が苦手だ。
誰かが取り返しもつかないような心へのダメージを背負う。そういう物語への心理的ハードルが年々上がってきている。
子どもや性別、年齢に問わず、どんな人でもそういう傷付き方をする描写が出てくるならある程度具体的な覚悟をもって見ないと情けないことに私は日常生活に支障が出てしまう。


そんな傷のことを、暴力のことをずっとここ最近、考えている。

 

傷付けた人間は、傷付けられねばならない。
酷い目に遭って苦しんでしまわねばならない。

本当にそうだろうか。

いや、仮にだとして。
暴力を振るわれるようなことを、したんだろうか。身体への痛みよりも、深い深い傷をつけられなくてはいけないような、そんなことをしたんだろうか。


言葉の暴力は、いつだって怖い。


曲がりなりにも私は文を書くのが好きだ。文を書くことも言葉を使うことも、喋ることも好きだ。
だから時々思う。言葉は、たぶん簡単に人を殺せる。
肉体への暴力のような専門知識がなくても(いや、もちろん肉体への暴力についてもあたりどころが悪ければあっさりと人は死ぬんだけど)殺せてしまう。言葉は身近だ。
さらにはそこに態度をのせられる。丁寧な言葉を使うとしても人は言葉で傷付けることができる。場合によっては、きつい言葉を使うよりも簡単に、深く深く刺せる。

 

その上、言葉の暴力は治し方が分からない。特効薬がなくて、同じような傷に見えてもその時々効果があるかどうかはやってみないと分からない。
分からないどころか、それが更に呼び水になることだってある。

 

言葉が、完全に100伝えることはない。
そこにあるものを全て表す言葉なんてこの世に存在しない。だから私たちは言葉を探すし、例えるし、音楽や表情、踊りを生み出した。絵だって、写真だって映画だってそうだ。
言葉がいつだって足りないからこそ。足りなかったりいきすぎてしまうからこそ。

 

私たちは、いつだって自分の傷の方が身近だ。そりゃそうで、そこにある痛みの感じや深さを知っているから。傷付いた相手がいくら言葉を尽くしてもその傷の全てを表せず、私たちも受け取れないように。


どうして良いかわからない。ひとの深く傷付いた声を聴いた時の動揺をたぶん私はまだほんの少し持て余してもいる。持て余している、という言葉だって本当は不適当だ。
でも、あの時のことを思い出す度に叫び出したい気持ちになる。気持ちになるし、叫ぼうが喚こうが、何もできないことを私は知っている。

ついた傷はなくならない。

言うとおりだ。その時についた苦しんだ、悲しみは、なくならない。
そのことに私は途方に暮れている。
暮れても仕方ない。仕方ないのだけど、でもここで考えるのをやめてはいけない気がする。
それは言葉を使う、使いたいと思う義務だとかそういうことじゃなくて、それよりももっと自己中心的な考えだ。あの夜中、叫び出したいくらいの感情になった……たぶんそれは「傷付いた」っていうことなんだろう……あの自分の傷を癒したい、そんな感情だ。ぎゅっと痛む心臓の痛みを少しでもマシにするのに必要なのは、考えることしか今の私には浮かばない。


そして思う。優しい言葉を使いたい。
それは「甘い言葉を」ではない。誤魔化す言葉でもない。
言葉の暴力を私も奮いそうになる。皮肉だってむしろ得意な可能性がある。可能性というか、自分は自覚もしているが結構、人でなしなので、それこそ本当は心を傷付けることに躊躇わない、その傷を想像できないことの方が多い。
いや、想像できないんじゃない。傷付いてしまえばいいとふとした瞬間、傾きそうになる。
だから、余計に。
そうされたくなかった、されてほしくなかった。傷付いてほしくなかった人のことを忘れない。その人の傷を想像した、あの叫びそうな気持ちを忘れない。
傷付けてしまえ、と過った時に思い出す。踏み止まるために。

 


それから。私は、それでも自分のクソみたいな人間性を自覚した上でも、自分の何かを「好きだ」と思える心は好きだ。数少ない良いところだと思っている。たぶん、大事にできている、とも思う。
だからその心を信じてそっちに体重をかけて、言葉を使いたい。
100罵りそうになるなら10000好きだと言う。
美しさや面白さ、楽しさの話をする。誤魔化しでも目や口を塞ぐでもない。ただただ、ひたすら、信じて、好きの話をする。
何かの役には立たない。だけど、これだけ傷付ける言葉が跋扈する世の中で傷薬とまではいかなくても。それでも血を一時的でもとめるガーゼとか血を拭くティッシュくらいにはならないだろうか。

ならないかもしれない。だけど、なりますようにと祈りながら使う言葉に意味はあるはずだと願っている。