えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ドライブインカリフォルニア

舞台を観ながら一瞬たりとも泣かなかった。不謹慎で碌でもない、意味不明な笑いにげらげら笑っていた。
泣かせるような気配は、ことごとく邪魔されていく。いやそういうとなんかちょっと、わざと悪く書いてる気がする。
でもほんの少し思うのだ。
松尾さんの脚本には清々しさというか、なんかあっけらかんとした悪意やろくでもなさが詰まっている。

それは時々は見てると眉を顰めたくなることもあるし、でもだいたい、そうする間もなく、げらげら笑ってしまう。
今回も知ってても意味のわからない瞬間にげらげら笑っていた。けらけらではない。げらげらだ。バームクーヘン!にあんなに笑うのは、たぶん人生であの場だけだと思う。



出会ったあの年から何度も何度も、私は生活の中、ドラカリの台詞を呟いてきた。世界という海の中、生きてきた「わたし」が混ざっていること、クリコの台詞、アキオの言葉に負ける、という悔しさ、遣る瀬無さ。



だというのに、私にしては珍しく、物語の細部を忘れていた。
出てくる登場人物たち、感情移入してきたひとや印象的だった何度も唱えた台詞は覚えているのに絶妙にストーリーは頭の中、もやがかかっていて一番良い塩梅でこのお芝居を観れたと思う。


生活の中にあった。

死んでいい死んでいい。そう声がする中で生きることもバカになりたいと泣きながら過ごすことも大袈裟な不幸でも稀な絶望でもない。



あの頃見えていた共感よりも、今日観たドライブインカリフォルニアの光景はどこか知っているそれのように感じた。
意味もない共感だとも感傷だとも思う。泣かせてはくれない、感動させてはくれない。メッセージなんてものも分かりやすく考えさせてはくれない。そんなものも全部無意味だ、と言い放つ。


くだらねえ、インチキだ、そう思う。それでも、私は劇場に行くのが好きだ。そう思っていた。





奇跡、見せてくれ。
錯覚だと私はいつも思う。だけど錯覚でいい。正しさも正解も真実なんてものもいらない。嘘でもいい、作りものでもいい。それでも、それが良いのだ。